戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十五回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(8)

1.無名の海賊から世界的に有名な海賊へ

 日章丸は1953年4月8日、夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過し、4月10日、ついにアーバーダーンの港に到着した。イギリス海軍に見つからないよう細心の注意をはらい航行した日章丸であったが、アーバーダーン港に到着した時にはマスコミに知られてしまった。AFPとロイターが報道し、日章丸がイランで石油を積むことは世界的に知られる事実となってしまった。

 しかしここで事態を誤魔化すのではなく、出光興産は4月11日、堂々と記者会見を開き、イランのモサデク政権と石油取引をし、アーバーダーンから日本に石油を持ち帰ることを発表した。

 

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出光佐三 記者会見 1953年4月11日

 

 出光としては、自分の行動が世界的に知られることは計算内のことであったのだろう。石油業界から「海賊」と揶揄され、業界の裏街道を歩いてきた出光は、報道により世界的に有名な石油会社となった。その行動には賛否両論あったが、イギリスとしても無名の海賊が相手なら大砲で撃沈できるが、有名になった出光に対してはできなくなった。撃沈よりも、拿捕の方が遥かに難しい。

 ただ、日章丸としても往路より帰路の方が難しくなった。往路では無名のタンカーに過ぎなかったが、帰路では有名なIDEMITSUのタンカーとして、イギリス海軍の探査の目の中で航海する他なくなったからだ。しかし、出光のタンカーにはそれまでの「海賊」としての経験があった。石油メジャーの傘下として安全な航路のみを通ってきたタンカーと、メキシコやヴェネズエラ、パナマ運河などの危険な海域を通ってきたタンカーとでは経験値が違う。

 会社としても往路と帰路は別物と考え、作戦を練ってきた。日章丸は4月16日、夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過すると、大きく迂回する航路を取った。インドネシアのスンダ海峡を通過し、シンガポールに基地を持つ英国海軍の警戒を考慮し、マラッカ海峡を避け、水深が浅く航行が危険なジャワ海を通った。

 その後、4月29日にガスパル海峡を通過し、30日には南シナ海に入った。ここで日章丸は無線封鎖を解除し、出光本社と連絡を取り、無事に航行していることを報告した。同日、イギリス政府はロンドンの駐英大使、松本俊一を呼び出し、厳重抗議をした。この時、当然ながら日本の外務省は出光からの報告により日章丸の航行について知っていた。しかし大使および外務省は「知らなかった」と嘘を言い、「民間の取引に国は介入できない」と弁明した。

 5月4日、日章丸はフィリピン北のバシー海峡を通過し、7日には日本の領海に入った。これを確認したイギリス政府は、同日、アングロ・イラニアン社を申請人として仮処分申請を東京地裁に提出した。つまり日章丸が積載している石油は出光のものではなく、アングロ・イラニアン社に法的な所有権があるという主張である。

 その後1953年5月9日、ガソリンと軽油、約2万2千リットルを積んだ日章丸は、ついに川崎港へ帰港した。これは大きなニュースとなったが、同日、東京地裁にて第一回口頭弁論が開かれることとなる。

 

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日章丸 朝日新聞 1953年

 

2.一瞬の脱却

 出光佐三の主張は記者会見においても裁判所においても同じであった。一つは、イランの石油はイランのものであり、モサデク政権がイランの石油を国有化していることは法的に見て正当なこと。もう一つは、その政権との直接交渉で石油を得た出光の所有権は、国際法上何ら違法性がないことである。佐三は次のように法廷で述べた。

 

「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として府仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓い致します。」

 

 実はこの法廷闘争の裏で、出光は二回目の航行を予定していた。9日に川崎港に到着したばかりの日章丸は、急いで積み荷を降ろし、5月14日、イランに向けて再度出航したのである。この後、5月16日に第二回口頭弁論が東京地裁で開かれ、27日、東京地裁はアングロ・イラニアン社の仮処分申請を却下した。

 裁判長は、「イランとアングロ・イラニアン社の契約は、私的な契約であり、イランの民法に従うべきである。イランによる石油国有化は、正当である。」と断じた。これはモサデク政権と出光を法的に正しいと認める判断であった。当然、アングロ・イラニアン社はこれを不服とし、上訴した。

