戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十九回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(19)

1.独立闘争から分裂闘争へ

 1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起きた。この事件によってイランは国際的な非難を浴びたが、国内的には愛国心の高揚につながった。11月6日、バザルガン内閣は総辞職し、ホメイニーを頂点とする宗教指導者たちによる政治が本格的に始まった。

 バザルガン首相が去っても、革命評議会は後任首相を指名しなかった。ホメイニーを頂点とする評議会そのものが行政権を担った。これは新憲法下で司法、立法、行政のシステムが始動するまで続いた。この間、統治に関する全てが革命評議会により決められることとなった。各機関の権限や看護師の月給までが評議会で決められることとなったのである。

 1980年2月、新憲法下で大統領制がはじまり、同年8月12日にイスラム共和国議会が招集され、同日に首相が指名された。これにより革命評議会が全てを決めるというシステムは終了した。イランに司法・立法・行政の三権が戻ったのである。しかしこれはイスラム指導者たちが権力を放棄したのではない。

 新たなイランでは、司法・立法・行政の三権の上に最高指導者が君臨するというシステムが確立された。この国家体制は現在まで続く。この時から、イランでは政教分離は存在しないのである。

 

2/4 イラン政治の基礎知識2007 [社会ニュース] All About

https://allabout.co.jp/gm/gc/293805/2/

 

 ホメイニーとリベラリストによる共同の政権運営は最初だけだった。イランのリベラリストたちが望んだものは、イランの独立と民主化であった。その最大の障壁はアメリカという支配者であり、その傀儡であるパフラヴィー政権であった。

 リベラリストたちの試みは一度失敗している。モサデク政権は潰された。この失敗から学んだ彼らは、ホメイニーという宗教的求心力を利用することを試みたのだろう。ホメイニーという劇薬を用いることで国内に巨大な火柱を立ち上げ、その圧力でアメリカとパフラヴィーをイランから追い出した。ここまではうまくいった。しかしフタを開けてみるば、そこにあったのはリベラル国家ではなくイスラム国家であった。

 独立は達成されたものの、民主化は達成されなかった。むしろ、アメリカの植民地時代にイミテーションとして存在した民主主義すらも消去された。リベラリストたちの見積もりは甘かったのだろう。ホメイニーの求心力を利用してイランの独立と民主化を達成しようした彼らは、逆にホメイニーに利用されてしまった。最初は内閣を得たものの、間もなく政権から放逐されることとなった。

 独立運動に燃え一致団結したイランだが、皮肉にも闘争が終わった途端に次の闘争が始まった。独立闘争の終了と同時に、分裂闘争が始まったのだ。各政党やクルド人らの少数民族がホメイニー政権に反発しただけでなく、政権内部でも闘争が起きた。ホメイニーを頂点とする革命評議会も一枚岩ではなかった。ホメイニー派の内部でも分裂闘争が起きたのである。

 

2.ホメイニー派内部の闘争

 イランが独立を果たし、新たな国家がホメイニーの下で成立すると同時に、内部闘争が起きた。この闘争の結果として追放されたのは大統領であった。新憲法の下でイラン・イスラム共和国初代大統領となったバニーサドル(Abolhassan Banisadr 1933-)は、元革命評議会議長であり、ホメイニーの右腕であった。

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Abolhassan Banisadr

 革命の15年前である1964年、ホメイニーはパフラヴィー政権から追放処分を受けた。ホメイニーはトルコやイランを経て、フランスに住んだ。この時、ムジャヒディン・ハルクのメンバーとともにホメイニーの隠れ家を訪れた人物がバニーサドルであった。バニーサドルは独立運動家であり、パフラヴィー政権時に二度投獄された人物であったが、高貴な宗教家の血筋であった。

 フランス語を流暢に話し、経済学に精通したインテリでありながら、独立運動の闘士でもあったバニーサドルを、ホメイニーはすぐに気に入った。彼はこの時以降ホメイニーの右腕となり、ホメイニーからは「わが息子」と呼ばれた。両者はいつかイランに戻り、革命を成し遂げることを誓いあった。

 世界のほとんどが二人の目標を夢想としか思わなかったが、1979年、夢は実現した。バニーサドルは革命評議会議長を経て、翌年2月にイラン・イスラム共和国初代大統領となる。この時、ホメイニー最高指導者とバニーサドル大統領という体制が確立し、父と子の夢は叶ったように見えた。

