戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十三回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(14)

1.人権弾圧は石油によって容認される

 1978年、コムのデモが発端となり、イランでは各都市で反政府運動が行われるようになった。首都テヘランでは、10万人規模のデモが行われるようになっていた。地方では各民族による自治権の拡大が叫ばれ、労働者はストライキをするようになっていた。その中でもシャー(王)にとって最も痛かったものが、石油労働者のストライキであった。

 ここでも石油がキーポイントとなった。この国の歴史の歯車は石油を主軸として動く。安定した石油の供給は、パフラヴィー朝イランの屋台骨であった。王による人権弾圧は、石油のおかげで欧米諸国から容認されていた。それはアメリカの英雄ケネディ(John Fitzgerald Kennedy 1917-1963)も同様だった。

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Mohammad Pahlavi, John F. Kennedy and Robert McNamara

 人権弾圧を激しく嫌うケネディは、一時、改革派の首相を就任させるようにパフラヴィー王に強く要求した。そのためパフラヴィー王は嫌々ながらも、1961年、改革派のアリー・アミーニー(Ali Amini  1905-1992)を首相に指名した。アミーニーはモサデク政権で経済大臣を務めた人物であり、パフラヴィー王にとっては敵とも言えたが、植民地の王は宗主国の若き大統領に逆らうわけにはいかなかった。

 

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Ali Amini

 ケネディの後ろ盾を得たアミーニーは、就任早々農地改革を行い、地主から耕作地を取り上げ、小作人に与えようと試みた。しかし王や地主層はこれに反発し、サヴァクを用いて阻止しようとした。こうしてアミーニー派と王派が対立したが、街では学生たちが主体となって反王運動が盛んになった。

 運動が盛り上がるとともに、イランから欧米への安定した石油供給も危うくなった。これによりケネディ政権には石油関係者から圧力が加わることになった。結局ケネディ政権は、アミーニー政権への支援をストップすることとなった。ケネディという後ろ盾を失ったアミーニーは、1962年7月に首相を辞任し、改革派内閣はあっけなく敗れた。

 植民地において改革派内閣が線香花火のように散った翌年、宗主国で事件が起きた。1963年11月22日、ダラスのパレード中にケネディ大統領が凶弾に倒れたのだ。これにより宗主国の改革派政権もあっけなく終了し、副大統領のリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson 1908-1973)が大統領に昇格した。ジョンソンはフリーメイソンだった(1937年10月30日入会)。大統領がフリーメイソンでない場合、副大統領にフリーメイソンの人物があてがわれているのである(第四回ブログ参照)。

 国際資本家たちにとって、平和と人権を唱えるケネディは厄介な大統領だった。大統領が国民の人権や植民地の人権を重視したり、貧富の差を是正するためにFRBの金融政策に反対したり、平和を求めて軍産複合体と対立するようなら、上流階層の中で混乱が起こる。その混乱は、国民のあずかり知らないところで抗争へと発展する。

 結局、波風を立てない国家運営を望むなら、宗主国であろうが植民地であろうが、国家元首は言いなりになる人物が望ましい。空気を読んで、既得権益集団の利益に忖度する人物なら、上流階級の生活は安定する。その分、中産階級は痩せ細り、貧困層が増大し、一般国民の人権は著しく破壊されるが、上流階級にとっては安定した搾取ができればいいので関係ない。

 イランの場合、国家元首の仕事は石油の横流しである。石油を欧米のボスたちに横流ししている限り、その地位は安泰である。それゆえ、石油という巨大利権の中心にいたパフラヴィー王は国民の人権を弾圧しても容認された。

 民主主義を弾圧し、デモ隊に発砲し、死傷者が出ても、欧米に石油が供給されているならよかった。サヴァクが運動家を拷問し、虐殺しても、石油があればよかった。しかし石油の流れがストップするとなると、奴隷隊長の管理能力が疑問視されることになる。

 

2.混乱を巻き起こす大統領は短命である

 イランの話から逸れるが、ここでケネディの話をしておこう。ケネディは在任中にCIA長官のアレン・ダレスを解任している。アレン・ダレスは国務長官を務めたジョン・ダレスの弟であり、キッシンジャーの師匠である。モサデク政権を潰したアジャックス作戦の責任者でもあった(第五十一回ブログ参照)。

 

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J.F.Kennedy and Allen Dulles

 そのためこの解任はケネディにとって危険なものであった。もちろん、法的には大統領はCIA長官を解任する権限を持っている。その決定にロックフェラーの了承もCFR(Council on Foreign Relations)の認可も必要ない。

 しかし、ジョンとアレンのダレス兄弟はもともと国政にかかわる前は優秀な弁護士であり、彼らが運営する法律事務所はロックフェラー財団の利益のために尽力してきた。国政に入ってからは、モサデク政権から石油を奪い、もともとイギリスの独占だったイランの石油の4割をアメリカにもたらした。また、その後のイランの傀儡政権はアメリカから大量の武器を購入した。つまり、ダレス兄弟はアメリカ軍需村および石油村からすれば偉大な功労者であった。

