戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第四十三回 奴隷のしつけ方(6)

1.ミルグラム博士の実験

 前回は、1942年の大日本帝国政府による戦争大綱を例にとり、「二兎を追う者は一兎をも得ず」、すなわち「インテグリティ(integrity)」の欠如について考えた。「インテグリティ(integrity)」に欠けた人間の判断について具体的に見ることで、逆照射的に「インテグリティ(integrity)」についての理解を深めることが可能である。そのため、前回は日本政府による大きな失敗の場面を取り上げた。

 ただ、こうした「インテグリティ(integrity)」の欠如は、日本人の習性というよりも、人間全体の根深い習性と言える。そこで今回は、アメリカで行われたミルグラム博士の実験(Milgram experiment)を例として、人間に根差した危険な思考パターンについて考察してみたい。

 ユダヤアメリカ人の心理学者であるミルグラム博士(Stanley Milgram 1933-1984)は、後に世界的に有名となる実験を行なった。この実験は、次のような恐ろしい実験データを提示した。すなわち、ナチスのような殺人教育ではなく、アメリカの民主主義教育を受けた普通の人間、その6割強が、上からの命令により殺人をしてしまうということである。

 

ミルグラムの電気ショック実験|日本心理学会

https://psych.or.jp/interest/mm-01/

 

 ミルグラム博士によるこの実験については、Experimenterというタイトルで映画化されている。邦題は「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」という長いタイトルとなっているが、お近くのツタヤなどのレンタルショップでDVDを借りることが可能であるから、興味のある方は御覧になっていただきたい。

 実験の概要については上記の日本心理学会の説明の通りであるが、要は次の三つがポイントである。

 

一.参加者は実験に入る前に報酬を貰っている。つまり、貰った金に報いるためには、実験を途中で投げ出すわけにはいかず、最後までやり遂げなくてはならない。

 

二.一の要請とは反対に、壁の向こうの人間は苦しげな叫び声をあげ、実験の中止を求めてくる。参加者は実験をやり遂げなければならないという道義的な要請と、苦しむ人間が求めてくる中止要請との狭間で葛藤する。

 

三.狭間で葛藤する参加者に対して、科学者は「大丈夫、続けて」と言い続ける。これは、どんな結果になろうとも「あなたは責任をとる必要がない」という参加者へのメッセージである。

 

 もちろん、電気ショックはニセモノである。しかし、壁の向こうでは迫真の演技が行われ、参加者にはその苦痛の叫び声が演技なのだとはわからない。それは、電気ショックのレベルが上がれば、ますます酷くなっていく。参加者の「ボタンを押したくない」という気持ちも高まっていく。おそらく、最終的には99.99%の人間が、「押したくない」と思ったはずである。

 しかし、61~65%の人間は、最も危険なXXXのボタンを押してしまった。これにより、壁の向こうの人間はそれまでとガラリと変わって、静かになる。つまり、死んでしまったのかもしれないということを、それは示唆している。参加者も、そこで何らかの変化を感じる。なにしろ、それまで大きな声で叫んでいた人間がいきなり静かになったのだから。

 この実験の興味深い点は、我々の社会生活のリアルな在り方のようなものを、コンパクトに体現しているということであろう。それは戦時だろうが平時であろうが変わりはない。誰も人殺しはしたくない。人に苦痛を与えるようなこともしたくない。しかし、社会がそれを求めてきた時はどうであろう。その場の空気がそれを強烈に求めてきたらどうであろう。その時、その人の「インテグリティ(integrity)」は発動するか、それともしないのか。

 結果として61~65%の人間に、「インテグリティ(integrity)」は発動しない。壁の向こうの人間が壁を叩きながら実験の中止を求め、叫び声を上げながらも、参加者はボタンを押し続けた。彼らはナチス教育ではなく、アメリカの民主主義の教育を受けた大人たちであり、学歴も小学校しか行っていないものもいれば、博士号を持っている者もおり、様々であった。しかし、学歴も教育も関係なかった。後にアメリカ以外の国でも実験が行われたが、結果はほとんど変わらなかったようである。

 

2.奴隷を生産する四つの装置

 この実験の背景には、1961年のアイヒマン裁判がある。当初、極悪非道な悪魔の化身と思われていたアドルフ・アイヒマン(1906-1962)は、エルサレムでの裁判の過程で、人格異常者でもなければ猟奇的な殺人愛好者でもないことが徐々に明らかになっていった。裁判が進む過程で明らかになったその人物像は、日々の職務に忠実な平凡な公務員であった。これにはハンナ・アーレント(1906-1975)のみならず、世界中の知識人やユダヤ系の人々が衝撃を受けた。ミルグラム博士もその一人だったのだろう。

 ナチスの洗脳教育を受けなければ、人間はアイヒマンにならずにすむのか。ミルグラム博士の実験によれば、答えはNOである。このコンパクトな実験において再現されたものは、我々の社会の構造であった。それは次の四つの装置であろう。

 

一.権威 

 親、教師、学校、企業、国家、学者、メディアといった権威は、幼少期から我々に社会のルールを叩き込む。それは身体化されるものであり、よけいなことを考えずにルールに従えと命じてくるものである。従う場合は「二.飴」が与えられ、口答えをすれば、あるいは疑問を提示しただけでも「三.鞭」となる可能性がある。

 

二.報酬

 ミルグラム博士の実験においても、参加者には報酬が事前に支払われていた。これが「飴と鞭」のうちの「飴」である。アイヒマンにとっては公務員という安定した地位と給料が「飴」であった。

 

三.罰

 アイヒマンが「ユダヤ人を殺したくない」と思い、退職したならば、彼は思想犯として刑務所送りになったかもしれない。そうなれば彼は家族を養えず、妻と子どもは彼に三下り半をつきつけていたかもしれない。これがルール違反に対しての「鞭」である。

 

四.信仰

 「飴と鞭のどちらかを選べ」と言われれば、人間は誰でも「飴」を選ぶに決まっている。しかし、「良心と飴のどちらかを選べ」と言われれば、ほとんどの人は飴を捨てて良心を選ぶだろう。人に迷惑をかけてまで飴を貰っても、良心が痛むからだ。

 しかし、「良心を手放さないなら鞭が来る」となると、ほとんどの人は戸惑う。その戸惑いに対して、権威が免責を与えるなら、ほとんどの人は飴になびくようになる。「責任はこちらで取るからあなたは言われた通りにやればよい。」この言葉は、良心と鞭の間で葛藤する人間に麻薬を与える。

 こうして、葛藤する人間は、信仰に走る。「偉い人が大丈夫だと言っているのだから、きっと大丈夫なんだろう。」これは思考放棄である。しかし、葛藤を苦しむ胆力のない人間、すなわち「インテグリティ(integrity)」に乏しい人間は、ここで権威に対する信仰に逃げ、飴を手に取り、鞭を避けるようになるのである。

 

3.奴隷になるという人間の習性

 第二次大戦後、連合国側はナチスによる大量虐殺について、稚拙な解釈をすることで満足していた。それは、狂人ヒトラーにそそのかされたドイツ国民が大虐殺を行ったという単純なストーリーである。しかし、アイヒマン裁判はそうした浅薄な歴史解釈を打ち砕いた。つまり、虐殺は悪魔ではなく、普通の人間が行うのである。ミルグラム博士は、それを実験により実証した。

 ミルグラム博士がつくった密室は、我々の社会の縮図であったとはいえ、実際の社会に比べれば遥かに「インテグリティ(integrity)」が発動しやすい環境ではあった。つまり、自らが奴隷であることから抜け出しやすい環境であった。

