戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第四十三回 奴隷のしつけ方(6)

1.ミルグラム博士の実験

 前回は、1942年の大日本帝国政府による戦争大綱を例にとり、「二兎を追う者は一兎をも得ず」、すなわち「インテグリティ(integrity)」の欠如について考えた。「インテグリティ(integrity)」に欠けた人間の判断について具体的に見ることで、逆照射的に「インテグリティ(integrity)」についての理解を深めることが可能である。そのため、前回は日本政府による大きな失敗の場面を取り上げた。

 ただ、こうした「インテグリティ(integrity)」の欠如は、日本人の習性というよりも、人間全体の根深い習性と言える。そこで今回は、アメリカで行われたミルグラム博士の実験(Milgram experiment)を例として、人間に根差した危険な思考パターンについて考察してみたい。

 ユダヤアメリカ人の心理学者であるミルグラム博士(Stanley Milgram 1933-1984)は、後に世界的に有名となる実験を行なった。この実験は、次のような恐ろしい実験データを提示した。すなわち、ナチスのような殺人教育ではなく、アメリカの民主主義教育を受けた普通の人間、その6割強が、上からの命令により殺人をしてしまうということである。

 

ミルグラムの電気ショック実験|日本心理学会

https://psych.or.jp/interest/mm-01/

 

 ミルグラム博士によるこの実験については、Experimenterというタイトルで映画化されている。邦題は「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」という長いタイトルとなっているが、お近くのツタヤなどのレンタルショップでDVDを借りることが可能であるから、興味のある方は御覧になっていただきたい。

 実験の概要については上記の日本心理学会の説明の通りであるが、要は次の三つがポイントである。

 

一.参加者は実験に入る前に報酬を貰っている。つまり、貰った金に報いるためには、実験を途中で投げ出すわけにはいかず、最後までやり遂げなくてはならない。

 

二.一の要請とは反対に、壁の向こうの人間は苦しげな叫び声をあげ、実験の中止を求めてくる。参加者は実験をやり遂げなければならないという道義的な要請と、苦しむ人間が求めてくる中止要請との狭間で葛藤する。

 

三.狭間で葛藤する参加者に対して、科学者は「大丈夫、続けて」と言い続ける。これは、どんな結果になろうとも「あなたは責任をとる必要がない」という参加者へのメッセージである。

 

 もちろん、電気ショックはニセモノである。しかし、壁の向こうでは迫真の演技が行われ、参加者にはその苦痛の叫び声が演技なのだとはわからない。それは、電気ショックのレベルが上がれば、ますます酷くなっていく。参加者の「ボタンを押したくない」という気持ちも高まっていく。おそらく、最終的には99.99%の人間が、「押したくない」と思ったはずである。

 しかし、61~65%の人間は、最も危険なXXXのボタンを押してしまった。これにより、壁の向こうの人間はそれまでとガラリと変わって、静かになる。つまり、死んでしまったのかもしれないということを、それは示唆している。参加者も、そこで何らかの変化を感じる。なにしろ、それまで大きな声で叫んでいた人間がいきなり静かになったのだから。

 この実験の興味深い点は、我々の社会生活のリアルな在り方のようなものを、コンパクトに体現しているということであろう。それは戦時だろうが平時であろうが変わりはない。誰も人殺しはしたくない。人に苦痛を与えるようなこともしたくない。しかし、社会がそれを求めてきた時はどうであろう。その場の空気がそれを強烈に求めてきたらどうであろう。その時、その人の「インテグリティ(integrity)」は発動するか、それともしないのか。

 結果として61~65%の人間に、「インテグリティ(integrity)」は発動しない。壁の向こうの人間が壁を叩きながら実験の中止を求め、叫び声を上げながらも、参加者はボタンを押し続けた。彼らはナチス教育ではなく、アメリカの民主主義の教育を受けた大人たちであり、学歴も小学校しか行っていないものもいれば、博士号を持っている者もおり、様々であった。しかし、学歴も教育も関係なかった。後にアメリカ以外の国でも実験が行われたが、結果はほとんど変わらなかったようである。

 

2.奴隷を生産する四つの装置

 この実験の背景には、1961年のアイヒマン裁判がある。当初、極悪非道な悪魔の化身と思われていたアドルフ・アイヒマン(1906-1962)は、エルサレムでの裁判の過程で、人格異常者でもなければ猟奇的な殺人愛好者でもないことが徐々に明らかになっていった。裁判が進む過程で明らかになったその人物像は、日々の職務に忠実な平凡な公務員であった。これにはハンナ・アーレント(1906-1975)のみならず、世界中の知識人やユダヤ系の人々が衝撃を受けた。ミルグラム博士もその一人だったのだろう。

 ナチスの洗脳教育を受けなければ、人間はアイヒマンにならずにすむのか。ミルグラム博士の実験によれば、答えはNOである。このコンパクトな実験において再現されたものは、我々の社会の構造であった。それは次の四つの装置であろう。

 

一.権威 

 親、教師、学校、企業、国家、学者、メディアといった権威は、幼少期から我々に社会のルールを叩き込む。それは身体化されるものであり、よけいなことを考えずにルールに従えと命じてくるものである。従う場合は「二.飴」が与えられ、口答えをすれば、あるいは疑問を提示しただけでも「三.鞭」となる可能性がある。

 

二.報酬

 ミルグラム博士の実験においても、参加者には報酬が事前に支払われていた。これが「飴と鞭」のうちの「飴」である。アイヒマンにとっては公務員という安定した地位と給料が「飴」であった。

 

