戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第八十六回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(30)

1.イランの歴史から見える三つのパターン

 前回までは、第三次世界大戦の引き金になりうるアメリカとイランとの対立関係について見てきた。両国の対立については大手メディアも頻繁に報じており、世界中の注目が集まっている。しかしメディアは両国の政治的、軍事的な対立を事件として報じるのみであり、それによって人々の心に印象づけられるものは「対立しているんだ」という表面的な事実のみである。

 こういった事実の断片群が情報として浮遊するなか、ただそれを眺めているだけでは、いつまでたっても対立の原因はさっぱりわからない。そのため私は自分で調べてここに記述してきた。調べてゆくにつれて、イランにはイスラムのイメージの奥に本当の顔があることがわかってきた。それはイランの大衆のエネルギーであり、植民地支配からの脱却と民主主義に対する強い思いである。

 表層的に見ると、イスラム世界は常に欧米と対立しているように見える。イスラム教徒による無差別テロのニュースが世間を賑わす。中東の歴史に興味のない人達からすれば、イスラム教徒は非常に狂信的で、攻撃的な人達に見えるかもしれない。そのようなイメージからすれば、イラン人のアメリカに対する反発も狂信的なものに見えるかもしれない。

 しかし、イラン国民が求めてきたものはアメリカとの喧嘩でもなければ、イスラム原理主義でもない。彼らは独立と民主主義を希求してきた。その熱が最高潮に高まり、イランの民衆により打ち建てられた政府が、モサデク政権であった(第五十回ブログ参照)。

 しかし独立と民主主義の象徴として建設された新生イランは、線香花火が燃え尽きるようにあっけなく消失した。消失の原因は戦争でもなければ災害でもなく、情報操作であった。アメリカは武力でイランを侵略したのではなく、情報操作によって占領した。それがアジャックス作戦であった(第五十一回ブログ参照)。

 この作戦は英米のインテリジェンス(Intelligence)が持つ巨大な力によって生み出されたものであった。彼らはイエズス会の発足以来、他国を侵略し支配するメソッドを研究し、方法論を確立してきた。アジャックス作戦は彼らの歴史的な知見の積み重ねが具体的に現れた成果であった。

 この知見の中心にあるテーゼが「分断して統治せよ」という指針である。これは植民地支配における鉄則であり、この鉄則を基盤として実行されたアジャックス作戦は、イランで行使された一過性の作戦ではなく、現在でも用いられている手法である。

 当時のCIAは「モサデクは共産主義だ」というデマをイランで滝のように流したが、この単純な作戦は世界中のどこでも有効であり、現在の日本でも使われている。独立と民主主義を希求する植民地の知識人を無力化するためには、殺し屋は必要ない。「左翼」「共産主義」「朝鮮人」というデマを流すだけでいい。あとは放っておけば、日本人が日本人を攻撃してくれる。アメリカ人は何もしなくていい。

 

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 CIAの情報戦によって混乱させられたイラン国民は、長年の希求の結果手に入れた独立民主主義国家を自分から手放した。その後アメリカの植民地として欧米化し、発展したイランであったが、一部のカポーしか豊かになれない国の在り方に対して、大衆は憤った。その怒りをうまく吸収する形で急激に巨大化したものがホメイニー派の政治勢力であった。

 彼らはそうした怒りの洪水をうまく取り込み、その流れに乗る形でパフラヴィー王から政権を奪った。しかし、天下を取った後は抑圧の玉座に鎮座した。ホメイニーの右腕として活躍したバニーサドル元大統領は、ホメイニーについて、「亡命中は私と同じ国家像を描いていたが、権力を握ると変わってしまった」と述べている(第六十九回ブログ参照)。

 結局のところ、イランがアメリカと対立しながら辿ってきた歴史的筋道は、イランにだけ限局されるものではなく、国の在り方としての普遍的なパターンを示していると言えよう。そのパターンは次の三つである。

 

