戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第八十九回 一人でやる民主主義(3)

1.「転回」の重要性

 前回のブログにおいて、書き込み欄にJobimさんという方が感想を書いてくれたが、そこに興味深いテーマが見えたので、今回はそこから話を始めてみたい。Jobimさんは次のように書いている。

 

「金融の世界から時々垣間見えるこの世の中は、どうも長年当たり前と思っていたものとは違うことに15年前に気付き、歴史その他いちから調べ直して愕然としました。」

 

 この文から察するに、氏はこのブログと出会う以前からディープステイト(Deep State)について相当に詳しかったようだ。大手メディアの洗脳に満足せず、自分で調べて納得するための作業を15年前から続けているというのは凄いことである。ただ、要点はそこではなく、次のことであろう。

 

「無力感や怒りに苛まれた時期もありましたが、そちらと敵対する波動を持つことは、ともすれば、ダークサイドに引き込まれることになると思い直し、ここ数年は、自分の平和から家庭の平和、そして職場の平和を少しずつ実現しているところです。」

 

 この「思い直し」は極めて重要なポイントだと思われるので、今回はこの点について述べてみたい。大手メディアの洗脳に満足せず、この世界の裏側を覗くという意思を持つ人はそれなりにいる。実際、我々はそうした情報にアクセスしやすい環境にいる。インターネット上では真実を暴露するサイトが星の数ほどあり、書籍も多く出ている。書店で出費したくない人は、図書館で調べればよい。

 しかし暴露の世界に引き込まれて行くことは、危険なことでもある。強烈な二元論の世界に引きずり込まれるからだ。支配者層の策略を知ることで、自分も含めた無辜の大衆が一方的な被害者だという善悪二元論が喚起される。また、本当のことを知らず、知ろうともしない人々が、いいように支配者層に操られている場面を見ることで、愚かな大衆と真実を知る少数派という賢愚二元論が喚起される。

 この二元論のパワーが起爆剤となり、強烈な正義感が喚起され、大衆運動が起こるかもしれない。市民運動グループが形成され、デモや抗議活動が起こるかもしれない。あるいはそうした大規模なものでなくとも、ブログや動画などで個人の啓発活動が行われ、それに賛同する小さなグループが次々と形成されるようになるかもしれない。

 しかし、正義感の盛り上がりは一時的なものに過ぎず、夏の線香花火のように儚いものである。統治者は「分断して統治せよ」の原則を貫けば、そうしたグループをバラバラにし、小さくしながら無力化することができる。あるいは統治者が手を下さなくても、勝手に分断が起こり、瓦解していく。

 自分たちを「正義の集団」だと思い込むことの危険性については、我々は「あさま山荘事件(1972年)」などで数多く見ている。最初、「正義の集団」は団結して盛り上がるが、しばらくすると内ゲバを起こし、弱者同士で争うようになる。

 これにより、善意で行動を開始した運動家もやる気が失われ、無力感に苛まされることになる。こうなると、大手メディアに洗脳されたままの何も知らない奴隷だった頃の方が、遥かに幸せだったのではないかと思えてくるようになる。

 結局のところ集団的民主主義の運動という巨大な列車は、正義感の盛り上がりとその果ての無力感という決まりきったレールの上を走ることになる。我々人類の歴史は、この鉄道運行を飽きもせずに無数に繰り返してきた。この永久歯車(輪廻転生)から解脱するための方法が、「一人でやる民主主義」であり、集団に頼らない個人の気づきである。

 Jobim氏は怒りや無力感から思い直したと述べているが、これがまさしく輪廻鉄道からの下車であり、極めて重要なターニングポイントだったのだろうと思われる。その「思い直し」は「転回」のことであり、集団の視点から個人の視点への「転回」である。もしこの「転回」がないなら、パターンは見えており、個人は集団列車による集団自殺のゴールに向かって粉々になる。

 これまでの人類は「正義の夢」を無数に見てきた。ドン・キホーテの如くに巨大な城に立ち向かい、砕け散ってきた。もちろんそうした玉砕にもカタルシスはあるだろう。しかし、蜃気楼の中での興奮に過ぎない。夢から醒めるためには集団の正義ではなく、個人の気づきが必要である。それが「思い直し」、すなわち「転回」に他ならない。

 

2.ダークサイドの対処法

 この世界は学校の教科書やNHKの報道が教えるような民主的な世界ではない。それはアフリカやアジアの独裁国家だけでなく、欧米や日本のような先進国にも当てはまる。その真実を知った時、人はそれまでの自分が抱いてきた世界観が洗脳に過ぎなかったことを知り、愕然となり、怒りが湧いてくるだろう。それは人間として当然の反応である。

 しかし、それによって自分が悪を倒すための正義となってしまい、善悪二元論の世界に迷いこんでしまうのなら、これまで無数に失敗してきた正義の運動と同じく、無限ループに取り込まれてしまう。真実を知ったことで苦しみの輪廻として回転するだけなら、何も知らない農民の方がましかもしれない。

