戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第九十八回 新しい時代に何を手放すのか(5)

1.神のような知性が悪魔になる

 私はキリスト教徒ではないが、時折聖書を読む。読むたびに、サピエンスの始まりを示す以下の文章が、あまりにも見事に構成されているため驚く。

 

旧約聖書 創世記 関根正雄訳 岩波文庫 13-14頁

さてヤハウェ神がお造りになった野の獣の中で蛇が一番狡猾であった。蛇が女に向かって言った、「神様が君たちは園のどんな樹からも食べてはいけないと言われたというが本当かね」。そこで女は蛇に答えた、「園の樹の実は食べてもよろしいのです。ただ園の中央にある樹の実について神様は、それをお前たち食べてはいけない、それに触れてもいけない。お前たちが死に至らないためだ、とおっしゃいました」。すると蛇が女に言うには、「君たちが死ぬことは絶対にないよ。神様は君たちがそれを食べるときは、君たちの眼が開け、神のようになり、善でも悪でも一切が分かるようになるのを御存知なだけのことさ」。そこで女はその樹を見ると、成程それは食べるのによさそうで、見る眼を誘い、智慧を増すために如何にも好ましいので、とうとうその実を取って食べた。そして一緒にいた夫にも与えたので、彼も食べた。するとたちまち二人の眼が開かれて、自分たちが裸であることが分かり、無花果樹の葉を綴り合わせて、前垂を作ったのである。

 

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Forbidden Fruit, Michelangelo, Sistine Chapel (1509)

 狡猾かつ知性的な蛇は、あえて神様が言うはずのないことを織り交ぜながら、女に質問する。全ての樹の実を食べてはいけないと神様は言ったそうだが本当かと。もちろん、蛇は知っている。中央の樹だけが問題になることを。だが当該の樹の実について、蛇ではなく女の口から語らせるために、あえて自分からは中央の樹の実については語らず、全ての樹について問う。

 女はこの誘導に乗る。女にも言葉を解する知性はある。だから蛇の問いに言語的コミュニケーションによって答える。だがこの時点での女にはサピエンスがない。それゆえ疑うことを知らない。「あなたなら聞かなくても知ってるでしょ・・・なぜそんなこと聞くの?」というふうに、質問に質問をかぶせる返しはできない。そのため女は自分から中央の樹について説明し、自らの語りの水路を通ることで、意識を中央の樹に向けることになる。

 蛇からすれば、全ては計画通りである。女の意識が樹に集中したところで、彼女の常識をひっくり返す爆弾発言をする。実を食べたら死ぬと思っていた女の世界観はここで裏返しになる。実際、アダムとイヴは実を食べて即死するわけではない。だから蛇の発言は嘘ではない。

 しかし、神の忠告も嘘ではない。樹の実によって智慧を得なければ、「生」と「死」の強力かつ自動的な分離は生じない。死は二元的知性の世界にあるものであり、エデンには存在しない。神と蛇、両者が嘘を言わないことで、聖書における堕罪の章は進行していく。

 確かに蛇の言った通り、女と男は智慧の樹の実を食べたことによって眼が開かれた。これにより動物には見えないものが見えるようになった。二元性の目を得たことにより、主体と客体が分裂し、あらゆる対象を客観的な「物」として見ることができるようになった。となれば、自己も一つの「物」である。こうして着衣の自分と裸の自分との区別ができるようになり、裸は「恥」となる。

 もともとは、裸に布切れをつけても何も変わらない。もしライオンと言葉が通じても、人間はライオンに裸の恥ずかしさを理解させることはできないだろう。ライオンは布を被っても恥ずかしくないし、被らなくても恥ずかしくない。

 もちろん、衣服の根源は防寒という機能性にあるのであり、羞恥心は付随的なものではないかという意見もあろう。しかし、下半身に前垂をつけようが防寒にはほとんど役に立たないはずである。暑い気候で暮らす民族においても、首飾りやボディペインティングなどの装飾がある。皆が装飾をする中で、自分だけがしていなかったら「恥」となる。

 こうした羞恥心あるいは劣等感の裏側には、優越感や誇りといった観念がある。マイナスとプラスの二極性という観念。これが文明という歯車を回す力である。ライオンは腹がいっぱいになったらシマウマがいても見向きもしないが、マサイ族の男は少年から大人になる「証し」としてライオンを殺す。胃腸が欲するから殺すのではない。「大人の男」という象徴、すなわち脳内物語の必要性から殺すのだ。

 こうして人間は、DNAが98%共通するチンパンジーと決定的に決裂した。人間が手にする石は、チンパンジーが木の実を割るために使う石とはまったく違う。チンパンジーにはサピエンスがないため、800万年の間、右手に持つ石は、木の実を割るための専用の道具にしかならない。

 もちろん、チンパンジーが石で木の実を割る技術も高度なものである。しかしそれは、歯を持たないニワトリが、消化のために飲み込む小石と役割としては変わらない。ニワトリの砂嚢が食物の消化活動と一体であることと同様、チンパンジーが手にする石も彼らの胃腸が木の実を消化する運動と一心同体であり、800万年の時間を経てもその域を出ることはない。