 6月に入ってからイラン政府が会見を開き、出光と結んだ契約を見直し、価格を大幅に下げて出光に石油を提供することを発表。この中で6月7日、日章丸は再びアーバーダーン港に到着した。数千人のイランの民衆が歓迎し、出迎えたモサデクは日章丸船員たちと握手をし、こう述べたそうである。

 

「あなた方日本人の勇気と偉大さを、イラン人は永遠におぼえているだろう。」

 

 この時、一瞬だがイランの反骨と日本の反骨が結合し、民族の自決と植民地支配からの解放が達成された。「金の奴隷になるな」と訴え続けた経営者が、独立の闘士と結びつき、「人間は金で動く」と信じて疑わない金融資本の壁に風穴をあけたのだ。

 しかし、この2カ月後、アジャックス作戦の遂行により、モサデク政権は打倒され、イランはアメリカの植民地となる。これを受けて、アングロ・イラニアン社は東京地裁に上訴していた事件を、1954年10月29日に取り下げた。同年8月に、アングロ・イラニアン社は国際的なコンソーシアム(Consortium 共同事業体)の配下に置かれることが決定したからだ。

 同社の株式のうち40%が5つのアメリカ系メジャーに渡され、残りについては、英国石油が40%、ロイヤル・ダッチ・シェルが14%、フランス石油が6%という配分となった。モサデクはこの時獄中にいた。これを牢屋の中で知ったのかどうかはわからない。

 

3.反骨を忘れない

 出光とイランとの石油取引も1956年で終了することとなる。モサデクがいなくなった後のイランとの取引は、欧米石油メジャーとの取引と等しく、反骨と反骨との共鳴ではなくなったからである。

 出光は佐三の跡を弟の計助が継ぎ、代々出光家から社長が出たが、その後は株式公開し、出光の血筋とは無関係の社長により経営がなされている。その後、昭和シェルと経営統合した。貝殻マークのShell(シェル)はロイヤル・ダッチ・シェルのマークであり、要はロスチャイルド系の石油メジャーの印である。

 

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世界を操る支配者たち(1)〜ロスチャイルド家

http://www.kanekashi.com/blog/2012/05/001861.html

 

「タイムカードなし」

「出勤簿なし」

「解雇なし」

「定年なし」

 

 という「四なし」をモットーとした出光は、現在存在しない。現在の出光は、「海賊」と呼ばれた当時とは違い、ある意味普通の大企業である。モサデクが首相だった時のイランも、現在では存在しない。では、彼らがやったことは無駄な足掻きに過ぎなかったのであろうか。最後は金の力が勝ち、奴隷は結局奴隷にしか過ぎないのに、無駄な反抗をしたのであろうか。歴史の機械的な時系列だけを見るならば、弱者の抵抗は一時的に成功しても、強者によって握り潰されるものに見える。

 しかし、バラの花が、「どうせ最後は散るのだから」という諦観から咲くことを止めてしまえば、それはバラの花ではない。結果がどうなろうが、バラの花は自己が自己であるという自己実現を一瞬も止めることはない。モサデクや佐三もそうだったのかもしれない。自分が自分を引退することはできないし、もし反骨の精神が日々の食を得るために反骨を捨てるなら、それは生きながら死んでしまうことと同じなのだろう。

 イランの人々が日章丸事件を忘れないというのは、困窮していた時に石油を買ってくれたという金の問題よりも、当時のイランの反骨精神に共鳴した反骨の日本人がいたという事実であろう。単に石油を買っただけでは、そこまでの強い記憶にはならない。

 ただ、今の日本人にとって、日章丸事件の記憶は薄れつつある。むしろ、イラン人の方がよく覚えていると言える。イラン生まれのナスリーン・アジミ(Nassrine Azimi)さんは、「今こそ日本人は日章丸事件を思い出すべきだ」と言うが、今の日本人が反骨の日本精神を思い出すことは、かなり難しいことなのかもしれない。

 

「日本人が日章丸事件の意義を思い出す時は今」ヘラルド・トリビューン

http://trailblazing.hatenablog.com/entry/20100218/1266484582

 

学長ノート - 立命館アジア太平洋大学

https://www.apu.ac.jp/home/notes/article/?storyid=50