戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十二回 報道しない奴隷とその脱却法(2)

1.奴隷という鏡

 日本政府が打ち出している観光需要喚起政策である「GoToキャンペーン」は、1.7兆円という大規模予算による政策だそうだ。これが政府と電通との共同事業であることは、勘のいいひとなら新聞を見る前に気づいているだろう。そういう人からすれば、以下のような記事も「やっぱりな」というものであり、驚きはないはずだ。

 

経産省電通と10回面談 Go Toキャンペーン公募前

https://www.tokyo-np.co.jp/article/35111

 

 このキャンペーンは国内旅行を促すものである。しかし現在はコロナウイルスの感染者が増えている時期である。通常なら、以下の二つのことが問題となるだろう。

 

一.移動人口増加によるコロナウイルス感染拡大の責任は誰がとるのか。

二.キャンペーンをやめて1.7兆円の現金を生活苦の人達に配る方がよいのでは。

 

 しかし、大手マスコミも利権の成員なので、上のようなことは言わない。むしろ、政策に疑問を持つ人に対しては「余計なことを言わないでくれ」と制止する。

 

フジテレビ平井文夫上席解説委員 「行かない人が余計な口出さないでくれ」

https://hochi.news/articles/20200715-OHT1T50086.html

 

 結局、一日で約300人の感染が発生している東京を除外する形で、「GoToキャンペーン」が実行されることとなった。これにより大手マスコミにも相当の金が流れることになる。政府から電通へ広告が委託され、電通から大手メディアに仕事が流される。大手新聞の見開きページの広告料相場は約一億円である。

 戦前、気象情報は軍の機密事項だったため、台風情報は国民に報道されなかった。これによって多くの人命が失われた。戦後、コロナ情報は「村」の機密事項であるため、「村」の都合によって「危険だ」と報道されたり、「大丈夫だ」と報道されたりする。

 国民は、ある時は危険だからStay Homeだと言われる。またある時は問題ないから旅行に行こうと促される。当然、国民の命と健康は眼中にない。「村」の経済的な都合によって報道の内容は変わり、国民の行動はそれによって操作される。戦前に比べればかなり洗練されたが、マスコミに良心がなく、国民に「危険」が報道されないという構図は変わらない。

 だからといって、私は報道機関が「けしからん」のだと批判したいわけではない。戦前だろうが戦後だろうが、報道が不自由なのは変わらない。それはマスコミだけでなく、我々人間が食い扶持のためなら良心を捨てるという傾向性を持つからだ。その不変の性質が、戦争が終わり、憲法が変わることでいきなり克服されることはない。

 戦前の人間が食うために報道したのなら、戦後の人間も同じように食うために報道するだろう。戦争が終わって人間の体から胃袋が消えるはずがない。むしろ国家体制が洗練されれば、その変化に応じて胃袋戦略も進化するだろう。その戦略の餌食になれば、日本国民も新たな奴隷へと進化する。それが自分を自由だと思い込む奴隷である。

 ほとんどの国民はこの「自由」という夢の中に眠り込む。しかしそれは全員ではない。数は少なくとも、食い扶持のために良心を捨てることの「つらさ」に気づく者があらわれる。隷属状態の突破口はこの「つらさ」である。つらいことは絶対悪ではなく、重要なシグナルである。

 シグナルをもとに正しく考えれば、自分のつらさは自分が奴隷であることにあるのではなく、自分がいつまでたっても泥沼から出ないことにあると気づく。食い扶持のリスクを覚悟してその泥沼から出ることが革命である。

 自由は社会革命ではなく、個人革命として起こる。その意味では、泥沼で満足している奴隷たちの笑顔も無駄ではない。彼らの歪んだ笑顔のおかげで、繊細な感性の人間は自分の「つらさ」とその奥に隠れた「良心」に気づくことができる。

 気づいた人は、世の中を救うためではなく、まず自分を救うために立ち上がる。「報道しない自由」を行使し、大衆を縦横無尽に操作するという生き方は、他人を傷つける前に自分を傷つける。金のために自分の魂を売ることは、世の中がどうのこうの以前に、自分の人生をないがしろにしているということに気づくのだ。

