戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第九十七回 新しい時代に何を手放すのか(4)

1.命を謳歌する動物と、命に怯える人間

 智慧の樹の実を食べたアダムとイヴは、エデンから離脱する。こうして人類の始祖はヤハウェから呪いをかけられ、悲しみとともに楽園を去った。だがそれは心躍る船出でもあった。田舎から都会に出た若者が、親もとを離れ不安を抱えつつも、新しい生活に心が躍ることと似ている。

 未知の世界に対する不安は、新しい人生を切り開いていく希望と表裏一体である。こうして楽園を離れた人類は、地上において恐れと希望の文明を築き、ついには覇者となった。蛇が言った通り、それは「神のような」力であり、サピエンスの前では猛獣たちもひれ伏すしかなかった。

 だが栄光の達成は苦しみの始まりである。ホモ・サピエンスの敵がいなくなったと同時に、ホモ・サピエンスが敵となった。過酷な生存争いの中、富める者が生じた一方、その何万倍の数の貧者が生じた。勝ち組も永遠に勝つわけではない。そこには栄枯盛衰や天変地異、その他様々な不幸があり、そして死がある。「生・老・病・死」という一切皆苦の世界である。

 こうしてサピエンスは限界に突き当たる。栄光の玉座に就こうとして必死に這い上がった人類は、いざ王の椅子に座ってみると、その座り心地の悪さに戸惑う。だが、これはよく考えれば当たり前のことである。サピエンス自体が欠乏のエネルギーである以上、何かを手に入れた瞬間にそれは虚しさになるに決まっているのだ。

 これは権力者だけが抱える虚しさではない。我々一般市民もそうである。理想の恋人を求め、いくら恋を重ねたところで満たされることはない。満足は一瞬である。また、いくら買物をしても満たされない。塩水はいくら飲んでも渇きが満たされることはない。

 人類が地上で覇権を握ることができたのは、底無しの欠乏感、すなわちサピエンスのエネルギーのおかげであった。他の生き物は腹を満たしたらそれ以上望まずに昼寝をする。ライバルが寝ている間も、人類にはサピエンスの力が発動する。腹が満たされても次の食事について空想し、考える。つまり、胃腸の満足感とは無関係にサピエンスは飢えるのだ。

 ライオンは腹がいっぱいになったらシマウマが目の前を歩いても何もしない。シマウマも満腹のライオンが昼寝をしていても蹴り殺さない。ライオンは次の食事のためにシマウマを殺して貯蓄することはしない。またシマウマの方も、満腹で動けないライオンを将来の危機を摘み取るために蹴り殺すことはしない。

 互いが互いに千載一遇のチャンスをいかさない。これはサピエンスからすれば馬鹿に見える。しかし馬や鹿だけでなく、動物たちにおいては例外なくサピエンスが起動しない。今、腹がいっぱいなら動く必要がないし、今、相手が襲ってこないなら逃げ出す必要もなければ、蹴り殺す必要もない。時計もカレンダーもない彼らには、「将来」という空想を頭に発動させて行動する必要がない。

 これはまた、博愛の精神でもなければ無益な殺生を避けるという倫理観でもなく、あるいはWWFのような動物保護の精神でもない。エデンには絶滅もなければ環境保護もない。そういう観念、すなわちサピエンス自体がないのだ。

 神が人間以外の生き物にサピエンスを与えていない以上、エデンの生き物たちはホモ・サピエンスから「馬鹿」だと思われようが、サピエンスのない命、すなわちエデンの生命を謳歌し続ける。サピエンスという呪いのない彼らは、過去を後悔しない。ライオンが飢え死にする時に、「あの時、シマウマを殺して貯蓄しておけばよかった・・・」とは思わない。シマウマもライオンに殺される時に、「あの時、満腹で動けなかったこいつを蹴り殺しておけば・・・」とは思わない。

 サピエンスの発動がない彼らにはその瞬間の生しかなく、将来に備えて準備し、自らの寿命を延ばすという知性はない。しかしその分、年金制度の破綻や老後の資金不足などに怯え、十年後の大学進学に備えて勉強しない子どもたちを見てイライラしなくて済む。

 人間という名の特殊な生き物は、過去を悔やんで反省し、同時に将来に怯えて準備することで、地上の覇者となった。おかげでライオンが10年程度で死ぬところを、人間は80年くらい生きることとなった。しかし、「年」はエデンには存在しない。そんなものはサピエンスの世界にしか存在しない。

