戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十四回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(7)

1.モサデクと出光の出会い

 アメリカとイランの関係は現在最悪と言えるが、日本とイランの関係は悪くない。それには1953年の日章丸事件が関わっている。日本人は忘れても、イラン人はこの事件を忘れないのである。

 

在日本イラン大使館、「イランの人々は、過去、現在、未来を忘れない」

https://parstoday.com/ja/news/iran-i47699

 

 日章丸とは、出光興産の石油タンカーのことである。モサデク政権が危機に瀕していた1953年、この船が様々な苦難を乗り越えアーバーダーンの港へ行き、イランの石油を積んで日本に戻ってきたのである。

 

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イランからの石油を積み川崎油槽所に接岸した日章丸(1953年)

 第五十一回ブログでも述べた通り、イギリスはモサデク政権の石油国有化に激怒した。そのためイギリスは石油問題を国際司法裁判所と国連の安保理に提訴し、イランが法的に石油を海外に売却できないように根回しをした。同時に、各国のタンカーがイラン産石油を買い付けしようとすれば即刻拿捕できるよう、ペルシア湾に海軍を派遣していた。

 これにより、西側諸国はイランの石油を買わなくなったので、イラン経済は悪化し、モサデク政権は窮地に陥った。政権は石油の価格を下げ、買い付けしてくれる商社を探したが、なかなか見つからなかった。その中で、イタリアとスイスの共同出資によるタンカー、ローズマリー号がイラン産の石油を積載するまではできたが、帰路のアラビア海でイギリス軍に拿捕されてしまった。

 こうした状況下では、完全封鎖は成功したかに見えた。しかしこの時、モサデク首相や側近たちとイランで石油交渉をする日本人がいた。出光興産専務の出光計助であった。彼は出光佐三の弟であり、兄であり社長である佐三の命を受け、パキスタン経由でイランに極秘入国していたのだ。

 

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出光計助と出光佐三 1957年

 最初、モサデク政権は出光興産のオファーに対して懐疑的であった。IDEMITSUという会社名は聞いたことがなかったし、実際当時の出光興産は中小企業であり、世界の名だたる石油メジャーの傘下にはなかった。普通に考えれば、イタリアとスイスの共同出資によるタンカーでも不可能なことが、日本の小さな石油会社にできるとは思えなかった。

 しかし、出光という会社は単なる石油会社ではなく、社長は常日頃から「金の奴隷になるな」と社員たちに言っていた会社であった。肩書や資本の規模がなくても、出光にはおもしろいエピソードがたくさんあり、社員は自分の会社のユニークさについていくらでも話すことができた。これは大きな無形資産であった。

 通常なら、イラン政府は日本から来た無名の石油会社との面談を、時間の無駄として切り捨てることができただろう。しかし、出光計助には自信があったのかもしれない。確かに、無名の石油会社がいきなり契約の話を持ち出しても無理がある。しかし、出光はおもしろいと思わせることができるなら、契約の締結以前に、会って話すことに価値を見てもらえる。

 計助が自信を持っていたのは、会社の規模や名声ではなく、内容と歴史だったのであろう。モサデク政権はIDEMITSUという聞いたことのない会社に対して、追い返すのではなく、その話に耳を傾けるようになる。

 

2.海賊と呼ばれた男

 出光という会社は石油メジャーではなかったが、不思議な会社であった。モサデクが出光計助と初めて対面したのは1953年であるが、それから8年前の1945年、出光興産は倒産寸前の会社であった。1945年の敗戦により、石油事業はGHQが全て統括することとなった。GHQは石油を戦略物資に指定し、GHQの許可なく日本企業が販売することを禁じたのである。出光は石油メジャーの傘下ではなかったので、販売許可は得られなかった。

 石油屋が石油の販売を禁じられた時点で倒産の危機だが、さらなる危機が出光に降りかかってきた。戦時中の出光の主力商品は、満鉄用の機械油であった。極寒の地、満州で車軸油が凍結し、満鉄は運行のトラブルが相次いでいたが、出光の開発した凍結しない油のおかげで、そうしたトラブルが激減していたからだ。出光はこの功績により、満州帝国にとって欠かせない企業となっていた。

 しかし、敗戦により満州は消失した。この時、出光の海外社員は約800人いたが、全員が日本に帰国することとなった。役員たちは全員を本社でかかえこむことは不可能だと考え、リストラを訴えたが、出光佐三は全員を本社復帰させることを決断した。おもしろいことに、この時佐三には具体的な方策がなかったとのことである。石油屋が石油の販売を禁じられ、かつ海外から戻ってくる800人を食わせなければならないが、具体的方策はない。しかし、一人も解雇しないと彼は決断したのである。

 出光はその後、様々な事業に手を出し、農場経営、漁業、醤油や酢の醸造、印刷業などを行ったが、石油屋の素人商売はうまくいかなかった。しかし、様々に手を出した事業の中で、ラジオの修理業はうまくいった。当時、日本国民のほとんどはテレビを所有していなかったので、ラジオが主要メディアであった。しかし、戦災により多くのラジオが故障しており、新品を買う余裕のある人はほとんどいなかったので、修理の需要はあったのである。

 これが、出光が後に巨大な石油会社となる礎となった。ラジオの修理業がうまくいくとなると、佐三は銀行から莫大な金を借り、全国に50カ所の修理店舗をたてた。これが後に石油業に復帰する際のガソリンスタンドの拠点となるのである。リストラをしないために無理やり異業種に手を出した結果、それが本業発展の礎となったのである。

 こうして出光が異業種で格闘していた時、本業である石油業に復帰できるチャンスが突然巡ってきた。とは言っても、石油の販売業ではなく、「底さらい業」である。GHQが旧海軍のタンクの底に油が残っていることに目をつけ、この油の汲み取りを日本の石油業界に命じたのである。

