戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十一回 報道しない奴隷とその脱却法(1)

0.予定の変更

 前回までイランの近現代史について見てきた。イランという中東の一地域に過ぎない限定的な場所であっても、その歴史をつぶさに見てみると、そこにはGlobal経済の席巻が見て取れる。Global企業が国家と組み、合法的強盗がまかり通っているのが、国際関係の真の姿である。これに深く関与しているのがマスコミである。今回と次回はイランの歴史を横に置き、第十八回ブログの発展版として、メディアについて考えていきたい。

 

1.皇軍の息子から軍産複合体の内臓へ

 戦前の日本には検閲が存在し、報道の自由はなかった。例えば台風情報も国民に隠された。気象情報はすべて軍事機密として扱われたので、新聞やラジオは報道できなかった。そのため、事前にわかっていれば避難できた国民も、台風により命を失った。失われる命を前にして、ジャーナリストは屈辱の沈黙を自らに強いるしかなかった。

 元来、報道とは危機を知らせるものである。知らないことは危険であるゆえに知らせる。知ることによって死ななくて済む。報道は元来、そうした良心と危機感に根差したものである。そこには大学のジャーナリズム論が講釈する晦渋なものはない。危ないものを「危ない」と知らせるものが「報道」であるなら、ジャーナリストの精神とは難しいものでもなんでもない。それは単純明快な「良心」であると言える。

 もちろん、これに対して都合の悪い人々が存在する。報道が良心に基づいた単純な行為であるとしても、知られたら困る方の立場からすれば迷惑だ。こうして権力と反権力の構図が生じる。もともと報道は無意味に国家に楯突くものではなかろう。報道の根っこは反逆ではなく良心であるはずだからである。しかし、隠蔽が人命を危険にさらす場合、良心はやむなく隠蔽する国家に反抗せざるを得ない。危険な隠蔽を黙認する心性は、既にして良心ではないからである。

 さて、戦後の日本では憲法も改まり、21条で表現の自由が保障され、報道の自由が保障されることとなった。屈辱の沈黙を強いられた報道機関は、自由な空を羽ばたけるようになったのである。台風が来たら皆に逃げろと報道できるようになった。負け戦を「勝った、勝ったまた勝った」と嘘つく必要もなくなった。

 しかし、マスコミが世の春を謳歌したのは一瞬だった。すぐに厳しい現実が襲ってきた。食い扶持の問題である。全体主義国家におけるマスコミは楽だった。政府、官僚、軍部の言いなりになって報道すれば食うに困ることはなかった。むしろ戦火が広がるほどに新聞は売れた。彼らは戦争を煽りに煽った。煽れば煽るほど売れたからである。

 平和の世では戦火の方程式は通じない。検閲は縛りであると同時に保護だった。保護者たる国家はマスコミを食わせた。しかし自由国家は検閲をしないと同時にマスコミを食わせない。父が子を養育しない以上、子は自力で食い扶持を稼ぐしかない。こうして戦後のマスコミは自立を余儀なくされた。自由になったと同時に、彼らは食い扶持を稼ぐために必死になった。

 大手メディアは記者クラブをつくり、中小零細報道機関を閉め出し、既得権益の保持に躍起になった。軍部という父を失った代わりに、CIAという新たなパトロンと出会った。さらに官邸や霞ケ関とパートナーシップを結び、大企業と友達になった。こうして大手メディアは、戦前よりも大きなマスコミ帝国をつくった。

 皇軍という父の死後、途方に暮れたマスコミは、頭を使って新しいパトロンを得ることで、しぶとく生き残った。そして戦前よりも高い給料を得る特権階級へと成り上がった。現在の日本の大手マスコミがどれだけの年収を得ているかについては、第十七回ブログを見てもらえばいいだろう。

 現在では、NHKの会長になれば総理大臣と定期的に会食ができる。マスコミが脅せば政治家も怯む。報道によって議員を当選させることも落選させることもできる。検事長を奈落の底に突き落とすこともできる。戦後の焼け野原で父を失い泣いていた子は権力者になった。金も力もある。大衆心理も人心操作も思いのままだ。

 こうして出世した息子はあの時の屈辱を忘れる。台風を報道できなかった屈辱。真実を捻じ曲げて報道した屈辱。嘘を言い、煽りに煽った挙句、300万人が死体となった屈辱。屈辱の中で唇を噛んだ息子は、今では悔しさも忘れ、Global強盗の手先となる。

 それは皇軍という小さなレベルの話ではない。300万人の犠牲者では済まない。Global強盗の手先となることは、世界的規模の軍産複合体と手を組むということである。屈辱の息子は、保護者を失って食い扶持を稼ぐことに夢中になっているうちに、巨大な怪物の肉体へと包含された。皇軍の息子は、今ではGlobal経済という怪物の内臓となって機能している。

 

2.マスコミの進化と奴隷制度の進化

 戦前のマスコミには自由がなく、ただひたすらに屈従があった。その分、楽だった。国家と一体となったマスコミほど楽なものはない。言われたとおりに報道し、言いなりになって仕事をすればいい。考えることを面倒だと思う人間からすれば、そうした職場は堕落という名の天国である。

