戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十八回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(18)

1.大使館という宝物庫

 前回のブログではアメリカ人がイラン人を嫌う理由、および「アルゴ」についての二つの見方について考察した。そこでは「大使館」についての見方がキーポイントになると述べた。「大使館」という言葉はgoo国語辞書によると以下のような意味であるそうだ。

 

たいし‐かん〔‐クワン〕【大使館】 の解説

特命全権大使が駐在国において公務を執行する公館。国際法上、本国の領地と同一に見なされ、不可侵権が認められる。

 

 辞書の言葉は表の意味である。これ自体は間違っていない。しかしこれは意味の半分である。半分は植民地経営に関する意味である。大使館は植民地に存在する宗主国として、宗主国の領地と同一と見なされる。つまり、植民地経営の最前線という意味を持つ。

 現地人と友好関係を築くことだけが公務ではない。現地のマスコミや政官財と結託しながら、独立運動を潰すことも彼らの公務である。それはある意味「友好」よりも遥かに大事な仕事である。大使の任命は本国の政権が行う。本国の政権の背後には企業家たちがいる。つまり本国の企業に利益を流すことが大使館には期待されている。搾取のパイプを太くすることが期待されているのだ。

 例えばイランの石油を奪い、アメリカの石油メジャーを潤す。あるいは日本の郵便貯金を奪い、アメリカの金融会社を潤す。植民地の資源(資産)を奪って宗主国に流す。この重要な仕事のために、大使館職員は植民地と宗主国の繋ぎ役として大いに頑張ってもらわなければならない。期待されて雇われている彼らは、それなりに高い給料を貰っている。

 

年収1000万の求人発見。米国大使館<駐大阪・神戸米国総領事館> 広報・報道担当補佐

http://tensyokupickup.hatenadiary.jp/entry/2017/08/05/200438

 

 ただ、搾取の仕事は簡単ではない。搾取をすれば反発を受けるに決まっている。必ず反対運動が起こる。それゆえ搾取だけでは仕事の半分に過ぎない。もう半分は反発を潰すことである。つまり、抗議する人民たちをカポー達と協力しながら潰すことが大使館の仕事である。

 映画「アルゴ」は、若者たちを中心にしたデモ隊にアメリカ大使館が包囲され、今にも要塞が崩れ落ちる寸前の緊迫した場面から始まる。大使館職員たちは、デモ隊が柵を乗り越えて中に入ってくることを想定し、緊張する。この緊迫した状況下で、彼らは急いで書類やパソコンのデータを破棄しようとするが、間に合いそうもない。

 あの書類には何が書かれているのか。ハードディスクにためこまれた内容は何か。答えを簡単に言えば、植民地経営のための情報である。売国奴のリスト。独立運動家のリスト。誰が力を持っているのか。誰を潰せばいいのか。愛国者売国奴に寝返らせる方法。サヴァクへの密告リスト。デモ隊のリーダーに冤罪をかぶせて逮捕する方法。国民をコントロールするために現地マスコミに書かせる内容。プロパガンダの具体的内容や方法。

 これらは、イラン人たちには絶対知られたくない内容である。ということは、デモ隊からすれば無傷で確保したいデータである。デモ隊が大使館内になだれ込んだのは、単に感情的になって押し入ったのではない。あれらのデータが欲しいという理由があった。

 その意味では、大使館は宝物庫である。支配側にとっても被支配側にとっても、そこに眠っているデータは宝物である。トップ官僚でも知らないデータも含まれている。だから「外交関係に関するウィーン条約22条の2」(前回のブログ参照)は、大使館が襲われた場合、現地警察が死守しなければならないと定めている。これは宝物庫を守るための国際ルールである。

 

2.イラン人から見た大使館人質事件

 ではなぜ、あの時、イランのデモ隊は宝物を暴力的に奪おうと思ったのか。1979年11月4日以前にも、宝物は大使館にあった。なぜ11月4日以前には乗り込まず、11月4日に決行したのか。そこには二つの事件が大きな要因としてかかわっている。一つはパフラヴィーのアメリカ入国であり、もう一つはバザルガンとブレジンスキーの握手である。

 私は第六十二回ブログにおいて、パフラヴィー王の癌治療が後にイランがイスラム国家化することの主たる要因の一つとなると書いた。また第六十三回ブログにおいて、王は癌治療のために1979年10月22日にアメリカに入り、これが後のアメリカ大使館人質事件につながると書いた。このことについて説明しなければならない。

