戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(11)

0.シリーズの続き

 今回からイランの近現代史を振り返るシリーズに戻りたい。第五十七回ブログの続きである。

 

1.コムの小さな火がアーバーダーンで燃え上がる

 1978年1月7日、イランでエッテラーアート(Ettela'at)という保守系新聞に、ホメイニーを中傷する記事が載った。当時のイランのメディアは全て、政府による検閲を受けていた。そのためエッテラーアートの記事は単なる一新聞社の見解というよりも、政府発表として人々に受けとめられた。つまり、記事に納得できない人々の不満の矛先は、エッテラーアートよりも、政府に向けられた。

 翌日、この新聞記事がシーア派の聖都コム(Qom 現在はゴムGhomと呼ばれている)で、神学生によって手書きで複製され人々に配られた。間もなく学生たちの間で反政府デモが計画され、8日と9日に実行された。これに対して、パフラヴィー政府は警察と軍隊によって暴力的にデモ行進を鎮圧し、9日、神学生に死者が出た。死者数は5人から300人の間と言われているが、正確な数字は不明である。

 

シーア派聖地・ゴム ~ イスラム世界聖者廟のタイルが好き!

https://orientlib.exblog.jp/5219651/

 

 その40日後、犠牲者の追悼のためのアルバイーンがコムで行われた。アルバイーンとはアラビア語で40を意味する。つまり40日忌のことである。日本の場合は49日が法要であるが、イランの場合は40日なのである。

 

シーア派イスラム教徒にとっての重要な行事「アルバイーン」

https://blog.canpan.info/meis/archive/254

 

 この40日忌の参加行列に対して治安当局が暴力的に対処し、犠牲者が出た。その犠牲者を追悼するためのアルバイーンが40日後になされ、そこでも行列の民衆と治安部隊が衝突した。こうして、40日ごとに死傷者が出るというサイクルとなった。

 コムにおけるアルバイーンは本来40日ごとの服喪の行列であるが、反政府運動のデモ行進と混じりあったものであった。これを治安部隊が暴力的に鎮圧することで、ますます行列は追悼色よりも反政府デモの色調を増していった。これがテヘラン、イスファハーン、タブリーズ、マシャド、アーバーダーンといった各都市に飛び火し、反政府デモが全国的に行われることが当たり前となってしまった。

 こうして全国的にデモが燃え上がる中で、アーバーダーンで事件が起きた。アーバーダーンという街は「アーバーダーン危機」として有名な街であり(第五十回ブログ参照)、日章丸が石油を積み込んだ街でもある。つまり巨大な製油所を有し、常に石油を巡って油も人々の心も燃えるこの街は、歴史の転換点で何かが起きるのである。そして今回も事件が起きた。

 アーバーダーンの街にはシネマ・レックスという大きな映画館があった。1978年8月18日、ここで火災が発生し、観客数百名が焼死した。扉に鍵がかかっていたことも、犠牲者が大量となった原因となった。火災が放火だったのか過失だったのか、そしてなぜ扉に鍵がかかっていたのか。その事実関係はわかっていない。

 ただ、国民の間、特に政府に対して反感を持つ人々の間で、ある仮説が有力なものとなっていった。つまり、サヴァクおよびそれを指導するCIAが映画館に火をつけ、扉に鍵をかけたのではないかという仮説である。もちろん、これは仮説であり証拠はない。真実は放火ではなく、事故かもしれないし、放火だとしても犯人はサヴァクではないかもしれない。

 真相は闇の中であるが、パフラヴィー政府としては共産主義者犯人説が国民の間で有力なものとなることを望んでいた。その仮説が有力になれば、左翼を嫌う保守層の勢いが高まり、同時に共産党イスラム社会主義者を含む野党連合の間にもひびが入る。

 1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件においては、「共産主義者の仕業だ!」というナチスの叫び声をドイツ国民が信じた。実際の放火犯はナチスだったわけだが、これを機に発令された緊急大統領令により、ナチス以外の政党は活動の自由が奪われ、議会制民主主義は死に体となった。翌月に全権委任法が制定され、ナチス独裁体制は完成することとなる。

 しかし、ドイツの放火事件から45年が経った1978年のイランでは、結果は逆になった。犯人はサヴァクか共産主義者か、それとも事故だったのかはわからないが、国民の多くが犯人は政府だと信じたのである。結局、アーバーダーンの火災は全国的に広がりつつあった反政府運動をさらに燃え上がらせることとなった。

 

2.アメリカはなぜイランの立憲君主制を許さなかったか

 さて、この時反政府運動を展開する市民連合は、何を望んでいたのだろうか。この運動が現在のイランのイスラム共和制に一本道で繋がるかと言えば、そうではない。というのも、当時のイラン国民の多数派が望んでいたことは立憲君主制であり、王制を撤廃することではなかったからだ。