 これが神の呪いである。動物は命を謳歌する。そこには過去も未来も、長生きも短命もない。人間はそうした「考えない」自然を利用し、地上の覇者となった。だが、覇者は命を謳歌するのではなく、命に怯える覇者であった。未来に怯え、世界に怯え、他者に怯え、人生に怯える生き物。それが智慧の木の実を食べて目が開かれた生き物、すなわち人間である。

 

国内最高齢ライオン死ぬ 京都市動物園の「ナイル」25歳、人間でいえば100歳超

 

2.修行が構造的に孕むパラドックス

 ライオンの「ナイル」からすれば、25歳であるとか、それが人間で言えば100歳の超高齢であるとか、国内で最長寿であるとか、そんなことは知ったことではない。何から何までが、人間の観念的なストーリーでしかない。ヴィトゲンシュタインは「ライオンがしゃべれるとしても私たちにはライオンの言っていることが理解できない」と言っているが(「哲学探究」第二部xi段落327)、まさにそうである。

 人類は頭の中の観念をうまく利用して地上の覇者となり、文明を築き、生活を成り立たせる。だが生命としての自分自身はそれによってすっかり委縮してしまう。他の生き物は「今」の命を躍動させているのに、なぜ人間だけが観念的な将来のために「今」を犠牲にして生きなければならないのか。

 そんな疑問を抱き、サピエンスの力に翻弄されて生きることに対して、ほとほと嫌気がさした人物が、2500年前に現れた。それが仏陀であった。それから約2300年後、日本に良寛禅師(1758-1831)が現れ、完全に文明に逆行する発言をしてホモ・サピエンスたちを驚かせた。

 

 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

 死ぬる時節には死ぬがよく候

 これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 

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托鉢良寛像 新潟県長岡市隆泉寺

 サピエンスからすれば、災難に逢う前に高い堤防を建てたり、地震に強い街作りをしたり、日頃から防災訓練を住民の間でしておくべきである。また死ぬ時節にも死なないために医学は進歩すべきであるし、WHOと各国政府は連携してワクチンを世界中に配布するために努力すべきである。

 つまり、良寛の言っていることはサピエンスからすれば全くのナンセンスである。それゆえ「禅問答」と言えば、世間では意味不明で無意味な会話として考えられている。だが、ナンセンスに見える良寛の言葉が年月を経て残り続けるのは、絶え間ない進歩、すなわち自らのサピエンスに疲れきった人間の心が懐かしいエデンを思い出すからである。

 サピエンスはいくら進歩しても終わりがない。心臓を6回取り換えて100まで生きることに何の意味があるのか。禅問答を無意味と思う心からすれば、仏道よりもテクノロジーの進歩と文明の発展の方が魅力的であろう。しかし無制約の進歩に疲れた心からすれば、禅問答の静寂の声を聞く方が遥かに魅力的である。

 だが、前回のブログで記したように、仏道の修行とはそれ自体ジレンマである。「サピエンスに疲れた」とは言っても、サピエンスの出所は他の誰でもなく、自分の頭である。頭を切り落とせば問題は消えるが、それでは問題の強制的な廃棄であり、解決にはならない。

 そこで修行者はサピエンスが発動しないようにするため、「何もしない」こと、すなわち坐禅を始める。しかし、これも明白な矛盾である。「何もしない」ということは、あえて「何もしない」ことをしているということであり、やはり何かの利益を狙った行為である。

 サピエンスの恐ろしさに気づいたゴータマ・シッダールタは聡明だった。しかしその問題を克服するために坐禅に励んだのは、進歩を目指す行為であった。「今」よりもより良い未来を目指すのは、それ自体がサピエンスのエネルギーであったから、シッダールタはサピエンスに恐れながらも、サピエンスのエネルギーで修業したのである。

 つまり、サピエンスを乗り超えようとして修行に励むことは、それ自体がサピエンス以外の何者でもないのだ。だから人間以外の生き物は瞑想をしない。猫が何もしないで横になっていても、それは修行でもなければ瞑想でもない。