(一) 大衆による独立と民主主義が達成されても、CIAのメディア操作によりあっけなく瓦解するパターン。

 

(二) 独立と民主主義を諦め、宗主国に搾取されながら、カポーが宗主国の「おこぼれ」を貰って植民地における奴隷隊長となり、残りの大衆は小さな幸せを求めながら耐え忍ぶというパターン。

 

(三) 革命により暴力的独裁政権を打ち倒し、独立を果たしても、新政府が強圧的に国民を支配するというミイラ取りがミイラになるパターン。

 

2.高度に洗練された植民地

 上記(一)から(三)のパターンは、イランのみならず世界中で起きていることである。ニカラグアではCIAから資金援助された反政府組織であるコントラが暴れまわり(第七十八回ブログ参照)、チリのアジェンデ政権はCIAによって潰された(第八十二回ブログ参照)。イラクサダム・フセインはCIAによって雇われた殺し屋であり、彼の目的は石油の国有化を企図したカシムを暗殺し、政権を瓦解させることであった(第七十回ブログ参照)。

 日本の場合はパフラヴィー朝イランよりも遥かに洗練された植民地なので、(二)として完成されている。CIAは自らの手をくだすまでもない。反乱分子は日本の優秀なカポー達が連係して駆除する。例えば経済学者の植草一秀氏は、日本の郵便局がアメリカの資本家に奪われることに反対したため、カポー達の手によって牢屋に入れられた(第三十六回ブログ参照)。

 こうした例を見てもわかる通り、日本は植民地の先進国であり、極めて優秀な国家である。そのため、日本ではモサデクのような人物が表に出てくる前に駆除される。それはCIAが優秀だからというよりも、日本のカポー達が優秀だからである。現に、アメリカはパフラヴィー朝の経営に失敗しているが、日本の植民地経営は戦後70年以上に渡って傷一つない。

 イランは(一)から(三)の過程を経て、現在はアメリカによる兵糧攻めと、ミイラ化したイスラム政権の圧制により苦しんでいる。他方、日本の場合は(一)と(二)があまりにもうまくいっているために、恐らく(三)の苦しみを苦しむ機会すらないであろう。

 これには日本人の成功体験が深く絡んでいる。日本人の心には、精励刻苦の精神で戦後の焼け野原から復興を成し遂げたという自負がある。物事を考えるよりも目の前のタスクに一心不乱に取組むことが良いとされてきており、実際それによって驚異的な経済発展を成し遂げてきた。

 しかし、それはある種の条件下において成り立つ成功法であった。つまり、戦後は日本だけでなくヨーロッパも焼け野原であり、ソ連や中国のような共産国家はグローバル経済圏から外れていた。インターネットもAIもIOTも存在せず、サービス産業は未熟であった。しかも、すぐ隣の朝鮮半島朝鮮戦争で焼け野原となり、日本人の刻苦勉励の精神にとっては大きなチャンスであった。

 日本はこの絶好の機会を逃がさず、しかも戦争、紛争、石油の奪い合い、安全保障、軍事ビジネスといった領域は全てアメリカに任せる形で、ひたすら工業生産力の向上に邁進した。結果、1990年にはアメリカと日本の二国だけで世界のGDPの4割を占めるという驚異的な数値を示すようになり、日米同盟は世界の中心となった。

 

図表で見る世界経済(GDP編) ~世界経済勢力図の現在・過去・未来:基礎研レター

 

 しかも当時の日本は貧富の差が少なく、莫大な中間層を抱え、巨大な消費市場を形成していた。つまり、日本は奇跡的な成功を成し遂げたことにより、アメリカ社長を補佐する専務という立場に完全に満足していた。この成功体験があまりにも凄まじかったために、アメリカに追従しながら黙々と働くという生活システムを、時代の変化によりアップデートが迫られているにもかかわらず脱却できないでいる。

