戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第四十七回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(1)

0.予定の変更

 イランとアメリカの関係、特にアメリカによる経済制裁の具体的意味について、前回前々回の二回にわたって述べてきた。今日は第四十三回ブログの続きに戻る予定であったが、予定を変更し、何回かにわたり、イランという国の簡単な歴史と現在の状況について述べていきたい。それにより、なぜイランとアメリカが対立するのか、その原因について考察していきたい。

 

1.変わる国家体制と変わらない石油

 イラン・イスラム共和国、すなわち現在のイランという国家は、1979年のイラン革命によって成立した若い国である。つまり、現在の国家体制としてのイランは、まだ誕生から40年程度の歴史を持つにすぎない。

 この国は司法・立法・行政の三権によって成り立つが、この三権の上に最高指導者という終身の宗教指導者が君臨する。つまり一見、欧米や日本のような民主主義国家のようであるが、政教分離の国ではない。むしろ、「政」と「教」は一体である。

 

イランは最高指導者が絶対権力 大統領は行政の長

https://www.sankei.com/world/news/190612/wor1906120018-n1.html

 

 日本や欧米などの政教分離国家からすれば、一つの国家の中に様々な宗教があることが当たり前である。それゆえ、政教一致体制の国家は日本人からすると馴染みがない。なぜイランは民主主義でも王国でもなく、宗教国家なのか。そして、なぜこのような宗教国家体制が、反米保守強硬派を基盤として成り立っているのか。イラン人の心に根付く反米感情の源泉は何か。それについて理解するためには、イランの近代史を見ていく必要がある。

 イランの国家体制は様々に変わってきた。現在の国家体制の前は、パフラヴィー(パーレビ)朝イランという王制であった。ただ、時代とともに変化する国会体制と違い、この土地において変わらない事実がある。それは、ここに世界第四位の産出量を誇る油田があることである。そうである以上、その資源を強奪しようとする白人たちに、この国は狙われ続けることとなる。

 

(キッズ外務省)1日あたりの原油の生産量の多い国

https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/crude_much.html

 

 イランの国家体制はここ100年で三回変わっている。

 ①カージャール朝ペルシア(王制 1779年-1925年)

 ②パフラヴィー(パーレビ)朝イラン(王制 1925年-1979年)

 ③イラン・イスラム共和国(宗教国家体制 1979年-現在)

 

 変わるイランと対照的に、変わらぬ石油企業がある。イランの原油をもとに100年以上変わらずに繁栄している巨大石油企業、すなわちBPである。この会社はもともとBritish Petroleum(直訳すればイギリス石油)であり、その前身はAngro-Persian Oil Companyである。つまり、イギリスがイランの土を掘って原油を取るためにつくった会社である。イランの原油で大儲けしたイギリスの会社が、現在でもBPとして存続している。今のBPは石油に限らない総合エネルギー企業として世界に君臨しており、その株は安定した優良株として投資家の間で人気となっている。

 

石油メジャーBPが総合エネルギーメジャーになる日

https://susteps.com/1533/oil-major-bp-lightsource/

 

 イランには原油という宝が眠っている。それは100年以上まったく変わらない。そのために、イランの近現代史は、宝を狙う白人に翻弄される歴史となる。そのため国家体制は常に不安定であり、100年のうちに二回の国家転覆が起こり、三つの国家体制がまたがることになった。そして現在、その資源を狙う勢力は、さらなる国家転覆を狙っている。

 

2.英露の植民地としてのペルシア

 イランはカージャール朝の時代からイギリスとロシアの侵入に苦しんだ。国内の石油はイギリスのアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(Angro-Persian Oil Company  略APOC)に握られていた。自国で出る油は、全てイギリス人に持っていかれる。ロシア人はイランの領土を奪おうと何度も軍事侵攻をしてくる。

 そのためカージャール朝ペルシアは、イギリスとロシアの侵略と干渉を排除しようとしたが、そのたびに返り討ちにあった。結局、カージャール朝はイギリスとロシアとの間に不平等条約を結ばされ、テヘラン中央政府は閣僚を選ぶ際もイギリスとロシアの領事館の承認を得なければならなくなった。

 ペルシア政府に招かれ財務官として働いたアメリカ人法律家のシャスター(William Morgan Shuster 1877-1960)は、こうした状況について「ペルシアの窒息」を著すことで世界に訴え、イギリスとロシアを厳しく批判した。

 こうした弱体化の後、第一次大戦(1914-1918)に伴うオスマン・トルコの軍事侵攻にあい、カージャール朝ペルシアの内部分裂はより一層激しくなった。イラン国内では各部族が中央政府の言うことをきかず、独立国を宣言するようになった。つまり、カージャール朝の権威は失墜し、名目だけの王家となったのである。この混乱状態を平定した人物が、カージャール朝において軍人兼首相であったレザー・パフラヴィー(Rezā Pahlavi 1878-1944)であった。

 

f:id:isoladoman:20200123191109j:plain

Rezā Shāh Pahlavi

 

3.近代国家イランは揺れ動く

 レザー・パフラヴィーは自らの軍隊を率いて混乱のテヘランを占領し、ペルシア中央部での遊牧民の反乱を平定した。その後、ソビエト政府とロシア・ペルシア和親条約を結び、同時にイギリス・イラン協定を破棄し、イギリスの治外法権の撤廃に成功した。これらの業績からペルシア内で人気が高まったレザー・パフラヴィーは、1924年にカージャール朝の廃止を国会で議決し、翌年自ら帝位に就き、シャー(Shāh王)となった(パフラヴィー朝イラン 1925-1979)。

 国家元首となったレザー・シャーは、イランの近代化に着手する。1926年には司法改革を行い、イランの法体系を近代化した。また1927年には国民銀行を創設し、自前の中央銀行を打ち建て、アメリカから招聘した財政顧問官を重用し、財政改革を成し遂げた。社会的には旧態依然としたイスラム的制度を改革し、女性解放路線の政策を実行、教育改革も行った。

 対外的には国際連盟に加盟し、1935年には国名をペルシアからイランに変更、ここからペルシア人の国家は国際的にもイランと呼ばれるようになった。また、1938年にはペルシア湾テヘランカスピ海を結ぶイラン縦貫鉄道を完成し、産業育成にも尽力した。しかし、こうした急激な近代化政策の実行は、保守層であるイスラム伝統回帰派からはイスラムの軽視と見なされ、反発を招いた。

 これは、レザー・シャー統治時代のイランに限らず、現在まで続くイランの変わらぬ傾向性であり、さらに言えば中東のイスラム国家において100年以上継続する悩みでもある。つまり改革解放路線を実行すれば、保守層のイスラム教徒が反発する。逆に、保守的なイスラム国家となれば、近代化と解放を求めるリベラル層が反発する。どちらかを満足させると、必ずどちらかが反発するので、イスラム国家は常に不安定なのである。その不安定な状況につけいる形で、欧米の列強が介入してくる。この構図は100年以上変わらない。

 レザー・シャーの統治も、その不安定な国内事情と欧米列強の圧力により、頓挫することとなる。レザー・シャーに反発する勢力とイギリス・ソ連が結託し、息子である王子のモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Rezā Pahlavi 1919-1980)を担ぎ上げた。結局、レザー・シャーはこの圧力に屈服し、退任することとなる。この時、新王であるモハンマドはまったく予想していなかったであろう。パフラヴィー朝イランは、わずか二代で終了するのである。

 

f:id:isoladoman:20200123191158j:plain

Mohammad Reza Pahlavi