第七十八回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(22)
イラクのハラブジャ(Halabja クルド語Helebce)という町に、Hiroshima Street(ヒロシマ通り)という道がある。ハラブジャの人々にとって、広島は心の町である。ただ、日本人にとっては、ハラブジャは馴染みのない町であろう。広島とハラブジャが姉妹都市というわけでもない。しかし日本人が知らなくても、ハラブジャの人々は広島に深く共感し、思いを寄せている。
日本人のみならず世界中の人々がハラブジャのことを知らなくても無理はない。ここでの大量殺戮は、世界の沈黙(Silence)の中で行われたからだ。あらゆる国際報道はハラブジャの悲劇を無視した。無声の中で静かに殺戮が行われた。もちろん、ハラブジャの人々は沈黙とは逆であった。彼らは大声を発し、苦しみ叫んだ。あるいは喉がつまり、叫ぶことすらできなかった。
1988年3月16日、ハラブジャでは約5000人の住民が一日で亡くなった。イラク軍によりサリン、VXガス、マスタードガスなどの複数の毒ガスが撒かれたのだ。この悲劇をもとに、この町の中心にある通りが「Hiroshima Street」と呼ばれるようになった。同じようにして一瞬で多くの命が失われた広島に対して、彼らが共感したためだ。
ハラブジャでは8月になると、日本に向けた祈りの集会が催されるそうである。以下の記事を読むと、ハラブジャのカカ・シェイフさんは「日本の人達もハラブジャに向けて祈ってほしい」と述べたようだが、今の日本人が平和の祈りをイラクに届けることは難しいかもしれない。
日本には原爆が落とされ、日本人はそれ以来確かに戦争に反対である。だが、“人権”の味方というわけではない。むしろ我々日本人にとって最も慣れ親しんだ生き方は、世界的な沈黙(Silence)に同化してしまうことであろう。
【取材レポート】イラクの「広島通り」 化学兵器攻撃を受けたクルドの人々
ハラブジャと広島の違いは何か。それは広島の原爆投下は世界の人々の知らぬ間に行われたのに対して、ハラブジャの悲劇は黙認の中で行われたことである。広島の場合、原爆投下は世界的な驚きであった。日本のみならず、各国もアメリカが核兵器を完成していたことを知らなかった。一部を除き世界のほとんどの人は、事件が起きてからその巨大な悲劇性を知ったのである。
他方、ハラブジャの悲劇は、ある種の「暗黙の了解」の中で起きた。以下の記事によると、イラクの化学兵器開発には世界の500以上の企業・機関がかかわっていたようだ。そこには日本企業も10社ほど含まれる。
〈イラク〉ハラブジャ毒ガス攻撃の関与企業を調査へ
http://www.asiapress.org/apn/2012/09/iraq/post_4330/
イラン・イラク戦争は、二国間だけの問題ではなかった。その場所は「戦争」という名の巨大なビジネスチャンスでもあった。アマゾン川に投げられた生餌に群がるピラニアのごとく、各国企業は中東に集まり、人殺しのための道具を大量に売った。こうなるとマスコミも手は出せない。マスコミのスポンサーはそうした大企業だからだ。
この構造は現在でもまったく変わらない。人殺しは違法だが、ビジネスとしての人殺しは違法ではない。巨大ビジネスの一環として殺された人達の末裔は、ハラブジャで祈る。彼らの祈りは、どこに届くだろうか。天に向けられた祈りは、遠くの星に届くかもしれない。そこは、「人殺し」を知らない無垢な人々が住む星かもしれないし、「合法的な人殺し」を黙認しない厳しい人々が住む星なのかもしれない。
2.翻弄されるクルド人
それにしても、イラクのフセイン政権はなぜ自国のクルド人を大量虐殺したのか。クルド人はイランでホメイニー政権と対立している。ならば敵の敵は味方ということで、イラクとしてはクルド人と共同してイランを倒す方が論理的であろう。
しかしそこには複雑な事情がある。複雑になってしまったきっかけは、1916年に結ばれたサイクス・ピコ協定である。第一次大戦後の石油利権の分配を目論んだイギリスとフランスは、「サイクス・ピコ」と呼ばれる秘密協定を結んだ。イギリスの中東専門家マーク・サイクス(Mark Sykes)とフランスの外交官フランソワ・ピコ(François Picot)によって原案が作成されたことから、その名がついた。