 現在の日本は1990年と違い、貧困大国である。アメリカが格差社会であり、1%の富裕層が富を独占していることは有名であるが、日本もそれに次ぐ二位であり、格差社会である。

 

G7で2番目に高い日本の相対的貧困率。そこで何が起きている?|日経ビジネス

 

 ただ、この悲惨な結末は、わかる人にはわかっていたので、警告はされていた。石井絋基衆議院議員は、「日本が自滅する日」(2002年 PHP研究所)において日本の未来を描写していた。だが彼の未来予測はあまりにも正確だったために、彼は殺されてしまった。同著は現在品切れ重版未定である。

 

日本が自滅する日|書籍|PHP研究所

 

3.誰が閉塞感を感じているか

 こうした状況を鑑みると、現在の我々は極めて閉塞した状況にあり、出口のない状態に置かれているように見える。しかし、閉塞していることと閉塞を感じることは異なる。誰が閉塞を感じているだろうか。まずは、現在の日本がいくら閉塞状態にあろうと、それを実感している人は一部であるという事実を確認しておこう。

 金持ち層はどうであろうか。2015年の安倍政権誕生以来、日本の富裕層はより金持ちになっている。安倍政権が金持ちを優遇する政策をとってきたことは、このブログの読者ならよく知っているであろう。失業率は減っているが非正規雇用が増え、大企業は優遇され、株式の利益に対する税金は減っている。消費税は上がったが、負担は均等ではなく、主に不利益を被っている層は中小零細企業経営者たちと貧困層である。

 

貧困層とお金持ち「アベノミクス恩恵」の大格差|国内経済|東洋経済

 

安倍首相「消費税上げても大企業・富裕層に増税はダメ」443万回再生の動画が暴露

 

 日本の金持ち層は閉塞感どころか、解放感を抱いているかもしれない。これと同様、成功しているベンチャー企業の経営者も閉塞感を苛まれていないだろう。彼らからすれば、貧困の原因は貧乏人の努力不足ということになるかもしれない。ビジネスの勉強を日々積み重ねた彼らからすれば、成功は自分自身の努力の成果という自負があるからだ。そういう思考法が板についた人間からすれば、現在の世の中に閉塞感を見つけ出すことはかえって難しいのかもしれない。

 高い給料を得ているカポー達も同様である。貧富の差が開く世の中を見れば見るほど、彼らは「自分たちは助かってよかった」という感慨を抱くかもしれない。世界の大洪水の中でノアの箱舟に乗ったような心境である。これも閉塞感というよりも幸福感であろう。

 つまり、大企業経営者、ベンチャー企業経営者、官僚、医師、弁護士、大学教授、メディア関係者、大企業の正社員といった「勝ち組」からすれば、長期のデフレで物価が安く、高収入の中でそれらを消費できるこの国は、閉塞とは反対の住み心地のよい国かもしれない。

 では貧困層はどうか。非正規雇用の低賃金の中で高品質な仕事を成し遂げる彼らこそが、この国の屋台骨を構成し、「勝ち組」の心地よい暮らしを支えている影の功労者であるが、彼らは日々の生活で精一杯なため、この国が閉塞しているかどうかについて考える余裕はないだろう。労働と食事と睡眠の自転車操業の中で生きる当事者にとって、閉塞感を感じる機会は意外に少ないかもしれない。

 となると、閉塞感を強く感じる層は、ある程度経済的に余裕があるが、カポーとして活躍中というわけでもないという層の人達だろう。富裕層でもなければ貧困層でもなく、現役でバリバリ仕事をしているわけでもないという層は、学生または年金生活者かもしれない。そういった層の人達が、このブログの主要な読者かもしれない。

 

4.陰鬱とした無力感からの脱却法

 そう考えると、客観的には閉塞状態にある世の中においても、実際に閉塞感を抱く人は意外に少ないのかもしれない。戦後の日本は焼け野原から奇跡の経済的成功を収めたが、広島や長崎では被爆の後遺症に苦しみ、すぐ近くの朝鮮半島では戦争で300万人が死んでいた。沖縄はアメリカに占領されたままであった。

