戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十五回 命の選別とトリアージ(3)

1.社会的対立は個人の心の中にある矛盾の反映である

 「命の選別」という言葉は、人の心にさざ波を起こす。今回の大西つねき氏の問題も、その「さざ波」の奔流のままに進み、除籍処分によってなし崩し的に終わりを迎えた。世の中はこれで問題終結と見なしたようだが、私はこの問題を奔流と決裂で終わりにするのではなく、根本から考えなおしてみたい。

 この世界は二元論の世界である。それゆえ「命の選別」の問題も、賛成派と反対派に分かれた。山本氏を中心としたれいわ新選組は「命の大切さ」を訴え、大西氏の発言を容認できないものとして除籍処分を下した。他方、大西氏を擁護する声もネット上にあがった。「現実的には選別も必要だ」という意見が多かった。

 私はどちらか片方に賛成するのではなく、むしろ今回の事件を例にして、二元的議論が陥る必然的なパターンについて考えたい。それは、当事者が望むと望まざるにかかわらず暴力で問題を解決しようとするパターンである。

 まずは「命の選別」を許さないという方の立場を検証してみよう。この立場の根底には、「命の大切さ」や「命の尊厳」がある。それを訴える人達は、人間が持つ集団的な暴力性に警鐘を鳴らす。人類のそうした暴力性は、ナチスによる大量虐殺の歴史などを見れば、簡単に証明できるものである。我々が「命の大切さ」という考えに共鳴するのは、悲惨なカルマからの解放を願うからであり、その根底にあるのは民族の垣根を越えて我々が持っている普遍的な生命観である。

 その具体的な現れが、「山川草木悉有仏性」という仏教の有名な言葉であろう。そこでは虫も人間も「仏性」として差はない。人間が行う「命の選別」は、そこからすればエゴでしかない。しかし、こうした絶対的無差別観は、命の現実と直面した時に必ず難問とぶつかる。

 無差別だと言いながら、命は命を殺して食べる。それは野生の世界のみならず、文明化された人間の生活においても同様である。また外の自然界のみならず、内なる自然でも同じである。体の中で、細胞は細胞を殺す。無数の細菌を免疫細胞が食べることによって、個体の生命が維持される。

 この矛盾は普通の意識からすれば解決不可能な難問である。いくら感謝しながら「命」をいただこうが、「平等な命」を殺して食べるという矛盾は解消されない。従って、この矛盾はある種の諦観と結びつく。食わなければ生きていけないという現実から、「弱肉強食」という暴力が容認されていく。この容認が発展すれば優生思想となり、優れたものが生き残り、弱いものが滅びることまで容認されるようになるかもしれない。

 二元論の世の中を表面的に眺めれば、二つに分かれ、対立しているように見える。しかし観察を深めてみると、実際に対立しているのは世界ではなく個人の心であるとわかる。我々の心は葛藤する。二つの重りが乗った天秤が、常に揺れるのだ。

 例えば「命の選別」を許さない立場と容認する立場が対立する。我々はこれを見て、自分の外に対立の世界が存在していると思い込む。しかし実際には対立は個人の心の中で起きている。例えば上で述べた「命の平等」と「弱肉強食」の対立がそうである。我々は「山川草木悉有仏性」という言葉を肯定しながらも、日々命を殺して食べている。これは一人の人間の心の中にある矛盾である。

 人間も動物も仏性として同じである。と同時に、人間は命を殺して食べる。社会の対立的な議論以前に、個人の心が分裂している。分裂は天秤であり、揺れる。秤のどちらかに重りが傾けば、その人の立場は右か左かのどちらかに寄る。個人の心は揺れる天秤であり、社会は天秤の複合体である。社会の趨勢がどちらを選択するかは、秤の重さ、すなわち多数決で決まるだろう。

 

f:id:isoladoman:20200809175957p:plain

天秤

 分裂を抱えた個人の集まりが社会である以上、社会は常に対立を内包する。社会的対立は個人的分裂の巨大な反映にすぎない。我々は世界で起こる様々な分裂をどこか他人事として見ているが、あらゆる社会的対立の源泉を辿っていけば、個人の心の中にある矛盾に必ず行き着くのだ。

 