 まず、ナチス時代のドイツ人と比べて、参加者は人種差別教育を受けていなかった。実験の参加者は自由と民主主義を重んじるアメリカ国民であった。また、壁の向こう側にいる人間の人種や思想はわからないようになっていた。そのため参加者の偏見、例えば白人の黒人に対する嫌悪感や、自由主義者共産主義者に対する嫌悪感などは、実験室に持ち込まれないようになっていた。

 また、この実験での報酬や罰はたいしたものではない。実験の完遂がなくても、参加者は失業するわけでもなければ、妻と子どもに逃げられるわけでもない。途中で科学者に逆らって部屋を出ていっても、ペナルティとしては科学者に嫌われるくらいのものであり、殺されるわけでもなければ、社会的に罰せられるわけでもない。

 つまり、その場の空気を破るためのブレイクポイントは相当に低いのである。実際に、参加者の中には、「報酬を全額返すからボタンを押さない」と言い、科学者の制止を振り切って部屋を出て行った人もいる。しかし、これだけブレイクポイントの低い環境にあっても、6割強の人は空気をブレイクすることができなかった。つまり、より圧力の高い環境になれば、下手をすれば99%の人間が、空気をブレイクできないということである。

 ここで、第三十八回ブログで引用した古代ローマ研究者であるジェリー・トナーの言葉をもう一度見てみよう。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 78頁

あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。

 

 ミルグラム博士の実験は、コンパクトにつくった実験室の中で、科学者の奴隷をつくるという実験であった。それは、「一.権威 二.報酬 三.罰 四.信仰」という四つの装置により成り立っている。人間は良心を捨て、権威の鞭を恐れ、権威から飴を貰って喜び、権威から免責を貰って安心することによって奴隷となる。

 こうして思考停止に陥った奴隷は、自分の行動について考えなくなる。「上が大丈夫だと言っているのだからきっと大丈夫なんだろう」という信仰を支えとして、人殺しまでしてしまい、自らを殺人者にまで堕落させる。仏教ではこれを「餓鬼」と言う。

 「餓鬼」は自分が奴隷だと気づかない。「権威 → 報酬 → 罰 → 信仰」という巨大な実験室の中で、人間がそれを当たり前だと信じて疑わなくなると、その人の内なる「インテグリティ(integrity)」は発動しなくなり、発動しないことが当たり前となる。皆がこのサイクルの中で黙々と殺人の作業をしているなら、自分もその空気を壊さずに黙々と働くことが当然の生き方だということになるのだ。

 そのため、餓鬼は実験室をブレイクするのではなく、実験室の中で他の餓鬼とささいなことで喧嘩をするようになる。つまり、あいつの飴の方が大きいとか、なんで俺の方がかわいがられないのかとか、そのような理由をもとに奴隷同士で争うのである。

 支配者層は常にこれを利用する。人間が「権威 → 報酬 → 罰 → 信仰」のサイクルに弱いことを彼らは知っているのである。ローマ帝国であろうが、現代社会であろうが、我々の心の仕組みは変わらない。奴隷制度の廃止がいかに制度史上の大変革であっても、それは社会という箱の形が変わっただけのことである。我々の心の習性は、そうした箱の改革では決して変わらない。

 箱が変わっただけで自分の心も解放されたのだと我々が勘違いするなら、支配者層からすれば思う壺である。つまり、この世は常にミルグラム博士の実験室である。我々はそこで常に試されている。それはいつの時代であっても、決して変わらないのである。

第四十二回 奴隷のしつけ方(5)

 1.内なる「統合性」

 「インテグリティ(integrity)」という言葉は、前回引用した矢部宏治さんの本に書かれているように、「人格上の統合性」や「清廉潔白な人格」といった意味である。しかし、これだけでは抽象的な説明になってしまうために、より具体的なイメージが必要となるだろう。では「インテグリティ(integrity)」という言葉を具体的に理解するためには、どのように考えればよいか。

 大事なことはまず、実際に「インテグリティ(integrity)」のある人、つまり「インテグリティ(integrity)」にみちあふれ、それが浅薄なスローガンで終わらず、行動にあらわれている人をじっくり観察することであろう。すると、次のような事実に気づく。それは、「インテグリティ(integrity)」を自らの身でもってあらわす人物は、「人格上の統合性」や「清廉潔白な人格」という目標のために行動していないということである。

 「人格上の統合性」や「清廉潔白な人格」といった評価は、「インテグリティ(integrity)」のある人に対して、外からつけられる評価である。つまり、他人の評価に過ぎない。本人はそんなもののために生きているわけではない。聖人が他人から「聖人」と言われるために行動するなら、その人はその時点で聖人ではない。「人格上の統合性」や「清廉潔白な人格」といったものも同様である。

 つまり、本当に「インテグリティ(integrity)」のある人間からすれば、他人からどう評価されるかという問題は、どうでもいいことである。本人を衝き動かすものは、内的な「統合性」の力であって、他者からの評価ではない。「インテグリティ(integrity)」のある人間は、内なる「統合性」の力をエンジンとして動いているのである。

 これは世間一般で言うところの「総合」とは全く違うものなので、注意を要する。「統合性」と「総合的知性」とは全く違うものであるが、これについては具体例を挙げて説明する必要があるだろう。

 

2.二兎を追って墓穴を掘る

 「総合」と「統合」は一見似たような言葉であるが、まったく違うものである。特に、「総合的な知性」は、「インテグリティ(integrity)」から最も遠いものである。それゆえ、「インテグリティ(integrity)」から程遠い「総合的知性」の具体例を見ることは、「インテグリティ(integrity)」の理解を深めるためにも役に立つであろう。

 例として、ここでは太平洋戦争のはじめの半年間における政府の判断を取り上げてみたい。1941年12月8日の真珠湾奇襲によって、日米戦争がはじまったが、日本軍はアメリカという大国に対して、開戦から半年間は非常に有利に戦争をすすめていた。当時の連戦連勝の新聞報道は、嘘ではなかった。しかし、この有利な状況下で政府が下した「総合的な判断」が、後の惨敗を招くことになる。

 当初は有利な状況で戦争を進めていた日本であったが、海軍と陸軍の思惑はまったく異なるものであった。海軍は有利な戦況下での拡大路線を望み、セイロン、オーストラリア、ハワイを占領し、その三角形を拠点として、対米講和を有利な状況下で持ち込もうと考えていた。しかし、陸軍は泥沼の日中戦争の最中にあったから、そのような拡大路線の余裕はないと考えていた。

 海軍は、アメリカに三角形の拠点をつくられることを恐れていた。セイロン、オーストラリア、ハワイの三角形に拠点をつくられ、当時劣勢だった米軍が、その三点から同時に日本に対して猛反撃に出ることを恐れたのだ。ならば、米軍がその三角形をおさえる前に、日本軍がその三点を占拠すべきだと海軍は主張した。

 他方、陸軍には大陸という重荷があった。局地戦では勝利するが、それは点の勝利に過ぎず、線や面へとつながらない。日中戦争終結は、全く目途が立たないものであった。先の見えない大陸戦を続けながら、現状有利とはいえ、アメリカという大国とも戦わなくてはならない。このような状況下では、陸軍からすれば、拡大など選択肢にない。現在占領している領地から資源をかき集め、とにかく防衛に徹すべきだというのが、陸軍の主張であった。

 結局、攻めに出るという海軍の主張と、守りに徹するという陸軍の主張は正反対のものであり、両者の妥協点はあるはずもなかった。しかし、この両方を実行する余裕は日本にはなかった。アメリカよりも遥かに乏しい国力で二兎を追うことになれば、短期的、局地的な勝利を積み重ねても、長い目で見れば惨敗は見えている。