 イランの元王モハンマド・パフラヴィーは、イランを出てからエジプト、モロッコバハマ、メキシコと転々としていたが、1979年10月22日に癌治療のためにアメリカに入った。アメリカで彼を迎えたのはデイヴィット・ロックフェラー(David Rockefeller 1915-2017)であった。これがイラン国民に危機感を起こさせた。元王とロックフェラーが組んで、イランの独立を潰そうとしているのではないか。イラン国民はそう疑念を抱いた。

 これまで王とアメリカに散々騙されてきたイラン国民からすると、パフラヴィーが癌治療を理由にしてアメリカに入国したというニュースは嘘に見えた。実際には、カーター大統領を中心とするホワイトハウスは、パフラヴィーという厄介者が入国することを嫌がったそうである。面倒なことを避けるために、パフラヴィー入国を拒否すべきとの意見が、政権内でも多かったそうだ。

 しかし、ロックフェラーは長年パフラヴィーを舎弟として可愛がってきた。舎弟も兄貴のために、自国の石油を大量に流すために頑張ってきた。兄貴としてはそんな弟を拒否するわけにはいかない。仮にここで兄貴が弟を冷たく拒絶すれば、世界中の発展途上国の指導者が反発しかねない。利用するだけ利用しておいて、最後は癌治療も拒否するのかと。

 パフラヴィーを捨てることは、ロックフェラーの世界経営に悪影響を及ぼす。そこでデイヴィッドはホワイトハウスに要求した。パフラヴィー入国を許可しろと。カーター政権もデイヴィッドに逆らうわけにはいかない。渋々パフラヴィーの入国を承諾した。

 事の経緯を見ると、パフラヴィーの入国目的は本当に癌治療であって、イランに返り咲くことは考えていなかったのかもしれない。しかしそれは歴史の経過によって言えることであって、当時のイラン国民がそう思えなかったとしても致し方ない。アメリカとパフラヴィーが結託することでモサデク政権が潰されたという経験は、イラン国民からすれば生々しい傷として残っていたからだ。

 この後すぐに事件が起きた。アルジェリア独立戦争記念式典が1979年11月1日に行われた。そこに招かれたイランのバザルガン首相が、アメリカのブレジンスキー大統領補佐官と会談した。二人が握手をする写真が、イランの新聞に掲載された。これでイランの血気盛んな若者たちは我慢ならなくなった。

 バザルガンとしては、早急にアメリカとの関係を回復することが目的だった。イランはホメイニーの下で独立国として船出したとは言っても、イラン軍はアメリカ式に出来上がっており、装備もアメリカ製であった。石油施設やインフラ設備もアメリカ製であり、部品はアメリカから買わないことにはどうにもならない。

 だから、アメリカとの関係が停止している状態は、イラン経済とインフラメンテナンスの面も停止していることを意味していた。バザルガンは首相として、そうした状況を打破するためにアメリカとの関係構築を急いだのである。しかし、政権内の宗教指導者グループ(ホメイニー派)はこれに反発し、愛国派の国民もこれに反発した。

 アメリカはパフラヴィーを入国させた。その裏にはロックフェラーがいる。バザルガンはブレジンスキーと会った。アメリカはバザルガンを抱き込んで、ホメイニー政権を潰そうとしている。潰した後に、パフラヴィー王とバザルガン首相による政権をつくろうとしている。それは立憲民主制の顔したアメリカの傀儡政権だ。

 イラン国民はこのように想定し、危機感を抱いた。もちろん、当時のアメリカはそんなことは企んでいなかったのかもしれない。しかしイラン国民はそう思ってしまったのだ。危機感を抱いたデモ隊は「独立潰し」を潰すために、テヘランアメリカ大使館に乗り込んだ。敵の前線基地を奪取し、そこに保管されているデータもいただく。こうしてアメリカ大使館襲撃は敢行された。

 

3.二つの事件がホメイニー政権の地盤を固くした

 ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski 1928-2017)という名前を聞いても、日本人のほとんどはよくわからないだろう。

 

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Jimmy Carter and Zbigniew Brzezinski

