戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第八十五回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(29)

1.兵糧攻めとその先にあるもの

 これまでイランとアメリカの蜜月の歴史、および対立の歴史を見てきた。それは従属と蜜月が同じであり、独立と対立が同じであるという歴史であった。複雑に利害が絡み合った歴史のようであるが、その実、「利害」という点では単純な歴史であった。つまり金の問題である。

 現に、イランがハタミ政権(1997-2005)のような明らかな自由解放路線、親米路線を取ろうが、アメリカはまったく相手にしない。逆にサウジアラビアのような人権無視の不自由なイスラム国家であっても、金の繋がりが深ければアメリカは最恵国として待遇する。

 結局のところ金の問題であるから、イランが現在のイデオロギーや国家体制を維持しつつも、アメリカと瞬時に国交を回復することは可能である。それは国内資源を明け渡すことである。石油や金融資産にアメリカの介入を許し、外資の受け入れを開始すれば、アメリカというマネー国家はあっという間に友好国になろう。経済制裁は解除され、逆に大量の資金が投入されるであろう。

 ただ、いったん堰を切ったように国を開放すれば、アメリカは止まることを知らずに侵入してくるであろう。次から次へと自由化と民営化を求めてくるために、資源、金融、軍事、サービス、食糧、果てはメディアや政治まで、自由化という名のアメリカナイゼーションを求めてくるようになる。その要求に対して言いなりになって対応すれば、イランは日本のようになり、独立性は完全に失われるだろう。

 だからイランは徹底的な平等互恵の関係をアメリカに求め続けているが、これはアメリカにとっては無意味な提示である。いくら儲かるのか、まったくわからないからだ。だからイランがアメリカに対して平等互恵の関係を求め続ける限り、アメリカはイランをテロ国家として指定し、敵対政策をやめることはない。

 イランにとっての最大の問題は、アメリカがイランを敵視している限り、それ以外の国とも関係が持てないことにある。アメリカがイランに対して経済制裁をしている限り、日本も含め諸外国はイランと貿易ができない(詳しくは第十一回ブログ参照)。つまり、現在のイランは兵糧攻めにあっている状態である。

 これに対して、イランは関係諸国と小さな取引を多数行うことで、経済危機を乗り越えようとしている。大口の取引ではアメリカの経済制裁という網にひっかかってしまうため、網の目を抜ける小口取引を増やすことで、何とか食いつないでいこうというプランである。

 

イラン:米国による経済制裁への対応 | 公益財団法人 中東調査会

 

 しかし小口取引の積み重ねをいくら続けても、徐々に経済はしぼんでいかざるを得ない。結局のところアメリカによる兵糧攻めは有効であり、イラン国内の不満の増加と政権批判は避けられない。こうした兵糧攻めの結果、イランが向かう方向性として必然的な相手は中国とロシアである。

 

反米で接近 中国とイランが25年間の貿易、軍事協定検討

 

イラン、中露と「反米」結束 米制裁・コロナで苦境 中国、拠点狙い巨額投資

 

 アメリカに石油を奪われないために経済制裁に耐え忍んでいるイランが、中国に対して石油を安価に供給することで、中国にとっての便利なオイルマシーンとなってしまうのかどうかは、今のところまだわからない。11月の大統領選挙で民主党のバイデンが勝てば、アメリカが核合意に再び参加する可能性がある。そのため、現時点ではまだイランの対中国政策は流動的だ。

 

中東地政学を変え得るイラン中国同盟はなされるのか

 

 状況は不明確だが、今の時点であっても明確にわかることがある。それはイランの望む平等互恵という国際関係は、マネーパワーにとってまったく魅力的ではないということだ。そうである以上、独立国同士が互いの国を尊重しなら友好関係を築いていくというストーリーはありえない。

 アメリカの代わりに中国がパートナーとなっても、新パートナーが利益に基づく収奪しか眼中にないことは変わらないだろう。マネーパワーの関係に、「友好」という観念は入りようがない。「利益」イコール「友好」であり、儲からなければ無意味なのだ。

 

2.暴力による統治と細分化された暴力による統治

 経済的に困難な状況にあることから、イランでは市民の不満が高まり、デモが起きているようである。数はわからないが、警察や治安部隊の攻撃により、市民に相当の死者が出ていることが予想される。昨年のデモでは1500人が亡くなったようである。