 そこで1942年2月28日、陸海軍中枢の課長10人が赤坂の山王ホテルに集まり、会議をした。海軍と陸軍の正反対の思惑は、なんとしてでも一本化しなければならない。一本化しなければアメリカに負ける。このことは当時のエリートたちは皆わかっていた。しかし、軍事作戦の中核となる大綱の第一項の文言をどうするかの段階で、両軍は明確に対立した。

 海軍が考えた文言は、「既得の戦果を拡張し、英米の屈服を図る」という拡大路線であり、陸軍が提示した文言は「既得の戦果を確保し、長期不敗体制を確立する」という正反対のものであった。そこで、東条英機の側近として知られた佐藤賢了陸軍省軍務課長は、「既得の戦果を確保し、長期不敗体制を確立、機を見て積極的方策を講ず」という海軍に対して妥協的な文言を提案した。

 しかし、これにも海軍は満足せず、文言はさらに妥協的なものとなった。結局、1942年3月4日に完成した「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」においては、「既得の戦果を拡充し、長期不敗体制を整えつつ、機を見て積極的方策を講ず」という文言に書き換えられた。佐藤案の「既得の戦果を確保し」の部分は、より海軍におもねった「拡充」に書き換えられ、海軍の拡大を許すような文言となった。また佐藤案の「長期不敗体制を確立」はより曖昧な「整えつつ」に書き換えられ、陸軍の持久策と海軍の積極策が同時に成り立つような表現となった。

 つまりこれは両論併記であり、一本化は断念されたということである。海軍の拡大路線を黙認しながら、同時に陸軍の防衛路線を行うということになった。当時の日本のトップエリートたちが集まってつくったこの意味不明な大綱は、1942年3月7日、大本営連絡会議において紛糾の議論の末に承認され、天皇に提出された。つまり海軍は海軍で、陸軍は陸軍で、お互い好き勝手にやるという方針が確定してしまったのだ。

 これは敵として戦っているアメリカ側からすると、大変に嬉しい戦争計画であった。国家の戦争計画の大綱が、このような内容空疎な「総合」で終わっているということは、アメリカからすれば勝ったも同然である。これはアメリカが日本の上層部にスパイを送り込んで政治工作をしたことでつくられた大綱ではない。日本人が自分の手でつくった大綱であり、こうして日本は墓穴を掘ったのだ。

 

3.捨てることが拾うこと

 「インテグリティ(integrity)」、すなわち「統合」というものは、AとBの相対立するものを混ぜ合わせて混濁することでもなければ、折衷して適当にお茶を濁すことでもない。それは簡単に言えば、「捨てる」ことである。もし、当時の日本が拡大か防衛かのどちらかで一本化し、片方を潔く捨てたのなら、アメリカとしては相当に手強い相手と戦わざるを得ず、苦戦していたことであろう。

 半年間の有利な状況の後、日本軍の分裂は最後まで続き、階段を転げ落ちるように完敗へと向かっていった。その端緒となったものが、米軍に対して有利な状況下で下されたこの大綱であった。ここから興味深いことが明らかになる。それは、日本にも「インテグリティ(integrity)」を示す言葉があるということだ。つまり、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という日本人の誰もが知っている言葉である。

 一兎を得ることは、もう片方の一兎を捨てることである。そうして一兎に全てを賭けることによって、成果を得る。「統合」とは、あれもこれもと「総合的」に成果を追い求めることではなく、一つの目標のためにあらゆる手段を集約することである。つまり、余計なものは潔く捨て、一つのことに集中し、その結果としての責任を自分で取るということである。

 結局、当時の日本のトップエリートたちは、海軍と陸軍のどちらからも責められないようにするために「総合的」な文面の大綱をつくった。これは大綱とはいっても、何の方針も決めていないというものであり、大綱なき大綱であった。当時、陸軍省軍務課長であった佐藤賢了は、この大綱について「趣旨不明確、根本的調整なし」と述べている。つまり、つくった本人であるトップエリートからしても、この大綱が何を言っているのかよくわからないのである。

 現在でも東大話法と言われるとおり、この「趣旨不明確、根本的調整なし」の文言は霞ケ関で大量に生産されている。このような知性、つまり様々な立場の主張を盛り込んで、総合的な文章をつくりあげるという知性は、「インテグリティ(統合)」とは最も遠いものである。受験エリートの秀才が、「インテグリティ(統合)」を持つとは限らない。

 何を潔く捨てるのかを明確にし、そうやって捨てたことの不利益は潔く責任をとる。そうやって責任の所在を明確にすることで、大きなものを得ることになる。これが「インテグリティ(統合)」としての知性であるが、当然そこには反対勢力からの恨みや攻撃も存在する。そういったものも事前に覚悟し、全ての責任を取る意志によって、何かを得ることができる。

 逆に、対立を避けるためにあらゆる立場を折衷し、総合的に判断する結果、自分でも何を言っているのか、何をやっているのかわからなくなることは、「インテグリティ(統合)」から最も程遠い生き方である。これは戦前の日本のみならず、戦後の日本でも同じである。アメリカの要求、国内の要求、様々な立場を総合的に判断し、どことも喧嘩しないでうまくやるという生き方は、最終的には破綻する。あれもこれも拾って両手にかかえこむというやり方は、最後には抱えきれずに全てを落としてしまうのである。

第四十一回 奴隷のしつけ方(4)

1.植民地システムは米兵を幸せにするわけではない

 米兵が日本という植民地で事件を起こす場合、宗主国特権により、日本人とは違った扱いを受ける。前回までそのことについて述べてきたが、これは米兵にとって好ましいシステムであるとは、一概には言えない。

 表面的には、これは米兵にとって特権的なシステムであるように見える。なぜなら、もし米兵が同じことをアメリカで起こしたなら、彼らは大変なことになるからだ。アメリカには米兵を守ってくれる地位協定もなければ、法務省や外務省といったカポーたちもいない。彼らは普通に刑務所に入り、下手をすれば二度と外に出て来ることができない。損害賠償も生涯に渡って背負うことになる。SACO制度もなければ、「見舞金」という不思議な制度もない。

 彼らがもしアメリカでタクシー運転手に重傷を負わせる暴行事件を起こしたり、通勤途中の女性を殺したりすれば、彼らだけでなく、軍事体が大変に大きな責任と傷を負うことになるだろう。本人たちだけでなく、上司のクビも危なくなる。それゆえ、日本という植民地における刑罰の特権的なシステムは、表面的に見れば、米兵にとって天国のようなシステムである。

 しかし、実相を見ると、それは天国から程遠いものであるとわかる。それはむしろ、侮辱的な制度である。なぜなら、犯罪をした場合に責任をとるという制度は、犯罪者本人を国家が人間として認めているゆえに成り立っている制度だからである。熊が人を殺した場合、その熊は駆除されるだろうが、死刑になるわけではない。熊は人間と見なされないから、裁判も審理も刑罰もないのだ。

 支配者層からすれば、米兵も日本人も奴隷である。豚が豚に噛みついたからといって、人間に適用される法システムが採用されるはずもない。米兵という豚と日本人という豚を比べれば、米兵の方が商品としての順位が上であるから罰を負わないだけである。これは米兵が優遇されているというよりも、米兵も日本人も、ともに人間と認められていないということである。

 日本人に人間としての尊厳が認められていないということは、米兵は豚を守るために駐屯しているということになる。それは駐留している米兵にとって、誇りを持てない仕事である。日本人に尊厳が認められている場合、米兵はその尊厳を守るために日本に駐留し、命がけの仕事ができる。しかし、そもそも日本人に尊厳が認められていないのなら、彼らは一体何のために外国に来て軍務をしているのかわからなくなる。