 人々が批判する対象はモハンマド・パフラヴィーというシャー(王)の独裁であり、民主的に選ばれた首相がお飾りになっていたことであった。つまり、デモの多数派はシャーが立憲君主、つまり政治に口を出さない王様であることを望んでいたのであり、王制を撤廃することまでは望んでいなかった。ホメイニーとその支持者はこの時も、王制を撤廃してイスラム共和制にするべきと主張していたが、少数勢力に過ぎなかった。

 つまり、この時のイランの民意は立憲君主派が多数派であったから、宗主国であるアメリカがこれを支持していたなら、1979年のイラン革命は起こらなかったわけだ。結果、その後もイランはアメリカの植民地であり続け、現在のような一触即発のアメリカ・イラン関係は存在しなかったかもしれない。では、なぜこの時アメリカはイランの立憲君主派と手を結ばず、むしろシャーの後ろ盾となって民衆を弾圧したのか。

 アメリカは日本を占領した時、天皇大元帥の地位から引きずり下ろし、一切の軍事的・政治的な力を奪い、象徴化した。こうして日本を民主化することで、アメリカにとっての理想的な植民地につくりかえていったのだ。この時のイラン国民も、王の権力を弱め、民主的に選ばれた内閣が政治力を持つ国家を望んでいた。では、なぜアメリカは日本で王権を奪い、イランでは逆に強化したのか。

 それは日本と違い、イランに立憲君主制を許すと国民が選挙で独立派の首相を選んでしまうからである。実際にモサデク政権がそうであった(第五十一回ブログ参照)。宗主国の立場からすれば、植民地が民主化し、独裁政権という醜い体制から脱却することは大歓迎である。しかし、独立は困る。植民地の民主主義はあくまでもイミテーション民主主義であってもらわなければ困るのだ。

 日本は民主主義国家とは言っても、戦後70年以上に渡ってイミテーション民主主義を貫いている。二次大戦後、GHQ天皇から統治権を奪い、CIAの手下として自民党をつくり、これに植民地運営の全てを任せた。このシステムが非常にうまくいき、日本では選挙を何回行おうが、独立は決して争点とならず、自民党が勝ち続ける。国民も自民党というカポー政党に対して数多の不満を抱きながらも、政権を任せている。

 日本国民と自民党との関係は、冷え切った老年夫婦のようなものであるが、かといって離婚しても相手がいるわけではないので、諦めの境地で同居し続けている。こういう民主主義(民主主義もどき)なら、宗主国としても大歓迎である。しかし、イランの場合はここまでうまくいかない。

 イランに民主主義を許せば、国民は独立を志向する。イランが独立すれば、宗主国は石油を失う。なので宗主国からすると、日本に対して民主主義を推奨しても、イランに対して許すわけにいかないのだ。これは欧米人という宗主国からしても、苦渋の決断である。というのも、欧米人は保守であろうがリベラルであろうが、民主主義が大好きであり、独裁政治は大嫌いだからだ。

 欧米人は政治主張が保守であれ革新であれ、独裁制を生理的に嫌う。そのため、イランでパフラヴィー王が独裁により国民を迫害していると、自分でつくった政権なのにもかかわらず、生理的な嫌悪感を抱く。これは現在まで続いている欧米が抱える矛盾である。

 例えば、アメリカは長年にわたってサウジアラビアの王制を強力に支援し、石油と軍事の二面において、一心同体と言える体制を保持している。しかし、アメリカの議会内ではサウジの王制を激しく嫌悪する政治家が保守、リベラルを問わず多数いる。おそらく、本音ではサウジの王族を好きなアメリカ人はほとんど存在せず、サウジと太いパイプを持つブッシュ・ファミリーも、心の底ではサウジの王族を軽蔑しているのかもしれない。

 しかし植民地の経営は、欧米という国家体制の根幹である。欧米の国々は、植民地の住人である日本人からすれば独立国に見えるかもしれないが、蓋をあければ、あれらの国々は植民地に依存している国々である。かつてのアメリカ南部の綿花農園の主人が、黒人奴隷がいなければ一日たりとも生活できなかったのと同じように、宗主国は植民地からの搾取なくして生きていくことはできない。つまり、宗主国とは自分の力だけでは食べていけない依存国家なのである。

 自給自足でやっていける国家と違い、植民地を持つ国々、すなわち宗主国にとって、安定した植民地経営は国家経営の柱である。植民地から搾取し、その利益を宗主国に還流させることで、彼らはようやくその血流を保っている。それゆえ独裁制を生理的に嫌い、民主主義を好むとは言っても、植民地の全てを民主主義国家にするわけにはいかない。