 CIAがなぜ発展途上国の独立派闘士を潰すのかと言えば、搾取のためである。途上国においてCIAの言いなりになる元首を誕生させ、その国の資源をアメリカに横流しさせ、武器をふんだんに買わせることがCIAの仕事である。つまり、CIAはそれによって潤う企業に大きな貸しをつくり、CIAはそれによって潤っている。だからCIAに喧嘩をうるということは、その背後の企業群にも喧嘩をうることになる。

 もちろん、ケネディもバカではない。反発をかうのはわかってやったことだろう。J.F.ケネディは王族が存在しないアメリカにおいてロイヤル・ファミリーと呼ばれた名門ケネディ家の当主であり、ロックフェラー家とのつながりもあった。単なる正義のヒーローではなく、裏社会の抗争においても負けない自信があったのだろう。

 実際ケネディは、状況がまずくなったらあっさり手の平を返す狡猾さをも持ちあわせていた。イランのアミーニー政権をあっさり裏切ったところにも、その点がよくあらわれている。だからケネディ暗殺事件を、正義のヒーローが悪の帝国に負けたのだと解釈してしまうと、本質を見失うこととなる。

 ではケネディが負けた原因は何だろう。その答えは歴史の闇の中で謎となっているが、単純に推測すれば、ケネディ継続とケネディ排除の両方が比較され、継続の方が儲からないと計算されたからだろう。資本主義社会における合言葉は「いくら儲かるか」である(第五十二回ブログ参照)。ケネディが平和外交をして、大衆の人権を保護する。貧富の差を是正する。それは確かによいことである。しかし、投資家たちはこう聞きたい。「果たして、それはいくら儲かるのか。」

 貧富の差が是正され、自殺率が減り、国民の人権が守られることで、投資家たちはいくら儲かるのか。もちろん、投資家たちにしても戦争で人がたくさん死ぬことは嬉しいことではない。彼らは殺人鬼ではない。彼らとしても平和で人権が重視される世の中は結構なことだと思う。しかし、貧乏人が幸せになることが投資家の利益にどうつながるのか、その計算式は曖昧である。大事なことは計算式の明確性であり、その結果として人がたくさん死のうが、それは投資家たちにとって関心事ではない。

 ケネディの後任のジョンソンは、その収支決算書が明確だった。ベトナム戦争を拡大し、多くのアメリカ人兵士とベトナム国民が死んだが、軍産複合体は潤った。誰が何人死ぬかは投資家にとって問題ではない。いくら投資すればリターンがいくらなのかが問題なのだ。

 なお、ジョンソンの元顧問弁護士のバー・マクレランは、自著の中でジョンソンがケネディ暗殺事件の真犯人だと述べているが、証拠はない。

 

ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力 文藝春秋

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163676807

 

 また、誰か一人を犯人に仕立て上げても意味がないだろう。大統領暗殺という一大プロジェクトを一人で達成することは不可能であるから、犯人は特定の誰かではなく、大きな集団であると考える方が合理的だ。

 それはともかく、ジョンソンはケネディのような名門出身者ではなかったので、支配者層に対して従順であった。そのため彼は大統領に昇格した後、アレン・ダレスをウォーレン委員会と賢人会議のメンバーに入れている。ジョンソンの後に大統領になったニクソンは、国家安全保障会議のメンバーにアレン・ダレスを入れている。そういう大統領なら、老後の生活も安泰である。

 なお、ウォーレン委員会について知らない人のために、簡単に説明しておこう。ウォーレン委員会(Warren Commission)とは、1963年11月22日に起きたケネディ暗殺事件を検証するための調査委員会である。ここでの調査により、ケネディ暗殺事件はオズワルドの単独犯行という結論になった。

 もちろん、ウォーレン委員会の結論を素直に信じる人はほとんどいないだろう。現在、世界のほとんどの人がケネディを殺したのはCIAだと確信している。ケネディに恨みを持つアレン・ダレスがウォーレン委員会のメンバーに入っているわけだから、犯人が犯人を捜すための委員をやっているようなものだ。

 ともかくこの件が教訓になったのであろう。ケネディ以後の大統領はイランという巨大利権に対して何も言わなくなった。自称人権派ジミー・カーターでさえ、大統領就任後、イランに何もしなかった。植民地支配は搾取の専門家集団であるCIAに任せておけばいいのだから、大統領は何もしなくてよいということだろう。こうして、CIAが植民地で傍若無人に振る舞おうが大統領は口出ししないという流れができてしまった。

 

3.二度と帰らぬ旅

 アジャックス作戦の成功以後、パフラヴィー王はアメリカの全面支援を受けてきた。軍隊はアメリカ式に整えられ、武器も部品もアメリカ製であった。司法、立法、行政もアメリカ式となり、官公庁の各部門にアメリカ人の指導官が置かれるようになった。逆らう国民はCIAを真似してつくったサヴァクによって弾圧し、やり方はCIAの職員が教えた。