 養豚場の管理人が豚のために命がけで仕事ができるはずもない。米兵からすれば、本国が尊厳を認めていない国民のために、命がけで戦うべき道理がない。それゆえ、今の状態では、万が一の危機が起きた場合、在日米軍は命がけで戦うことはないだろう。牧場の管理人として雇われたに過ぎない人間が、牧場にあらわれた武装強盗と対峙して、命がけで戦うはずがないのである。

 

2.言いなりになればなるほど軽蔑される

 日本政府が在日米軍に与えている様々な特権は、簡単に言えば、日本という植民地においては「好き勝手にやっていい」という制度である。これは、表面的に見れば米兵たちの天国に見えるが、酒池肉林の放縦状態を彼らに与えることは、その実彼らに誇りを失わせることである。誇り高き仕事と放縦天国が両立するはずがない。

 在日米軍も一枚岩ではなく、その中には色々な人達がいるので、このような日米関係の状態に眉をひそめている人達も相当数いるだろう。しかし、そうした人達もある種の諦めでもって、この状態を渋々受け入れているのかもしれない。

 おそらく彼らは、日本人にはもっとしっかりして欲しいと思っているだろう。つまり、何でもかんでも言いなりになるのではなく、きちんと自国を守るためのポリシーをもって、毅然とした態度で在日米軍に対峙して欲しいと思っているアメリカ人もいるはずである。しかし、彼らも諦めているかもしれない。なぜなら、日本の政治家や官僚たちは、ことごとく「Integrity(インテグリティ)」がないからだ。

 

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 矢部宏治 講談社+α文庫 107-108頁

こうした沖縄の状況は、もちろんアメリカ政府の要望にこたえる形で実現したものです。ですからアメリカ側の交渉担当者は、日本側がどんどん言うことを聞いてくれたら、もちろん文句は言いません。しかしそういうふうに、強い国の言うことはなんでも聞く。相手が自国では絶対にできないようなことでも、原理原則なく受け入れてしまう。しかしその一方、自分たちが本来保護すべき国民の人権は守らない。そういう人間の態度を一番嫌うのが、実はアメリカ人という人たちなのです。だから心のなかではそうした日本側の態度を非常に軽蔑している。

 私の友人に同い年のアメリカ人がいて、新聞社につとめているのですが、こうした日本の政治家や官僚の態度について、彼は「インテグリティがない」と表現していました。

 「インテグリティ(integrity)」というのは、アメリカ人が人間を評価する場合の非常に重要な概念で、同じ語幹の「インテグレート」は統合するという意味ですから、直訳すると「人格上の統合性、完全性」ということになると思います。つまりあっちとこっちで言うことを変えない。倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない。また自分の利益になるからといって、いいかげんなウソをつかない。ポジショントークをしない。

 そうした人間のことを「インテグリティがある人」と言って、人格的に最高の評価をあたえる。「高潔で清廉な人」といったイメージです。一方、「インテグリティがない人」と言われると、それは人格の完全否定になるそうです。ですからこうした状態をただ放置している日本の政治家や官僚たちは、実はアメリカ人の交渉担当者たちから、心の底から軽蔑されている。そういった証言がいくつもあります。

 

3.言いなりになるという「おもてなし」の結末

 日本はアメリカの植民地である。つまり、日本人にとって一番深い関係性を持つ外国人はアメリカ人である。そのわりには、日本人はアメリカ人のことを知らない。向こうはイエズス会からはじまって、何百年も日本について研究を重ねているのに、日本人はアメリカ人がどんな人間かということについて考えようともしない。それゆえ、日本人は学校で一律に英語を習うが、「Integrity(インテグリティ)」という大事な言葉を知らない。

 日本人は相手のことを知らず、興味も持たず、相手の要求に全て応じることが相手を喜ばすことだと思い込んでいる。確かに、日本社会ではそうである。上からの命令に忠実で、口ごたえせず、素早く正確に仕事をこなす素直な人材が、この国では最も重宝される。いわゆる、「使える人材」というヤツである。便利で安く、早くて、うまい人間が求められるのである。

 もちろん、そういう人間はアメリカでも求められる。強権的な人間は、自分のまわりを従順な奴隷でかこいたがる。それは日本でもアメリカでも変わりがない。しかし、アメリカにはもっと歯ごたえのあるコミュニケーションを求める人間もいる。そういう人間は、相手に対して「インテグリティ(integrity)」を期待する。

 そういう「歯ごたえ」を期待するアメリカ人に強烈な肩すかしを与える人間が、日本の政治家や官僚たちだと言えるだろう。確かに、日本の官僚は優秀である。しかし、その優秀性の中身は、上からの命令を素早く正確にこなすという意味での優秀性であり、「インテグリティ(integrity)」ではない。むしろ、言われたことは良いことでも悪いことでも、あるいは人殺しであろうと売国行為であろうと、何でもやってしまうという節操の無さである。

 エズラ・ヴォーゲルは日本のある政府幹部と話した際の印象を、「何というか、弱くてかわいい感じだった」と表現しているが、「インテグリティ(integrity)」に欠ける人間を彼らは決して尊敬しない。日本人がアメリカ人から尊敬を集めるために自らを無理やり変える必要はないだろうが、彼らは日本的な従順な態度を決して尊敬しないということは知っておいた方がいいだろう。そうでないと、誠心誠意滅私奉公して「おもてなし」をした結果、軽蔑されて終わりという結末になる。

 

エズラ・ヴォーゲル教授に聞く「世界から見れば異質な日本人の話し方」

https://diamond.jp/articles/-/212551

第四十回 奴隷のしつけ方(3)

1.沖縄のタクシー運転手は対岸の火事

 沖縄で起きる事件を対岸の火事だと思う日本人は非常に多い。沖縄には米軍基地がたくさんあるが、本土の人間にとってはそこまで基地は身近なものではない。そのため、自分には関係ないだろうと考える日本人が非常に多いのだ。しかし、以下の事件は神奈川県で起きた事件である。神奈川県横須賀市の佐藤好重さんは、出勤のため駅に向かって歩いていた途中で、米兵に殺された。

 

特集 基地のある街 横須賀

https://www.min-iren.gr.jp/?p=35854

 

 米軍空母「キティホーク」の一等航空兵リース・ウィリアム・オリバー(当時21歳)は、横須賀のバーで前夜から大量に酒を飲み、その浪費のおかげで金がなくなったそうである。そこで、彼はてきとうに見つけた日本人から現金を奪おうと決意したそうだ。朝の6時半ごろ、金を奪おうと思っていたオリバーに偶然出くわした人物が佐藤さんだった。

 彼は通勤途中の佐藤さんに対して、「すいませんでーす」と声をかけた。道を尋ねるふりをして声をかけたのだ。しかし、そうやって近づき、佐藤さんのバッグを奪い取ろうとした。しかし、佐藤さんは抵抗したために、オリバーは佐藤さんの顔面を殴打、近くのビル一階通路に佐藤さんを引きずり込み、さらに殴る蹴るの暴行を加えた。

 佐藤さんは泣き叫び、声をあげた。オリバーは「シャラップ!」と佐藤さんを怒鳴ったが、佐藤さんは黙らず、「やめて!」「助けて!」と叫んだそうである。そのため、周囲の人間に叫び声を聞かれることを恐れた彼は、金を取ることから目的を変えた。つまり、佐藤さんを黙らせること、すなわち殺害を決意したのである。

