戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十四回 命の選別とトリアージ(2)

1.洗脳解除

 前回のブログで述べたように、大西つねき氏は形だけ当選しても満足しない。こう言うと、他の立候補者も次のように言うだろう。「私も形だけの当選は目指していない、当選して政策を実行するのが目標だ」と。

 普通の政治家は政策が第一だと言う。中身が薄かろうが厚かろうが、彼らの主張はとことん政策である。Give and TakeのGive(政策)を実行するために、まずは当選(Take)しなければならないと考えている。これが凡庸な政治家の思考パターンである。

 他方、大西氏は当選も政策も第一目標にはしない。当選(Take)しようが、政策(Give)を実行しようが、政権交代をしようが、我々の頭が洗脳から解放されなければ意味がないと彼は言う。確かにそうであろう。政治家も国民も洗脳されている現状において、仮に立派な政策が実行されようが、そんなものは砂上に楼閣が建つようなものである。

 では洗脳とは何であろうか。その最たるものは、我々のお金に対する勝手な思い込みである。お金はどうやって生み出されるのだろう。この世にお金が生み出される場面を頭に思い浮かべてみよう。多くの人は、財務省管轄の造幣所が紙幣を印刷している場面を思い浮かべるかもしれない(実際には国立印刷局がつくっている)。

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お札の製造工程(独立行政法人国立印刷局

独立行政法人 国立印刷局

https://www.npb.go.jp/index.html

 

 しかし、紙として印刷されるお金はマネー全体(正確にはマネーストックM2)の10%に過ぎない。90%のお金が、手で触ることができない非物質としての金(Money)である。ではそれはどうやって生まれるか。財務省が発行するのか。それとも日銀が発行するのか。

 答えは財務省でも日銀でもない。それは国民の誰かが銀行で金を借りた時に生まれる。例えばその人が銀行から百万円を借りる。銀行はその人に百万円を貸し、借主の預金通帳に金額を書く。「貸し」の100万と「借り」の100万はプラスマイナスゼロである。こうしてお金はこの世に出現する。これが「信用創造」である。

 我々が当たり前のように使っているお金は、もともと預かり証である。純金を預かった証としての証券である。だから、財布の中から一万円札を取り出して表面を見ても、そこには「お金」と書かれていない。「日本銀行券」と書かれている。

 我々は「銀行券」の意味が何かを知らない。札の意味すらわかっていないのだ。金を欲しがりながら金のことを何もわかっていない人間は、金に精通している人間からすれば奴隷である。奴隷はお金がなければ生きていけないと洗脳され、強迫観念の中で生きる。

 一般大衆のみならず政治家も洗脳されている。何もわかっていない政治家が政策を叫び、何もわかっていない国民が好き嫌いで政治家を選ぶ。れいわ新選組が万に一つの確率で政権を取っても、国民が変わらないのなら笛吹けど踊らずである。

 お金の発行の仕組みについては、以下の動画を見てもらえばいいだろう。IMF財務省は無知な我々を好きなように操作する。その結果、国民一人当たり1000万円の借金とか、そのツケは子孫が払わなければならないとか、政府紙幣を発行すればインフレになるとか、消費税を上げなければ国家財政が破綻するいったデマが大手を振って闊歩する。こうして奴隷は緊縮財政を容認し、ギリギリの状況の中で諦める。

 新型コロナウイルスの広がりによって多くの人の生活が破綻の危機に瀕しても、政府は国民一人あたり10万円を配って終わりにしようとしている。本当に財源がないなら仕方がない。しかし、あるものを「ない」と嘘をついて金を出し渋るなら、それは泥棒であるのみならず殺人である。生活苦から、今、この瞬間にも自殺を考えている国民はたくさんいる。

 もともと国家財政は国民のものである。それを「ない」と嘘をついて死に瀕した人たちに配らないという殺人がまかり通っているのは、我々が財政についてあまりにも無知だからである。政府と御用メディアがまき散らす嘘を国民が信じることで、政府の殺人行為が正当化されてしまうのだ。

 我々は大西氏を好きになる必要はない。大西氏の信奉者になり、彼の太鼓持ちになる必要はない。ただ、金の奴隷を脱却したいのなら、彼が指し示す「指」の先に何があるのか、よく知る必要があるだろう。それは彼に投票するだけでは達成されない。個人が自分の洗脳を解くことから始まるのである。

 

大西つねきの週刊動画コラムvol.6_2017.12.18:財源論をぶち壊せ

https://www.youtube.com/watch?v=ZhOwThI5fKc

 

常識が覆る!全てがわかる!背筋も凍る!世界一わかりやすいお金の仕組み

https://www.youtube.com/watch?v=r-RyAtkZdhA

 