 そうした苦しみを無視しながら経済発展に邁進した多数派の日本国民は基本的に薄情であり、人のことはどうでもいいと思う心性は世の常かもしれない。これはディープステイトの支配層からすれば好都合である。なぜなら、支配の鉄則は常に「分断して統治せよ」であるから、一億二千万の国民の一人一人が「分断」していることは支配の土壌として最高だからだ。

 薄情な国民は宗主国からすれば統治しやすい。全体の利益よりも目先の利益ばかりに注目する国民性は、宗主国の侵略以前に、生まれながらにして売国奴としての才能を持っているのだ。だが、イランが一枚岩でないことと同じように、日本国民も一枚岩ではない。

 「私は大企業の正社員だから他人のことは関係ない」と割り切れる人がいれば、そうでない人もいるだろう。割り切れないパターンの人は、この世界はどこか「おかしい」と感じている。そういう人は、このブログを読む前から直観的に感じているのだ。

 知識を得てから疑念を持つのではない。だからこのブログが提示する知識は、その直観を上塗りのものとして補佐するに過ぎない。大事なものは知識ではなく、理論以前の「おかしい」という直観の方である。

 強い感覚を持っていた人からすれば、このブログはその直観を後押しし、理論づけ、体系だてるものであるから、強い解放感をもたらしたかもしれない。だが、知れば知るほどに気持ちが暗くなったという人もいるだろう。

 そういた陰鬱とした無力感についてはどうすればいいだろうか。この閉塞状態を一挙に解決する最善、最高にして、唯一の方法は何か。私はそれについてのキーワードは、「怒らないこと」だと述べたい。世界の人々から搾取する国際金融資本家、そしてそれの手下となって日本国民にムチをうつカポー達。彼らに対しては、「怒らないこと」が肝要である。

 私はこれまで一年以上に渡り、国際金融資本家、ディープステイト(Deep State)による搾取のシステムについて述べてきた。なので、このブログの読者の方々中には、支配者層に対して相当の怒りを溜めている人もいるかもしれない。

 しかし、私が言いたいことは彼らに対して怒ることでもなければ、そうした怒りを原動力にして市民革命を起こすことでもない。もちろん、知らぬが仏で奴隷状態のまま生きることはよくない。かといって全てを白日の下で知った結果、怒りに燃えて革命運動に走るだけでは、過去の失敗パターンを辿るだけである。

 駄目なものは駄目だと指摘することは大事である。同時にまったく怒らないというのも大事である。これは大人が子どもに対する態度である。そこには愛に基づいた叱責がある。子どもと対等の立場に立って怒ってしまっては、子どもとの喧嘩が展開されるに過ぎない。そこに子どもの反省や改心が生じるはずがない。

 支配者層が行っていることは間違っている。だから叱責は必要である。しかし怒ってしまっては意味がない。我々が支配者層に対して愛を持って接する時、そこには喧嘩ではなく幸福がある。悪の野放しは冷酷な無関心に過ぎず、悪に対する服従は奴隷にしか過ぎない。悪に最も必要なものは怒りや喧嘩ではなく、愛情をもとにした理解である。悪を理解する時、それを理解するこちらの方も慈悲となる。

 とはいっても、この説明だけではまだ空疎な理想論に見えてしまうだろう。これが空想な理想論ではなく、唯一の現実的な方法として確立するためには、現実的な実践道が必要である。私はその実践としての道を、「一人でやる民主主義」と呼びたい。

 もちろん、常識的に考えれば「一人」という言葉と「民主主義」という言葉の組み合わせは語義矛盾である。「民主主義」という言葉は、多数の国民による実践を意味するものだと一般的には考えられているからである。ではなぜ、「民主主義」が「一人」で行われなければならないか。これについては説明が必要である。今回は記述が長くなってしまったので、次回以降に詳しく論じていきたい。