戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十六回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(16)

1.激化した民主化運動は予想と違った結果を招く

 イラン革命の大火は、1978年1月7日の新聞記事から始まったと見ていいだろう。この時の火はまだ小さなものに過ぎなかった。しかし、エッテラーアート(Ettela'at)の記事が発端となったコム(Qom 現在はゴムGhom)のデモにおいて、神学生に死傷者が出た。その後、石油の街アーバーダーンにおいてシネマ・レックスの火災事件が起きる(第六十回ブログ参照)。

 こうした炎の連続が、大火へと発展した。レックス火災事件から1カ月経たないうちに、テヘランでは10万人規模の反政府デモが起きるようになり、9月8日には戒厳令が布かれることとなった。

f:id:isoladoman:20200606194049j:plain

Demonstration of 8 September 1978. The placard reads, We want an Islamic government led by Imam Khomeini.

 新聞記事から約一年後の1979年1月16日、パフラヴィー王はイランを離れ、二度と祖国に戻らなかった。そして2月1日、王と入れ替わるようにホメイニーがイランの地を踏んだ。15年ぶりの帰国であった。政府との戦いの中でナショナリズムに燃えていた国民は、これを熱狂的に迎え入れた。

 こうして少数派に過ぎなかったホメイニー派が政権を取るに至った。これは一年前に起きた神学生死傷事件の時には国民のほとんどが予想していなかった結果であった。ただ、デモの熱が上がるに応じて対立が深まり、民衆と政府との間の溝が取り返しのつかないものに発展するという過程は、現在の我々も見ている風景である。

 例えば香港のデモがそうである。最初、香港のデモの焦点は犯罪容疑者の中国への引き渡しあった。デモの激化によってこの条例改正案は凍結された。しかし、香港の若者たちはその結果だけでは矛を収めることはできなかった。その後もデモの熱は増し、現在も終わりの見えないものとして民主化運動は継続中である。デモ側の多数派が望むことは一国二制度の徹底であり、独立までは求めていないが、独立を訴える勢力も少数派として存在する。

 香港の民主化運動には、NED(National Endowment for Democracy)というNGOがバックについていることは国際関係に詳しい人なら誰もが知っている事実であろう。NEDのバックにはCIAがついている。

 

香港デモの陰でうごめく「無責任な外国諜報機関」の存在に注意せよ

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66723

 

 ただ、香港の民主化運動を単純に「アメリカの自由主義VS中国の共産主義」という対立の構図だと見てしまうと誤る可能性があるようだ。というのも、デモの過激化は中国共産党が仕組んでいるという説もあるからだ。

 この説によれば、デモ内の独立派グループ、過激派グループを支援しているのは中国共産党である。彼らの目的は対立の深化による香港の形骸化である。中国共産党の手引きにより、デモ隊と機動隊との対立を激化させ、香港の都市機能を麻痺させる。これにより、観光や金融の面で国際的に高い地位にあった香港を骨抜きにする。

 2018年度の香港の一人頭名目GDPは、世界17位であった。なお、日本は26位である。

 

世界の1人当たり名目GDP 国別ランキング・推移(IMF

https://www.globalnote.jp/post-1339.html

 

 日本は全体GDPで言えば世界3位(1位アメリカ、2位中国)であるが、GDPを全体でとらえれば人口の多い国が高いに決まっている。そのため、その国の豊かさをはかる指標としては「一人当たりGDP」を見るしかないのだが、それによれば一人当たりの経済力は日本より香港の方が遥かに上である。ただ、これからは変わっていくだろう。香港の経済力は下落の一途を辿っているからだ。

 香港が形骸化すれば、隣接する都市である深圳、肇慶、仏山、江門、中山、珠海、広州、東莞などに「人・物・金」が流出する。それまで香港に集中していた富が、中国の新興都市、特に深圳に流れるのだ。そのようにして深圳の国際的地位を上げ、香港に代わる新たな国際金融都市の地位に深圳を据えようという計画を中国共産党は持っているのかもしれない。