三.罰

 アイヒマンが「ユダヤ人を殺したくない」と思い、退職したならば、彼は思想犯として刑務所送りになったかもしれない。そうなれば彼は家族を養えず、妻と子どもは彼に三下り半をつきつけていたかもしれない。これがルール違反に対しての「鞭」である。

 

四.信仰

 「飴と鞭のどちらかを選べ」と言われれば、人間は誰でも「飴」を選ぶに決まっている。しかし、「良心と飴のどちらかを選べ」と言われれば、ほとんどの人は飴を捨てて良心を選ぶだろう。人に迷惑をかけてまで飴を貰っても、良心が痛むからだ。

 しかし、「良心を手放さないなら鞭が来る」となると、ほとんどの人は戸惑う。その戸惑いに対して、権威が免責を与えるなら、ほとんどの人は飴になびくようになる。「責任はこちらで取るからあなたは言われた通りにやればよい。」この言葉は、良心と鞭の間で葛藤する人間に麻薬を与える。

 こうして、葛藤する人間は、信仰に走る。「偉い人が大丈夫だと言っているのだから、きっと大丈夫なんだろう。」これは思考放棄である。しかし、葛藤を苦しむ胆力のない人間、すなわち「インテグリティ(integrity)」に乏しい人間は、ここで権威に対する信仰に逃げ、飴を手に取り、鞭を避けるようになるのである。

 

3.奴隷になるという人間の習性

 第二次大戦後、連合国側はナチスによる大量虐殺について、稚拙な解釈をすることで満足していた。それは、狂人ヒトラーにそそのかされたドイツ国民が大虐殺を行ったという単純なストーリーである。しかし、アイヒマン裁判はそうした浅薄な歴史解釈を打ち砕いた。つまり、虐殺は悪魔ではなく、普通の人間が行うのである。ミルグラム博士は、それを実験により実証した。

 ミルグラム博士がつくった密室は、我々の社会の縮図であったとはいえ、実際の社会に比べれば遥かに「インテグリティ(integrity)」が発動しやすい環境ではあった。つまり、自らが奴隷であることから抜け出しやすい環境であった。

 まず、ナチス時代のドイツ人と比べて、参加者は人種差別教育を受けていなかった。実験の参加者は自由と民主主義を重んじるアメリカ国民であった。また、壁の向こう側にいる人間の人種や思想はわからないようになっていた。そのため参加者の偏見、例えば白人の黒人に対する嫌悪感や、自由主義者共産主義者に対する嫌悪感などは、実験室に持ち込まれないようになっていた。

 また、この実験での報酬や罰はたいしたものではない。実験の完遂がなくても、参加者は失業するわけでもなければ、妻と子どもに逃げられるわけでもない。途中で科学者に逆らって部屋を出ていっても、ペナルティとしては科学者に嫌われるくらいのものであり、殺されるわけでもなければ、社会的に罰せられるわけでもない。

 つまり、その場の空気を破るためのブレイクポイントは相当に低いのである。実際に、参加者の中には、「報酬を全額返すからボタンを押さない」と言い、科学者の制止を振り切って部屋を出て行った人もいる。しかし、これだけブレイクポイントの低い環境にあっても、6割強の人は空気をブレイクすることができなかった。つまり、より圧力の高い環境になれば、下手をすれば99%の人間が、空気をブレイクできないということである。

 ここで、第三十八回ブログで引用した古代ローマ研究者であるジェリー・トナーの言葉をもう一度見てみよう。

 

奴隷のしつけ方 マルクス・シドニウス・ファルクス ジェリー・トナー 太田出版 78頁

あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。

 

 ミルグラム博士の実験は、コンパクトにつくった実験室の中で、科学者の奴隷をつくるという実験であった。それは、「一.権威 二.報酬 三.罰 四.信仰」という四つの装置により成り立っている。人間は良心を捨て、権威の鞭を恐れ、権威から飴を貰って喜び、権威から免責を貰って安心することによって奴隷となる。

 こうして思考停止に陥った奴隷は、自分の行動について考えなくなる。「上が大丈夫だと言っているのだからきっと大丈夫なんだろう」という信仰を支えとして、人殺しまでしてしまい、自らを殺人者にまで堕落させる。仏教ではこれを「餓鬼」と言う。

 「餓鬼」は自分が奴隷だと気づかない。「権威 → 報酬 → 罰 → 信仰」という巨大な実験室の中で、人間がそれを当たり前だと信じて疑わなくなると、その人の内なる「インテグリティ(integrity)」は発動しなくなり、発動しないことが当たり前となる。皆がこのサイクルの中で黙々と殺人の作業をしているなら、自分もその空気を壊さずに黙々と働くことが当然の生き方だということになるのだ。

 そのため、餓鬼は実験室をブレイクするのではなく、実験室の中で他の餓鬼とささいなことで喧嘩をするようになる。つまり、あいつの飴の方が大きいとか、なんで俺の方がかわいがられないのかとか、そのような理由をもとに奴隷同士で争うのである。

 支配者層は常にこれを利用する。人間が「権威 → 報酬 → 罰 → 信仰」のサイクルに弱いことを彼らは知っているのである。ローマ帝国であろうが、現代社会であろうが、我々の心の仕組みは変わらない。奴隷制度の廃止がいかに制度史上の大変革であっても、それは社会という箱の形が変わっただけのことである。我々の心の習性は、そうした箱の改革では決して変わらない。

 箱が変わっただけで自分の心も解放されたのだと我々が勘違いするなら、支配者層からすれば思う壺である。つまり、この世は常にミルグラム博士の実験室である。我々はそこで常に試されている。それはいつの時代であっても、決して変わらないのである。