 彼は国際的に有名な人物ではない。しかし極めて重要な人物である。なぜなら彼はCFR (Council on Foreign Relations外交問題評議会)の大物だからである。政治学者であり、コロンビア大学教授、CSIS顧問、ジョンズ・ホプキンス大学教授を歴任し、オバマ政権時代には外交顧問を務めた。

 このブログの読者なら、彼の経歴を見ればピンとくるだろう。アメリカの三大軍事大学はコロンビア、ジョンズ・ホプキンス、ジョージタウンである(第二十八回ブログ参照)。ブレジンスキーはそのうちの二つの大学で教授に就任しており、CSIS顧問、そしてCFRの幹部でもある。つまり、単なる象牙の塔の学者ではなく、軍事や外交、植民地支配についての専門家であり、国際戦略のプロフェッショナルである。彼についた綽名が「戦争屋」である。

 政治学者と言っても、日本人のイメージする学者とはだいぶ違う。キッシンジャー政治学者だが、かの国の一流の政治学者は、曖昧な理論や御託を並べる教養人とはまったく違う。明確な数式を出せなければ、あの国では一流の政治学者ではない。

 例えば、どの国に爆弾を落として、誰がいくら儲かるのか。その際メディアはどう操作すればいいか。アメリカ軍の一方的な暴力を国連決議で正義にもっていく方法。占領した後に現地の売国奴アメリカのカポーに仕立て上げる方法。現地が爆弾でボロボロになった場合、アメリカのどの企業がいくら儲かり、株価はいくら上がるのか。人権運動家や人道的議員や熱血ジャーナリストを飴と鞭で黙らせる方法。等々・・・

 そういった「実践的」な手法について精通している人物があの国では一流の政治学者なのであり、いくら儲かるのかわからない曖昧な理論を延々と喋り続ける無意味な学者はアメリカでは一流になれない。アメリカから遠く離れたどっかの国の人々を何人殺せばいくら儲かるという明確は計算式を、高度な頭脳と緻密な検証によって明示できる人物が、あの国では本物の政治学者なのである。

 

ロックフェラーに続きブレジンスキー氏も死去

https://ameblo.jp/agnes99/entry-12278487983.html

 

 パフラヴィーがアメリカでCFR会長のデイヴィット・ロックフェラーと会い、バザルガンがアルジェリアブレジンスキーと会った。バザルガンは憲法の内容でホメイニーと対立していた(第六十六回ブログ参照)。だから、ホメイニー支持者たちはバザルガンをこころよく思っていなかった。

 イランのデモ隊もバカではないので、大使館襲撃は「ウィーン条約22条の2」に反することはわかっていた。しかし、彼らは一連の事件からCFRがイランの政権を潰すために暗躍していると解釈した。イランの独立が危ない。強い危機感を抱いたデモ隊は、植民地支配の前線基地であるテヘランアメリカ大使館に突入し、職員たちを人質にとった。

 イラン政府は警察を出動させてこれを阻止すべきであった。しかしあえて放置した。これはイラン国民から賞賛された。バザルガン内閣は人質の即時解放を主張したが、ホメイニーを筆頭に宗教指導者たちが反対したので、内閣は総辞職した。イランのこうした態度に対して、西側諸国は強烈な嫌悪感を抱いた。イランは国際的に孤立した。しかし、この孤立がホメイニー政権を盤石にした。

 外に敵がいるということは、内を一体化させるということである。最初、ホメイニー政権は脆弱だった。一枚岩から程遠く、かつて戦友だった政党やクルド人などと敵対した。そのため本来は政権に入れたくなかった異分子を首相に据えた。モサデク派のリベラリストであるバザルガンを首相に据え、ホメイニー政権は船出したのである。しかしパフラヴィーがアメリカに入国し、バザルガンがブレジンスキーと握手したことで、不安感が増大した国民は右傾化した。

 これが脆弱だったホメイニー政権を強くした。アメリカを憎む国民は増え、ホメイニーの支持率は高まった。二つの事件はホメイニー政権に対する支持率上昇に貢献したのである。おかげでホメイニー政権はリベラリストたちを政権内から一掃することができた。こうした中、さらに支持率を上昇させる事件が勃発した。1980年9月、フセイン政権のイラクが突然イランに攻め込んで来たのだ。後に「イラ・イラ戦争」と呼ばれるイラン・イラク戦争の始まりである。