戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第四十一回 奴隷のしつけ方(4)

1.植民地システムは米兵を幸せにするわけではない

 米兵が日本という植民地で事件を起こす場合、宗主国特権により、日本人とは違った扱いを受ける。前回までそのことについて述べてきたが、これは米兵にとって好ましいシステムであるとは、一概には言えない。

 表面的には、これは米兵にとって特権的なシステムであるように見える。なぜなら、もし米兵が同じことをアメリカで起こしたなら、彼らは大変なことになるからだ。アメリカには米兵を守ってくれる地位協定もなければ、法務省や外務省といったカポーたちもいない。彼らは普通に刑務所に入り、下手をすれば二度と外に出て来ることができない。損害賠償も生涯に渡って背負うことになる。SACO制度もなければ、「見舞金」という不思議な制度もない。

 彼らがもしアメリカでタクシー運転手に重傷を負わせる暴行事件を起こしたり、通勤途中の女性を殺したりすれば、彼らだけでなく、軍事体が大変に大きな責任と傷を負うことになるだろう。本人たちだけでなく、上司のクビも危なくなる。それゆえ、日本という植民地における刑罰の特権的なシステムは、表面的に見れば、米兵にとって天国のようなシステムである。

 しかし、実相を見ると、それは天国から程遠いものであるとわかる。それはむしろ、侮辱的な制度である。なぜなら、犯罪をした場合に責任をとるという制度は、犯罪者本人を国家が人間として認めているゆえに成り立っている制度だからである。熊が人を殺した場合、その熊は駆除されるだろうが、死刑になるわけではない。熊は人間と見なされないから、裁判も審理も刑罰もないのだ。

 支配者層からすれば、米兵も日本人も奴隷である。豚が豚に噛みついたからといって、人間に適用される法システムが採用されるはずもない。米兵という豚と日本人という豚を比べれば、米兵の方が商品としての順位が上であるから罰を負わないだけである。これは米兵が優遇されているというよりも、米兵も日本人も、ともに人間と認められていないということである。

 日本人に人間としての尊厳が認められていないということは、米兵は豚を守るために駐屯しているということになる。それは駐留している米兵にとって、誇りを持てない仕事である。日本人に尊厳が認められている場合、米兵はその尊厳を守るために日本に駐留し、命がけの仕事ができる。しかし、そもそも日本人に尊厳が認められていないのなら、彼らは一体何のために外国に来て軍務をしているのかわからなくなる。

 養豚場の管理人が豚のために命がけで仕事ができるはずもない。米兵からすれば、本国が尊厳を認めていない国民のために、命がけで戦うべき道理がない。それゆえ、今の状態では、万が一の危機が起きた場合、在日米軍は命がけで戦うことはないだろう。牧場の管理人として雇われたに過ぎない人間が、牧場にあらわれた武装強盗と対峙して、命がけで戦うはずがないのである。

 

2.言いなりになればなるほど軽蔑される

 日本政府が在日米軍に与えている様々な特権は、簡単に言えば、日本という植民地においては「好き勝手にやっていい」という制度である。これは、表面的に見れば米兵たちの天国に見えるが、酒池肉林の放縦状態を彼らに与えることは、その実彼らに誇りを失わせることである。誇り高き仕事と放縦天国が両立するはずがない。

 在日米軍も一枚岩ではなく、その中には色々な人達がいるので、このような日米関係の状態に眉をひそめている人達も相当数いるだろう。しかし、そうした人達もある種の諦めでもって、この状態を渋々受け入れているのかもしれない。

 おそらく彼らは、日本人にはもっとしっかりして欲しいと思っているだろう。つまり、何でもかんでも言いなりになるのではなく、きちんと自国を守るためのポリシーをもって、毅然とした態度で在日米軍に対峙して欲しいと思っているアメリカ人もいるはずである。しかし、彼らも諦めているかもしれない。なぜなら、日本の政治家や官僚たちは、ことごとく「Integrity(インテグリティ)」がないからだ。

 

