戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第二十五回 CSIS、その歴史と日本との関係(3)

1.「布教=支配」という原則

 イエズス会が鋼の精神で世界的にその布教の波を広げるとともに、イエズス会から影響を受けた貴族、すなわち騎士達も、ヨーロッパで目覚ましい戦果を挙げる。イエズス会の強固な精神力と規律を重んじる組織作りのノウハウは、強い軍隊、強い国家をつくる上でも極めて有効な方法だったからである。そのため、当時ヨーロッパを席巻していたプロテスタント勢力に対抗する旧教陣営としては、イエズス会は最後の希望の砦であった。こうして、イエズス会はヨーロッパの保守層で支持を獲得していく。

 イエズス会メソッドは、ヨーロッパ旧教陣営の富国強兵のための柱になっただけでなく、アジアやアフリカに対する植民地支配のメソッドともなった。布教とは、支配である。これは、布教される方の立場のアジア人やアフリカ人からすれば大変に迷惑な話かもしれないが、布教する方のヨーロッパ人からすれば当たり前のことである。

 例えば、15世紀中盤のローマ教皇であったニコラウス5世(Nicholaus V、1397-1455)は、1452年、ポルトガル王アフォンソ5世(Afonso V、1432-1481)に対して、「異教徒を永遠に奴隷としてよい」という許可を与えている。また、「敬虔王」と呼ばれたポルトガル王のジョアン3世(João III, 1502-1557)は、「いかなる原因により異教徒に対して正当戦争を行うことができるか」という文書の中で、次の三項目をあげて、キリスト教徒は異教徒を支配できると述べている。

 

一.イスラム教徒やトルコ人は、これまでにキリスト教の国土を不当に占拠し領有していたのであるから、彼らに対して行ってきた、また、今後行うであろう戦争は正当である。

二.救世主(イエスキリスト)は未信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、自己の利害をかえりみない宣教師を派遣したので、彼らは布教地で優遇を受ける権利がある。

三.布教事業の妨害も圧迫もしない人々についてだが、彼らは自然法に反する重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、それをやめようともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。

 

 ジョアン3世からすれば、イスラム国家の領地は、本来キリスト教徒の土地であるから、キリスト教徒が取り返すべきなのである。もちろん、イスラムの方はこれを侵略戦争と見て抵抗するだろうが、その場合、彼からすれば、そうした抵抗は武力で征圧すべきなのである。無抵抗のおとなしい民族も、彼からすれば野蛮人であり、野蛮な悪習を改善するためにその土地を支配し、彼らをキリスト教徒にすべきである。

 このように、布教精神のカタマリであったジョアン3世は、当時のヨーロッパにおいては人種差別主義者ではなく、「敬虔王」と呼ばれるにふさわしい人物であった。そんな「敬虔」な王様の耳に、当時ヨーロッパで話題となっていたイエズス会という新しい修道会の名前が入ってくる。王はその会の活動内容を知るうちに、大きな感銘を受けた。彼はロヨラに近づき、彼を激賞するとともに、ポルトガル領内の植民地の異教徒をキリスト教徒に改宗させるべく、人材を紹介してほしいと頼んだ。

 ロヨラはその要請に応じて、フランシスコ・ザビエル(1506-1552)を推挙した。こうして、イエズス会ポルトガル王室がスポンサーとなり、ザビエルの遠征がはじまった。もちろん、この時の日本人には考えもつかなかった。まさか、21世紀まで続く、イエズス会と日本との因縁に満ち満ちた関係が、この時生じたのだとは。

 

2.ザビエルからCSIS

 ザビエルが東洋遠征に出た時、鹿児島の若者だったヤジロウ(弥次郎、1511頃?-1550頃?)は、人を殺したことで、薩摩に来航したポルトガル船に乗ってマラッカ(現在のマレーシア)に逃げた。当時のマラッカはポルトガル領であったため、マラッカで暮らしたヤジロウはポルトガル語を習得した。

 はじめ、ザビエルは当時ポルトガル領であったインドのゴアに赴いた。そこを拠点にインド各地で布教活動をし、相当の成果を上げたため、彼はゴアの宣教監督となった。しかし、仕事(布教精神)に燃えていた彼は、それだけでは満足できず、さらに東のターゲットであるポルトガル領マラッカへと赴いた。そこでポルトガル人船長の紹介で出会った人物が、ヤジロウであった。

 ヤジロウは、祖国で人を殺したために、罪の意識を抱えていた。そこで、ザビエルのすすめにより、ゴアで洗礼を受けることとなった。こうしてヤジロウはイエズス会キリスト教徒となったのである。そんなヤジロウとザビエルとのつきあいの中で、これまで見たことがなかった日本人という民族に対して、ザビエルの興味は日に日に増していった。ザビエルはある日、ヤジロウに尋ねた。日本でのキリスト教の布教はうまくいくだろうかと。ヤジロウは答えた。うまくいく。ザビエルは決心した。日本に行こうと。

 こうして1549年8月15日、ついにイエズス会の宣教師が日本の地に降り立った。この時のイエズス会のメンバーは、ザビエルとヤジロウも含めて、数人しかいなかった。この時の彼らには想像もできなかったことだろう。それから500年が経たないうちに、イエズス会の派生組織であるCSISが日本のHandler(ハンドラー)になるとは。

 イエズス会の世界的拡大とともに、ヨーロッパ以外でも、イエズス会系の教会や学校が次々と建てられることとなった。アメリカでは、イエズス会のジョン・キャロル大司教が、ワシントンD.C.の近郊、ジョージタウンという町に大学を設立した。これがジョージタウン大学である。それは、キリスト教の教義と学問を学ぶ施設であると同時に、政治と軍事と植民地支配のための頭脳センターでもあった。

 大統領であったビル・クリントンイラク戦争時の国防長官であったドナルド・ラムズフェルド、元国連高等難民弁務官で現在は上智大学名誉教授の緒方貞子衆議院議員外務大臣である河野太郎、元参議院議員安倍晋三のことが大好きな山本一太群馬県知事は、ジョージタウン大学の卒業生である。

 こうした軍事戦略機関であるジョージタウン大学の中で、イエズス会の神父であるエドマンド・アロイシャス・ウォルシュ(Edmund Aloysius Walsh、1885-1956)は、「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」を設立した。その組織が、1987年にジョージタウン大学から独立した研究組織となった。これが、Center for Strategic and International Studies、つまりCSISである。

 普通の日本人は、軍隊のトップであるマッカーサー元帥と、イエズス会のウォルシュ神父が、1948年の東京で仲良く二人で歩いている写真を見ても、その意味はよくわからないであろう。しかし、相手の立場に立ってみれば、その二人が親密な関係にあることは当然である。彼らからすれば、宗教と軍事と政治と植民地支配は、同じものだからである。

 問題は、この構造が1948年の日本で終わっているものではなく、現在も続いていることである。さらに問題なのは、このことを日本人のほとんどが知らないことである。日本人は彼らのことを知らず、関心もない。しかし、彼らは日本人のことをよく知っており、表から裏まで緻密に分析している。彼らはザビエルの到達以来、日本人の特徴と弱点を詳細に分析し、本部にレポートし続けて来たのである。

 現地人の心を乗っ取り、その結果国を丸ごと乗っ取る。そのためには現地人の長所も短所も、習性も思考パターンも、すべてに渡って知る必要がある。それはイエズス会の神父たちが、世界の各地に赴任し、長年に渡って行ってきたことである。それゆえ、彼らは日本人よりも日本人について詳しく知っているかもしれない。しかし、日本人は、イエズス会のことも、CSISのことも、何も知らないし、関心もないのかもしれないのである。