国の借金1100兆円の大嘘|山本太郎×三橋貴明【総集編】

https://www.youtube.com/watch?v=SdQ8ATGRtHw

 

Money As Debt(日本語字幕版)

https://www.youtube.com/watch?v=PnVBwrXA990

 

2.「命の選別」はできないゆえに基準を設ける

 「命の選別」という言葉は優生思想を思い起こさせる。私自身、大西氏の思想内容についてこれまでの蓄積がなかったならば、切り取って報道されたこの発言を見て、優生思想だと思ったかもしれない。しかし、大西氏の他の動画を見る、あるいは彼の著作を読み、その思想の全体を理解すれば、彼が述べた「命の選別」は優生思想の問題ではなく、トリアージ(Triage)の問題だとわかる。

 実際、彼は令和2年7月17日の会見においても、老人介護の金が足らないなら金を発行すればいいだけのことであり、長生きしたい老人はいくらでも長生きしてもらえばいいと述べている。ここが相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月26日)の犯人が述べていたことと違うところである。犯人の優生思想は障害者福祉が国家財政を逼迫させるというものであり、彼も財政について洗脳されていたことがわかる。

 大西氏が述べていた「命の選別」の問題は、トリアージの問題である。トリアージ(Triage)とは、緊急事態における優先順位のことである。例えば戦場における野戦病院がそうである。次から次に負傷兵が運ばれてくる野戦病院において、軍医が足りなければ全員を治療することはできない。そのため軍としては、医者が現場で立往生しないために事前にトリアージを設定しておくのである。

 優生思想による「命の選別」は、経済的生産性という一面的な価値観から差を設定し、その分別の根拠について深い考察をすることなしに「命の選別」をするものである。トリアージは逆に、命の価値に差はないという認識をスタートラインとする。

 戦場では若い兵士もいればベテランもいるだろう。階級が低い兵士もいれば高い兵士もいる。男も女もいる。軍医からすれば、どれから治療していけばいいのかわからない。しかし、手が回らない場合は誰かを放っておくしかない。いっぺんに二人も三人も手術をすることは不可能だ。

 この時、あれこれ考えていたら誰の手術もできない。何も決められずにただ時間が過ぎるということは、全員を見殺しにするということである。そのためトリアージ(優先順位)を無理やりつくる。例えば早い者勝ちの原理をたてる。階級も性別も年齢も関係なく、1秒でも早く病院に入ってきた患者を優先的に治療し、残りは待たせる。

 ただ、この原理に対しては当然クレームも出る。早い者勝ちの軽・中程度の患者を治療するために、緊急性のある重傷者が待たされることになるかもしれない。1秒前の命と1秒後の命に価値の優劣はない。待たされているうちに患者が死亡したら、遺族は恨むだろう。

 結局のところ、どのような線引きをしても誰かは不利益を被ることになる。この際に医療現場がトリアージをつくったら、遺族から恨まれるのは医療従事者である。そのため国が責任をとり、現場に負担をかけないためには、医療従事者ではなく国が決めるべきである。

 もちろん、命の価値に上下をつけることは政治家にもできない。どの命も大事なのだから、そこに優劣をつけることはできないという認識は、優生思想の否定である。この否定を土台としながらも、あえてトリアージを国が決めるのは、現場で苦悩する医療従事者にツケをまわさないためである。

 戦前の日本政府は兵站を軽視したため、特に南方戦線の兵士たちは食料に苦しんだ。そのため多くの兵士が現地人から食料を略奪し、それでも足りずに餓死した。米軍と戦う前に、食料不足で死んだのである。日本人はこれを過去の出来事と切り捨てるが、こうした精神的傾向は現代の我々も克服していないと考える方が賢明であろう。

 戦前の国民は「兵隊さんありがとう」と歌った。現代の我々は医療従事者に感謝の寄せ書きを送ったり、看板を掲示する。しかし現場はそれよりも実質的な「モノ」が欲しい。戦前の兵士は食料が欲しかったし、現在の医療従事者は物資や人手や休息が欲しい。そして何よりも、そうした「モノ」が現場に行き渡るべき規定する法律が欲しい。感謝の念や一時的な義援金よりも、補給を保障する法制度が欲しいのだ。

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感謝を伝える広告(神奈川県横浜市 2020年4月29日)

 現場が四苦八苦する中、政治家や官僚は兵站の法整備を怠り、現場に苦労を押しつける。これは今だけの問題ではなく、戦前から続く日本の悪癖である。「命の選別は政治家の責任」という大西氏の発言は、そういう意味であろう。ただ、彼の言う「命の選別」の意味を理解するためには、「選別」という言葉について根源的に考える必要がある。

 

