戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第三十八回 奴隷のしつけ方(1)

1.奴隷のイメージ

 「奴隷」という言葉を聞くと、足枷をはめられ、ムチで打たれながら強制労働をさせられる人のイメージが、頭に浮かんでくるかもしれない。しかし、大衆の多くが、「奴隷」という言葉を聞いてそのようなイメージを頭に思い浮かべるなら、支配者層としてはとても嬉しいことである。なぜなら、「奴隷」という言葉を聞いて「鎖につながれた人」をイメージする人は、鎖につながれていない自分を奴隷だとは思わないからである。

 実際の奴隷システムにおいては、足枷をはめられる奴隷は、重罪となって鉱山労働に従事する奴隷など、全体のごく一部に過ぎない。ほとんどの奴隷は、足枷もはめられず、服装もそれなりにきちんとしており、ムチで打たれることはなく、食事も三度得ることができる。妻帯し、子どもを産むこともできる。貯金をし、財産を持つこともできる。古代ローマ研究者であるケンブリッジ大学のジェリー・トナーは、著書「奴隷のしつけ方」において次のように述べている。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 52頁

初めて奴隷を買う人は鞭があれば足りると思いがちだが、代々奴隷を所有してきた家の者は鞭に頼れば疲弊するだけだと知っている。使役にも妥当な範囲というものがあり、それを無視して酷使すれば、不機嫌で御しがたい奴隷がまた一人増えるだけだ。そうした奴隷たちは厄介事の種となり、不幸の元凶となる。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 68頁

管理人や作業長など、奴隷のなかでも上に立つ者たちには特別な報酬を与えて士気を高め、いっそう仕事に精を出すよう後押しするといい。彼ら自身が金や物を所有することを認めてやり、好みの女奴隷と一緒に住まわせてやるがいい(あなたが奴隷同士の事実婚を認める場合の話である)。妻子をもてば腰を据えて仕事に取り組むようになり、あなたの家の繁栄に貢献したいと思うようにもなる。また彼らの立場にふさわしい敬意を示してやれば、心をつかむこともできる。信頼に応えようとする態度が見られるなら、仕事のことで彼らの意見を訊くのも悪くない。たとえば今優先すべき仕事は何かとか、それを誰にやらせるかといったことを相談するのである。そうすれば彼らは自分が見下されていない、対等に扱ってもらえていると感じ、やる気を出すだろう。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 78頁

あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。

 

 国家そのものが奴隷制度により成り立っていたローマ帝国においても、足枷をはめられた奴隷はほとんどいなかった。奴隷制度は拘束と暴力だけでは成立しない。奴隷に対して、ある程度の快適な生活が約束されていなければ、奴隷制度は成り立たないのだ。

 それゆえ、実際の奴隷は鎖でつながれていない。普通の暮らしをして、普通の服を着ている。しかし、奴隷は奴隷である。奴隷は貴族とは異なる。それゆえ、奴隷を支配する貴族にとって重要な仕事は、奴隷に奴隷だと意識させないことである。

 だから、間違った奴隷のイメージを奴隷が持ってくれれば、支配者からすれば大変に助かる。「自分は鎖でつながれていないから奴隷ではないのだ」という発想は、それ自体が極めて奴隷的である。なぜなら、人類の歴史において、奴隷の99%は鎖でつながれたことがないからだ。

 ローマの奴隷は、それでも自分を奴隷だとわかっていた。なぜなら、それなりに裕福な生活をしていても、奴隷にはローマの市民権はなかったからだ。となると、現代の日本の方が、ローマ帝国よりも遥かにそのことに気づきにくい環境だと言える。現代の日本は形式的には主権国家であり、国民には平等に市民権が保障されているからだ。それゆえ、形式ではなく、中身を見なければ、日本という奴隷国家の構造は見えてこない。

 

2.奴隷システムにおける二つのルール

 時代とともに、奴隷システムも洗練されたものへと進化した。特に現代の日本では、最高の完成度に達している。それは外見上、奴隷システムであるとはまったく見えない。国民には民主的な憲法が与えられ、司法、立法、行政の三権が分立されている。軍隊はシビリアンコントロールの下にあり、18歳以上の男女に平等に選挙権が与えられている。表現の自由が保障され、政府が民間の報道を検閲することは許されない。

 このように、日本においては、世界でもトップクラスの人権が国民に保障されている。一見すると、このような先進的な人権国家に、奴隷制度を導入することは全く不可能であるようだ。実際、憲法18条において、奴隷制度は禁止されている。しかし、そのような日本の人権保障システムは、宗主国からすれば張子の虎に過ぎない。

 日本人に世界トップクラスの人権が認められているというルールは、表のルールであり、建前上のルールである。もちろん、特に何事もなければ、このルールが日本社会において適用される。しかし、実際に日本を支配しているルールは、裏のルールである。それは、宗主国の人間と同じ人権は、奴隷には認められないという厳然たるルールである。

 奴隷と奴隷との間の事件の場合には、表のルールが適用される。つまり、憲法や刑法や民法などの日本の法律が適用されるということである。例えば、仮定の話として、日本人である私が、友人とタクシーに乗ったとしよう。目的地付近で車をとめ、運転手に金を払わず、金を与える代わりに、運転手を運転席から引きずりおろし、友人と二人で殴る蹴るの暴行を与えるとしたら、私たちは果たしてどうなるだろう。

 もし、私と友人が二人で共謀してそのようなことをするなら、我々は日本人であるから、日本の法律が適用され、警察に捕まり、刑務所に行くことになるだろう。その場合、犯罪者となる我々は、三つの責任を負うこととなる。刑事上の責任、民事上の責任、社会的責任の三つである。これが、法治国家である日本のルールであり、教科書的な法学の説明である。

 刑事上の責任とは、刑法上の責任のことである。運転手に金を払わず、傷害を与え、金を取ったということは、強盗致傷罪である。あまりにも悪質であるため、おそらく初犯でも執行猶予はつかないだろう。即刻、刑務所行きであり、そこで受刑者として過ごすことが刑事上の責任である。民事上の責任とは、民法上の損害賠償をする責任である。強盗した金を利息付で返還し、治療代や慰謝料を被害者に支払う。

 そして社会的責任とは、刑法や民法上の責任以外の全ての責任である。損害賠償が終わった後も私たちは被害者に謝罪をし続け、前科がつく以上、社会に出ても就職に困るであろう。報道に載った場合は、悪い意味で有名人となっているので、そうした社会的制裁も受けなければならない。これが社会的責任である。

 このように、日本は人権を尊ぶ近代法治国家であるから、犯罪をした場合は被害者の人権毀損を補うための三つの責任を果たさなければならない。このことは、日本社会の基本的なルールであるから、理解の深度の差はあれ、日本人なら誰でも知っていることであろう。しかし、次のことは逆に、ほとんどの日本人は知らないであろう。

 すなわち、宗主国の人間が同じことをやった場合には、そのルールは適用されないということである。詳しい内実は次回に紹介したい。