 

悪化する経済危機に抗議するイラン市民を警察が厳しく取り締まる|ARAB NEWS JAPAN

 

独自:イラン反政府デモの死者は1500人、米政府予測上回る|ロイター

 

 パフラヴィー朝の圧政を転覆するために、市民デモから始まり、革命によって政権を築き上げたイラン・イスラム政権が、現在は市民を武力で鎮圧する立場になっているのは皮肉なことである。アメリカの暴力から国民を解放した政権が、自らの体制を維持するために国民に暴力をふるっているわけであるから、せっかく独立を成し遂げても暴力で国民を支配しているという構図は変わらない。

 他方、日本の場合は独立を完全に放棄することで政治的安定を達成している。戦後の日本は「パフラヴィー朝ジャパン」とも呼べるような完全従属国家を成し遂げている。パフラヴィー朝イランとまったく同じように、戦後の日本はCIAのエージェントによって統治機構が確立された。

 この流れは現在までまったく変わっていない。むしろシステムは細分化され、精妙なものにアップデートされるようになった(詳しくは第二十七回ブログ参照)。白井聡氏の言う星条旗を頂点とした国体の完成である(第六十一回ブログ参照)。

 このジャパンシステムはパフラヴィー朝時代のイランとは比べ物にならないほどによくできているために、モサデク革命やイスラム革命のような国家的な大転換は起こりようがない。イランのサヴァク(SAVAK)や戦前の特高のような人民抑圧機関は必要ない。そういった物騒な装置がなくても、システムが自動的に不穏分子を駆除してくれるのだ。

 虫歯となった歯は抜かれるのではなく、虫歯の兆候が出ただけで最先端の歯科技術によって患部は削り取られ、歯自体は保存される。予防歯科のシステムが国のシステムとして徹底されれば、国民は虫歯になる機会もない。それと同じく、民間のシンクタンクと官僚とメディアと広告代理店によってアメリカ統治が実行される以上、アメリカ政府が日本支配に乗り出す必要はない。

 だからこの国ではあらゆる選挙において「独立」は争点や公約とはならない。「独立」を政治信条として訴えている政治家は、大西つねき氏くらいのものだろう。

 

2018.8.13「日本の戦後について(1)」大西つねきの週刊動画コラムvol.39

 

 日本はイランよりも経済状態が良く、戦争が起こる危険度も遥かに低いように見える。コロナウィルスによるイランの死者は約3万人であるのに対し、日本は約1600人である。デモをしても警察の発砲によって殺される可能性はないだろう。信教の自由もあり、報道の自由もある。平和憲法もあり、人権もあり、男女平等や生存権が、法律の文言上は確立されている。

 しかし日本もイランと同じように暴力機構で統治されている国であることに変わりはない。イランは独立国であるゆえに苦労しているわけであるが、日本も植民地として日々養分を吸い取られている。その背景にはアメリカの強大な軍事支配があり、それを容認して配下となって動いている日本人の暴力がある。

 日本の暴力は、イランや中国、あるいは北朝鮮やアフリカの独裁政権のようなわかりやすい暴力ではなく、遥かに洗練されたものである。それは自由と民主主義と公平な選挙の手続を通過した先進的な暴力であり、見た目にはわかりにくいものである。しかし内実はわかりやすく、金持ちを優遇し、弱者にムチを打つ暴力である。

 しかし微細で巧妙なムチ打ちはあまりにも洗練されているため、打たれている国民は自分がムチで打たれていることに気づかないかもしれない。だがムチなのは変わらない。国民が気づかなくても養分の吸い取りは日々確実に行われ、国民がボロ雑巾のようになって働いて築き上げた富は、外国の金持ちに吸い取られていくのだ。

 

政府の成長戦略会議に竹中平蔵氏や三浦瑠麗氏、デービッド・アトキンソン氏

 

菅・アトキンソン内閣が始まった | 三橋貴明オフィシャルブログ

 