3.「命の大切さ」を学ぶという二元論

 短絡的な優生思想の観点から「命の選別」を肯定する人達は世界中にたくさんいる。ナチスドイツによるユダヤ人絶滅計画、南アフリカにおけるアパルトヘイト政策などは過去の事件として終わったものではなく、現在においても形を変えて生きている。Black Lives Matterの運動が世界的な広がりを見せているのも、優生思想が現在においても継続しているからである。

 ただ、優生思想とトリアージはまったく違う。優生思想は命に優劣をつける思想であるが、トリアージはむしろ命に優劣をつけることは不可能だと得心することからはじまる。その得心の上で、緊急事態における優先順位を法制化するのである。これは同じ「選別」であっても全く違う。

 今回の大西氏の「命の選別」発言は、主に感情的な反応から騒動になり、除籍処分へと発展した。れいわ新選組の山本代表は、「優生思想的なものは誰の心にもあり、自分の中にもある」ということから、安易に大西氏を除籍して終わりにしたくないと述べていた。

 そのため大西氏を単純に切って終わりにするのではなく、「命の大切さ」について学ぶ会を同党は開催し、大西氏も含めた同党のメンバーがそれに参加したそうである。そこで障害者福祉に携わる人達の話を聞いたりすることで、大西氏も大変に勉強になったそうだが、大西氏からすればこの流れは納得いかないものだったそうだ。

 確かにそうだろう。大西氏からすれば、優生思想について一言も語ったわけではない。彼としてはトリアージを設定すべき場面での政治家の怠慢について述べたつもりであった。政治家がきちんと仕事をしなければ、現場の人間にツケをおわせることになる。その話がいつの間にか優生思想発言として受け取られ、新聞やネットで騒動となり、「命の大切さ」についてのレクチャーを受けることになった。

 しかも山本代表が「優生思想は誰の心にも秘められており、大西氏だけでなく自分の心の奥底にもそういった危険な芽がある」と述べ、大西氏に教育の機会を与えたことで、大西氏がそれに参加すれば大西氏の心の奥底にも優生思想があるということになってしまった。

 大西氏はここに暴力を感じ、離党の意を代表に伝えたそうである。確かに、このベルトコンベヤーに乗ったままでは、大西氏の発言は彼の心の奥底にあった優生思想が表に出たものとして処理され、固定化されてしまう。

 「誰の心の奥底にも優生思想はある」という考えは、一見すると深い真理のようであるが、その実危険性を孕んでいる。というのも、「命の大切さ」をしっかりと学ぶことによって優生思想という敵を押さえつけるという発想は、それ自体が暴力的だからである。

 我々は暴力が嫌である。誰もが暴力をくわえられることを恐れ、それを避けたいと願う。しかし、二元的な世界に生きる我々は、そうした暴力の脅威から自己を守るために別の暴力で対抗しようと思う傾向がある。暴力を否定しながら、暴力で防衛しようという矛盾である。我々は優生思想という暴力を嫌悪するが、それゆえに優生思想を暴力で押さえつけるという矛盾に陥りがちである。

 山本氏は「誰の心の奥底にも優生思想はあり、自分の心にもある」と述べた。これは確かに彼の豊かな感性に基づく自己省察の力をあらわすものであろう。その共感力によって、大西氏を切って終わりにするのではなく、一緒にレクチャーを受講しようとした態度は賞賛すべき慈悲心である。しかし、それは二元的である。

 そもそも優生思想が間違いなのは、「命」を対象化して選別するからである。それを克服するために優生思想というイデオロギーを対象化し、「命の大切さ」というイデオロギーで押さえつけようとするのは、二元的な暴力の域を出ない。

 暴力が暴力を呼ぶという二元的世界の悪無限を克服するためには、非二元の観点が必要である。その次元からすれば、目の前の命が大切なのは、「命が大切」だからではなく、その命が自分だからである。二元的世界ではいくら「命は大切」だと肝に銘じても、目の前の命は自分と切り離された命にしか見えない。だから常に優生思想を心の奥底に持ちながら、命のレクチャーというカンフル剤を投与することによって悪玉菌の増殖を防ぐしかなくなる。それは悪と反省の無限ループとなる。

 他方、非二元の観点からすれば命は「選別」以前に一つである。どの命も自分である。命に優劣をつけることができないのは、命が大切だからではなく、どの命も自分だからである。自分と自分を比べて優劣をつけることはできない。これに気づけば、心の奥底にある優生思想を駆除する必要はない。優生思想に縛られる「自分」が幻想だと気づくからである。

 ただ、その気づきに至るためには、「選別」についての根源的な思考が必要である。大西氏が提起したテーマについては今回で終わらせるつもりだったが、いったんはじまると話が長くなるという私の悪癖のせいで、今回で終わらせることはできなかった。続きは次回にしたい。