戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十七回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(17)

1.アメリカがイランを嫌う理由

 アメリカとイランは対立関係にある。この対立は最近はじまったものではなく、様々な要因が絡んでいる。ただ対立の歴史は平板なものではなく起伏があり、そこには象徴的な事件が存在する。対立を最も象徴する事件が、1979年11月4日に起きたアメリカ大使館人質事件である。この事件は現在の両国間の対立感情にも繋がっている。40年以上経っても尾を引いているのだ。

 第五十一回ブログで述べたとおり、欧米人は民主主義でない国は大嫌いである。これは保守もリベラルも関係なくそうである。普段は仲の悪い保守とリベラルであるが、独裁国家を嫌い、民主主義を賞賛するという点では一致団結できる。例えば中国共産党を嫌い、香港のデモを応援するという点では、彼らは一致団結できるのだ。

 ということは、イスラム革命後のイランは欧米人に嫌われるための第一要件をクリアーしているということである。ホメイニー革命後のイランは民主主義国家ではない。しかも、イスラム教国家である。欧米でイスラム教が好きだという人は極めて少数派である。イスラム教を嫌う欧米人を見つけるのは簡単だろう。しかし逆は難しい。欧米人のイスラム嫌いの性質をIslamophobiaと言う。

 

アメリカのイスラムフォビアイスラム嫌悪)には6つの「法則」がある

https://www.huffingtonpost.jp/2017/01/27/islamophobia_n_14447732.html

 

 イランはパフラヴィー朝まではイミテーションとは言え、民主主義国家であった。しかし1979年のイラン革命以後は民主主義国家ではない。さらにイスラム教国家である。これは嫌われポイントが二つ重なっているということである。

 アメリカ国民からすれば、ホメイニーは中東の狂信的な独裁者に見える。イスラム教は攻撃的なイメージがあり、爆弾テロなどの物騒なものを連想させる。ヘジャブをつけた女性は男尊女卑の象徴のように見える。

 こうした「嫌い」ポイントが重なる中、1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起きた。これによりイランは狂信的なイスラム国家であり、アメリカの敵だというイメージが、アメリカ人の中で固まった。「嫌い」から「敵」へと昇華したのである。

 ただ、大使館に抗議の人民が大挙して集まるという事態だけを見れば、どこの国でも起こることであり、イランに限られることではない。東京の韓国大使館前に日本人のデモ隊が集まることもあれば、ソウルの日本大使館前に韓国人のデモ隊が結集することもある。

 

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ソウルの日本大使館前の抗議行動 2017年2月22日

  大使館前に抗議のデモ隊が集まって声をあげること自体は、民主主義国家における国民の正当な権利であるから、それ自体は問題ない。ただ、国家は大使館を全力で守らなければならない。この場合、国家と国民は対立するが、国家が味方すべきは自国民ではなく外国大使館の方である。

 日本の警察は東京の韓国大使館を守るために日本のデモ隊と対立し、韓国警察はソウルの日本大使館を守るために韓国人デモ隊と対立する。自国の警察が自国民と対立するわけだが、大使館を守るという国際的なルールを守るためには致し方ないことである。

 このルールは、国際法である「外交関係に関するウィーン条約」の22条の2に規定されている。これに則れば、人質となったアメリカ大使館職員を守らなかったイラン政府は国際法違反である。

 

外交関係に関するウィーン条約 22条の2

接受国は、侵入又は損壊に対し使節団の公館を保護するため及び公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する。

 

  イラン国民はホメイニーという狂信的な教祖を信じる危ない人たちである。彼らは戦前の日本人と同じように反米思想を教育によって叩き込まれ、アメリカに敵意を持っている。だから国際ルールを平気で破り、アメリカ大使館人質事件を起こした。イラン政府は大使館を占拠した右翼的イラン人を逮捕するどころか、むしろ愛国者として賞賛している。

 これがこの事件に対する普通のアメリカ人の解釈である。そして、彼らがイランを嫌う理由でもある。自由と民主主義を愛するアメリカ人の立場からすれば、自由も民主主義も尊重せず、さらに大使館を守るという国際ルールも尊重しない狂信的イラン人を愛する理由はない。嫌う理由は多々あれど、好きになる理由はないのである。

 

2.Islamophobia推進派の映画

 どこの国の人も同じであろうが、普通のアメリカ国民は大手メディアの報道を信じてしまう。世の中に流布するイメージを簡単に信じ、疑問を持って自分で調べることは少ない。その結果、アメリカでは「イラン=敵」というイメージが定着した。

 2012年、このイメージを推進する映画が公開された。それが「アルゴ(Argo)」である。この映画は、徹底してこのイメージに則ってつくられた映画である。つまりアメリカが正義、イランは悪として描かれている。この映画は世界的にヒットし、2013年2月24日第85回アカデミー賞にて作品賞、脚色賞、編集賞を受賞した。

 

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アルゴ 2012年公開

『アルゴ』 フィクションの力を使って最高に面白い物語を紡ぎだした、映画監督ベン・アフレック

https://cinemore.jp/jp/erudition/369/article_370_p1.html

 

 私もこの映画は見たが、普通のエンターテインメント映画としてはおもしろいし、よくできていると思う。ベン・アフレック演じるトニー・メンデスが、優れた頭脳でかわいそうな人質たちを救うという映画である。実在したCIA職員であるメンデス(Antonio Joseph "Tony" Mendez 1940-2019)はスーパーヒーローとして描かれており、大使館員を人質にとったイラン人たちは悪者である。

