戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十二回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(13)

1.燃え広がる火事を見ても危機感を抱けない

 第六十回ブログで述べた通り1978年のイランにおいては、コムのデモが発端となり、各都市で反政府デモが巻き起こった。この状況下で1978年8月18日、アーバーダーンの映画館、シネマ・レックスで火災事件が起き、観客数百名が焼死した。火災の原因は事故なのか放火なのかはわからない。放火だとしても、犯人がサヴァクなのかはわからない。しかし、反政府派の人達はサヴァクによる放火事件だと解釈した。

 こうしてイランの各都市ではデモの炎が燃え上がり、1978年9月4日にはテヘランで10万人規模のデモが行われた。8日にはこれを受け、政府はテヘランを含む全国11都市で戒厳令を敷いた。なお、この時日本の福田赳夫首相はイランを訪問し、イランのインフラ建設についてパフラヴィー王と会談をしている。

 

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福田赳夫とパフラヴィー王

 おそらくこの時の福田首相は、自分が会談している相手が4カ月後にイランからいなくなるとは思っていなかったであろう。また、パフラヴィー王もまったく思っていなかっただろう。この時はまだ日本と共同で建設工事を行うという都市計画を真剣に考えていたのである。つまり、王朝自体がなくなるとは、イラン政府も日本政府もまったく考えていなかった。 

 こうした風景は現代でも生じるものであり、歴史は繰り返す。われわれの予測力の乏しさは、いつの時代も変わらないと言える。コロナウイルスについての緊急事態宣言が発令される1カ月前には、まだオリンピックを2020年の夏に開催することについては真剣に考えられていた。現状に危機感を持ち、未来を正しく予測する人はいつの時代もいるのだが、そういう人は少数派なために、多数派から非難される。

 

森喜朗会長が激怒 組織委・高橋理事の五輪“延期発言”に

https://hochi.news/articles/20200311-OHT1T50266.html

 

 後でわかることだが、日イ首脳会談当時のパフラヴィー王は癌の治療中であった。そのため、会談中の王はどこかぼんやりした様子であったそうである。王の癌治療は、後にイランがイスラム国家化することの主たる要因の一つとなる。もちろん、この時にはまだ誰もわからない。

 こうして反政府運動は、政権が危機感を抱くスピードよりも遥かに早く全国に広がっていった。政府が重い腰をあげて対処するよりも、炎が広がるスピードの方が早かったのである。ただ、この時の反政府側勢力は一枚岩からは程遠い状態だった。

 この時、パフラヴィーVSホメイニーという構図は成り立っていない。というのも、野党側はまったく主張を異にする勢力の集合体だったからである。イスラム社会主義を主張するムジャヒディン・ハルク、非スターリン派の共産主義政党フェダイン・ハルク、ソ連から支援を受けていたトゥーデ党(イラン共産党)、モサデクの志を継ぐリベラル派の国民戦線といった勢力がおり、ホメイニー率いるイスラム共和派はその中の一つに過ぎなかった。

 また、イランの中にはペルシャ人以外の民族がおり、それがアゼルバイジャン人、クルド人、バルーチ人、アラブ人、トルクメン人、などであった。彼らはペルシャ語を話すが、それぞれが独自の言語を持つバイリンガルであった。つまり、彼らは学校や会社、自治体などではペルシャ語で会話するが、家に帰ったら自分たちの民族語を話す人達である。つまり、彼らのコミュニティは国家内国家であるから、政権が脆弱化すれば独立運動が勃発することになる。

 イランの内部がバラバラであることは、パフラヴィー政権を不安定ながらも安定的に維持させることに貢献してきた。しかし、各地でバラバラに火が上がることで、政権にとっても収拾がつかないことになった。それぞれのイデオロギーがバラバラでも、王は駄目だという見解では一致するようになっていった。こうして、どのような政治体制が望ましいかは横に置いておいて、ともかく王には反対だということでは一致していったのである。

 