 知的好奇心が誘うままに真実を知るうちに、いつの間にか怒りと虚無のループにはまり込み、不自由となる。それは知ることの最終目的地ではない。もし怒りと無力感がゴールならば、何も知らない方が「知らぬが仏」の精神的健康を保てるということになるだろう。

 Jobim氏の言う「ダークサイド」を知ることの意味は、それを知り、それと戦うことではない。戦った瞬間、ダークサイドは自分の外にある敵となる。しかし本当のダークサイドとは外にある敵ではない。戦うことで自分と離れた外部にしてしまうが、本当のダークサイドは誰の心にもあるものであり、当然私自身にもあるものである。

 ディープステイト、支配者層、国際金融資本家、ロスチャイルド・・・呼び方は何でもいいだろうが、超絶的な悪知恵システムによって最高の権力を握っている金持ちたちがいる。彼らをどうして私が理解できるかと言えば、私の心にそうしたダークサイドが欠けることなく全て揃っているからである。つまり彼らの悪は、私の心の直接的な反映である。

 次々に進化しながら現れる手練手管を見る毎に、私は「そう来るか」と驚きながらも、深く納得する。それは将棋の手筋のように合理的である。それら走馬燈のように展開する策略を眺めながら、怒りを持つことなく冷静に考えることができるのは、私が「彼ら」のダークサイドと敵対するからではなく、自分のダークサイドと向き合うからである。

 私は国際金融資本家ではない。しかし彼らである。私が彼らの仲間でないのは、私が善人だからではない。私と彼らの間で無数の境遇が異なり、仏教で言うところの「縁」がなかっただけである。つまり、たまたま私は悪事に手をそめていないだけだ。人間のダークサイドを知れば知るほど、それは他人事ではなく、自分自身のことだということがよくわかってくる。

 これは、悪を安易に許すとか、あるいは放置することを推奨する考えではない。私の心に殺人者の要素があるとしても、実際にそれをやるなら私は自分の行いについて責任をとらなければならない。ダークサイドは放置されるべきではなく、共感されながらも対処されるべきである。

 ダークサイドを自己から切り離し、自分の外側に存在する「悪」として見る方が、結果として対処に困ることになる。外側の存在は、自分の力ではどうにもならない怪物となる。逆に、怪物が自分の中に住んでおり、慣れ親しんだ存在となるなら、それなりに対処することも可能であろう。

 悪を外側に置くことは、悪を自分の手のひらから離すことで肥大化させ、自分の外側で好きなように暴れさせることとなる。これは禅の十牛図で言うところの第四図「得牛」であろう。

 

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十牛図 第四図「得牛」

十牛図 | 禅のこみち――萬福寺

 

 我々が集団としての国民主権を勝ち取るために、外側にあるディープステイトと戦い、分断政策と内ゲバの末に滅びていくという過程を繰り返すことは、延々と「得牛」をやっているということである。外側に存在する牛と戦うことは、刹那的な興奮とカタルシスがあっても、根本的には疲労である。だから、原発反対や基地反対などのあらゆる市民運動は、最終的には困惑の中で深い疲弊に陥るのである。

 ここで人間の心を救うものは刹那的な選挙の勝利ではなく、個人の心の「転回」である。個人の心が「得牛」から「牧牛」、「騎牛帰家」へと転回し、最終的に「入てん垂手」へと転生すれば、その人は世界と出会い、出会われた世界はそこから変わってゆく。その時、世界は「救われる」のではなく、新しく「生まれる」のである。それが、救済は必要ないという気づきによる救済である。

 そのためにも、ダークサイドを自分から切り離して戦わないことが重要である。切り離せば、それはどんどん膨らみ、自分では対処不可能な巨大な化け物となってしまう。「悪と戦う自分」という構図を自分が作り上げてしまえば、その先に待っているものは悪に負ける自分、あるいはミイラ取りがミイラになるという自分である。戦う自分から「転回」し、「思い直す」ことが重要なのだ。

 

3.己事究明の三つのステージ

 世界の真実を暴くことを目的としたインターネットのページはたくさんあり、百花繚乱である。ただ、一見バラバラのサイトにも共通点があるように思える。それはディープステイト(Deep State)に対する怒りであり、正義感である。隠れた権力を暴き、主権を人民の手に取り戻したいという意図がそこにはある。

 この点、このブログはそうした「正義感」から始められたものではない。もともとの動機は私の個人的な事情にある。私は東京に住んでいた時に、哲学について語り合う人達がいたが、沖縄に移住したために会える機会は減った。

 そこで、会って話すことができないことの補填として、ブログを書き、それを読んでもらうこととなった。そのため、最初このブログは三人にしかURLを教えていない。もともと不特定多数の読者は想定していなかったのである。

 それがいつのまにか予想外に多くの方々に読んでもらえることとなり、大変にありがたいことであるが、人数が増えたからといって当初の目的が変更されることはない。このブログの目的は裏社会の暴露でもなければ都市伝説について語ることでもなく、大衆が団結して支配層を打ち倒し、新しい政権を建設することでもない。