 だがホモ・サピエンスが手にする石は、無限の発展可能性を持つ。人類によって空中に放り投げられた石は、宇宙船となり、核ミサイルとなり、コンピューターとなり、金融システムとなる。つまり、人類にとってこの上なく豊かな、かつ恐ろしい未来となるのだ。それは蛇が宣言した通り、「神のような」力となったと同時に、人類を滅亡させる悪魔ともなった。

 

2.悪魔を避けようとする反応自体が悪魔である

 智慧の樹の実を食べれば、眼が開け、神のようになる。蛇の発言は嘘ではない。しかしそれには当然、裏がある。「神のように」であるから、神そのものではない。擬似神である。サピエンスの世界では、神の裏にぴったりと悪魔が張り付いている。

 エデンには神も悪魔もない。それゆえに「神の園」である。原初の「神の園」は、「神」という名付けがないことにより成り立つ。名付けがないゆえに、「神」の裏の「悪魔」もない。当然、「生」もなければ「死」もない。「生」に対する執着や「死」に対する嫌悪がなければ、瞬間的な本能の閃きがあるのみである。

 他方、サピエンスは名付けの世界である。これが文明を築き、進化させる原動力となる。それは神を追い求め、悪魔を忌み嫌うエネルギーである。ひたすら片方を求め、片方を避ける。人類はエデンと離別して以来、結局のところそれしかしていない。

 人類はサピエンスというエネルギー体と一心同体となり、ひたすらに不幸を避け、幸福を追求してきた。だがそうやって神を求め、悪魔を避けるという分裂的な爆走自体が、ある種の悪魔的なエネルギーなのだということには、いつまで経っても気づかない。

 生き物にとって、エデンは空気よりも自然なものである。だから彼らは文明を持たず、裸は恥ずかしくない。犬は飼い主に服を着せられても恥ずかしくない。同時に、服を剥ぎ取られても恥ずかしくない。人間から服を剥ぎ取れば犯罪であるが、着衣した犬から服を取っても罪ではない。

 

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柴犬マイアさん

     イヌトミィ モデル犬フォトコンテスト Autumn 2017(応募数331枚)

 

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Naked Women in Holocaust (Auschwitz-Birkenau State Museum)

 サピエンスのない犬は、世界を「善」と「悪」に二分する力を持たない。だから犬にとっては永遠の生命、すなわちエデンは空気よりも自然なものである。これと表裏一体の事実として、非エデンの生き物である人間にとっては、サピエンスは空気よりも自然なものである。

 だから人間は自分が自動的に物事を二つに分けていることに気づかない。開かれた知性によって自分が盲目となっていることに気づかないのだ。この無自覚なエネルギーの勢いは凄まじく、地上における「豪華な地獄」の建設ラッシュは止まることを知らない。沸騰するサピエンスの中では、あらゆる環境保護活動やガイアを守る運動は焼け石に水である。

 エデンから離脱したサピエンスは、エデンを食い尽くした結果、自らも滅ぼそうとしている。環境破壊という悪魔を駆逐しようとしても、悪魔を倒すための活動は悪魔に取り込まれるだけである。結局のところ、国連も環境保護団体もその金庫を国際金融資本に頼っている。

 だから悪魔をヒステリックに駆除しようとしても無駄である。そのアクション自体が悪魔だからだ。大事なことは悪魔を攻撃する悪魔になることではなく、悪魔について冷静に知ることである。サピエンスによって悪魔を駆除するのではなく、サピエンスという悪魔を知ることが大事である。その悪魔とは他の誰でもない、自分のことなのであるから、悪魔を知ることは自分を知ることである。

 

3.自動反応としてのサピエンス

 そもそも、サピエンス(知性)という言葉を聞いて、どれだけの人が切実なリアリティを感じるものであろうか。世の多数派は、おそらく自分をそれほど知性的な人間だとは実感しないであろう。むしろ、知性(サピエンス)という言葉は、自分にとって縁遠いという感覚の方が強いかもしれない。

 自分を知性的な人間だと自惚れる人は世の中では少数派であり、実際には世の中は恥じらいと謙遜で成り立っているものである。自分のことを論理的、知性的な人間だと思う人は少数派で、むしろ感情に流されることを日常茶飯事だと感じる人の方が圧倒的に多数派であろう。

 だがここで言っているサピエンスとは、感情と対立する理性のことではない。またそれはIQのことでもなければEQのことでもなく、高い思考力のことでもない。ここで問題にしているサピエンスとは、一部の利口な人が持つ知性のことではなく、どんな人にも共通基盤としてある人間特有の知性のことである。

 それは考えるものではなく、自動的な反応として現われるものである。わかりやすい例として、誰もが小学生時代に習う理科の実験を取り上げてみよう。

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朝顔の実験 ペイント3D

 このイラストは、私がパソコンのお絵かきソフトで描いた極めて下手な絵であるが、朝顔の実験を表している。右と左のスペースで、同質の環境に朝顔の種を植える。その後、両方に適切に水を与えたために、種は発芽し、葉が出て伸びた。その後、右側には太陽の光を当て、水をちゃんと与えたが、左側は光を遮り、水も与えなかった。結果、右側はすくすく育ち花を咲かせたが、左側は枯れた。