 

中国政府に「脱香港」の動き? 深圳を「香港以上」に育てる長期計画

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/08/post-12842.php

 

 この説が正しいかどうかはともかく、香港では国家安全法の適用が決まって以来、人材の流出も進んでいるようである。香港に絶望した優秀な人材が海外に流出しているようなのだ。もし中国政府が香港の骨抜きを望んでいるなら、ここまでの流れは中国政府の思惑通りに進んでいると言ってもいいだろう。今後骨抜きが更に進めば、深圳の地位は高まり、香港は中国に支配される単なる小さな地方都市へと下落するだろう。

 話をイランに戻すと、最初イランにおけるデモの要求は王の廃位ではなく、立憲民主制の確立であった。つまり、パフラヴィー王がイラン憲法を遵守し、国民が選んだ首相に政治的権限を持たせることを民衆は求めた。こうした民主化運動の中で、ホメイニー派の言う王の廃位とイスラム国家建設は少数派の夢にしか過ぎなかった。

 しかし運動が激化する中でナショナリズムが高揚し、民衆が新たなイランの夢を託すべきリーダーはホメイニーだということになった。こうして、いつのまにか立憲民主制とは異なる宗教国家の成立となった。少数派に過ぎなかったホメイニーがいつのまにか多数派となり、結果的にホメイニーの夢が叶ったわけだ。

 民主化運動は激化すると、最終的に民主主義とはまったく違った結果を招く場合がある。天安門事件もそうであるし、イランの民主化運動もそうである。香港の民主化運動の結果も、今のままだとそうなる可能性が高い。民主主義は運動の熱が高まれば自動的に達成されるというものではない。むしろ沸騰した運動は、まったく違った結果を招くというのが歴史の教訓である。もしかしたら、熱くなって我を忘れた運動体は、冷静で狡猾な誰かに利用されてしまうのかもしれない。

 

2.イラン革命防衛隊の誕生

 ホメイニーの唱えるイスラム国家建設運動は、民主化運動ではなかったので、反王運動の中でも少数派に過ぎなかった。彼は支持者が少なかろうが多くなろうが、その主張は一貫して変えなかった。ただ、ホメイニーが変わらないのに反比例して、大衆の方が運動の激化とともに変わっていった。こうしてホメイニーは一部の間で人気のあるカリスマから、国民的カリスマへと変わっていった。

 このカリスマを中心として運動を激化させ、ついにイラン国民は憎きパフラヴィー王をイランから追い出した。国民は熱狂したが、いざカリスマのホメイニーが国家のトップに君臨すると、そこには夢のイランからは程遠い情景があった。蓋をあけてみれば野党間のバラバラの主張が表面化し、激しい対立となったのである。

 かつて王政府と戦うために一致団結した野党勢力は、ホメイニー派が政権を取った後はほとんどが敵となった。結局のところ革命政府はイスラムシーア派、その中でもホメイニー派の宗教指導者をトップとする政権であるから、共産主義社会主義は不要である。そのためトゥーデ党(イラン共産党)やムジャヒディンハルク、フェダインハルクといった政党は敵となった。

 また、地方で自治権を主張していたクルド人などの少数民族も敵となった。少数民族とは言っても、クルド人はイランの人口の7%を占める大きな勢力である。彼らに自治を認めるとその波及効果は大きく、バルーチ人などのイスラムスンニ派勢力も自治を強く要求してくるだろう。そのためホメイニー政権としてはクルド人自治は認めるわけにはいかなかった。

 ホメイニーは15年ぶりにイランに帰国してからバクティヤール政権と武力衝突して政権を掌握したが、政権を取った後も各政党と武力衝突することとなった。こうした中で誕生した組織がイラン命防衛隊である。

 

f:id:isoladoman:20200606194544j:plain

Islamic Revolutionary Guard Corps, 1983

 日本の報道では革命防衛隊がイランの精鋭部隊という表現がなされることが多い。しかしそのような表現だと誤解を招く。まるでイラン国軍の内部に革命防衛隊という精鋭部隊が存在するかのようである。