これにより「瀕死の病人」と呼ばれたオスマン・トルコ帝国は、大戦後に死体の分割が行われることとなった。こうして現在のトルコの他に、レバノン、シリア、イラク、クウェートなどが旧オスマン・トルコ領地内に独立国として誕生することとなった。とは言っても、それらの国々は形式的に独立国ではあっても、内容的にはイギリスやフランスに石油を横流しするための植民地であった。
この利権闘争の中でバラバラにされてしまった民族がクルド人であった。クルド人にはもともとクルディスタンという国があった。「スタン」は国という意味であるから、クルディスタンとはクルド人の国という意味である。このクルディスタンはオスマン・トルコ帝国内にすっぽり収まっていた。
しかし第一次大戦後の分割の結果、クルド人はヨーロッパ人がつくった国境により、複数の国にまたがって住む人達となってしまった。彼らはクルド人でありながら、トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアの五つに分かれて住む民族になってしまったのである。約3000万の人口を持つ彼らは、ここから「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれるようになった。
ここからクルド内の分裂と闘争の歴史もはじまる。このような状況になれば、どの民族であってもまずは二つの派閥に分かれるであろう。おとなしくそれぞれの国で穏便に暮らそうという考えの人達が生じる一方、民族が一体になって独立国を作ろうという人達も生まれる。経済優先派の人達は独立運動に消極的であり、独立派は運動に積極的だが、民主派と武闘派とに分かれる。
こうしたクルド人の存在、特に独立派のクルド人は、どの国の指導者にとっても悩みの種となる。特に石油の出る地域にクルド人が多く住み、そこで独立運動をされるとなると、指導者としては非常に困った話になる。もちろん、各国のクルド人はそれぞれに政党を持っているために、軍事力も持つ。そのため、クルド人を内包する国家では軍事衝突の火種を抱えることになる。
逆にこのことは、各国の指導者が政治利用できるチャンスでもある。例えばイランは自国内でクルド人問題を抱えているが、イラクとの戦争を有利に運ぶために、イラク内のクルド人政党を支援し、資金や武器の援助をした。これによりイラク内のクルド人独立派は活気づき、フセインからすれば頭の痛い問題となった。
そうして悩むフセインに外国の兵器業者が近づき、様々なアドバイス、商談をした。結果、フセインはハラブジャのみならず、イラン政府との関係が深いと思われた複数のクルド人地域を攻撃した。巨大資本と一心同体の大手メディアはこのことを黙認したが、人権団体を通じて虐殺の事実は徐々に世界的に知られるようになっていった。
アメリカも一枚岩ではないので、人権派の議員たちはクルド人虐殺を非難した。虐殺されたクルド人を悼む声は高まり、結果、イラクに対する経済制裁がアメリカの下院で採択された。しかし、レーガン政権はイラクに経済制裁を実行せず、抗議するにとどまった。「イラクに対する制裁はアメリカの財界に打撃を与える」という理由であった。
アメリカは莫大な量の原油をイラクから輸入するようになっており、同時に莫大な量の軍事物資をイラクに輸出するようになっていた。イランにおけるイスラム革命以後、イランは両国にとって共通の敵となり、アメリカとイラクは互いに貿易上の重要なパートナーとなっていたのである。
結果、クルド人は独立もできず、かつ戦争に利用され、分裂と迫害の中で翻弄されている。この状況は何十年経っても変わらない。第一次大戦後にオスマン・トルコ帝国が消滅して以来、クルディスタンは復活できず、各地でバラバラに生きる状況が続いている。そしてこのバラバラのクルド人を利用するのが国際社会である。クルド人にとって、ハラブジャの悲劇は終わった事件ではない。冷酷な国際社会の欲望と無関心の中で、それはいつまた起きるのかわからないのだ。
3.イラン・コントラ事件
