第九十九回 新しい時代に何を手放すのか(6)
1.鈍感力による繁栄
前回のブログで触れたように、朝顔の実験における科学的理解はIQやEQの問題ではない。また、民族や言語、文化や宗教を問わない。ホモ・サピエンスに共通して埋め込まれている知的プログラムである。
プログラム、すなわちそれは自動的に起動するものである。釈迦はその自動起動を恐れたが、それは少数派であった。普通、ホモ・サピエンスはサピエンスを恐れない。むしろ虜となる。知ることは莫大な利益を生むから、味をしめるのだ。知識を応用し、うまく活用すれば、右側の結果を莫大に増やすことができる。サピエンスの波に乗って発展していけば、金銀財宝も思いのままだ。
釈迦は虜になるのではなく、莫大な利益の先に何があるかを看取してしまった。「さむけ」を感じてしまったのだ。その意味では、俗人の才能とは鈍感力と表裏一体である。金儲け、科学の発展、システムの構築と複雑化・・・次から次へと進化していく才能は、豪華な文明を築き上げていく。
人類が地上の覇者になれたのは、明らかにこの鈍感力、つまり無我夢中の発展のおかげである。最初、2000人程度しかいなかった人類は莫大に増え、繁栄を謳歌するようになる。
上限を40倍も超えてしまった「ヒト」|ナショナルジオグラフィック
だが、「さむけ」は現実化した。2500年前に釈迦が予見した通り、世界は豪華な地獄となった。人類は食べきれないほどの食料を生産し、毎日大量に廃棄する。作りすぎたキャベツや白菜は、トラクターで押しつぶされ、土に埋められる。と同時に、莫大な餓死者も出る。サピエンスは莫大な食料生産をもたらし、同時に金がなくて食料にありつけない人々を餓死に追い込む。
世界でどのくらいの食料を捨ててるの?? ~世界の飢餓と食料廃棄のジレンマ~
恵方巻などの食料廃棄に年1兆円、負担は私たちって知ってましたか??
2.花を見て花の夢を見る
人類はサピエンスの力により、地上で無敵の生き物となった。しかし、いざ玉座についてみると何かがおかしい。いかに鈍感力が売り物のホモ・サピエンスといえども、「さすがにこれは・・・」と気づきはじめているのが、現状であろう。
その「おかしさ」の根源が、誰もが習う理科の実験に既に表れている。我々は実験に際して、片方の花は死に、片方は生きていると判断している。だがよくよく考えてみていただきたい。これは我々一人一人が、自分で判断しているのだろうか。
片方が「生」、片方が「死」。この二元的判断に、我々一人一人の個別性や思考は無関係ではなかろうか。ここで、花を観察するのではなく、花を観察する自己を観察してみよう。冷徹な観察の結果、見えてくるものは何か。答えは「自動反応」である。つまり、判断しているのは「我々」ではなく、サピエンスである。
こうした二元的判断は、実は「やらされている」ものである。にもかかわらず、本人としては「自分で判断している」という実感を持ってしまう。これがサピエンスの恐ろしさである。それはアルコール依存症に似ている。本人は自己判断で「酒を飲んでいる」つもりでも、実際は酒の力に飲み込まれ、「飲まされている」のである。
サピエンスに振り回される限り、人類は破滅の運命を辿るしかない。NHKは、2030年までに何とかしなければ人類は破壊的な結末に陥ると警鐘を鳴らす。
あと9年しかないという状況になって慌てるというのは、まるで8月末になって夏休みの宿題に慌てる小学生のようである。こうした人類危機の1000年以上前に、南泉禅師(748-834)は鈍感力を突破し、サピエンスの夢について語った。人類がサピエンスに「飲み込まれている」ことを、「花を見る夢」として語ったのである。
「僧肇は『天地と我とは同根。万物は我れと一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人にたいして、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録、四十)。世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全く見えていない。つまり花を真に今ここに咲く花として成立させている本源的存在性が見えていないのだ。このような形で見られた花は夢の中に現われた花のように実は取りとめもないものだ、というのである。
一たん分節されて結晶体となった存在は、もしそのものとして固定的、静止的に見られるならば、分節される以前の本源的存在性を露呈するどころか、逆にそれを自己の結晶した形のかげに隠蔽するものである。このような場所では、人は存在を見ずに、ただ存在の夢を見る。
サピエンスは対象を切り取り、それを活用する力である。人類はこれにより文明を築くことができたのだから、その恩恵はある。だが、サピエンスの発動を野放図に任せるだけならば、井筒の言う「本源的存在性」は見えてこない。サピエンスは人間の目を分節と利益の方面に開かせると同時に、「本源的存在性」をその「知」の後ろに隠蔽するのだ。