 アメリカ(CIA)という教師から教育を受け、パフラヴィー王とその命を受けた内閣はイランを支配し、欧米に石油を安定供給してきた。しかし、それだけアメリカ(CIA)が教育してきたのに、パフラヴィー政府は国民をうまくコントロールできず、1978年には国民の不満が爆発し、デモが頻発している。そのため、アメリカやイランの富裕層たちは、パフラヴィー王の経営能力を疑問視するようになった。「才能ないのではないか」という疑問である。

 忠犬は役に立っているうちは暴れても許される。しかし役に立たないならば捨てられる。これは植民地の国家元首の運命である。いくら安倍晋三が日本の名門の出身で、日本という植民地においてはトップであっても、植民地という井の中の上級国民に過ぎない。

 彼がこれまでいくら宗主国に貢献しようとも、コロナウイルスの混乱の中で管理能力を疑われれば、あっさり切られるだろう。植民地のボスがどれくらいのものなのかは、パフラヴィー王の人生が証明している。日本の首相という地位も、その程度のものでしかない。

 結局、イランの支配層のみならず、宗主国であるアメリカにおいても、シャーはいったん退位する方がいいのではないかという話になった。こうしてモハンマド・パフラヴィーは、長年敵対してきたシャープール・バクティヤールにいったんイランを預け、事態の鎮静化を任せることとなった。

 1979年1月16日、モハンマド・パフラヴィーがイランと別れる日が来た。一時的な休暇が名目であったが、実質的には皆に見放された結果の追放である。大統領であっても殺され、王様であっても捨てられる。それが国家元首という雇われ社長の悲哀である。孤独になった王は、シャー専用機のボーイング727を自ら操縦し、一番目の妻(1948年に離婚)の出身地であるエジプトに、皇后(三番目の妻)や側近とともに亡命した。

 

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亡命するシャー(王)の靴にキスをする衛兵(1979年1月16日)

 エジプトには「兄弟」と呼び合うほどの間柄であったサダト大統領がいた。エジプトのナセルはCIAの援助をもとにエジプトの大統領になった男であったが(第五十六回ブログ参照)、ナセルの下で副大統領をしていたのがサダトであった。ナセルが52歳で急死した後、サダトが大統領に昇格した。

 パフラヴィーとサダトは、お互いCIAの指導下で発展途上国の近代化に尽力してきた仲であったから、気心が知れていたのであろう。つまり二人は、植民地の雇われ社長という悲哀を共有できる仲である。

 

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Mohammad Pahlavi & Anwar Sadat

 かつてのイラン王は、心の友の庇護の下、しばらくエジプトに滞在したが、その後モロッコバハマ、メキシコと転々とした。一カ所にとどまっていると危険であるし、長く居候をして、その国の元首に迷惑をかけるわけにもいかなかったのであろう。

 王がイランから逃亡する前に、多くの富裕層は欧米へ逃げていた。その主たる要因として、パフラヴィー王が中心になって進めたイランの近代化があった。イラン人はパフラヴィー王制の下で、急速に欧米化した。つまりイランの富裕層はドメスティックな金持ちであることから脱却し、子息は欧米の学校へ進学するようになっていた。彼らは不動産や銀行預金などの資産も欧米に持つようになった。皮肉なことにイランの欧米化は、イランの富裕層が簡単に祖国を捨てて欧米に逃げることができるという状態をつくっていた。

 さて、各地を転々としていたパフラヴィー王だが、癌治療のために1979年10月22日にアメリカに入った。既に1978年の秋に福田赳夫と首脳会談をしていた時から体調はよくなかった(第六十二回ブログ参照)。当時も現在も癌治療の最前線はアメリカなのだから、パフラヴィー王のような金持ちが癌治療のためにアメリカに入ることは自然な成り行きだった。

 しかし、これはイラン国民の怒りをかうことになった。このことが1979年11月4日のアメリカ大使館人質事件へと繋がる。もちろん、王のアメリカ入国だけがこの事件の原因ではないが、火種の一つになったことは確かである。

 アメリカでパフラヴィーを受け入れたのがロックフェラーであったが、アメリカとイランの関係は大使館占拠事件の後、悪化の一途を辿っていた。怒りのイラン国民は、元王の身柄引き渡しをアメリカに要求した。アメリカはそれを拒否していたが、モハンマドにとってそうした険悪な空気の中でアメリカに住み続けることは苦痛であった。

 結局、アメリカに住みづらくなった元王は、12月5日パナマへ向った。その後、「兄弟」の間柄であるエジプトのサダト大統領を再び頼った。翌年7月27日、かつてイラン王だった男は、エジプトのカイロで亡くなった。享年60歳であった。

 アメリカの利益のために生き、最後は皆に捨てられた王は、母国であるイランを失い、異国の地を転々とする居候生活の果てに死んだのである。なお、彼が「兄弟」と呼んだ心の友、サダトも翌年暗殺により亡くなった。62歳であった。

 

世界を動かしたロックフェラーの「陰謀の真実」…戦争や軍事クーデターで巨万の利益

https://biz-journal.jp/2017/05/post_19095.html