 イランを嫌うアメリカ人のみならず、この映画を素直に見てしまった世界中の人々は、イランに対して良くないイメージを持ったことだろう。そこに描かれているイランは狂信的なイスラム国家であり、大使館になだれ込むイランの学生たちは狂った愛国者たちである。もし、この映画の目的がイランを嫌悪する人間を世界中に増やすというものなら、かなり成功したと言えるだろう。

 世界的に賞賛され、日本でもヒットした「アルゴ」であるが、イラン人がこの映画を見たら怒りに震えるだろう。あるいはイラン人でなくてもイランの歴史を知っている人が見たら、その凄まじい偏向性に驚くだろう。この映画は、事件の背景について全く語らない。その意味ではプロパガンダ映画である。

 確かに、アメリカ大使館になだれ込み、アメリカ大使館の職員たちを人質にとったイランの若者たちは、国際ルールからすれば間違っている。彼らは犯罪者集団であり、それを取り締まらずに放置したホメイニー政権も間違っている。人質の即時解放を主張したバザルガンなどのリベラリストたちは、国際ルールからすれば正しかった。

 しかし、そうした表面的な善悪の観点からこの事件を見ても、真相はまったく理解できない。まず、前提となる「大使館」というものの意味が、どの立場から見るかによってまったく違う。この映画は、「大使館」というものの意味を善なるものとしてしか描いていない。その意味では事の真相の「半分」をあえて強調した映画なのだ。

 そうした強調により、この映画は表立ってIslamophobiaを叫ぶものではないが、スマートな形でIslamophobiaを推進する内容となっている。観客が「大使館」の裏の意味を知らないことを利用しているのだ。

 

3.「大使館」という言葉の二つの意味

 国際関係の知識に乏しい人からすれば、大使館は国際交流のための事務所、あるいはパスポートを無くした時に訪れる事務所というイメージしかないだろう。しかし、それは「大使館」という言葉の表の意味でしかない。実際の大使館はパスポートの再発行よりも重要な仕事を担っている。それが植民地支配のための前線基地としての役割である。この意味では、大使館は軍備を有しない軍事施設である。

 大使館は戦車やミサイルなどで武装していないが、軍事的な拠点である。つまり、それは事務所というよりも基地である。大使館は確かに国際関係のための事務所ではあるが、同時に諜報の前線でもある。大使館は、常に植民地を操作し、反抗的な植民地の運動家を攻撃するための準備をととのえている。

 確かに、それほど深い関係にない二国間にとっては、大使館は国際関係のための事務所に過ぎない。駐日本フィンランド大使館は、日本との友好関係のために存在する。しかし植民地経営は友好の事務処理だけでは不可能だ。日本はフィンランドの植民地ではないが、アメリカの植民地である。だから、同じ「大使館」と言っても、フィンランド大使館とアメリカ大使館では、「大使館」の意味がまったく異なる。

 フィンランド大使館は日本が独立を志向した時に邪魔する必要はない。しかし、アメリカ大使館の場合はそういった動きがあれば潰すことが仕事である。彼らは常に最前線で情報を収集する必要がある。日本のカポーたちは大使館と密に連絡を取り合い、植民地経営に貢献する。田中耕太郎裁判長がアメリカ大使に砂川事件について報告したのは、植民地統治に関する仕事の一環であった(第二十回ブログ参照)。

 大使館には植民地の独立運動を潰すという大事な仕事がある。普通の日本人は東京都港区赤坂のアメリカ大使館を見ても、あの中でそういったことをしているとは想像できないかもしれない。しかしイラン人にとっては、大使館がそういう場所であることは非常にリアリティがある。

 イラン人は大使館の恐ろしさを体験している。イラン国民がモサデク政権の下でイギリスからの独立を果たした時、その政権を潰したのはCIAであり、その前線基地となったのはテヘランアメリカ大使館であった。アジャックス作戦の司令官はCIA長官のアレン・ダレスであったが、現場監督を務めたのはアメリカ大使であったロイ・ヘンダーソンであった(第五十一回ブログ参照)。

 だから、アメリカ大使館はイラン人にとっては外交と友好の象徴ではなく、搾取と暴虐の象徴である。軍事的な拠点であり、植民地経営のための情報センターであり、スパイの巣窟である。このような「大使館」に対するイラン人の観点は、大使館についてほとんど何も知らないアメリカ人がイメージする「大使館」とは大きく異なる。

 「アルゴ」は大使館についての映画であるから、観客が「大使館」についてどのようなイメージを持っているかによって印象が全く異なる。大使館によって痛い目にあったイラン国民からすれば、この映画は茶番である。悪を正義にひっくり返したプロパガンダ映画に過ぎない。

 しかし「大使館」の裏面を知らない普通のアメリカ人、あるいは世界の多数派の人々からすれば、ヒーローが外交官を救出した映画となる。ベン・アフレック演じるCIA職員がヒーローなのである。こうした見方は、イラン人からすれば「冗談もほどほどにしてくれ」というものである。イランから石油を奪い、搾取し、支配してきたCIAがヒーローのはずがない。イラン人からすれば、「アルゴ」を見て普通に楽しむアメリカ人は無知にも程があるとなろう。両者の溝はそれほど深い。