結局のところ、危機は他人事で済ますことはできない。国連や政府といった自分以外の人類がなんとかしてくれるのを待つのではなく、「自分自身」という人類が気づくしかないのだ。「さむけ」の正体に気づけば、サピエンスに翻弄される段階を越え、その付き合い方がわかってくるようになる。
酒に飲まれてしまえば酒は悪いものであるが、適度な距離感をもって飲めるなら、それは悪いものではない。同じように、サピエンスもただひたすらに恐ろしいものではない。むしろ、「本源的存在性」の働きとして「自分自身」に包摂されているものなのだ。
3.花と非花性は同じものである
「本源的存在性」とは、「花を今ここに咲く花として成立させている存在性」である。それは「花を今ここに枯らす花として成立させている存在性」と同じであり、そこからすれば「咲く」ことと「枯れる」ことは同じ運動の二側面である。
一体どういうことか。例えば、右手と左手を体から切り離せば別物となる。だが、それは「切り離す」という人為によって別物(二元)となるのであり、人為がなければ右手と左手は体として同体である。つまり、別物(二元)という現象は人為以前の現実としてあるのではなく、「切り離す」という行為の結果としてあるものである。
切り離す以前の右手と左手は自然であるが、切り離された手は人為の結果、つまり人工物である。これと同じく、人間によって切り離された朝顔は自然物ではなく人工物である。それは手で引き千切られた対象に限らない。「朝顔だ!」としてサピエンスによって見られた「朝顔」も、自然物ではなく人工物である。
この意味では、「見る」という行為も「切り取り」である。「切り取り」というと手を使ってするものだと思ってしまうものだが、実は見るだけでも「切り取り」なのだ。そうした「切り取り」によって、人間は対象を活用することができる。科学は「切り取り」がなければ成り立たない。実験、検証のプロセス自体が「切り取り」である。
たとえプロの科学者にならなくても、我々は日々そのような「切り取り」によって対象を活用し、生活の実験、検証を積み重ねている。子どもから大人になるプロセスは、そうした知識と技能を身につけていくことに他ならないが、それに全身が染まればエデンは見えなくなってくる。細かく切り取れば切り取るほど、エデンはバラバラになり、「本源的存在性」は見えなくなる。
こうして、花を見ても花の夢を見ているに過ぎないという状態になる。これは知識においても同様である。いくら花についての知識を積み重ねても、花の夢が無際限に細かくなるだけであり、夢から逃れることはできない。目が覚めるための唯一の道は、知識の無尽蔵な蓄積ではなく、「切り取った瞬間に夢になる」ことに気づくことである。
南泉の花についての指摘から約1000年後、ミヒャエル・エンデ(1929-1995)は花が持つ非花性について、ファンタジー小説の形式で語った。それは、非花性が花となり、再び非花性へと還る運動である。
モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 241-242頁
これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です!
けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思い出して、じっとこらえました。
むこうがわに行った振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまで進み、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲き出しました。
見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。
モモはマイスター・ホラに「あなたは死なの?」と尋ねる。マイスター・ホラはそれに対して、「人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね」と答え、「死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ」と述べる。
それは我々がサピエンスによる搾取から自由になる瞬間である。我々が花を宇宙から切り取り、搾取することをやめる時、国際金融資本家が我々を搾取する機会もなくなるだろう。我々が悪者を駆除する必要はない。悪を駆除する者が悪となるという愚を犯さなくてよいのだ。
物語の中でモモは、しばらくの間、次々に咲き誇る花に見とれていた。だが、そのうち目よりも耳に気づく。サピエンスの夢に漂うことをやめ、その奥から発せられている叡智の声に耳を傾けはじめるのである。それは「切り取り」という分節的眼差しに夢中になる次元を乗り越え、全宇宙からの語りかけを「聞く」次元に立つことである。
それが純粋贈与についての気づきであるが、詳しくは次回に述べたい。