戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十六回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(9)

1.第三の男

 イランの近現代史は、二人のモハンマドを軸として展開した。一人はモハンマド・レザー・パフラヴィーであり、もう一人はモハンマド・モサデクであった。二人の「モハンマド」は対照的であり、一方は王様、もう一方は民主主義者であった。そして片方は欧米に従属したが、もう片方は徹底的に独立を志向した。

 対照的な二人であったが、イランにはこの両者を嫌う第三の男いた。それがルッホーラー・ムサヴィ(Rūhollāh Musavi)であり、後にイランの頂点に立ち、国民から「ホメイニー師」として崇められる男である。ムサヴィ(Musavi)という姓はイランではよくある姓であったので、彼は後にホメイニー(Khomeinī)と名乗るようになる。ホメイニーとは「ホメイン出身の者」という意味であり、ホメインとはイラン中部の人口1万人程度の村である。

 

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Rūhollāh Musavi Khomeini, 1938

イラン中部の意外な名所マルキャズィ州ホメインとマハッラート

https://sophia-net.com/2017/01/30/post-3053/

 

 イスラム法学者の息子として生まれたルッホーラーだったが、父親は幼い頃に亡くなっている。その父親の跡を追うように、彼もシーア派の聖地でイスラム法学を学び、アーヤトッラー(Āyatollāh)の称号を得た。アーヤトッラー(Āyatollāh)とは最高位の聖職者の称号であり、「アッラーの徴(しるし)」という意味である。

 こうしてイスラム教指導者として成長していった彼は、布教活動とともに政治家を批判するようになった。彼は生涯質素な暮らしを貫き、イスラムの戒律に殉ずることを旨としたので、自由と近代化、西洋化を推進しようとする政治家には同調できなかったのだ。

 彼の目からすると、二人のモハンマドはペルシアの男には見えなかった。二人のモハンマドはヨーロッパで生まれ育ち、ヨーロッパで教育を受け、自分の母国語がフランス語だかペルシア語だかわからんような人間であるように、ホメイニーには見えた。そういう政治家たちが、西洋の高価なスーツに身を包み、フランス語を流暢に話し、国民を西洋人にカスタマイズしようとしているように見えたのだ。

 彼らに国の舵取りを任せれば、イランの伝統と宗教は消失し、イラン人の顔をした西洋人しかいなくなってしまう。イスラム原理主義者や民族派の人達は、イランの急速な近代化に危機感を抱いていた。女性はヒジャブ(ヘジャブ hijab)をつけなくなり、人々はモスクに行かなくなり、街にはアメリカ文化が浸透し、大人は自由競争の中で金儲けに走るようになる。

 保守層が抱く危機感の中で、カリスマ性のあるホメイニーに対する期待はますます高まっていった。イランが近代化へ向かって行けば行くほど、それを歓迎する声も高まったが、同時にそれに反発する力も勢いを増していった。この対立はパフラヴィー王政での「白色革命」(第四十九回ブログ参照)の時に一気に高まった。

 日本の近代化は明治維新とともにはじまったが、当時の日本には国民的な近代化への衝動があり、欧米列強に対する強い危機感があった。この危機感が日本の近代化を強力に後押しした。しかし、この時のイランは石油を欧米に握られ、王府はアメリカの言いなりであった。そのため国民から見れば、近代化は上からの強制であるように見えた。もちろん、近代化を歓迎する国民もいたが、宗教原理派や民族主義者からすると、CIA主導の近代化は納得できないものであった。

 そうした反抗勢力の中心にいた人物がホメイニーであった。ホメイン村出身のルッホーラーは、政府がCIAと結託して行う近代化の波の中で、抵抗勢力の期待を背負う人物となっていった。こうして西洋式のスーツを着ず、僧服に身を包み、イスラム法学と清貧を貫いたルッホーラー・ムサヴィは、「ホメイニー師」と呼ばれる国民的カリスマへと成長していった。

 

2.イスラム社会主義

 中東と言うと、日本人はイスラム教の根強い風土を思い浮かべるかもしれない。広大な砂漠を歩くラクダ、チャドルにより全身を覆った女性、イスラム原理主義やモスクでの礼拝などが、日本人の抱く中東の一般的なイメージであろう。