 世の中が戦争をしていようがいなかろうが、国家が検閲をしようがしなかろうが、最終的には自分次第である。CIAの犬となって大衆を操作するジャーナリストは、魂を売ることの意味を教えてくれている。その姿を見ることで、他人のふりを見て我が身を正す人があらわれる。その意味では、彼らの存在も無駄ではない。腐った魂は良心の鏡なのである。

 

2.「村」からの独立

 戦前の日本では、大手マスコミは政府の御用メディアとして安定した地位にあった。現在では、大手メディアは自分たちでつくった「村」によって安定した地位にある。しかしこれは金と権力のために報道の根幹である「良心」を捨てている。

 これは健全な人間精神からすればつらい仕事である。本当のことを言いたくてこの仕事に就いた人からすれば、危険に目をつぶって沈黙し、騙しの記事を書き続けなければならない仕事はつらいものである。

 ではどうすればいいか。最も簡便な解決法は、「村」から出ることである。その例を、勲章報道から見てみよう。日本国憲法9条は、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と謳うが、日本政府はGlobal強盗に勲章を授与している。例えば2015年にはドナルド・ラムズフェルド旭日大綬章を授与している。

 

アメリカの悪玉になぜ叙勲?「ジャパン・ハンドラーズにばかり頼ることは日本の国益につながらない」

https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_20151119_56920/

 

勲章は政治的玩具か――「イラク戦犯」に旭日大綬章

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0321.html

 

 ラムズフェルドはチェイニーとともに2011年のCPAC(The Conservative Political Action Conference 保守政治活動協議会)に参加した際、ブーイングの混ざった歓声で迎えられている。つまりリベラルのみならず保守の人達の中にも、彼を戦争犯罪人と見ている人が多くいる。

 

Cheney, Rumsfeld Cheered Amid Boos At CPAC

https://www.npr.org/sections/itsallpolitics/2011/02/10/133661385/cheney-cheered-booed-at-cpac-as-he-introduces-rumsfeld

 

 大手メディアは淡々と報道し、余計なことを言わなかったが、安倍首相のお膝元の山口県の長周新聞は、「コラム狙撃兵」のコーナーで「異次元の隷属ぶり」として、歯に衣着せぬ論評を行っている。

 

コラム狙撃兵 戦争狂いに与えた旭日大綬賞

https://www.chosyu-journal.jp/column/1109

 

 長周新聞については私も詳しくは知らないのだが、ホームページの上段には「いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関」と書かれている。これが本当なら、この会社は金に困るだろうと私は推察した。

 そこで、長周新聞について調べてみたところ、やはり金は儲かってないようである。ホームページの中段を見ると「長周新聞の定期購読とカンパの訴え」と書かれている。「村」から金が流れてくるパイプがないため、カンパで経営をまわしているようである。

 

コラム狙撃兵 書ける理由と書けない理由

https://www.chosyu-journal.jp/column/12372

 

 「きみたちは食べるために生きているが、僕は生きるために食べている」とソクラテスは言ったが、結局のところ人生は何を犠牲にして何を得るかであろう。捨てることは拾うことである。何も犠牲にしないというのは人生全体を放棄していることである。時間と労力が限られた中で生きるということは、何かを削って何かに当てることである。

 朝日や読売のような大新聞は、社員に高給を配り、会社を存続させることを第一目標としているのだろう。そこに集まる社員たちも、高い給料を期待して集まっているのだろう。当然、そのような会社に真実の報道を期待しても無駄だ。だからといって意味がないのではなく、われわれもそれを大本営発表だと意識して読めば、それはそれで大本営の言葉を読めるのだから有益である。

 大新聞は金と権力を得る代わりに良心を捨てる。他方、長周新聞のような「いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関」なら、良心のために金脈は諦めなければならない。社員には貧乏でいてもらうしかない。その分、報道のために生きることができる。彼らは精神的健康を取る代わりに利益や安定経営を捨てている。

 搾取の片棒を担がなければ高給を得られない。高給がなければ家族を幸せにできない。そういう強迫観念があるうちは、Global経済に組み込まれることは避けられない。Global経済は力で対抗して勝てるものではない。一人一人の人間が、そこから個人の決断として「降りる」ことで脱却できるものである。

 個人が「村」から出れば、騙しと利益のベルトコンベヤーから逃れることができる。となると、清貧は道徳的な正しさではなく、個人の健康法ということになろう。それは世界の救済以前に、自分自身を大切にすることである。