 この話は誰もが小学生時代に知ることであり、理解できない人はいないだろう。IQもEQも関係ない。自分のことを知的だと思う人であろうが、あるいは感情的だと思おうが、無関係に理解できる話であるはずだ。

 何が言いたいのかと言うと、この小学校低学年の知的段階であっても、我々のサピエンスは完全な形で、なおかつ自動的に発動するということである。左側の朝顔が死んでいて、右側が生きているというのは、あえて言わなくても誰でもわかることであろう。

 これは一見、素朴な実験のようであるが、言外には発展的な意味が含まれており、サピエンスの根源が表されている。それは、「種→発芽→花」という直線的な時間軸(過去→現在→未来)であり、太陽光がなければ枯れ、あれば咲くという因果関係である。そこには農業その他あらゆる文明的な生産様式の意味が含まれている。

 また、これは世界と文明の発展様式であるのみならず、個人の人生そのものでもある。水と太陽光がなければ枯れてしまう朝顔と同じように、人間の体も適切な栄養と睡眠、運動がなければ病気になり、死んでしまう。そのためには生産手段が必要であり、学生時代に勉強し、大人になるまでに社会人としての生産性を身につけなければ、仕事にありつけず、将来飢え死にするかもしれないということである。

 もちろん、小学校の理科の実験は人生訓について教えるものではないし、そこまでの意味を含ませて教育されることはないだろう。だがこの実験は、衰退と繁栄、生と死、長寿と短命といった二元性の根源を、直線的な時間軸と因果関係の観点から教えているものであることは間違いない。

 結局のところ、我々のその後の人生も、幼年期に知ったこの実験の絶え間ない応用である。つまり、自分自身が朝顔である。肉体的な健康のためには、タバコや酒、ドラッグは避け、野菜を食べなくてはならない。適度な運動が必要であり、過度なストレスは禁物である。そうでないと、左側の朝顔になってしまう。

 精神的な満足という点でも同様である。自分のプライドに相応しい大学に入学する必要があり、それなりの看板の企業に就職する必要がある。就職しても、そこで人からバカにされない立場を獲得するには、それなりのポジションが必要である。将来の不安に備えて資格が要る。本業だけでは不安だから今のうちに副業の勉強をする方がいい。左の朝顔にならないように、常に追い立てられる。

 ヤギや牛なら、右側も左側も関係がない。彼らは腹が減ったら、どちらの朝顔も平等に食ってしまうだろう。人間は馬や鹿ではないから、そのサピエンスにより、右側を追い求め、左側にならないよう気をつける。それが文明の発展であり、社会の繁栄である。

 しかしこれは落とし穴でもある。枯れた朝顔という悪魔的な結果に陥らないようにするために、生きている間、自分を永遠に栽培し続けなければならない。それはエデンの生き物には理解不能な、強迫観念そのものの生き方である。小学校の間に中学の準備をし、中学の間に高校の準備をし、高校の間に大学の準備をし、大学の間に社会人の準備をする。

 定年間際には老年の準備をし、挙句の果てには死ぬ前に終活をし、死後の相続の準備をしなければならない。そうして痩せ細った「今」は、全て未来の花開く朝顔のために犠牲にされる。地位や名誉や金、あるいは外から幸せそうに「見える」だけの家族といった豪華な虚飾のために、全てが犠牲にされるのだ。

 言語や文化、民族に関係なく、なぜ人類の全てが豪華な地獄の建設のために人生を犠牲にしなければならないのか。外見は豪華でも内容は貧しいその精神性の根拠はどこにあるか。答えは簡単である。そうした豪華な地獄を成り立たせているサピエンス自体が貧しいのだ。

 それは過去、現在、未来という直線的な時間軸、および因果関係を宇宙の絶対的真理と思い込む貧しさである。もちろん、上記理科の実験を学校で子どもたちに教育することは間違いではない。我々はそうした科学的観点、つまりサピエンスをホモ・サピエンスとして知るべきである。

 だが、サピエンス、つまり科学的真理は「科学的物語」あるいは「二元論的物語」にしか過ぎない。だから物語を物語として自覚した上で取扱うなら問題はない。それらは有益な道具として役に立つはずだ。

 問題は物語を宇宙的真理として信仰し、自らの人生の絶対的なガイドラインとして設定してしまうことにある。そうなれば豪華な地獄の進行はとどまることを知らず、あらゆる命は食い尽くされることになるだろう。

 宇宙的真理はサピエンスにあるのではなく、サピエンスを突破したところにある。果たして聞こえるだろうか。真の叡智が発する声を。それは一人一人の人間の奥底で囁いている。真の叡智は人間に対して大きな期待をしている。人間がサピエンスの次元にとどまるのではなく、突破することを期待しているのだ。突き抜けた先には、我々が昔に捨てたエデン、すなわち故郷(ふるさと)が待っている。詳しくは次回に述べたい。