 しかし第二次世界大戦後に中東を席巻した波は近代化の波であり、中でもその中心的な役割を演じたものがイスラム社会主義であった。それゆえ、イスラム社会主義を理解することが、中東の近現代史を理解するうえでも、あるいは現代の中東情勢を理解するうえでも必要である。ここで、簡単にイスラム社会主義について述べておこう。

 もちろん、イスラム社会主義と言っても、その内容は地域や政党により異なっており、一枚岩ではない。ただ、根本的には富を平等に配分することを理念としており、近代化を目的とすることも各派において共通している。一見、イスラム教を基盤とする中東の人達と、宗教を否定するマルクス主義とでは矛盾するようであるが、神の下での平等を信条とするイスラムと、人民の平等を旨とする社会主義は、イスラム社会主義者からすれば両立可能なものなのだ。

 このイスラム社会主義が二次大戦後の中東で席巻したため、現在においても中東の多くの国でイスラム社会主義の政党が力を持っている。例えば、内戦で混乱している現在のシリアの大統領はバシャール・アル・アサド(Bashar al-Assad)であるが、彼の所属政党はバアス党である。

 

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シリア アサド大統領

 バシャール・アル・アサドはもともとダマスカス大学医学部を卒業した医師であり、ロンドンで眼科医をしていた近代人である。妻はロンドン大学卒業後JPモルガンで投資の業務をしていたキャリアウーマンであった。アル・アサドは当初、政治家になるつもりはなく、ロンドンで医師を続けるつもりであったが、父の跡継ぎと目されていた兄が突然交通事故で亡くなったために、やむなくシリアに帰り、政治家となったのであった。

 彼のような中東の近代人が好む思想がイスラム社会主義であり、バアス党はその中でも力のある社会主義政党である。バアス党はシリアだけでなくイラク、ヨルダン、イエメンなどでも力を持ち、パレスチナバーレーンモーリタニアスーダンにおいても拠点を持っている。イラクサッダーム・フセイン(Saddam Hussein)も、バアス党所属であった。

 

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サダム・フセインとシャー・パフラヴィー(1975年)

 エジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)の政党もアラブ社会主義連合であり、カダフィ大佐(Muammar Gaddafi)が統治していた時代のリビアの正式名称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国であった。また、イランで一時期強い力を持ち、現在は拠点をアルバニアに置いているムジャヒディン・ハルク(第四十六回ブログ参照)もイスラム社会主義の政党である。このように、第二次世界大戦後の中東ではイスラム社会主義が席巻したわけだが、彼らに資金を提供をしたのがCIAであった。

 

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エジプトのナセル大統領とソ連フルシチョフ

 ナセルがエジプトで政権を取るために力を貸したのがCIAであり、共産党と手を組もうとしたイラクのカシム政権を打倒するために、イラクのバアス党に資金援助をしたのもCIAである。CIAの援助により、イラクでバアス党が政権を奪取した時、党のナンバー2がサッダーム・フセインであった。彼は後にイラクの大統領となる。

 

3.近代的イスラムとそれに反発する原理主義

 自由主義陣営のCIAが中東の社会主義者たちに資金援助をするというのは、矛盾しているように見えるかもしれない。確かに、当時ソ連と対立していたアメリカが社会主義者たちの後ろ盾になるというのはイデオロギー的に矛盾しているように見える。しかしそれは、メディアが煽るイデオロギー対立を我々が信じすぎているからかもしれない。イデオロギーという見地よりも、植民地支配という見地を優先すれば、アメリカの優先順位は以下のようになるはずだ。これは第五十一回ブログで説明したことであるが、もう一度列挙しておこう。

 

宗主国にとって都合のいい植民地の政治家

宗主国の言いなりになる民主主義者

宗主国の言いなりになる独裁者

③独立を志向する独裁者

④独立を志向する民主主義者

 

 CIAにとって理想的なのは、宗主国の言いなりになる民主主義者であり、その典型例が日本の政治家である。植民地がイミテーション民主主義によって治められるなら、CIAとしても理想的だ。しかし、近代化が遅れ、教育水準が低く、西洋化が進んでいない発展途上国でこれを実行しようとしても難しい。イミテーション民主主義というプランを実行するためには、それなりに高い「民度」が必要なのだ。