 とは言っても、GHQから販売許可を得ていた企業たちは、この作業を請け負わなかった。タンクの底に入って作業をすることは、中毒、窒息、爆発の危険性があり、悪臭の中で油まみれになって行う作業は誰もが嫌がったからである。それゆえ、大手の石油会社は皆、既得権益で満足していたため、あえてきつい仕事を請け負う理由がなかった。

 この中で、喜んで仕事を請け負ったのが出光であった。石油販売業ではなかったが、この仕事を請け負えば、広い意味での石油業界への復帰である。約1年半の「底さらい業」により、出光興産は2万リットル以上の汲み取りに成功した。これが石油業界とGHQに強烈な印象を与え、1949年にGHQから石油元売業者として認められるきっかけとなった。こうして「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となった。

 

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出光社員によるタンク底汲み取り作業

 ただ、GHQから販売業の許可を得た後も、佐三は石油メジャーの傘下になることを拒み、独立路線を望んだ。他の大手の石油会社は皆、欧米の石油メジャーの傘下にあり、質の低い油を高い値段で買わされていた。しかし、当時の日本にはそれしか油を手に入れる手段がなかったため、大手会社はメジャーの奴隷となって消費者に流していれば、生活は安泰だった。

 もちろん、こうした石油業界の姿は、常日頃から「金の奴隷になるな」を口癖としていた佐三からすると、納得できないものであった。彼からすれば、こうした石油業界に仲間入りして、同じ釜の飯を食うことは虫唾が走るほど嫌なことであった。そのため、欧米の石油メジャーとも日本の石油業界ともつきあわない独自路線を歩むことを彼は決断した。

 ここから佐三は日本の石油業界から「海賊」と呼ばれる男となる。出光は自前のタンカー「日章丸」を駆り、自分で石油を探すことにしたのだ。はじめはロサンゼルスからの輸入に成功したが、アメリカでの石油買い付けはあっという間にメジャーの妨害にあい、断念せざるを得なくなった。日本の石油業界からは「ほら見たことか」と笑われたが、佐三は諦めなった。

 第一の矢がダメなら、第二の矢をメキシコやヴェネズエラに放った。それはパナマ運河を越えて中南米までタンカー一隻のみで買い付けに行くという無謀とも言えるような航路であったが、出光はこれを成し遂げた。しかし、そこにも石油メジャーの妨害が入り、断念せざるを得なくなった。石油業界は出光を嗤い、「海賊」と呼んだ。正規のルートを通さず、裏ルートから石油を取って来ようとする出光の姿は、日本の大手から見れば「海賊」に見えたのだ。

 しかし、佐三からすれば正規のルートは、欧米人の奴隷になるやり方に見えた。そのため、彼は「海賊」を諦めずに、第三の矢を放つことに決めた。それがモサデク政権下のイランであった。

 

3.反骨と反骨が重なり合う

 IDEMITSUという聞いたことがない日本の会社に対して、最初懐疑的であったモサデク政権は、最終的に契約することを決める。これは常識的に考えればあり得ないことであるが、もしかしたら、モサデクは出光計助の話を聞き、出光の独立独歩の精神に自分と重なるものを見たのかもしれない。反骨の精神に芯から共鳴できるのは、反骨の精神だけである。日本の石油業界から「海賊」と揶揄された出光は、イランの反骨から「人間」として認められた。

 しかし、契約を締結してもそこから課題は山積みであった。タンカーの航行は、日本とイラン、互いの国内法の遵守とともに、国際法にも違反しないものでなければならない。法の抜け道を通り、イギリスに知られないように書類は作成されなければならない。また、書類上の許可を得ても、正規のルートを通ればイギリス海軍に簡単に発見されてしまうため、独自のルートを見つけなければならない。

 湾岸には機雷が浮いており、海上は封鎖されている。軍艦に見つかれば即刻拿捕されるか、大砲で撃沈される。浅瀬を通れば座礁してしまう。マスコミに見つかれば、報道されてしまう。報道にのってしまえば、イラン政府から許可を得ても、日本政府に止められてしまうかもしれない。

 こうした数々の難題を乗り超え、航海上の危険個所の調査と独自ルートの策定を終え、1953年3月23日、日章丸は極秘裏に神戸港を出ることとなった。名目上の目的地はサウジアラビアで、船長と機関長以外は本当の目的地を誰も知らないという状態での出航となった。船は3月31日、マラッカ海峡を通過し、4月5日、日章丸は出光本社からの暗号無電を受け取った。

 

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日章丸(2代目)と新田辰夫船長

 船長の新田辰夫は、無電の内容を見なくてもわかっていた。それはサウジではなく、イランのアーバーダーンへ石油を積みに行けという指令である。ここで新田は船員を全員集め、この指令を伝えた。それを聞いた船員たちは驚くとともに、恐怖心を抱いた。イランのアーバーダーンが「アーバーダーン危機(Abadan Crisis)」と呼ばれる危険な場所であることは皆知っていたからである。動揺する船員たちを前に、新田はあらかじめ出光佐三から預かっていた檄文を読み上げた。

 

「今や日章丸は最も意義ある尊き第三の矢として弦を離れたのである。ここにわが国ははじめて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである。各自、この趣旨をよく理解して、使命の達成に全力を尽くされたい。」

 

 船員たちは、戦後の苦しい時期でも社員をリストラしなかった佐三の態度を知っていたし、常日頃から反骨精神にあふれた佐三を目にしていたので、むしろこの危険な任務を前にしてモチベーションが上がった。「日章丸万歳! 出光興産万歳! 日本万歳!」という船員たちの声のなか、日章丸はアーバーダーン港へと向かうこととなった。