 殺すことを決意したオリバーは、佐藤さんの襟首を両手でつかみ、コンクリート壁に力任せに佐藤さんを投げつけた。そして、倒れた佐藤さんの顔面や腹部を何度も踏みつけた。こうして佐藤さんは亡くなった。腎臓と肝臓の破裂などによる失血死であった。遺体は原形をとどめていなかったため、親族が顔を確認しても佐藤さんの顔とはわからなかったそうである。

 

 「顔などは原形をとどめないで、まるでハンバーグみたいでした」

 

 佐藤さんと結婚する予定だった山崎正則さんはそのように言う。

 その後、オリバーは佐藤さんのバッグを持って逃走。バッグの中に入っていた現金は、風俗店での遊興や飲酒に使ったそうである。遊び終わったオリバーは、その後普通に出勤し、基地で働いていたが、神奈川県警が監視カメラに映っていた黒人男性を確認。県警の依頼を受けた米軍がオリバーに質問したところ、オリバーが殺害を自供。米軍は彼の身柄を確保し、県警などの関係機関に連絡した。

 米軍はその後、血の付いた衣服などの証拠品を県警に提供し、県警は横須賀基地内でリース容疑者の事情聴取をした。その結果県警は、当該事件を日米地位協定に基づく「起訴前身柄引き渡し要請」が可能な事件と判断。米軍もその判断に協力する姿勢を示した。

 日米地位協定は、1995年に沖縄で起きた少女暴行事件を機に運用が見直され、起訴前でも米軍施設内で拘束されている容疑者の引き渡しが、事件内容によっては可能となった。しかし、オリバーの事件はあまりにも悪質であるために引き渡しの要請が認められたが、2002年11月に沖縄県で起きた婦女暴行未遂・器物損壊事件では、米側が引き渡しを拒否している。

 

2.神奈川も沖縄も同じ

 横浜地裁の判決により、リースは無期懲役、6500万円の損害賠償が確定したが、日本の刑務所に入っている無一文のリースから、遺族が6500万円の賠償金を取れるはずがない。そのため、婚約者だった山崎正則さんはリース個人のみでなく、日本政府も含めその責任を裁判所に問うていたが、横浜地裁は山崎さんの日本政府に対する請求を棄却した。

 結局、米軍も日本政府も、山崎さんや遺族に一円も支払わないまま6年が経過した。その後、事件から9年が経った2015年、やっと米側は山崎さんに判決金額の4割程度の「見舞金」を支払うことを提案した。しかし、その提案には「被害者が加害者を永久に免責すること」という条件がつけられていた。

 もちろん、山崎さんとしては納得がいかない。日本人が犯人なら、「永久免責」なんてことはありえない。なぜ犯人が米兵の場合は、被害者遺族が犯人を「永久免責」しなければならないのか。そう思った山崎さんは、防衛省を通じて粘り強く米側と交渉を続けたが、示談書の内容が変更されることは決してなかった。事件から11年後の2017年11月、山崎さんは苦渋の思いで、米側の示談を受け入れた。

 リースは死刑ではなく無期懲役なので、模範囚の特典や恩赦などにより、今後刑務所から出て、母国に帰る可能性がある。あるいは帰らなくても、米側が山崎さんと締結した「永久免責」により、彼は損賠賠償金を一円も払う必要がない。刑期が終われば、完全に無罪放免なのだ。

 リースは殺人をしてしまったために、前回述べた宇良宗一さんの事件の犯人と違い、無罪放免でアメリカに帰ることはできなかった。しかし、彼は死刑を免れ、かつ損害賠償も完全に免れるという特典を得た。仮に犯人が日本人であったなら、このような特典はなく、死刑だったかもしれない。

 そして、被害者の方に支払われるものは、正規の損害賠償金から大幅にダウンされた「見舞金」だけである。これは沖縄も神奈川も変わりない。沖縄だから被害者は虐げられるというわけではなく、日本人であるなら誰でも平等に虐げられるのである。つまり、宗主国の人間から何かされた場合、植民地の人民は「運が悪かった」とあきらめるしかない。

 

3.明日は我が身

 防衛省が把握しているデータでは、在日米軍による事件(事故)の件数および死亡者数は、公務中で47650 件・517 人、公務外で157135件・564 人であるそうだ(1952年度~2006年度)。これは防衛省が把握している数字に過ぎないから、把握外も含めれば、その数字はおそらく相当のものだろう。

 

国家が情報隠蔽をするとき(41)――第1部 米兵犯罪裁判権をめぐる日米密約

http://www.asiapress.org/apn/2009/12/japan/41_1-01/

 

 もし、自衛隊員がニューヨークで酔っ払って、アメリカ人のタクシー運転手に殴る蹴るの暴行をくわえ、全治一か月の重傷を負わせたらどうなるだろう。もし、自衛隊員が朝のニューヨークで通勤する市民を殺したら、果たしてどうなるだろう。日米地位協定日米安保条約などの規定により、その自衛隊員は無罪放免で日本に帰ることができるだろうか。日本政府の努力と交渉により、その自衛隊員に「永久免責」が与えられるだろうか。

 もし、自衛隊員がアメリカで事件を起こしてそうした特典が与えられないのなら、日米地位協定日米安保条約は甚だ不平等な取り決めだということになる。そして、実際にそうである。それは不平等条約なのだ。そのことは、実際に起きた事件を見ればよくわかる。

 同じ暴行でも、同じ殺人でも、つまり同じ罪でも、その罰は人によって異なる。つまり、宗主国の人間が行うのか、それとも植民地の奴隷が行うのかによって、その内容は大きく異なってくる。それゆえ、日本国民は気をつけるほうがいいかもしれない。いつ自分が47650のうちの1になるか。その時手にできるものは、事件から10年後に宗主国から渡される「はした金」の「見舞金」だけである。

第三十九回 奴隷のしつけ方(2)

 1.宗主国の人間が犯罪をした場合

 前回、仮の話として、もし私が友人とタクシーにのり、運賃を払わず、運転手に殴る蹴るの暴行をくわえたらどうなるかというシミュレーションをしてみた。結論としては、犯罪者として私と友人は、刑事上の責任、民事上の責任、社会的責任の三つの責任を負うということであった。これが近代法治国家としての日本におけるルールである。

 では、米兵がこれをやったらどうであろうか。以下はシミュレーションではなく、実際に起きた事件である。

 

米兵タクシー強盗から11年 賠償金日本が肩代わり

https://www.qab.co.jp/news/20190517115131.html

 

 2008年1月7日、午前3時ごろ、沖縄の宇良宗一さんが運転していたタクシーに、二人の米兵が客として乗ってきた。「フレンド…フレンド…」と言って乗ってきた米兵二人は、あきらかに酔っていたようだったが、機嫌は悪くないようであった。もちろん、その時の宇良さんには、自分が30分後にどうなるかはわからなかった。

 30分程度市街を走ったのち、米兵は助手席ダッシュボードにあった地図を見たいと言ってきた。宇良さんが地図に手をのばしたとき、米兵は酒瓶でいきなり宇良さんを殴ってきた。クラクションを鳴らしながら、宇良さんは運転席から外に出たが、米兵は執拗に殴り続け、宇良さんは殴られた衝撃により、その場で歯を10本以上失ったそうである。市街地であったため、人の目をおそれ、犯人二名は逃げた。もし人目につかない場所であったなら、宇良さんは殴られ続け、死んでいただろう。宇良さんは全治一か月の重傷を負い、PTSDのために回復後も仕事につけず、4年後に亡くなった。