イラン・イラク戦争の影響を思わぬ形で受けた国が、中東から遠く離れたニカラグアである。ニカラグアはカリブ海に面した人口600万程度の小さな国であるが、1936年から1979年までソモサ朝による独裁政治が続いていた。ただ、ソモサ親子の圧政により国民は苦しんだが、政権はアメリカの言いなりだったために、アメリカからすれば良い植民地であった。
しかし、それまでの圧政に不満を抱いていた国民は、1978年、反体制派新聞の社長であるペドロ・ホアキン・チャモロ(1924-1978)が政府により暗殺されたことをきっかけに立ち上がる。ニカラグアの左派政党(武装組織)であるサンディニスタ民族解放戦線は、左派国民のみならず中道も含めた幅広い国民の支持を獲得した。この圧力により、ソモサ大統領は翌年アメリカに亡命した。これにより、43年間続いたソモサ体制は終焉した(ニカラグア革命)。
これに困ったアメリカは、CIAを通じて旧ソモサ派の軍人や少数民族、その他反政府勢力に資金援助し、ニカラグアで内戦を起こした。この時にニカラグア革命政府の転覆を目標とする政治団体(武装勢力)がCIA主導でつくられた。その組織はスペイン語でコントラ(Contra)と呼ばれたが、英語で言えばCounter、つまり対抗勢力という意味である。
これに対してニカラグア政府は、1984年5月、国際司法裁判所(International Court of Justice 略してICJ)にアメリカを提訴し、1986年6月、判決が下った。判決内容は、コントラ支援を通じてのアメリカのニカラグアに対する攻撃は、国連憲章に反したものであり国際法違反だとするものであった。つまり、アメリカの全面敗訴であった。
しかしアメリカは気にしなかったし、国際世論も一部の人権派を除けば気にしなかった。なので、CIAのコントラへの支援は判決後も変わらず、むしろ援助は増大の一途をたどった。この時、CIAがコントラに流した資金の中身には、イランからの金も混じっていた。これがイラン・コントラ事件である。
判決の前年である1985年、中東で事件が起きていた。米軍兵士が内戦中のレバノンで軍事行動中、ヒズボラに拘束されたのである。ヒズボラはレバノンの政党(武装組織)であるが、イスラム教シーア派であり、イランの外国部隊とも言える勢力である。
イスラム革命以来、アメリカとイランは国交断絶が続いていた。しかしレーガン政権は非公式でイランの革命政府と接触し、イラン・イラク戦争で劣勢に立たされていたイランに対し武器の輸出を提案し、その見返りとして人質の解放を要求した。イランは基本的にこの提案を受け入れ、人質の一部を解放し、武器をアメリカから購入した。
この時、イランからニカラグアのコントラへの資金送付の際に、アメリカのために資金洗浄に尽力した人物が、サウジアラビアの豪族であったサーレム・ビン・ラディン(Salem bin Laden 1946-1988)であった。サーレムはウサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957-2011)の兄である。また、イランとニカラグアの窓口として活躍した人物が、レーガン政権で副大統領を務めていたジョージ・H・W・ブッシュ(George Herbert Walker Bush 1924-2018)であった。
国交のないイランに武器を売るという行為、そしてそこで得た資金をニカラグアの反政府勢力に流すという行為は、本来なら大統領の権限だけで実行できるものではなかった。議会の承認が必要だったのである。承認なしに国交断絶した国に武器を売り、売った金をコントラに流し、国際司法裁判所で敗訴したわけであるから、本来ならこの事件はレーガンを辞任に追い込んでもおかしくないほどのスキャンダルであった。
しかしレーガンに対しては、閣僚やスタッフに対する管理不足という点で非難がおよんだが、世論はそれほど問題視しなかった。彼は国民に人気があった。結局、この件でレーガンが辞任に追い込まれることはなく、ほとんどの国民はイラン・コントラ事件に対して無関心であった。
これによりレーガンは8年の任期をまっとうし、93歳で亡くなった。民主党のパトリシア・シュローダー(Patricia Schroeder)下院議員は、レーガンを傷つきにくいフライパンにたとえて「テフロン大統領」と呼んだそうである。