 Global経済という怪物は、巨大である。これに徒党を組んで対抗しようとするのが社会革命であるが、人類の歴史を見ればわかる通り、そうした「数VS数」の革命はすべて失敗してきた。その意味では怪物は無敵である。しかし、怪物には唯一の弱点がある。それが個人である。無敵の怪物は気づきを得た個人を隷属化できない。無敵に見える怪物は、実は個人の精神的健康の前では簡単に消えてなくなる蜃気楼にしか過ぎないのである。

 

3.泥沼に蓮の花は咲く

 仮に「GoToキャンペーン」が中止になっても、国民に真実を知らせず、危険を知らせず、「報道しない自由」を振り回すことでマスコミが国民の命を危険にさらすことは変わらないだろう。また、彼らが大衆を洗脳し、国民を権力の都合にいいように奴隷化することも変わらないだろう。そうして生まれてくる子どもたちは、次々に「奴隷と気づかぬ奴隷」に仕立て上げられていく。栽培は永遠に続くのである。

 とは言っても、もっと大きな視点から見れば、腐敗は絶対悪ではない。そもそもマスコミと言っても細かく見れば無限のグラデーションで成り立っている。CIAの手先となった社長がいれば、何も知らない新入社員もいる。出入り業者の人達もいれば、報道にまったくかかわらない経理や総務の人達もいる。隠すことに一生懸命になっている社員もいれば、それに必死にあらがう社員もいる。各人にそれぞれの良心があり、1%の人もいれば99%の人もいる。

 こうした三千大千世界としての「マスコミ村」の中で修業し、腐敗という反面教師から人生を習い、大空へと飛び立つ人もいる。朝日新聞がCIAの手先だからといって、絶対悪とは言い切れない。私はたまたま小笠原みどりさんの以下動画を見たのだが、日本にもこのような優秀なジャーナリストがいたのかと驚いた。彼女は元朝日新聞記者である。穢土から蓮の花は咲くのである。

 

あなたも監視されている~スノーデンの暴露とは

https://www.youtube.com/watch?v=A8sM_LafZqM

 

朝日新聞は「敏腕女性記者」に逃げられた・・・

https://books.j-cast.com/2019/10/30010084.html

 

 動画の中でインタビュー役を務めている白石氏は、OurPlanetTVの代表であり、テレビ朝日系の制作会社、東京メトロポリタンテレビジョンの社員だったようだ。

 

白石草(しらいしはじめ) OurPlanetTV代表

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1535

 

 烏賀陽弘道氏も元朝日新聞の記者である。彼は著書の中で、大手マスコミの報道がなぜ脳死するのかについて書いている。

 

烏賀陽弘道(うがやひろみち) 「報道の脳死

https://www.shinchosha.co.jp/book/610467/

 

 こうした人達は大手マスコミで修業し、技を身につけた後で「村」を巣立った人たちである。彼女(彼)らを育てたのは大手マスコミという腐った「村」であるが、「村」は自らの腐敗した顔を見せることで彼女(彼)らに「こうなってはいけないぞ」と教えたわけである。

 彼女(彼)らも大手マスコミの社員だった時は相当苦労しただろう。しかし、その苦労という泥沼のなかで、彼女(彼)たちは泥沼に屈することなく、自らの技を磨き続けた。それが「村」を出た後で自らの良心を羽ばたかせるための礎となった。泥沼は良心を潰すものではなく、むしろ鍛えるものである。鍛えられた良心は、無邪気で幼稚な良心よりも強い。

 世の中を改良するものはイデオロギーでもなければ社会革命でもなく、個人の強い良心である。その強さは頑固さとも違えば無謀さとも異なる。それは一朝一夕にできるものではなく、泥沼の中で長時間に渡って鍛えられることが求められる。そうやって鍛錬された強い良心が、その人を閉じた卵から外に出し、その人の人生を輝かせる。社会はその輝きを見た他人が少しずつ変わることによって変わっていく。

 結果として、それは世界の変革となっていることだろう。その意味では奴隷の解放は可能でもなければ不可能でもなく、今、目の前で起きている端的な事実だと言える。良心の種は失われるものでもなければ、誰かによって与えられるものでもなく、誰もが既に持っているからである。