 日本のように、民主化しても国民が選挙でCIA政党を自主的に選んでくれる国なら、宗主国としても問題はない。しかし、イランのように独立を志向する国民に民主主義を与えるわけにはいかない。それゆえ宗主国としては、生理的に嫌悪する独裁者をイランにおいて支援し、その体制を維持させる他はない。これは白人の感性からすれば苦渋の決断であるが、仕方ないのである。

 

3.苦渋の決断から敗北へ

 欧米人は植民地から搾取する。そもそも関係のないよその国を植民地にするのは、搾取するためである。しかし、欧米人は無秩序な国が大嫌いである。

 豚の糞が混じった土を裸足で歩く子どもたち。狂犬病をもった野良犬がうろつく市街。子どもを借金のカタに売春宿に売り払う親。義務教育の観念がなく、子どもたちを学校に行かせず農場で働かせる親たち。病気になったら病院に行くのではなく祈祷師のところへ行く人民。武力で独裁する政治家を尊敬する国民。泥水が出てくる水道。賄賂が横行する役所。弁護士の存在しない裁判。

 こういった非欧米的な国家は、欧米人からすれば後進性であり、生理的な嫌悪感を喚起させる。彼らは物質的な不衛生について「汚い」と思うと同時に、それを不衛生と思わず、平気で暮らしている人々の精神性に対しても「汚い」と思う。それゆえ、発展途上国を誰よりも搾取する人間が欧米人であり、同時にそうした国々の衛生化と秩序化、近代化に誰よりも励むのも欧米人である。途上国に対する搾取と支援は表裏一体だということだ。

 アメリカはイランの近代化に尽力し、裸足で土の上を歩く子どもたちを減らし、読み書きができず農場で働く子どもたちを学校に通わせ、近代的なビルのオフィスで働く女性の数を増やし、羊飼いの男をスーツを着て営業するビジネスマンに転職させた。これはこれで偉大な功績であったが、同時に宗主国はその国の資源を奪い取った。近代化のおかげでビジネスマンになれたイラン人は、いつのまにかアメリカの石油会社を富ませるための仕事をすることとなった。

 宗主国と植民地の間でこうした矛盾が生じても、アメリカとイランの関係が日米関係のような洗練され、高度かつ複雑につくられたものだったなら、パフラヴィー朝イランはもっと長続きしただろう。しかし、イランとアメリカの関係は、日米関係のように高度に発展したものではなく、やむを得ず二段階目を選択したものであった。

 第五十一回ブログで述べたことだが、再び列挙しておこう。宗主国にとって望ましい植民地のリーダーは、次の順位となる。

 

宗主国の言いなりになる民主主義者

宗主国の言いなりになる独裁者

③独立を志向する独裁者

④独立を志向する民主主義者

 

 欧米人からすれば独裁者は汚らわしい存在であるから、植民地経営を任せる現場監督は①が望ましい。つまり、植民地の統治システムは民主主義が望ましい。しかし、イランに民主主義を許すと、イラン国民は投票で④を選んでしまう。④は宗主国からすると最悪である。石油を失うなら植民地経営の意味がない。

 日本人は戦後の民主主義の歴史において、何度選挙をしても①を選んでくれるという、宗主国からすれば素晴らしい国民(奴隷)であるが、イラン人に選挙をさせると④を選びかねないので厄介である。そのため、アメリカとしては②の策でいくしかなかった。この苦渋の決断が後で綻びとなる。

 ②は①に比べれば、統治機構として脆い。国民は自分で選んだわけではないリーダーに屈従することになる。当然、国民の不満は②に向かう。①なら、国民の不満が政権に向かっても、総理大臣というカポーの首を挿げ替えればよい。国民は選挙によって自分のリーダーを選んでいるのだから、そのリーダーに不満があっても、選んだ国民の自業自得である。

 ①の体制には必ずこの「自業自得」がつきまとうが、②にはそれがない。不満は全て王様に向かう。王様はそれを抑圧する。すると国民はさらに不満を溜める。独裁制には「自業自得」というシステムがないため、独裁者が国民の不満の受け皿にならざるを得ない。そのため、強権政治の基盤は極めて脆く、王様の椅子は王を24時間不安にさせ、王冠は王の頭に悩みを注入する呪われた金属である。

 パフラヴィー王制は1978年のコムのデモから、一年で滅びた。つまり、アメリカは日本を占領した時と違い、イランという地では理想的な植民地経営はできなかったのである。アジャックス作戦でイランの独立を潰した時から、アメリカはイランの民主主義を否定していた。しかし、理想的な植民地経営は民主主義による経営である。イランを民主化できなかった時点で、アメリカの敗北は決まっていたのかもしれない。