2.後手後手の対応

 都市部では様々な政党や学生がデモを起こすようになり、地方では少数民族独立運動を起こすようになっていった。ただ、当初は民衆の多数派が望む政体は立憲君主制であり、王の廃位ではなかった。パフラヴィー朝では約13年間続いたホベイダ首相(Amir Abbas Hoveyda 1919-1979)の政権が典型的だが、王が任命した首相が政治を担っていた。つまり、内閣は王と米軍の言いなりであった。

 

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Amir Abbas Hoveyda & Mohammad Reza Pahlavi

 民衆はこれに対して、選挙で選ばれた内閣が政治を実行し、王は政治に口出しをしないことを望んでいた。これは宗教界でも同様で、モハンマド・シャリアトマダーリー(Sayyid Mohammad Kazem Shariatmadari 1906-1986)のような大アヤトラも立憲君主制を主張していた。シャリアトマダーリーは若い頃のホメイニーも尊敬していたイランの大宗教家である(後に両者は対立する)。

 

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Sayyid Mohammad Kazem Shariatmadari

 つまりホメイニーのように王の廃位を主張し、宗教家が国家を統治すべきだとする思想は、イランの伝統からすれば少数派に過ぎなかった。ホメイニーは1964年に国外追放処分を受けて以来、一貫して王を廃してイスラム国家を樹立することを主張し、イランの水面下では着実に支持を広げていたが、多数派の国民からすればそれは依然として過激すぎる思想であった。

 しかし、パフラヴィー王による急速な近代化によって貧富の差が拡大し、石油ショックによりインフレとなり、金融引き締めによる建設バブルの崩壊により、70年代後半には政府に対する国民の不満は爆発寸前となった。そこに1978年1月のコムのデモ弾圧事件が起き、8月にシネマ・レックス事件が起きたのである。

 この時、政権が早めに立憲君主制に移行していたら、ホメイニーによるイスラム国家は成立していなかったかもしれない。しかし、シャー(王)が国民戦線のシャープール・バクティヤール(Shapour Bakhtiar 1914-1991)を首相に任命したのは、1978年の12月のことだった。この時には焼け石に水であり、結局シャーとその家族は翌月にエジプトへ逃げることとなる。そして、シャーは二度とイランの地を踏むことはなかった。

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Shapour Bakhtiar

 バクティヤールは、モサデク内閣で労働副大臣を務めた人物で、立憲君主派であった。つまり、イランは王制を維持しつつも欧米から独立し、王は政治に口を出さないという政治的立場であった。当然、モサデク政権をCIAとともに潰したシャーとは長年対立してきた。また貴族である彼の父は、先代王の時代に政府と対立し、処刑されている。

 シャーとしても、通常ならこのような人物を首相に任命することは絶対にない。しかし、このままでは王制が倒れるという危機感から、仕方なく反政府側の大物であるバクティヤールを首相に任命したのである。王は彼を首相に任命することで、燃え盛る反政府運動を鎮静化しようと試みた。しかし、雪崩となった運動はこれでは終わらなかった。

 

3.過激思想は少数派から多数派へ転じる

 シャーの下した苦渋の決断は、時期としてあまりにも遅かった。反政府運動の火が小さかった頃なら、モサデク派の政治家が首相に就任することを民衆も歓迎しただろう。しかし、度重なるデモとその鎮圧が繰り返され、死傷者が多数出た後では、そのような対処では民衆の不満は解消されなかった。少数派に過ぎなかったホメイニーの主張は、戦闘の拡大とともに多数派へと移行しつつあったのである。

 最初は大衆に疎まれていた過激思想は、いつのまにか過激でなくなる。違和感が薄れていくのだ。そしていつのまにか多数派となっている。これは大衆心理のパターンと言える。例えばナチスの主張は最初、ドイツ国民の99.9%にとって受け入れがたい過激思想であった。現に1928年の選挙において、ナチスは12議席しか獲得していない。当時のドイツの国会議席は全399議席であるから、0.03%にしか過ぎない。しかし、それから5年後の1933年の選挙では288議席を獲得している。