 そもそも私が東京で少ない人数で集まっていた目的は、親しい友人同士でお茶会をすることでもなければ、哲学同好会をすることでもなかった。それは自分が自分を知り、自分となるための真剣な運動であった。そこには自分を横に置いて「より良い未来」と「世界」を作るための余裕があるわけがなく、ひたすら自己の探究(禅で言う己事究明)しかなかった。

 私が己事究明において哲学や宗教哲学のテキストのみならず、実際に目の前に展開している国際情勢も素材としたのは、それらが別物ではなく一体として繋がっているものであることに気づいたからである。

 現在の世界支配の構造、その在り方は、偶然のものではなく、ある意味必然のものである。支配構造は最先端の頭脳によって編み出されたテクノロジーであると同時に、エゴ(ego)としての自我の構造の反映でもある。

 それは苦しみの構造でもある。仏教ではそれを「業(ごう)」と言い、キリスト教では「原罪」と言う。その特徴は、勝ち組も負け組も「苦」であるという点にある。もちろん、勝ち組は物質的な不足の苦しみはないだろう。しかし心の平安はない。だから彼らはいつまでも金を稼ぎ続けるという無間地獄を生きる。それは、世界から切り離された「自分」という蜃気楼を守るための徒労である。

 それゆえこのシステムがいくら進化を重ねても、真の意味で心の満足を得る人はどこにも生じない。それは約2500年前に釈迦が洞見した通りである。彼は王宮も貧困層も等しく苦しみであると見抜いた。この洞察を現代的な状況に当てはめ直し、その苦境からの離脱の筋道を示すと、次の三つのステージとなるであろう。

 

(一) 無自覚の大衆

世界支配構造の真実を知らず、学校教育や社会的慣習、大手メディアの情報に洗脳されているステージ。知らない、あるいは知らないフリをして、勉強やスポーツ、友人関係や恋愛、仕事、結婚、子育てに夢中になり、支配者層から都合よく搾取されている次元である。

 

(二) 正義の市民

 この搾取構造に気づき、政府発表や大手メディアの報道のカラクリに気づいたステージ。この次元の人間は、世界のほとんどの人間が巧妙に騙されていることに気づいているため、世界の人々に真実を伝え、この世界を少しでも良くしていきたいという善意を持つ。しかし「より良い未来」を夢想し、善意が攻撃的な正義感に転化することで、内ゲバを起こし、支配者層に負ける。

 

(三) 転回した個人

 世界の搾取構造に気づきつつも、それに対する自己の反応に注意を向けるステージ。この次元の人たちは、自己の世界に対する反応が怒りや攻撃、非難といったネガティブなものになってしまえば、「今」としての自分が失われてしまうことに気づいている。このステージの人間は、二元論の枠内にいる限り、弱者の崇高な正義感は内ゲバと敗北のレールを走るしかないという宿命的な構造に気づいているのだ。

 

 結局のところ、ダークサイドを自分から切り離して外に置けば、それは手に負えない怪物となるだけであるし、理想的な価値を自分の外に置くなら、それは他者との奪い合いになるだけだ。例えば「平和」が外にあるのなら、人はそれを外に求め、獲得しようとする。となると、同じようにそれを獲得しようとする他人と争わなければならない。「神」が外にあるのなら、「正義」が外にあるのなら、「豊かさ」が外にあるのなら、それも同様である。

 つまり自分の外にある価値「 」(かっこ内)に、神を入れようが、科学を入れようが、金を入れようが、幸せな家庭を入れようが、市民革命によって達成される素晴らしい未来を入れようが、その構造は変わらないのである。

 外にある価値を信奉している限り、自分自身を生きていることにはならない。それは自分自身よりも外にある価値を重要視することによって、結果として自分自身を虚ろにしているのである。宗教原理主義も、科学信奉者も、拝金主義者も、虚ろな自分という容器に何らかの価値を入れようと躍起になっている点では変わらない。

 「今」の充実に気づかないなら、塩水で喉を渇かす人間の如く、ひたすら空虚な自分を埋めるために、自分の外から価値を持ってきて、注ぎ続けなければならない。渇いている人間は、苦しみの原因は注ぎ入れるための水が足りないことだと勘違いするが、問題は底に穴が開いているためにいつまでも満たされない自分自身なのである。

 穴の開いた鍋がこの星に約80億集まり、小さな次元では家庭内で水を取り合い、大きな次元では国家同士で争うわけだから、世界はいつまでたっても平和にはならない。つまり、この世界は80億の鍋を満たすために、大量の水を常に探している状態なのである。

 この世界システムの改良のために、新しい鍋の開発を次から次に人類は行ってきた。それが「進歩」と呼ばれる人類の歴史である。しかし、改良の度に鍋に穴が開いていることが見つかる。それは当然である。なぜならその鍋を開発した優秀な改良家の心に穴が開いているからである。

 世の中が狂っていると思うなら、世の中の改良以前に、まずは自分が狂気から治癒されなければならない。鏡の中の自分を殴って矯正しようとする試みは、必ず失敗に終わる。となれば、成功の道筋は鏡を見ている自分の方にあるはずである。自己の革命が世界革命となる。その時、世界は改良されるのではなく、一度自己において死に、復活するのである。