 その後、10年経ってアメリカ政府が宇良さんの家族に提示した示談金は、たったの146万円である。米兵はアメリカに帰っており、どこにいるのかもわからない。宇良さんの息子さんの宇良宗之さんは、やりきれない気持ちでいっぱいである。しかし、相手の住所もわからないので、裁判に訴えることもできない。結局、泣き寝入りである。

 

2.ムチを打つカポー

 二人の犯人からは謝罪もなく、賠償もなく、アメリカ政府も宇良宗之さんに146万円の見舞金を払って終わりである。しかし、これでは損賠賠償とは言えない。もし日本人が同じことをやっていたなら、たったの146万円で済むわけがないからだ。それゆえ、米政府が示す額が現実の損害と開きがある場合の制度が存在する。それが、1996年に設けられた「日米特別行動委員会(SACO)見舞金」の制度である。

 那覇地裁が宇良宗之さんに認めた損害賠償額は、2640万円である。これと146万円では、あまりにも差がある。犯人が日本人なら、2460万円をきっちり宇良さんに支払わなければならない。しかし、二名の米兵は一円も支払わず、アメリカ政府も146万円の見舞金以外は、一円も払う気がない。この差を日本政府がうめるという制度が、SACO見舞金の制度である。

 アメリカ人が殴る蹴るの暴行を日本人に対してした場合は、日本政府が日本国民から集めた税金をもとに見舞金を払うという制度である。おそらく、このような制度があるという事実を、日本人のほとんどは知らないであろう。これは対岸の火事ではない。日本人である以上、宇良宗一さんと同じ目にあう可能性は誰にでもある。その場合、慰謝料を払うのはアメリカ人ではなく、日本人である。

 しかも、ムチを打つカポーは、この金額を満額払わない。日本政府が宇良さんに支払うことを約束している金額は1500万円程度であり、那覇地裁の判決金額である2460万円ではない。差額の約900万円は遅延損害金であるから、日本政府は宇良さんに1500万円を支払えば法的に問題はないという考えである。

 日本政府の役人は宇良さんに口頭で謝罪をしているが、宇良さんに遅延損害金を一切払うつもりがない。政府が払う金銭はあくまでもSACO見舞金、つまり「お見舞い」の手渡しであり、損賠賠償の支払ではないからというのが理由である。見舞金と損害賠償では法律的に別物であるため、損賠賠償で生じる遅延損害金は、見舞金においては発生しないという主張である。

 もし遅延損害金が欲しいなら、被害者本人(または被害者遺族)が自分で犯人のアメリカ人をつかまえて、自分の力で取ればいいという話である。しかしこれでは日本政府がアメリカ人の肩代わりをするという制度自体が意味ないではないかという批判も起きている。「自分の力で取ればいい」と言うのなら、最初から肩代わりの制度は要らないからである。しかし、日本政府は「損害賠償と見舞金は違う」と主張し続け、遅延損害金を支払わない。

 結局、宇良さんは犯人が日本人であるならきっちり受け取れるはずであった2460万円を、いまだに手にできずいる。理由は、犯人がアメリカ人であり、日本政府も犯人の味方をするからである。日本人が犯人の場合、日本政府が犯人の味方をすることはないだろうが、犯人が宗主国の人間である場合、カポーたちは宗主国のために一生懸命がんばるのである。

 

3.カポーたちの見事な連係プレー

 宗主国の人間が日本で犯罪をした場合、日本のカポー達の働きぶりは見事なものである。カポー達のそうした見事な連係プレーについて、矢部宏治氏は次のように述べている。

 

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 矢部宏治 講談社+α文庫 107-108頁

ごく簡単に説明しておきますと、たとえば在日米軍の兵士が重大な犯罪をおかすとします。女性をレイプしたり、車で人をはねたり、ひどい場合には射殺したりする。すると、そのあつかいをめぐって、日本のエリート官僚と在日米軍高官をメンバーとする日米合同委員会で非公開の協議がおこなわれるわけです。

 実際に二一歳の米兵が、四六歳の日本人主婦を基地のなかで遊び半分に射殺した「ジラード事件」(一九五七年/群馬県)では、その日米合同委員会での秘密合意事項として、「〔日本の検察が〕ジラードを殺人罪ではなく、傷害致死罪で起訴すること」「日本側が、日本の訴訟代理人検察庁〕を通じて、日本の裁判所に対し判決を可能なかぎり軽くするように勧告すること」が合意されたことがわかっています。(『秘密のファイル(下)』春名幹男/共同通信社

 つまり、米軍と日本の官僚の代表が非公開で協議し、そこで決定された方針が法務省経由で検察庁に伝えられる。報告を受けた検察庁は、みずからが軽めの求刑をすると同時に、裁判所に対しても軽めの判決をするように働きかける。裁判所はその働きかけどおりに、ありえないほど軽い判決を出すという流れです。

 ジラード事件のケースでいうと、遊び半分で日本人女性を射殺したにもかかわらず、検察は秘密事項にしたがい、ジラードを殺人罪ではなく傷害致死罪で起訴し、「懲役五年」という異常に軽い求刑をしました。それを受けて前橋地方裁判所は、「懲役三年、執行猶予四年」という、さらに異常なほど軽い判決を出す。そして検察が控訴せず、そのまま「執行猶予」が確定。判決の二週間後には、ジラードはアメリカへの帰国が認められました。

 

 日米合同委員会 → 法務省 → 検察庁 → 裁判所 → 外務省という見事な連係プレーである。日米合同委員会で、犯人をアメリカに逃がす決定を下す。その決定に基づいて、法務省が検察に命令し、検察は裁判所に命令し、裁判所は執行猶予付きの判決を出す。その後、犯人が無事にアメリカに帰ることができるように外務省が尽力し、出入国管理局などを調整し、判決の二週間後に犯人がアメリカに帰れるように手配する。極めて見事な仕事ぶりである。

 こうした複雑で難しい仕事を、素早く書類を作成し、各機関で連絡を取り合いながら、ミスなく正確に成し遂げることが、優秀なカポーに求められるタスクである。そのため、各機関には東京大学を卒業した優秀なカポーのメンバーたちが控えている。日本の子どもたちが日々の勉強を頑張り、将来エリートになって、優秀な官僚や裁判官、検察官などになる目的は、こうした優秀なカポーになるためである。

 日本のお母さんたちは、子どもが毎日勉強を頑張り、優秀なカポーになると喜ぶ。郷土の自慢であり、家族の自慢の息子・娘である。しかし、お母さんは気づいていない。自分がちょっと駅まで外出した際、米兵に暴行をされたら、自慢の息子・娘はお母さんではなく米兵の味方になることを。その時になって、やっと気づくかもしれない。自分も子どもも、アメリカの奴隷であったことに。

第三十八回 奴隷のしつけ方(1)

1.奴隷のイメージ

 「奴隷」という言葉を聞くと、足枷をはめられ、ムチで打たれながら強制労働をさせられる人のイメージが、頭に浮かんでくるかもしれない。しかし、大衆の多くが、「奴隷」という言葉を聞いてそのようなイメージを頭に思い浮かべるなら、支配者層としてはとても嬉しいことである。なぜなら、「奴隷」という言葉を聞いて「鎖につながれた人」をイメージする人は、鎖につながれていない自分を奴隷だとは思わないからである。

 実際の奴隷システムにおいては、足枷をはめられる奴隷は、重罪となって鉱山労働に従事する奴隷など、全体のごく一部に過ぎない。ほとんどの奴隷は、足枷もはめられず、服装もそれなりにきちんとしており、ムチで打たれることはなく、食事も三度得ることができる。妻帯し、子どもを産むこともできる。貯金をし、財産を持つこともできる。古代ローマ研究者であるケンブリッジ大学のジェリー・トナーは、著書「奴隷のしつけ方」において次のように述べている。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 52頁

