戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十七回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(10)

1.国境という怨嗟

 アフリカや中東では、長年に渡った西洋による植民地支配の爪痕が今も残る。それが国境である。エジプトの国境線はエジプト人が決めたものではなく、イラクのそれもイラク人が決めたものではない。つまりイギリス人が決めた国境線の中に、言語、宗教、民族の異なる人達が詰め込まれ、現在の国ができているのである。

 湾岸戦争(1990年8月2日-1991年2月28日)はイラククウェート侵攻からはじまったが、イラクの言い分は、「もともとあの土地はイラクのものだった」というものだった。もちろん、これはクウェート側からすれば侵略の言い訳にすぎず、納得できるものではない。それゆえ世界の論調は「イラクが悪い」ということでまとまっていた。

 しかし、中東の国境線がイギリスなどの侵略者によって決められたことを考慮すると、「あの土地はもともとイラク人のものだ」という視点も、まったく理不尽な主張とは言えなくなる。イラククウェートの国境線は、イラク人でもクウェート人でもなく、イギリス人が決めたものだからだ。

 

イスラム国が是正したい「不自然な国境線」 世界地図から見えてくるアラブの怨嗟

https://toyokeizai.net/articles/-/72795?page=2

 

 アフリカで頻繁に内戦が勃発するのは、国境線の内側に言語、宗教、民族の異なった人々が詰め込まれているからである。フセイン時代のイラクも同じで、一枚岩とは程遠い国家である。言語はアラブ語とクルド語の二つ、宗教はシーア派が6割、スンニ派が3割5分、残りがキリスト教その他である。そのため国内でアラブ人とクルド人が対立し、シーア派スンニ派が対立する。

 第四十四回ブログで、イランのコッズ部隊について説明したが、イランには国外にイランの味方をする政党(軍隊)がいる。それがパレスチナハマス、ヨルダンやシリアにいるヒズボラレバノン西部にいるフーシである。つまり、そういった国々は内部で分裂しているということである。

 例えばレバノン政府がフーシに対して「イランの味方をするな」と命じても、言うことをきくはずがない。むしろ、フーシはレバノンからの独立を主張している。こうした分裂は、人工的に国境線が定められた国の宿命と言える。

 中東の国々で民主主義が育たず、独裁国家が多いことの理由は、このような内部分裂にある。例えば、もしイラク住民投票をするなら、シーア派の政策が過半数を取るに決まっている。約6割の国民がシーア派だからである。多数決で物事を決めるなら、スンニ派はいつも負ける。そうなると、不満をかかえたスンニ派が内戦を起こしかねない。

 ここで便利な政治システムとして登場したものが、イスラム社会主義である。アッラーの下での平等を旨とし、かつ宗教による依怙贔屓を認めない。イスラムを尊重しながら、宗教を政治に持ち込ませないために、「社会主義」という方便が有効になるのだ。当然、そこでは「平等」と言いながら大統領の独裁政治となる。強権によって反対派を抑えつけなければ、簡単に内戦に発展するからだ。

 第五十一回ブログでも述べたが、欧米人は民主主義が大好きで、中東やアフリカの独裁国家が大嫌いである。彼らからすれば、そうした国々の独裁者は生理的な嫌悪感を催させる存在である。彼らは世界中の国々が民主主義国家になればいいと思っている。しかし、中東やアフリカの人々からすれば、自国が民主主義国家になれない原因をつくったのは欧米人である。

 また、民主主義国家をつくろうとしても、それを阻むのも欧米人である。欧米や日本では、アジャックス作戦(第五十一回ブログ参照)はあまり知られていない。しかしイランをはじめ、中東の人々からすれば、アジャックス作戦によってモサデク政権が潰されたことは、有名な事件である。つまり、中東の人達からすると、民主主義を押しつけてくるのも欧米人であり、民主主義を潰すのも欧米人である。

 

イランはアメリカを二度と信用しない

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/05/post-10191.php

 

 ホメイニーはアメリカを「大悪魔」と呼んだ。中東情勢をよく知らない日本人からすれば、この発言はイスラム原理主義者の狂信的な反米感情の現われのように見える。しかし、中東では説得力のある言葉である。彼らからすれば、アメリカに支配されながらアメリカ大好きな日本人は、もしかしたらとても不思議な民族に見えるのかもしれない。