 

1932年7月、ドイツの総選挙で、ヒトラーの率いるナチ党が国会議席の第一党となった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-076.html

 

 イスラム共和国を認めるということは、王制を捨てると同時に民主主義も捨てるということである。それゆえ王も捨てずに民主主義を成立させるという立憲君主制は、イラン国民の多数派からしても、最も現実的で穏当な政治体制に見えた。だから一般大衆のみならず、宗教界の多数派も立憲君主制に賛成であった。王がイスラムの道から踏み外さないように助言し、王の暴挙を諫めることがイスラム法学者の役割だと伝統的に考えられてきたからだ。

 しかし穏当な考えが大衆に広く支持されるのは平時に限られる。穏当な考えは平穏な時代の常識に過ぎず、混乱の時代には過激な思想が魅力的なものとなる。寒い時には温かいスープが魅力的になり、暑い時には冷たい食べ物が魅力的になる。平時には民主主義が当たり前となり、過激思想は大衆の気を引かない。しかし、混乱時には逆になる。

 人心が平穏の時、攻撃的な政治家は疎まれる。しかし、人心が乱れる時、攻撃的な政治家は頼もしく映り、平和を唱える政治家は弱々しい印象を与える。ホメイニーの主張が変化したわけではない。彼は1964年に国外追放されて以来、同じことを繰り返し言ってきた。変わったのはそれを聞く大衆の方だ。

 平穏な時代、それはごく一部の過激派のみの支持を得た。大衆はホメイニーの主張を過激なものとして聞いた。いくらなんでも王を廃位させるというのは過激ではないか。もちろん、王が出しゃばるのは良くないので、王は政治に口出しせず、国民に選ばれた首相が政治を担うべきではないか。イランはやはり立憲君主制がいいのではないか。

 しかし、時代が変わればそのような主張は生ぬいものに聞こえてくる。血で血を洗う闘争の中に身を置くうちに、生ぬるいものでは満足しなくなる。戦乱の世は過激な思想を求める。宗教家は宗教家の本分をわきまえ、あまり政治に深入りするべきではないという穏当な解釈は、戦乱の国民心理を満足させるスパイスに欠ける。

 過激な時代に穏健な賢人は求められない。デモ隊に発砲する王に対して、宗教家が諫めようが何をしようが無駄ではないか。それなら賢者たる宗教家が直接国を治める方がよかろう。神の御意志を最も良く知る者が国家の統治の責任を負うべきである。政教分離などという生ぬるいことを言っている場合ではない。神国に王様も民主主義も不要だ。イスラム法学者の統治こそが神の道だ。

 イラン国民が通常の精神状態なら、そのようなホメイニーの主張は過激思想として受け止めらて終わりであろう。しかし、1978年1月のコムのデモからはじまり、イランはある種の内戦状態に陥った。死人の数がテレビや新聞で毎日報道される。知り合いがデモに行って機動隊に殺された。親戚が死んだ。そうした情報のシャワーをあびているうちに、国民の心理状態は戦争状態となる。

 長年待ち望んだリベラルなバクティヤール政権が誕生したにもかかわらず、この政権はあっというまに終わった。他方、長年過激思想に過ぎなかったホメイニーの主張するイスラム国家は、あっというまに成立した。1979年3月31日、イスラム共和国樹立のための国民投票が行われ、賛成票が98%となる。

 

イランイスラム共和国の日に寄せて

https://parstoday.com/ja/radio/iran-i5101

 

 98%という数字は、イランの大本営メディアが言う数字なので本当かどうかはわからない。しかし、国民の多数派が賛成したことについては本当であろう。この時、ホメイニーの過激思想はイラン国民にとって過激とは思われなくなっており、むしろ正しいものだと思われていたのだ。

 翌日の1979年4月1日、イラン・イスラム共和国の樹立が宣言される。現在まで続くイランの誕生である。