 だから只管打坐、すなわち何も考えずに「ただ坐り切る」ことは、それが達成されても悟ることはない。結局のところ、何も変わりようがない。いくら修行しても、気分がすっきりしてエゴが落ちたように感じても、何も変わらない。修行僧は最終的にこの結果にがっかりすることになる。これは修行という形式自体が持つ矛盾であるから、仏道において矛盾は宿命なのである。

 動物には無明もなければ光明もない。動物界には宗教もなければ寺もない。それは当然である。サピエンスがなければ、サピエンスの奴隷となって無明道を突っ走ることもなく、サピエンスを超克しようとして修業道に励む必要もない。

 だから修業とは、ある意味サピエンス的なエネルギーの最終段階と言えるかもしれない。あらゆる文明の栄華を達成し、それに飽き、疲れ切った人間が、最終的にサピエンスを乗り越えようとする。それは皮肉なことに、それ自体がサピエンスの力、すなわち進歩の渇望であるが、これはサピエンスの発展により「より良い」生を獲得しようとするエネルギーではなく、サピエンスの死、すなわち「私」の死を渇望するエネルギーなのである。

 

3.「悟り」の逆説的な構造

 では一切の修行が無駄なのか。そうではない。そうした無駄な修行の数々を経ることにより、全ての修行が無駄なのだと心の底から悟ることが大事なのだ。これが修行の真の成果である。頭でわかるだけでは意味がない。知識として無駄だと知ることと、無駄をやりきってから無駄だとわかることとは、まったく異なるのだ。

 例えば香厳禅師は、悟りを求めて厳しい修行生活をおくったが、ある日、全てが無駄だと悟った。彼は悟りをひらいたのではなく、どんな修行をしても悟りを開けないと悟った。つまり、完全にあきらめたのである。井筒俊彦(1914-1993)は香厳の口となり、その心境を次のように語っている。

 

禅仏教の哲学に向けて 井筒俊彦 野平宗弘訳 ぷねうま舎 239頁

悟りに達するための絶望的で無駄な努力を何年も行なった後、香厳は、完全な絶望状態で、〈リアリティ〉の秘密を見ることは現世ではできない運命であり、それゆえ、修行の代わりに価値のある仕事に専念した方がいいと結論づけるに至った。彼は有名な師のための墓守りになろうと決意し、自分のために茅葺き小屋を建て、人々から完全に離れてそこに隠遁した。ある日、地面を掃いていると、小石が竹にこつんと当たった。当然、全く思いがけず、石が竹に当たる音を耳にして、心の中に、それまで夢想だにしなかったことが起こった。それが先に言及したカチッというスイッチの入る音であった。そして、それが悟達だったのである。覚醒は、彼の自我と客体世界全体とがすっかり打ち砕かれて無差異の状態になった体験として、彼に訪れたのである。

 

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香厳撃竹図

 ここに悟りの逆説的な構造がある。悟った時には「悟る私はいない」と気づく。だが、それは悟ってみないとわからない。修行中は悟りを得ることを目標に努力を重ねる。しかし、実際に悟ってみると、誰も何も得ないし、得る必要がないことに気づくのだ。

 それは、悟る私は存在しないゆえに、いくら修行をしても「私が悟る」なんてことはあり得ないという逆説的な気づきである。つまり、「私が悟る」という事態は、「私が金持ちになる」とか「私が世界の支配者になる」といった欲望とまったく変わらないサピエンスの夢なのだ。

 それは何も必要ないことに気づくことであり、「私の悟り」も必要ないという気づきである。何かを必要だと思う「自分」はサピエンスから生じるものであり、本当の自分ではない。逆にサピエンスからすれば、「あれもいるしこれもいる」と際限がない。金も要るし、権力も要るし、豪邸も要る。自分の心臓が止まった場合に備えて、他人の心臓が6個要る。

 そしてそうした現世利益と絶え間ない進歩、飽くなき欲望に疲れ果てたら、今度は精神的な利益、すなわち「悟り」が要るようになる。これはサピエンスを捨てようとしながら、「捨てる」という成果を得るためにサピエンスをフル稼働させているという矛盾したエネルギーである。

 これは、どんなことがあろうともホモ・サピエンス、すなわち人間という生き物においてはサピエンスが自動的に起動するという事実を表している。だから、まずは自分自身においてどのようにサピエンスが「自動起動」しているのかを知る必要があるだろう。それが「純粋贈与」の気づきへと繋がる道筋であろうと思われるが、詳しくは次回に述べたい。