 

米軍、イラン革命防衛隊幹部を空爆で殺害 高まる緊張感

https://www.asahi.com/articles/ASN133RKTN13UHBI00H.html

 

 革命防衛隊はイラン国軍の中にある精鋭部隊ではなく、国軍とは別の組織である。あくまでもホメイニー政権のための軍隊であり、ホメイニーを頂点とする政党を守るための軍隊である。ホメイニーは国軍を信用しなかったので、国軍とは別の軍隊を持つ必要があった。

 ホメイニーが国軍を信用しなかった理由は歴史にある。モサデク政権を潰したのは、王やCIAと結託したイラン国軍であった。またバクティヤール政権との抗争時には国軍が二分し、バクティヤール派とホメイニー派で分裂した。つまり、ホメイニーが政権を握っても軍が全面的にホメイニーの味方をする保証はない。そもそもイラン国軍はパフラヴィー王および米軍によって組織された軍隊である。いつ裏切るかわからない。

 中国の人民解放軍が中国国民の味方ではなく、あくまでも中国共産党を守るための軍隊であるのと同じように、イラン革命防衛隊はホメイニー派の政治グループ(宗教グループ)を守るための軍隊であって、イラン国民のための軍隊ではない。それは、仮に国軍が国民と結託してホメイニー政権を潰そうとしたら、ホメイニー政権は革命防衛隊とともに徹底抗戦するという意味である。

 第四十四回ブログで取り上げたソレイマニ将軍は、革命防衛隊に属する軍人である。彼は国軍の人間ではない。つまり、政権を守るためなら同じイラン国民に対しても躊躇なく銃口を向ける人間である。これは「軍隊」と聞くと国軍しか頭に思い浮かばない日本人からすれば、理解し難いものである。しかし、世界ではそういう国も多い。政権の下でシビリアンコントロールを期待しても、軍が政権の言うことをきくとは限らない。だから、政党が軍隊を持っている国はかなり多いのだ。

 政党が保有している軍隊は、そもそも国内で他の勢力と戦い、政権を奪うため、または奪った政権を保持するための軍隊である。だから、基本的にイラン革命防衛隊は米軍などの外国軍と戦うための軍隊ではない。内戦においては躊躇なく自国民を殺害し、反政府デモにおいては市民に対して発砲するのがその仕事である。そして場合によっては国軍と戦うこともその仕事に含まれる。

 革命防衛隊の最初の仕事は、自治を要求してきたクルド人武装勢力との戦いであった。クルド人クルディスタン民主党(KDP)という政党を持ち、そして政党であるから当然に武装していた。同じイラン国民同士であるが、互いに武力を持ち、政治的要求をし合いながら、最終的には武力衝突も辞さない。国会で話し合いがつかない場合は武力衝突に発展し得る。政党が武装している国では、同国人同士で戦争に発展する可能性が常に存在するのだ。

 

3.リベラリスト政権からイスラム共和制

 国民の熱狂をもとに成立したとは言っても、成立当初のホメイニー政権は脆弱であった。外にはアメリカという敵が存在し、内には他の政党やクルド人などの敵が存在した。そのためホメイニーは最初、リベラル派とともに政権運営を試みた。首相にメフディー・バザルガン(Mehdī Bāzargān 1907-1995)を指名したのはそのためである。モサデク派のバクティヤールと対立し、内戦の後にバクティヤールを権力の砦から追放したホメイニーであったが、自身が指名したバザルガン首相もモサデク派のリベラリストであった。