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 矢部宏治 講談社+α文庫 107-108頁

こうした沖縄の状況は、もちろんアメリカ政府の要望にこたえる形で実現したものです。ですからアメリカ側の交渉担当者は、日本側がどんどん言うことを聞いてくれたら、もちろん文句は言いません。しかしそういうふうに、強い国の言うことはなんでも聞く。相手が自国では絶対にできないようなことでも、原理原則なく受け入れてしまう。しかしその一方、自分たちが本来保護すべき国民の人権は守らない。そういう人間の態度を一番嫌うのが、実はアメリカ人という人たちなのです。だから心のなかではそうした日本側の態度を非常に軽蔑している。

 私の友人に同い年のアメリカ人がいて、新聞社につとめているのですが、こうした日本の政治家や官僚の態度について、彼は「インテグリティがない」と表現していました。

 「インテグリティ(integrity)」というのは、アメリカ人が人間を評価する場合の非常に重要な概念で、同じ語幹の「インテグレート」は統合するという意味ですから、直訳すると「人格上の統合性、完全性」ということになると思います。つまりあっちとこっちで言うことを変えない。倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない。また自分の利益になるからといって、いいかげんなウソをつかない。ポジショントークをしない。

 そうした人間のことを「インテグリティがある人」と言って、人格的に最高の評価をあたえる。「高潔で清廉な人」といったイメージです。一方、「インテグリティがない人」と言われると、それは人格の完全否定になるそうです。ですからこうした状態をただ放置している日本の政治家や官僚たちは、実はアメリカ人の交渉担当者たちから、心の底から軽蔑されている。そういった証言がいくつもあります。

 

3.言いなりになるという「おもてなし」の結末

 日本はアメリカの植民地である。つまり、日本人にとって一番深い関係性を持つ外国人はアメリカ人である。そのわりには、日本人はアメリカ人のことを知らない。向こうはイエズス会からはじまって、何百年も日本について研究を重ねているのに、日本人はアメリカ人がどんな人間かということについて考えようともしない。それゆえ、日本人は学校で一律に英語を習うが、「Integrity(インテグリティ)」という大事な言葉を知らない。

 日本人は相手のことを知らず、興味も持たず、相手の要求に全て応じることが相手を喜ばすことだと思い込んでいる。確かに、日本社会ではそうである。上からの命令に忠実で、口ごたえせず、素早く正確に仕事をこなす素直な人材が、この国では最も重宝される。いわゆる、「使える人材」というヤツである。便利で安く、早くて、うまい人間が求められるのである。

 もちろん、そういう人間はアメリカでも求められる。強権的な人間は、自分のまわりを従順な奴隷でかこいたがる。それは日本でもアメリカでも変わりがない。しかし、アメリカにはもっと歯ごたえのあるコミュニケーションを求める人間もいる。そういう人間は、相手に対して「インテグリティ(integrity)」を期待する。

 そういう「歯ごたえ」を期待するアメリカ人に強烈な肩すかしを与える人間が、日本の政治家や官僚たちだと言えるだろう。確かに、日本の官僚は優秀である。しかし、その優秀性の中身は、上からの命令を素早く正確にこなすという意味での優秀性であり、「インテグリティ(integrity)」ではない。むしろ、言われたことは良いことでも悪いことでも、あるいは人殺しであろうと売国行為であろうと、何でもやってしまうという節操の無さである。

 エズラ・ヴォーゲルは日本のある政府幹部と話した際の印象を、「何というか、弱くてかわいい感じだった」と表現しているが、「インテグリティ(integrity)」に欠ける人間を彼らは決して尊敬しない。日本人がアメリカ人から尊敬を集めるために自らを無理やり変える必要はないだろうが、彼らは日本的な従順な態度を決して尊敬しないということは知っておいた方がいいだろう。そうでないと、誠心誠意滅私奉公して「おもてなし」をした結果、軽蔑されて終わりという結末になる。

 

エズラ・ヴォーゲル教授に聞く「世界から見れば異質な日本人の話し方」

https://diamond.jp/articles/-/212551