 この堕落天国は、現在では共産主義国家に存在する。共産主義国家には検閲が存在し、報道の自由がない。検閲は屈辱であり、裏返せば楽である。中国や北朝鮮の人民は、この体制に慣れた。彼らは報道の自由を諦めている。諦めは屈従でありながら安寧である。それゆえ彼らは何十年にも渡って、不自由という安楽椅子に座り続けている。

 では自由主義国家に堕落はないか。答えは否である。自由主義国家においては検閲がない。ということは安楽もない。検閲の裏には安定した生活があるが、自由の裏には競争しかない。売らなければ会社もなく、個人の生活もない。こうして良心の報道よりも金が大事になってくる。共産主義国家のマスコミは検閲に堕落し、自由主義国家のそれは金に堕落する。

 こうして自由主義国家においても真実の隠蔽が大手を振って闊歩するようになる。それは国の強制ではない。自由なメディアによる自由な経営判断である。つまり自由主義国家においては検閲によって国民に真実が隠されるのではなく、マスコミの金と権力により隠されるのである。

 金儲けに走るマスコミを体内に取り込んだGlobal経済という怪物は、ここでふと気づいた。国家が人民を牛耳るのに、検閲は必要ないと。奴隷を縛って統制する時代は終わった。ムチで叩くことは逆効果だ。古い手法に固執する共産主義国家と違い、洗練された国家では国民に自主的に自由を返納させる。

 奴隷制度は消えたのではなく進化した。新しいシステム下では、誰も自分が奴隷だと思わない。中国や北朝鮮のような旧態依然の奴隷国家では、いまだに検閲を行っている。これでは自分が手にする新聞が検閲済みのものだと国民の誰もが気づいてしまう。それよりも自由な新聞各社が競争し、保守系と革新系に分かれて喧嘩する方がよい。

 国民はどちらもCIAとは気づかないから、特に革新系の新聞読者は、自分がリベラルな国民だと勘違いするだろう。民主主義国家の場合、国民は自分の手にする情報を統制されたものだと意識しない。自分が奴隷だとわかっている奴隷と、自分を自由だと思いこんでいる奴隷とでは、どちらが主人にとって都合のいい奴隷であるか。

 

「自由でないのに、自由であると考えている人間ほど奴隷になっている」(ゲーテ

https://note.com/viappia2472/n/nf2c9362a4797

 

 かつて多かった共産主義国家が、今は少ない理由はなんであろうか。ソ連が崩壊したとき、ある自民党の政治家は「勝負あった」と述べた。つまり自由主義陣営が勝ったのだと。そのようなロマンティックな解釈に浸る人は幸せ者なのかもしれない。しかし、真相はより残酷なものかもしれない。

 共産主義国家の情報統制は、党幹部の利益のためである。ということは、国内の利益にしかならない。それに比べれば、Global経済の利益は国境を跨ぐ。日本人の無知はアメリカの利益にもなる。各国を共産化して個別に支配するよりも、世界を自由化し、巨大マスコミを使って世界市場を動かす方が、Global資本家にとっては儲けが多い。

 怪物が世界を股に掛けて行っていることは、Business(仕事)やEnterprise(事業)、時にはCharity(慈善事業)と呼ばれるが、その実質は強盗である。そのため人に見られることはまずい。隠す必要がある。その際、報道を力でねじ伏せるやり方は古い。ナイフで脅すよりも、目撃者を共犯者にする方が利口である。

 こうして報道機関は権力の敵ではなくBusiness Partnerとなる。Partnerから国民に流される情報は洗練されたものである。内容は侵略であり殺人であっても、「紛争」という名で報道される。われわれ「市民(citizens)」は、イラク戦争がなぜ起きたのか知らない。そこで何人死んだのかも知らない。どこかの国で台風が来たのと同じように、いつのまにか戦争がはじまり、いつのまにか終わる。そして数年経てば忘れる。

 殺人は報道というパッケージングの過程で、無味無臭のものとなる。「市民(citizens)」は殺され、殺人犯が莫大な利益を得る。それが洗練された「報道」という商品として、異なる場所の「市民(citizens)」に供給される。朝、ニュースを見た「市民(citizens)」は、会社に行って働く。明日は我が身とは思わずに。

 

3.進化するシステムと良心

 アメリカで奴隷制度が消滅し、南アフリカではアパルトヘイトが廃止された。ナチスや皇国は滅びた。ソ連が崩壊し、世界の共産主義は著しく縮小した。全体主義の時代が終わり、自由主義が世界に広まった。これで人類の奴隷時代は去ったかのように見えた。

 しかし、奴隷時代の終焉は新たな次元をもたらした。それが奴隷の隠蔽である。あからさまな奴隷制度が死滅したということは、進化した奴隷制度が生まれたことを意味する。自分が奴隷だと気づかない奴隷の誕生である。新たな奴隷の集合体が「市民社会(civil society)」である。