 「おとなしく、騙されやすく、高性能」という理想的な国民は、そう簡単に見つかるものではない。となると、宗主国としては②でも満足する他はない。まずは②を実現し、徐々に①に近づけていくという方策が現実的である。

 また、中東の指導者としても、イスラム社会主義という方便は有用である。アッラーのもとでの平等を実現するために社会主義を政治的イデオロギーとすることは、理想的な平等社会の実現までは民主主義を棚上げし、社会主義の代表者が独裁者となれることを意味する。それゆえ、ナセル、カダフィフセイン、アサドといった自称社会主義者たちは皆独裁者である。こうして、イスラム社会主義の名のもとで②が実現される。

 つまり宗主国からすれば、イランのモハンマド・パフラヴィーのような王様であろうが、自称社会主義者の独裁者であろうが、忠誠を誓うならそれらは皆②である。イデオロギーはどうでもいい。②が植民地の資源を白人に横流しするなら、宗主国が文句を言うことはない。もちろん、将来的には日本のような民主主義国家(イミテーション民主主義国家)になって欲しいが、当面は社会主義であろうが王制であろうが独裁であろうが、何でもいいのである。

 問題は、②が③に変わってゆくことである。CIAに援助され、教育を受けた政治家が無能な操り人形なら、何の問題も起きない。しかし植民地の政治家が、CIAの援助という栄養の中でみるみるうちに成長し、最初はまったく考えなかった「独立」を志向し始めると、宗主国とすれば厄介なことになる。近代化や経済成長は大いに結構だが、「独立」は駄目だ。それ以外の木の実は好きなように食べて構わないが、「独立」は禁断の木の実なのだ。

 CIAと協力関係にあったカダフィ独裁政権だが、リビアの資産を白人に横流しするのではなく、国民の生活向上のために使うようになった時、宗主国としては要注意となる。カポーの目的が横流しではなく自国の繁栄になった時、カポーは忠犬ではなく反逆者と見なされるようになる。

 

米CIAがカダフィ政権と協力関係、リビアで文書見つかる

https://www.afpbb.com/articles/-/2824219

 

カダフィ下のアフリカ最裕福な民主主義から、アメリカ介入後、テロリストの温床と化したリビア

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-c9d6.html

 

 カダフィフセインが駆除されたのは、彼らが独裁者だったからではない。アメリカの植民地で独裁政権を政治体制とする国はいくらでもある。問題は独裁か否かではなく、資産の横流しをするか否かである。植民地は植民地を富ませるためにあるのではない。宗主国のためにある。だから、植民地が植民地を優先するなら、それは反乱である。ただ、政府はそのような発表はできず、大手メディアもそういう報道はできないので、独裁政権を打倒するための正義の戦争だと彼らは国民に伝えるのである。

 

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Henry Kissinger and Mohammad Rezā Pahlavi

 中東をイスラム社会主義が席巻した時、イランでは社会主義は必要ではなかった。既にモサデクという④は打倒され、パフラヴィー王という②が確立されていたからである。CIAが社会主義者に金を渡して教育し、政権を奪わせるという芸当は、イランでは必要なかったのである。

 パフラヴィー王はル・ロゼ時代にCIAのリチャード・ヘルムズと御学友であり(第四十九回ブログ参照)、キッシンジャーとの信頼関係も厚かった。当時のイランは、CIAの指導のもとに作られた秘密警察「サヴァク(SAVAK)」による支配がうまく機能していた。サヴァクの諜報活動により、反政府デモなどの活動が事前に判明し、群衆が道に溢れる前に活動家は逮捕されたからである。

 逮捕された反逆者は残虐に拷問され、殺された。こうした王制に対する国民の不満の声は高まり、ついに1963年、ホメイニーはパフラヴィー王政に対する全国的な抵抗運動を国民に呼びかけた。当然、これにより彼は逮捕されたが、この時は釈放された。しかし、その後も彼は政府批判をやめなかったため、1964年、パフラヴィー王から国外追放処分を受けることとなった。

 抵抗の象徴であるホメイニーは、トルコに逃げ、その後イラクナジャフに定住し、目立たなくなった。政権はこの時、完全勝利をおさめたかのように見えた。しかし、実際にはこれが1979年のイラン革命の種となった。イラン国内ではサヴァクの監視のなか行動の制限があったホメイニーだが、ナジャフでは地味だが制限のない暮らしの中で、力をためることができたのである。