初めて奴隷を買う人は鞭があれば足りると思いがちだが、代々奴隷を所有してきた家の者は鞭に頼れば疲弊するだけだと知っている。使役にも妥当な範囲というものがあり、それを無視して酷使すれば、不機嫌で御しがたい奴隷がまた一人増えるだけだ。そうした奴隷たちは厄介事の種となり、不幸の元凶となる。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 68頁

管理人や作業長など、奴隷のなかでも上に立つ者たちには特別な報酬を与えて士気を高め、いっそう仕事に精を出すよう後押しするといい。彼ら自身が金や物を所有することを認めてやり、好みの女奴隷と一緒に住まわせてやるがいい(あなたが奴隷同士の事実婚を認める場合の話である)。妻子をもてば腰を据えて仕事に取り組むようになり、あなたの家の繁栄に貢献したいと思うようにもなる。また彼らの立場にふさわしい敬意を示してやれば、心をつかむこともできる。信頼に応えようとする態度が見られるなら、仕事のことで彼らの意見を訊くのも悪くない。たとえば今優先すべき仕事は何かとか、それを誰にやらせるかといったことを相談するのである。そうすれば彼らは自分が見下されていない、対等に扱ってもらえていると感じ、やる気を出すだろう。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 78頁

あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。

 

 国家そのものが奴隷制度により成り立っていたローマ帝国においても、足枷をはめられた奴隷はほとんどいなかった。奴隷制度は拘束と暴力だけでは成立しない。奴隷に対して、ある程度の快適な生活が約束されていなければ、奴隷制度は成り立たないのだ。

 それゆえ、実際の奴隷は鎖でつながれていない。普通の暮らしをして、普通の服を着ている。しかし、奴隷は奴隷である。奴隷は貴族とは異なる。それゆえ、奴隷を支配する貴族にとって重要な仕事は、奴隷に奴隷だと意識させないことである。

 だから、間違った奴隷のイメージを奴隷が持ってくれれば、支配者からすれば大変に助かる。「自分は鎖でつながれていないから奴隷ではないのだ」という発想は、それ自体が極めて奴隷的である。なぜなら、人類の歴史において、奴隷の99%は鎖でつながれたことがないからだ。

 ローマの奴隷は、それでも自分を奴隷だとわかっていた。なぜなら、それなりに裕福な生活をしていても、奴隷にはローマの市民権はなかったからだ。となると、現代の日本の方が、ローマ帝国よりも遥かにそのことに気づきにくい環境だと言える。現代の日本は形式的には主権国家であり、国民には平等に市民権が保障されているからだ。それゆえ、形式ではなく、中身を見なければ、日本という奴隷国家の構造は見えてこない。

 

2.奴隷システムにおける二つのルール

 時代とともに、奴隷システムも洗練されたものへと進化した。特に現代の日本では、最高の完成度に達している。それは外見上、奴隷システムであるとはまったく見えない。国民には民主的な憲法が与えられ、司法、立法、行政の三権が分立されている。軍隊はシビリアンコントロールの下にあり、18歳以上の男女に平等に選挙権が与えられている。表現の自由が保障され、政府が民間の報道を検閲することは許されない。

 このように、日本においては、世界でもトップクラスの人権が国民に保障されている。一見すると、このような先進的な人権国家に、奴隷制度を導入することは全く不可能であるようだ。実際、憲法18条において、奴隷制度は禁止されている。しかし、そのような日本の人権保障システムは、宗主国からすれば張子の虎に過ぎない。

 日本人に世界トップクラスの人権が認められているというルールは、表のルールであり、建前上のルールである。もちろん、特に何事もなければ、このルールが日本社会において適用される。しかし、実際に日本を支配しているルールは、裏のルールである。それは、宗主国の人間と同じ人権は、奴隷には認められないという厳然たるルールである。

 奴隷と奴隷との間の事件の場合には、表のルールが適用される。つまり、憲法や刑法や民法などの日本の法律が適用されるということである。例えば、仮定の話として、日本人である私が、友人とタクシーに乗ったとしよう。目的地付近で車をとめ、運転手に金を払わず、金を与える代わりに、運転手を運転席から引きずりおろし、友人と二人で殴る蹴るの暴行を与えるとしたら、私たちは果たしてどうなるだろう。

 もし、私と友人が二人で共謀してそのようなことをするなら、我々は日本人であるから、日本の法律が適用され、警察に捕まり、刑務所に行くことになるだろう。その場合、犯罪者となる我々は、三つの責任を負うこととなる。刑事上の責任、民事上の責任、社会的責任の三つである。これが、法治国家である日本のルールであり、教科書的な法学の説明である。

 刑事上の責任とは、刑法上の責任のことである。運転手に金を払わず、傷害を与え、金を取ったということは、強盗致傷罪である。あまりにも悪質であるため、おそらく初犯でも執行猶予はつかないだろう。即刻、刑務所行きであり、そこで受刑者として過ごすことが刑事上の責任である。民事上の責任とは、民法上の損害賠償をする責任である。強盗した金を利息付で返還し、治療代や慰謝料を被害者に支払う。

 そして社会的責任とは、刑法や民法上の責任以外の全ての責任である。損害賠償が終わった後も私たちは被害者に謝罪をし続け、前科がつく以上、社会に出ても就職に困るであろう。報道に載った場合は、悪い意味で有名人となっているので、そうした社会的制裁も受けなければならない。これが社会的責任である。

 このように、日本は人権を尊ぶ近代法治国家であるから、犯罪をした場合は被害者の人権毀損を補うための三つの責任を果たさなければならない。このことは、日本社会の基本的なルールであるから、理解の深度の差はあれ、日本人なら誰でも知っていることであろう。しかし、次のことは逆に、ほとんどの日本人は知らないであろう。

 すなわち、宗主国の人間が同じことをやった場合には、そのルールは適用されないということである。詳しい内実は次回に紹介したい。

第三十七回 CSIS、その歴史と日本との関係(12)

 今回で、12回にわたったCSISシリーズを終了したい。

 1.カポーと一般国民の格差

 CSISは、形式的にはアメリカのシンクタンクであり、小さな民間団体に過ぎない。しかし、その背後には在日米軍アメリカ企業などがおり、その人脈を辿るとCFR(Council on Foreign Relations外交問題評議会)に行き着く。そのため、店の規模として小さなものであっても、その厨房の裏口のドアは、相当に大きなものへ通じている。

 アメリカの政権は4年または8年で変わる。日本の政権も数年で変わる。となると、実質的に両国を動かしている権力はそうした表舞台ではなく、継続的な裏舞台だと考えられる。裏舞台には選挙による交代がない。すなわち、官僚、企業、司法、軍隊、大学、シンクタンク、マスコミである。そうした顔の見えない団体が、国家における実質的な権力を握っている。

 この制度は、日米両国の国民のほとんどにとっては、利益にならない。アメリカの国民のほとんども、貧困に喘いでいる。植民地の人々は宗主国の搾取によって青色吐息であるが、宗主国の国民も青色吐息なのだ。しかし、いつまで経っても、このシステムが転覆される兆しはない。これは、民主主義という奴隷制度が非常にうまくいっていることの証明である。

 これは、青色吐息の国民が、民主主義という形に騙されるということである。国民は選挙権を持っているために自分を主権者だと勘違いするが、実際にはA党もB党も同じボスの配下にいるエージェントである。保守系の新聞も革新系の新聞も、同じ穴のムジナである。TVニュースは絶対に本質を語らない。官僚や学者や警察は、カポーである。彼らは自分が下層階級に落ちないために、必死になって自国民に対してムチをふる。