 しかし夢の達成は同時に亀裂を生んだ。愛の絶頂は憎しみの始まりである。長く苦しい道のりにおいて、彼ら二人の絆は血の繋がった親子よりも固いものに見えた。だが、大統領となったバニーサドルはイスラム教を尊重していたものの、国家運営としては民主的なイスラム国家を望んだ。これが政権内の宗教指導者たちの反発をかった。

 結局のところ、権力の中枢である革命評議会内部でも、宗教原理主義と民主派の間で対立があった。民主派はイランの民主化を望むとともに、アメリカ大使館人質事件の早期解決を求めた。彼らは西側民主主義国家との関係改善を望んだのである。

 これに反発したのが「アメリカ憎し」のナショナリストたちの支援を受けた宗教原理派たちである。彼らは新憲法の下で国会議員となり、議会で多数派を占めていた。それまでのイランでは、宗教家は政治にかかわらないのが伝統であった。しかし、革命以後はホメイニー派のイスラム指導者たちが国会議員となって政治活動を行っている。この光景は、イスラム革命以前は考えられないものだった。国会議事堂に僧服を着た人たちがうろうろするようになった。

 バニーサドルと民主派の議員たちはこの光景に賛同できなかった。独裁を打倒するために戦ってきたのに、フタを開けてみれば宗教指導者たちによる独裁が横行している。民主派からすれば、国会はあるべき姿とは違ったものに見えた。こうした中、ついに対立は決定的なものとなる。議会はバニーサドル大統領の放逐を求め、1981年6月21日、弾劾決議が可決された。こうしてバニーサドルは、1年4カ月で大統領の椅子から追われることとなった。

 その後、彼はフランスに逃亡し、執筆などでイランの民主化を求める運動を現在まで続けている。彼以外の元革命評議会幹部たちも政権から放逐され、外務大臣を務めたゴトブザーデ(Sadegh Ghotbzadeh 1936-1982)は、政権転覆とホメイニー暗殺を企てたとして、1982年9月15日に処刑された。彼も、もともとはホメイニーが信頼する側近の一人であった。

 

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Ghotbzadeh and Khomeini

 もちろん、こうした政権の態度には反体制派からの反発があり、第二代大統領のラジャーイー(Mohammad-Ali Rajai 1933-1981)はムジャヒディン・ハルクの爆弾攻撃により亡くなっている。その爆弾は、大統領補佐官が用意したものであった。

 

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Mohammad-Ali Rajai

 1981年8月2日に、バニーサドルの後任として大統領に就任したラジャーイーは、8月30日、バーホナル首相とともにイラン防衛最高評議会に出席した。その時、補佐官がブリーフケースを会議室に持ち込み、大統領と首相のあいだに置いて立ち去ったそうである。別の人物がブリーフケースを開いた時に爆発。部屋は炎上し、ラジャーイー、バーホナル他3名が亡くなった。ラジャーイーの大統領在職期間はたった16日であった。

 

イラン革命から40年‼ ~ もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

https://blog.goo.ne.jp/giroku0930/e/e28685f4e40e699d227a28a5c102c1bf

 

 フランスに住むバニーサドルは、2019年のイラン革命40年に際して日本の『東京新聞』からインタビューを受けている。そこで彼はホメイニーについて「亡命中は私と同じ国家像を描いていたが、権力を握ると変わってしまった」と述べ、イラン革命は「イスラム法による統治は実現せず」「一部宗教指導者による独裁体制」と述べている。

 1979年の新生イラン誕生以後、イランでは民主化デモが続いている。アメリカとパフラヴィー王を追い出し、独立を勝ち取ったイランにおいて、民衆による民主化デモが起きるというのは皮肉な話である。

 

イラン反政府デモが問う、派閥対立の深い罪

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/post-9352.php

 

3.アメリカの攻撃とイランのナショナリズム

 1979年2月1日にイランに帰国して以来、ホメイニーはリベラリストとの戦いに勝ち続けた。帰国直後はバクティヤールに勝ち、政権を奪ってからはバザルガンを追い出し、イスラム国家樹立後はバニーサドルを放逐した。これによってホメイニーは中枢を賛同者たちで固めた。イスラムの僧服を着た人間たちが政権を握る国家が成立したのだ。

 これは欧米人が大嫌いなイスラム国家である。かつて、イランの政権はスーツを着た西洋帰りの政治家により成り立っていた。女性はヘジャブをつけず、一般市民の服装はアメリカ人と区別がつかなかった。それが1979年以後、まったく変わってしまったのである。

 

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(L) Tehran University students in the 1970s, (R) a shoe advertisement

 

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(L) On the streets of Teharan in the 1970s, (R) Actresses Haleh and Mahnaz

 

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Various Iranian celebs in the 1970s

 

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Miss Iran 1978 finalists. This would be the last pageant – there would be no Miss Iran 1979 or onward.