 もともとアメリカで黒人奴隷の制度が誕生したきっかけは、イギリスの産業革命であった。アフリカから黒人を買って家業を手伝わせるという習慣はそれ以前から存在した。しかしそれは小規模なものに過ぎなかった。イギリスの片隅で生まれたテクノロジーの革命は、こうした牧歌的な奴隷時代を終わらせた。産業革命により、イギリスの綿織物の生産量が激増したのだ。

 イギリスに送る綿花はいくら栽培しても足りないという状況になった。これにより、黒人はいくらいても足りないということになった。こうして黒人奴隷制度は小規模な売買という次元を越える。黒人奴隷の売買は国家レベルの大事業となり、巨大なシステムへと変貌していく。

 このシステムが終焉をむかえたのも、同じく産業革命が原因であった。莫大な黒人によって収穫される莫大な綿花は、莫大な織物となり、供給過剰となった。行き場を失った商品が在庫となるだけでは意味がない。そこで、大量生産を大量消費する「市民(citizens)」が必要となった。奴隷は質素に暮らし、少数の貴族が贅沢をするという生活様式では、このニーズに応えられなくなったのだ。

 人権思想家が奴隷制度に対して怒りの声を上げるより先に、奴隷制度は経済的に無意味なものとなった。拡大し続ける「産業」という怪物は、奴隷に対して別の役割を期待するようになった。つまり、きちんと教育を受け、会社で働き、結婚して子を育て、人口を増やすという「市民(citizens)」の役割が期待されるようになった。莫大な数の市民が莫大な量の商品を欲する巨大市場が求められるようになった。

 奴隷にムチを打って働かせるという行為は、それをすることで儲かるというシステムがなければ意味がない。産業革命の初期は、そうした奴隷を大量に必要とした。しかし後期になると逆に不要となった。不要となった代わりに、別の人間モデルが必要となった。巨大産業という怪物が、人間にモデルチェンジを強いたのだ。この時怪物が必要とした人間の型は、次から次へと現われる商品を購入する欲深な「市民(citizens)」である。

 もともと人間は動物を飼いならし、そこから生活の糧を得るという知性を持つ。その知性の発展として、いつしか人間は莫大に増え、人間が人間を飼いならし糧を得るという生き方が当たり前となった。その過程で奴隷制度が生まれ、その後モデルチェンジがあった。この拡大し、進化する過程の中で、経済もGlobal経済へと進化したのだ。

 すべてが可視から不可視へと進化する過程である。あからまな植民地支配は消滅し、目に見えない植民地支配が行われるようになる。見てすぐわかる奴隷はいなくなり、主人のような奴隷が誕生する。独立国の顔をした植民地が生まれ、同盟国のような宗主国が支配する。公正中立のような報道機関が偏向報道をし、病気を治すための薬が人間を病気にする。綺麗なビルの大企業が殺人鬼であり、正義のための戦争が侵略であり、死ぬまで離婚しない夫婦が仮面夫婦である。

 古来、大地の作物や草原の羊に話しかけ、彼らとコミュニケーションすることで糧を得た人類は、スーパーの陳列棚に置かれる死体を糧として生きるようになった。ビニールパックされた植物や動物を得るために、我々は人間とコミュニケーションをして金を得なければならなくなった。人が人を騙すという高度な知性が進化するうちに、人類は真実を隠すようになった。

 今では報道も進化し、80年前のようにウソで人を騙さなくなった。かわりに彼らは「事実」で騙すようになった(第五十八回ブログ参照)。進化し、洗練された報道は、我々を「市民(citizens)」という穏やかな夢の中に眠らせるようになった。おかげで、誰も自分が奴隷だと気づかない。我々は余計なことを考えず、仕事をし、家庭に帰り、週末はディズニーランドに行って遊べばよい。

 しかし会社で人を騙し、家庭で妻を騙し、週末は遊技場で巨大資本に騙されているうちに、我々は根本的に疲弊するようになる。その疲弊は温泉に入って治るものでもなければ、精神科を受診して癒されるものでもない。

 洗練された「市民社会(civil society)」においては、戦争は軍人ではなく航行代理店によってデザインされ(第十五回ブログ参照)、兵士は戦場で泥をすすることなく、安全な部屋で遠隔操作によって人を殺す。狙撃手はサラリーマンのように通勤し、業務を終えた後はスーパーで惣菜を買って、家族で夕食をとる(第四十四回ブログ参照)。

 高度な知性で「市民(citizens)」を騙すジャーナリストや、高度なテクノロジーで「市民(citizens)」を狙撃する軍人は、高給取りである。年収は1500万から2000万であろう。ただ、ここで当然の疑問が生じてくる。仮にそうなったとしても、我々は隷属から解放されたのだろうか。我々は自由な「市民(citizens)」ではなく、「市民(citizens)」という名の進化した奴隷なのではないだろうか。

 この隷属状態を脱する手立ては、市民革命ではなかろう。革命を成功させても、その先に待っているものはシステムのさらなる進化だからである。では隷属から脱却する術(すべ)は何であろうか。それは冒頭で述べた個人の「良心」であろう。システムが人間を支配できるのは、その物質面のみであり、「良心」は奪えないからである。