2.天秤からの解放が奴隷解放である

 例えば憲法9条改正に賛成派と反対派がいる。この社会的分裂は外から眺めるかぎり、自分とは切り離された対象世界に見える。しかしこの問題の源泉も、やはり個人の心の中の矛盾である。実際、戦争を嫌悪するのは社会という目に見えない複合体ではなく、個人の心である。命は平等であり、誰だって人を殺したくないし、殺されたくない。

 しかし、敵が攻め込んでくることを考えると、防衛力が必要だと思えてくる。泥棒の侵入を防ぐためには頑丈な扉と鍵が必要である。命は大切であり、その大切な自分の命を守るためには、強大な武器を持って防衛することが安心になる。

 こうした思考パターンは社会的な議論以前に、一人一人の心で起こる天秤の揺れである。世の中が常に不安定なのは、ここに原因がある。個人の不安定な心がそのまま世の中に反映されるのだ。戦争が起きたと思ったら平和になり、平和を享受していると思いきや戦争になる。暴力を反省し、暴力を嫌悪するかと思いきや、暴力を容認し、暴力で解決しようとする。

 それは国家の防衛政策のみならず、障害者や老人についての福祉政策も同じである。また、家庭における子育てもそうであろう。天秤は「命の大切さ」と「弱肉強食」の間を揺れる。我が子の「大切さ」を知らない親はいない。しかし思うままにならない子どもに対し、秩序をもたらすために親の強権から暴力を振るう。それは肉体的暴力だけでなく言葉の暴力もそうである。

 西洋哲学の伝統では、物事を正しく考える力を理性と言う。これは暴力で物事を解決するのではなく、むしろ暴力とは何かをきちんと考える力である。しかし、世の中では野放図な欲望を抑える力を理性と呼ぶ。これでは暴力を抑える暴力が理性ということになってしまい、哲学的な意味で言う理性とはまったく違ってしまう。

 なぜ理性のような非暴力的なものが世の中では暴力的な抑圧になってしまうのか。それは世の中の源泉である個人の心が天秤であり、天秤の揺れは力によって抑えるしかないからである。天秤に哲学的理性を期待しても無理だ。なぜなら天秤はどちらか片方に軍配を上げるしかできないからだ。天秤がなぜ命についての根源的な難問を解決できないのかというと、秤の両方に載っているテーゼがどちらも正しいからである。

 「命は平等」というテーゼも「弱肉強食」というテーゼもどちらも正しい。どちらも正しいとなれば、「正しさ」VS「正しさ」の戦いとなり、暴力で決着をつけざるを得なくなる。国と国との戦いであればそれは戦争という暴力となり、国内での戦いとなれば多数決という暴力となろう。

 暴力の犠牲者はいつでも社会的弱者であり、彼らはこうした天秤社会に常に翻弄される。社会が柔和なやさしさに傾けば、彼らは様々な形で社会から「支援」されるだろう。これが福祉政策である。しかし、社会が個人の不安定な天秤としての心で成り立っているなら、そうした「やさしさ」は状況の変化によって蛍の光のように儚く消えるしかない。

 いつのまにか社会から「やさしさ」や「命の尊さ」は廃れていき、「弱肉強食」が頭をもたげるようになる。昼の太陽が夜の寒さとなるように、いつのまにか社会は変わる。平和を謳歌し、命を尊重する社会に軍靴の音が響くようになり、不寛容と非難の応酬が波のように襲ってくる。

 多くの人々は、世の中はそういうものだと諦観するだろう。しかし、「そういうもの」なのは世の中ではない。自分の心である。現状をそのまま追認して考えないことは、哲学的理性ではない。心が揺れるままに右往左往することは天秤の奴隷となっているだけであり、人間の尊厳ではない。

 それゆえ、奴隷解放は社会改革では達成されない。形式的に奴隷解放を達成しても、そこには「市民」という名の新しい奴隷が誕生するだけである。解放は社会以前に個人で達成される。そのためには個人の心にある天秤そのものに疑いの目が向けられる必要がある。

 

3.弱肉強食に対抗する弱者の暴力

 我々の心は天秤のように揺れ、葛藤する。そして我々はこの揺れを当たり前だと思い、天秤そのものを疑わない。灯台が常に外の対象だけを照らし、決して自身を照らすことがないように、我々も対象としての右と左で迷っても、迷う自分の心を疑わない。我々が天秤に対して疑いの目を向けない限り、天秤は揺れながらも安泰である。天秤が盤石である限り、個人の天秤を反映するこの世界も全く変わらない。