 それゆえ、日本政府がCSISの言いなりになっていることを山本太郎が国会で取り上げても、日本社会は冷ややかなものである。マスコミも取り上げない。なぜなら、カポーからすれば、そんなことはあまりにも当たり前すぎて、真正面から言われてもシラけるだけだからだ。政治学者の白井聡は、この点について、次のように述べている。

 

属国民主主義論 白井聡 内田樹 東洋経済新報社 26頁

ところで、国会で山本太郎議員が、「安倍政権の目玉政策はアーミテージ・レポートの引き写しではないか」と追及したことがあります。その指摘はまったく正しいわけですけれども、それを聞いたときの他の議員たちの反応が象徴的でした。「それを言ったらおしまいだろう」とでもいう雰囲気で、妙にシラケたものでした。「そんなことぐらい、国会議員ならみんな知っている。知っているけれどそれを口に出さないことで、俺たちは国会議員ごっこ、政治家ごっこができるんじゃないか。それなのに、お前は何を野暮なことを言ってるんだ」という反応で、「日本はアメリカの属国である」という状況を完全に容認してしまっている。「こいつらが日本国民の代表なのか」と思ったら、猛烈に腹が立ってきましたね。

 

「今回の安保法案は、第3次アーミテージ・ナイ・レポートの完コピだ!」

https://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/5047

 

 多くの日本人は、日本という国が平等社会であることを夢想している。しかし、実際にはその格差は凄いものである。格差の源は物質的なものに限らない。年収や貯金額の格差は、知的格差に比べれば重要ではない。甚だしい格差は知識の格差である。カポー達からすれば、CSISに関する知識は当たり前なことであるが、奴隷たちはCSISの存在すら知らない。

 こんな状況で選挙に行って国政の在り方を決めろと言われても、サルの投票に等しい。何も知らない人達が何色のカポーを選ぶかという選挙をしても、カポーが奴隷にムチを打つという構造は変わらない。ムチの色が青から赤に変わっても、ムチであることに変わりはない。同じように奴隷はムチで打たれ続け、警察は反逆者を逮捕し、マスコミはそれを報じない。

 マスコミはいつでも、国民に対して「選挙に行け!」と言って煽るが、彼らは選挙によっては何も変わらないことをよく知っている。肝心なことを報道せず、事実を隠しながら、「投票に行こう!」と言って国民を煽り続ける。国民もそのカラクリを知らないために、「打倒安倍政権!」のデモはするが、「打倒CSIS!」のデモは絶対にしない。

 宗主国からすれば、これは大変に都合のいいことである。日本人がアメリカ人ではなく、カポーを恨み、日本人同士で喧嘩することは、「分断して統治せよ」という植民地支配の大原則に合致するからである。植民地の有色人種は何百年もこれに気づかず、仲間内で喧嘩をし続ける。常に分断され、同じ民族同士で喧嘩をさせられるのである。

 なぜ有色人種はいつまで経っても、いいように支配され続けるのか。それの原因が知的格差である。宗主国と植民地の間には相当の知的格差があり、カポーと一般国民の間にも相当の知的格差がある。カポーからすればCSISが日本を牛耳っていることは常識だが、一般国民は何も知らない。

 CSISのことを一言も述べない野党は、その点では与党の共犯者である。彼らは喧嘩するフリをしながら、宗主国の支配体制を支え続ける。マスコミも同様であり、左翼風情のメディアは安倍政権を批判するが、CSISのことは一言も述べない。そうやって彼らも支配体制を下支えする。こうして、一般国民は真実を知らされないまま、無駄な選挙が繰り返され、宗主国に搾取され続け、今日もTVでは茶番劇の政治論争が繰り返されるのである。

 

2.日本人という人殺し

 日本がアメリカの奴隷であるということは、日本人が頑張って働いたことの利益がアメリカの企業に吸い取られることを意味している。また、軍事、医療、食品、原発といったアメリカ企業の奴隷になることは、それらによる健康被害を日本人が甘んじて受けるということを意味している。しかし、問題は経済的な損失や健康問題のみではない。もっと深刻な問題がある。それは、日本人が人殺しの共犯者になることである。

 

日本は主権国家といえるのか? 米軍優位の日米地位協定・日米合同委員会と横田空域(16)

http://www.asiapress.org/apn/2019/09/japan/nichibei-16/

 

 CSISは、アメリカの安全保障政策にもっと積極的に参与して欲しいと日本に対して言う。これは具体的に言えば、アメリカが実行する戦争に日本人も手を汚し、血に染まりながら参加してほしいということである。

 かつて、イエズス会が日本に来た時には、彼らの目的は布教であった。もちろん、その先には侵略と占領という目標があったが、それは遠い目標であった。その後、GHQが日本を占領し、CIAは日本の毛細血管に行き渡った。そして現在では政策センターであるCSISが、戦争という公共事業に、もっと積極的に参加してもらいたいと、積極的に日本に働きかけている。

 それは、日本人が対岸の火事として戦争を眺めることではない。現場で血と汗を流して欲しいという要求である。その要求は今後、ますますエスカレートしてくるだろう。中東でCIAが行っているスパイ活動を自衛隊にも手伝って欲しい。中東でばら撒く生物兵器を日本の研究所で開発してほしい。中東に自衛隊を派遣して、現場で戦闘に参加して欲しい。

 陸自のレンジャー隊員だった井筒高雄さんは、アメリカ軍が望んでいることは兵站部門のアウトソーシングであり、安保法制は戦争ビジネスの一環であると述べている。補給部門は戦闘現場の生命線であるから、当然、死傷者が出る確率も高い。補給が途絶えれば現場の兵士は窮地に陥るため、相手も補給部隊を狙ってくる。

 イラク戦争で4000人以上のアメリカ人が死に、30000人以上の負傷者が出ている。アメリカからすると、再び中東での戦争で米兵が大量に死ぬと、アメリカ世論がうるさい。しかし、自衛隊員が死ぬのならアメリカとして損はない。それゆえ、米軍は自衛隊兵站部門を担うことを期待している。

 

11・26 井筒高雄浜松講演「自衛隊と日本はどう変わるのか」

http://www.pacohama.sakura.ne.jp/no15/1511idutu.html

 

 例えば中東で戦争が起こり、自衛隊が前線で兵站部門を担うとなれば、日本人はもう傍観者ではない。間接的な犯人ではなく、直接的な戦犯である。そうなった場合、日本人お得意の「知らなかった」という言い訳を被害者が聞いて納得してくれるだろうか。人殺しをしておいて、「自分は目の前の仕事を黙々とやっただけだ」という言い訳が通じるだろうか。

 日本社会では、「知らなかった」という言い訳や、「上からの命令で仕方なくやった」という弁明は、非常に受け入れられやすい。この言い訳はあまりにも効き目があるために、我々はあえて余計なことに首を突っ込まないようにして生きている。「知りすぎた人」にならないようにしているのだ。しかし、日本社会で受け入れられる言い訳が、外国でも通用するとは限らない。

 知らない間に戦争に巻き込まれ、知らない間に自衛隊が人殺しをしても、その責任は日本国民全体が取ることになる。中東で起きる殺人の報復として、将来、東京でイスラム教徒の自爆テロが起きるようになっても、それは日本人全体が責任を取らなければならない。戦争で金儲けをする人達の言いなりになって生きてきたことの責任は、無知の日本人も含め、全員で取らなければならないのである。