 こうしたイランのイスラム化を、西洋のIslamophobia(イスラモフォビア)の人達は嫌悪した。彼らは西洋化したイランを歓迎したが、僧服のイランに対しては眉をひそめたのである。しかし、イランのイスラム化には西側諸国が大きくかかわっている。かつてモサデク政権を潰し、パフラヴィーという傀儡政権を立て、その傀儡王に国民を痛めつけさせたのはアメリカを中心とした西側諸国である。

 そうした西側諸国に対するイラン国民の反発心が、ナショナリズムの高揚とホメイニーに対する支持率上昇に繋がっている。内輪揉めの闘争を繰り返す新生イランにおいて、ホメイニーが政権基盤を固めることができたのは、イラン国民の欧米人に対する反発心があったからである。その強い反発心と運動の巨大なうねりは、もともと立憲民主主義国家を目指していたイラン国民に民主主義を忘れさせた。

 熱狂的な高揚がなければ、イランは立憲民主的な国家、すなわち欧米人も許容する国家になっていたかもしれない。ホメイニーは象徴的な立場にとどまり、政治の運営はリベラリストたちが行ったかもしれない。もともとイラン国民は立憲民主主義を望んでいたのであるから、ナショナリズムの高揚がなかったなら、ホメイニーはリベラリストに妥協せざるを得なかっただろう。

 最初、ホメイニー政権の基盤は弱かった。それゆえ首相にバザルガンを指名し、リベラリストと共同で政権運営を図る他はなかった。しかしそこでパフラヴィー王のアメリカ入国やバザルガンとブレジンスキーの握手などの事件が起こる。そしてアメリカ大使館人質事件が起きた。この流れの中でイランのナショナリズムは高揚し、ホメイニーへの支持率が上昇した。ホメイニーは高い支持率の中で、政治の中枢からリベラリストたちを追放できた。

 この後さらにイランのナショナリズムを高揚させる事件が起きる。これもホメイニーの策略ではなく、むしろアメリカのおかげである。イラン・イラク戦争(1980年9月22日-1988年8月20日)がはじまったのだ。これにより、バラバラになりがちなイラン内部が、外の敵へ向けて結束できた。

 ホメイニー政権は、内部ではリベラリストたちと戦い、外ではムジャヒディン・ハルクなどの政党と戦い、地方ではクルド人勢力などと戦っていた。おそらくイラクという外国との戦争がなければ、イランの内戦状態は終息に向かわなかっただろうし、ホメイニー政権もその中で倒れていたかもしれない。

 もちろん、内部闘争の最中で隣国のイラクが攻め込んで来たのだから、ホメイニー政権としても危機ではあったが、国威発揚には繋がった。ただ普通の軍事的常識からすれば、イラクがイランに一方的に攻め込むということは考えられない。イラクの人口は当時約2500万であるのに対して、イランは当時約6500万である。国土はイランがイラクより4倍大きい。イランの名目GDPイラクの約2倍ある。普通は小国が大国に喧嘩をふっかけることは考えられない。

 しかし、イラクには自信があった。バックにアメリカがついているという自信である。そもそもサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937-2006)という人物が、CIAによって育てられた人物であった。CIAによって育てられ、自信を持ったフセインは、隣国との領土問題を武力によって解決しようと目論んだ。

 フセインアメリカも、戦争は短期決戦で終わると思ったのかもしれない。しかし、この戦争は思いのほか長期戦となった。この長期戦のおかげで、イランのナショナリズムは高まり、ホメイニー政権の地盤はさらに固まった。アメリカのバックアップを得たイラクがイランに攻め込んでくれたおかげで、ホメイニー政権は自らの地盤を固くすることができた。

 この時築かれたイスラム国家体制が、現在のイランまで続いている。現在のアメリカはイランと対立し、アメリカ人のIslamophobia(イスラモフォビア)も相まって、イランは悪の帝国と見なされている。しかし、現在のイランの政治体制をホメイニーとともに作ったのはアメリカであるとも言える。アメリカがイランに対して継続的に攻撃してきたことが、イランのナショナリズムを高揚させたからである。