3.絶望的な状況が我々に求めているもの

 この暴力のシステムは植民地にだけ適用されるものではない。植民地からたっぷりと養分を吸い取った宗主国でさえも、多くの人々が貧困にあえぐ。吸い取った栄養のほとんどが1%の富裕層に行くのみだからだ。

 世界第一位のGDP大国のアメリカ国民の生活レベルはマカオアイスランド以下であり、世界第三位の日本人の生活レベルはイスラエルニュージーランド以下である。

 

世界の1人当たり名目GDP 国別ランキング・推移(IMF)

 

 日本は植民地である以上、日本人のための国ではなく、宗主国のための国である。だが、宗主国宗主国の国民のための国ではない。富はごく一部が独占している。その意味では、もし独立国というものをその国の国民が主権を持ち、主権者の刻苦精励の仕事の成果が主権者に還元される国であると定義するなら、アメリカも含め、世界には独立国はほとんど存在しないということになろう。

 私はこれまで、TVや新聞が隠そうとする内容について論じ、国際政治の本当の在り方を追究してきた。それは半面、陰謀論であろう。私が述べてきたことはディープステイト(Deep State)についてであり、各国の大統領や首相が国を統治するという既存の見方に対する否定であり、大手メディアが報じる国際報道とまったく異なるものだからだ。

 しかし、半面は陰謀論ではない。なぜなら、世界の人民が陰の政府に気づき、これを皆の連帯と運動によって世界革命を起こすことで、自由と平等が保障された理想的な世界が現出すると、私はまったく思わないからである。

 ロスチャイルドやロックフェラー、その他国際金融資本家たちをその玉座から引き摺り下ろし、彼らを全員死刑にしたところで、世界は理想的なものとはならないだろう。むしろ暴力による暴力の打倒は、フランス革命後の王亡き後の皇帝の出現のように、自己矛盾に陥るだろう。

 ならば我々は打つ手なく、このままワン・ワールド(One World)の完成を指をくわえて見ているしかないのか。奴隷のように働き、年貢を金持ちに献上し、贅沢を極めた富裕層がさらに金持ちになるために生きるしかないのか。

 私はこの点、国際政治の在り方を学ぶうちに、そうした絶望的観点から反転する観点を獲得した。それは厭世でもなければ諦観でもなく、延命でもなければ享楽でもない。現実逃避でもなければ奴隷根性でもない。それは古い革命観からの根本的な転換である。

 この完全に閉塞的な世界状況は、我々に不幸のどん底で奴隷として生きよと命じているのではない。むしろこの状況は、これまでの価値観や考え方からの革命的な転換を、我々一人一人に促している。我々は新しい時代の入口に立っている。それは、革命を多人数で実行するものだと思い込む癖から、自分自身を解放する時代のことである。

 いつの時代においても、支配層による圧政に苦しんだ人々は、革命による政府の転覆や、選挙による政権交代を夢見てきた。しかし自民党が座る椅子の主を、日本新党に変えようが民主党に変えようが、何も変わらなかった。それはこれから訪れる衆議院選挙で野党が勝とうが同様であろう。

 そのような歴史的教訓に鑑みれば、革命とは大量の人間の動員と派手な情報戦によって起こすものだと考えるのは時代遅れであろう。これからの革命は、個人の静かな生活から起こるものであるはずだ。社会革命は派手に打ち上がった挙句に素早く廃れるものである。どんなに巨大な革命であっても、個人の生き方に深く根差さないものは、夏の間だけ大きな音で響き渡る蝉の声のようなものであり、来ては過ぎ去るファッションのように虚しい。

 我々は政治という言葉を聞くと、選挙に行って投票するか、政治家の選挙活動を支援するか、あるいは自分が立候補するかという行動を思い浮べる。しかし、それは投票者、支援者、立候補者という立場に限局されたものにしかすぎない。我々がそうした立場主義に思考を依存している限り、巨大システムには何ら綻びは生じないので、世界の搾取システムは何も変わらないであろう。

 むしろ閉塞的な状況が提示する革命的な視点は、全人類の連帯とは逆のものであろう。それは個人が世界であり、世界である個人が、個人である世界という宇宙を更新するという生き方である。我々は絶望の中からこの視点に目覚めることによって、閉塞した世界状況から一瞬のうちに抜け出すことができよう。詳しくは次回に述べたい。