 バザルガンはモサデク政権時に国営イラン石油会社の社長を務めた人物であった。モサデクが首相に就任した時のイランにおいては、アングロ・イラニアン社(イギリス)が石油を牛耳っていたが、モサデク内閣がイギリス人を追い出し、石油を国有化したのである。その国有化した石油会社の舵取りをモサデクから任された人物がバザルガンであり、要はイランの石油の象徴のような人物であった。彼はフランスに留学し、帰国後はテヘラン大学工学部長を務めた優秀な学者でもあった。

f:id:isoladoman:20200606194807j:plain

Mehdi Bazargan

 モサデク政権崩壊後、バザルガンは民主化運動の指導者となり、立憲民主制を主張した。彼は王の廃位までは求めなかったので、王制は肯定した。しかし、王の憲法遵守と内閣の民主化を要求したため、パフラヴィー政権下で何度か投獄された。このように、彼はイランの石油と民主主義の象徴のような人物であったため、ホメイニーもその人気を政権に取り込みたいという思惑があった。

 政権を奪取してもホメイニーのまわりには敵だらけだったため、その状況で旧モサデク派のリベラリストたちと対立したら、さすがのカリスマも政権運営が不可能だと判断したのだろう。また、民衆がデモの当初に望んだものは宗教国家ではなく立憲民主主義であるから、ホメイニーがこの不安定な時期にモサデク派のリベラリストを首相に据えることは国民の期待から考えても当然であった。

 もしかしたら、この時点でのイラン民衆の望みは、新たな立憲民主制だったのかもしれない。つまり、政権運営はモサデク派のリベラリストが行い、ホメイニーは王なきイランの新たな象徴的立場にとどまると。しかし、ホメイニーはそんなことはまったく考えていなかった。彼はリベラリストの首相に政権運営を任せ、自身は象徴的立場で政治には口を出さないという人物ではなかった。

 最初、ホメイニーは柔軟な姿勢をとるように見せた。しかし、それは最初だけだった。彼は憲法の全面改正を望んでいた。イランには立憲民主制の憲法があった。ただ、パフラヴィー王は憲法を守らず、国民が選ぶ首相ではなく、王が選ぶ首相に国家の舵取りを任せた。内閣は王やアメリカの顔色ばかりをうかがい、国民の方を向かない。これが国民の不満であり、大衆デモ激化の原因であった。

 つまり、バザルガンなどのリベラル派が望んだことは既存の憲法の遵守であり、死に体となった憲法の復活であった。当然、バザルガンもホメイニーなどの宗教指導者に対してそれを主張したが、ホメイニーを頂点とした宗教指導者たちは既存の憲法にまったく興味を持っていなかった。むしろ、完全に作り変えることを望んだ。それはイスラム指導者(イスラム多数派ではなくホメイニー派のイスラム教指導者)が国民を導くという内容の憲法であり、それは王制でもなければ立憲民主制でもなかった。

 バザルガンは敬虔なイスラム教徒であったが、同時に民主主義者であった。そのため彼は新しい憲法の内容に反対であったし、ホメイニーたちが考えた「イラン・イスラム共和国」という新しい国名にも反対だった。しかし、愛国的運動と熱気の高まりの中で、バザルガンの主張は政府内においても世論においても多数派の支持を得られなかった。

 こうした中で新しい憲法が1979年10月の国民投票で承認された。その後大事件が起きる。熱狂的な若者たちがテヘランアメリカ大使館になだれ込み、アメリカ人の大使館員を人質にとったのだ。1979年11月4日のアメリカ大使館人質事件である。バザルガンは人質の即時解放を主張したが、ホメイニーたちイスラム指導者はむしろ大使館になだれ込んだ熱狂的な若者たちを支持し、人質を解放しなかった。

 

f:id:isoladoman:20200606194859j:plain

Iranian students crowd the U.S. Embassy in Tehran (November 4 1979)

 これに対して世界の民主主義国家は反発し、バザルガンはこれをイランの民主主義の死と見た。何もできないという無力感の中で、バザルガン内閣は総辞職した。結果的に政権内からリベラリストを放逐できたホメイニーは、この後自分の仲間内のみで政権運営ができることとなった。イランはホメイニーの思惑通りに進んで行ったのである。