 その意味では、自分が変わり、世界が変わり、新たな夜明けを迎えるためには、天秤に翻弄されて終わりにするのではなく、天秤に揺れるという心の動き方そのものが疑われなければならない。天秤を固定化したままなら、二元論の自分(世界)は地球が滅びるまで存続するだろう。逆に、新しい夜明けは水平線の先ではなく垂直として立ち上がる。天秤の揺れで迷うのではなく、天秤自体を壊してしまえば、水平的迷妄は終焉し、垂直的思考が自動的に生起するだろう。

 天秤社会が続く限り、その揺れに翻弄されるのは人類そのものであるから、そこに勝者はいない。勝ち組は物資的な次元での勝ち組に過ぎず、心の次元では誰もが負け組である。とはいっても、物質的犠牲をまっさきに押し付けられるのは社会的弱者である。

 そのため社会的弱者は常に不利である。「山川草木悉有仏性」は寛容な時代では尊重されるが、時代が変われば少数派となり、「弱肉強食」に対する諦観が広がり、その諦観が優生思想の肯定へと発展する。それに同調圧力が加われば、弱者は省みられることがなくなり、切り捨てられる。

 この危機に対して、弱者はどう立ち向かうか。その際、弱者自身が二元論者なら、強者とおなじように二元論的発想で対抗するだろう。つまり、暴力に対して暴力で対抗するようになる。例えば弱者が数を増やして少数の強者に対抗し、権利を獲得するといったやり方である。しかしこれは数という暴力で勝利する方法であるから、やはり暴力によって暴力を解決するという発想でしかない。ニーチェ(1844-1900)が言った「ルサンチマン」である。

 二元論では、二つの矛盾するテーゼの対立について、固定的な対立しか見ることができない。片方が正しいなら、もう片方は間違っているとしか考えられないのだ。それゆえ白黒つけるには、最終的には暴力で解決するしかない。戦争のみならず、多数決も暴力である。

 二元論に生きる我々は、世界を見て、そこに自らの心の呪縛を投影する。二元的な見方にとらわれている人は二元論を世界に投影する。そうなると、自然界は弱肉強食に見えてくる。ライオンがウサギを食べるシーンを見れば、ライオンが強者でウサギが弱者に見えてくる。我々が折角、原初的な宗教的生命観から「命の平等」を感受しても、二元的な世界観に固執するなら、現実世界は弱肉強食に見えてしまう。

 しかし、現実(Real)としての自然は残虐でもなければ暴力でもない。自然が弱肉強食に見えるのは、現実が弱肉強食だからではなく、二元論の色眼鏡を通して対象を見るからである。その色眼鏡からすれば、対象は「弱」と「強」の二項対立にならざるを得ない。

 これは善悪でも同じである。究極的に強弱がRealではないのと同じように、究極的には善悪もRealではない。それは断片的な「正しさ」でありRealとしての「全体性」ではない。しかし二元論にはそれがわからないため、白黒つけなければ気が済まない。

 その結果大西氏の件では、総会によって多数決がとられ、票が集まらなかった人間が除籍されるということになった。除籍処分が悪いということではないが、おそらく処分を下した総会側は、自らの暴力に無自覚であろう。

 それは「どの命も大切だ」と言いながら、問題発言をした大西氏の命(思想)は排除するという矛盾となる。もちろん、どんなメンバーに対しても一切の処分をしないというのでは、組織運営が成り立たない。それゆえ今回れいわ新選組が下した処分に対して、外野が批判しても建設的な議論にはならないだろう。

 問題は自覚的であるかどうかである。二元論的世界に疑いを持たずにいると、暴力を否定しながら、いつのまにか暴力で物事を処理するという矛盾となってしまう。もし、こうした暴力の連鎖に対して自覚的でありたいなら、二元論を脱却した視点が必要となる。脱却した視点からすれば、暴力の起源は自然界の残酷さではなく、自らの色眼鏡にあると気づく。

 ではどうすればいいか。今回それについて書く予定であったが、その前段階の部分のみで結構な分量になってしまった。次回でそれについて詳述し、終わりとしたい。