 

2.対立の深まりとホメイニーの成長

 中東の人々は、欧米の援助、特にCIAの援助を受けた政治家たちが、西洋の高級スーツを身にまとって国家の近代化を成し遂げる姿を見続けてきた。もちろん、それによって良い面も多々ある。男女平等、福祉の充実、義務教育の普及、公正な選挙制度の確立、法制度の拡充、インフラの整備、自由な経済競争・・・

 国民は近代人となり、西洋人のような暮らしをするようになる。平日は会社で働き、休日は家族と街に出て買物をし、アメリカ映画を見る。その反面、伝統は廃れ、人口は都市に集中し、農村は過疎化し、貧富の差は拡大する。国の資源は欧米に奪われ、街の隅々にまでグローバル企業が浸透し、国民が必死に働いても、利益のほとんどがグローバル企業に吸い取られる。

 中東の国々は、こうして新しい分裂を内部に抱えることになる。もともと存在した言語、宗教、民族の分裂に加えて、近代化VS伝統派の対立が生じるのだ。近代化を望む人からすれば、イスラムの伝統は足枷に見える。モハンマド・パフラヴィーが女性のヒジャブを禁じたのは、女性解放のためというより、それが自国の後進性に見えたからだ。つまりスイス育ちの彼にとって、古臭いイランはおそらく恥ずかしかったのだろう。

 こうした王様に対して、伝統派の人々は苛立った。彼らからすればフランス語と英語を流暢に喋り、欧米人とばかり仲良くする王様は、伝統を軽視しているように見えた。シャーに対する反感が渦巻くイランの中で、パフラヴィー王は統治のやり方をアメリカに頼った。軍隊だけでなく、各省庁にアメリカから顧問を招き、首都のテヘランを中心として、何万人ものアメリカ人が駐留した。

 こうなると、イランの街は大量の米兵を抱える沖縄に似てくる。街はアメリカ人向けの店とサービスを用意するようになる。飲み屋、ディスコ、アメリカ映画、夜の歓楽街。レストランのメニューは英語を表記するようになる。アメリカに影響を受けた地元の若者が増え、女たちはアメリカ人とデートをし、結婚しようと思うようになる。

 アメリカ人を好きになるイラン人が増えるとともに、アメリカ人を嫌うイラン人も増える。溝は深まるが、不満の流出に対しては、パフラヴィー王はサヴァクで対応した。つまり、政権に反対するイラン人に対して、サヴァクによる拷問と虐殺で対処し、情報統制をすることで反対意見を封じたのである。

 ホメイニーはそうした反対勢力の象徴と見なされたため、1964年に政府から国外追放処分を受けた。彼はトルコに逃げた後、イラクナジャフに移住し、そこで弟子の育成をしながら地味に暮らすこととなった。そのため政府側から見れば、毒の芽は摘み取られたように見えたが、実はこの時期にホメイニーがナジャフで人材を育成し、革命思想を醸成させたことが、後の大逆転への礎となっていた。ホメイニーは自分自身の革命思想を深めたと同時に、側近の成長も促したのである。

 歴史に「もし」はないが、あえて「もし」を言うなら、もしパフラヴィー王が国家のアメリカナイズに励まなかったら、対立も激化しなかったかもしれない。そうなれば、ホメイニーは宗教界のカリスマで終わっていたかもしれない。しかし、「近代化VS伝統」という対立の中で、ホメイニーは単なる宗教界のカリスマという枠ではおさまらなくなっていった。

 対立の中でホメイニーは宗教界の枠を出るほどに成長し、人々の期待も増幅していった。この大きな渦の中で、ホメイニーは政教分離ではなく、政教一致の宗教国家を目指すようになる。単なる宗教指導者ではなく、国家の統治も行なう宗教指導者、すなわち国民の指導者となる道を模索するようになったのだ。それは民主主義でもなければ王制でもなく、イミテーション民主主義でもなければイスラム社会主義でもない。イスラム法学者によって統治される国家、すなわちイラン・イスラム共和国である。

 

3.貧富の格差とカセットテープ

 パフラヴィー王の統治は近代化と伝統の対立を深め、石油はメジャーに握られ、アメリカの言いなりになって軍備を購入し続けたため、防衛費は増大した。国民は西洋化を謳歌しながらも言論の自由がなく、常にサヴァクに監視され、反対すれば拷問され、虐殺された。貧富の差は拡大し、人口は農村から都市に流入した。農村は過疎化し、都市は過剰になった。

 それでも経済がそれなりに安定していれば、政権が崩壊する予兆はなかった。反発勢力が一枚岩から程遠かったからである。反発勢力にはソ連から支援を受けたイラン共産党(トゥーデ党)、イスラム社会主義のムジャヒディン・ハルク、モサデク支持者の残党である国民戦線など、様々な勢力があったが、彼らが一つにまとまることはなく、むしろ敵対していた。いつの世も、与党を批判する野党勢力はバラバラなのである。

 そのため、不安定ながらも安定していたパフラヴィー統治であったが、対岸で火事が起きた。1973年、第四次中東戦争が勃発したのである。イランはこれに参戦しなかったが、エジプトやシリアを中心とするアラブ諸国が、イスラエルと戦争になった。これによって中東の原油が高騰、第一次オイルショックとなった。

 

【日本のエネルギー、150年の歴史④】2度のオイルショックを経て、エネルギー政策の見直しが進む

https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history4shouwa2.html

 

 これにより、原油価格は世界的に高騰した。それに伴いイランのオイル業界は潤ったが、その利益は欧米石油メジャーおよびそれに付随するイランの王族、貴族、富裕層に流れただけだった。一般国民は石油と無関係なため収入が増えず、原油価格の高騰に伴うインフレによって生活が苦しくなった。

 しかし、政権はオイルマネーで潤った政府財源をもとに、インフラ構築をすすめようとした。もちろんその内容はアメリカというコンサルタントの言いなりになって行うものであり、すなわち原発の建設、高速道路の整備、地下鉄網の構築である。しかしそうした工事をいくらすすめても、関連企業や利権団体、役人や政治家が潤うだけで、一般市民の生活が向上するわけではなかった。この時、もしパフラヴィー政権が物価上昇に苦しむ国民に対して、一人100万円を配っていたら、イラン革命は起こらなかったかもしれない。

 こうした中、国外にいたホメイニーはイラン国民に対して、パフラヴィー朝の打倒とイスラム国家の樹立を訴え続けていた。1964年にイランを出てから十年以上、ホメイニーは説教を続けていたのである。もちろん、ホメイニーはイランに入ることができず、イラン国内で本を出版することもできなければ、テレビに出ることもできない。そのため彼の声はカセットテープに吹き込まれ、サヴァクに見つからないように市民の間でダビングされた。

 複製されたカセットは、モスクで人から人へと渡された。そのカセットにはパフラヴィー王朝の打倒とイスラム国家の樹立、反米思想が吹き込まれており、それが聖戦(ジハード)であることが謳われていた。つまり、政府に抵抗して死んでもアッラーに祝福されるということである。

 

イラン・イスラーム革命とは何だったのか 末近浩太(立命館大学国際関係学部教授)

https://news.yahoo.co.jp/byline/suechikakota/20160303-00054989/

 

 オイルショックの下、貧富の差が拡大し、市民の政府に対する不満は増大した。しかし、パフラヴィー朝は不安定ながらも安定しているように見えた。野党はバラバラであり、上流階級は潤っていた。ホメイニーのカセットテープは市中に流通していたが、それはイランの地下水脈で静かに進行していたことであり、政権を転覆させるほどの目立った効果はないように見えた。こうした状況下で、エッテラーアートというイランで最も長い歴史を持つ新聞に、「ホメイニーは共産主義者だ」という記事が載った。1978年1月7日の記事である。

 これだけを見るならば特に変わったことはない。当時のイランではよくある風景である。政府の言いなりになって記事を書く保守系の新聞が、国外追放された反逆者を中傷する記事を載せたというだけのことである。それゆえ、これが発火点となって革命へと結びつくと考えた政府関係者は、当時おそらくいなかったであろう。しかし、事態は予想に反して燃え上がり、ここから一年後の1979年1月、パフラヴィー王は国外へ逃げることになる。