戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百二回 戦争と平和、そして無記

1.自己分析としての戦争

 国際政治の舞台において、真に何が行われているのか。世界はどうなっているのか。我が国と国際社会はどのような関係にあるのか。そもそも、戦争という巨大な災厄が起きる場合、どのような原因でそれが起こるのか。人間はなぜ、そのような愚かなことをしてしまい、しかも飽きもせず繰り返してしまうのか。第三次世界大戦へと着々と歩を進める我々人類は、いったい何者なのか。

 これまで、このブログは101回に渡り、上記のような問題意識で言葉を重ねてきた。それはウェスリー・クラークが目撃したちょっとしたメモ書きの驚きから始まった(第一回ブログ参照)。そこから第三次世界大戦を心配する私の考察が始まったわけであるが、いろいろと探っているうちに、戦争という巨大災厄の原点のようなものが見えてきた。それは我々自身、すなわち私自身の心である。

 戦争というと、戦車や戦闘機、兵士や機関銃、あるいは核ミサイルや、昨今では戦闘用のドローンや最新のテクノロジーによるAI兵器などが頭に浮かんでくるかもしれない。あるいは、原爆によって破壊された町や黒焦げの死体、逃げ惑う子どもたちがイメージとして生じるかもしれない。

 しかし、それらは戦争の結果であって原因ではない。大量殺戮兵器がなくても、人類は身近な道具を使って大量殺戮をする。かつてルワンダでは、50万人から100万人、すなわちルワンダ国民の10%から20%が、農作業用のマチェーテ(山刀)によって殺害されたと言われている(1994年ルワンダ虐殺)。広島、長崎における原爆の死者が20万から30万と言われているから、ルワンダの虐殺はその規模を超えたものだったのである。

 

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ルワンダのスーパーで売られているマチェーテ

www.businessinsider.jp

 

 ルワンダの人達が他の民族と比べてDNA的に凶悪というわけではないだろう。つまり、ルワンダで起こったことは、世界のどこでも起こりえるのだ。我々は何らかの立場を信じる。その立場を脅かす相手がいなくなれば、自分は幸福になれると信じる。この単純な信仰心が戦争の原因であろう。これは宗教や民族にかかわりなく、人類が共通に持つ心の動きである。

 

「あいつさえいなければ・・・」

 

 それは戦時のみならず、平時においても我々の心で鳴り響く悪魔の声である。この小さな声が集合化し、炎が合算されて大火となる時、ジェノサイド(genocide)が起こる。核ミサイルなどの大量破壊兵器は、そうした我々の心の動きを手っ取り早く実行するための道具に過ぎない。なければないで、我々は農機具を用いて大火を実践するだろう。

 我々の心は、テクノロジーが進歩するようには進歩しない。むしろテクノロジーだけが進歩し、心は置き去りになるという状態が続いている。だから、我々は戦争の恐ろしさを知るだけでは戦争を放棄することはないだろう。

 反戦教育は世界中で行われている。だが、戦争はなくならない。それは我々が戦争という結果を恐れるばかりで、戦争に至る心の動きに無頓着だからであろう。戦争という結果を恐れるよりも、それを作り出す自らの心の動き、すなわち原因の方を恐れるべきではないか。

 私はそうした問題設定のもと、戦争の悲惨さに着目するよりも、何らかの言い訳をしながら人殺しを容認する人類の心の動きに着目した。それは他者観察というよりも自己観察である。だから私が戦争を分析する際、それは外面世界の分析ではなく内面の分析、すなわち自己観察である。徹底した自己観察こそが、結果的に透徹した客観分析に至ると、私は確信するのである。

 

2.「無記」から現象を見る

 これまでは「第三次世界大戦を心配するブログ」というタイトルであったが、これからは「戦争と平和、そして無記」というタイトルでブログを書いていきたいと思う。タイトルを変える理由は、より内容的に幅広く、かつ深奥に迫ったものを書いていきたいからである。

 これまで、主に国際政治や紛争について述べてきた。だが、これからはそうした現象の背後にある我々の心の動き、すなわちより根源的な哲学、宗教的な意味での心のメカニズムについて述べていきたいと思っている。

 このブログの目的は、国際政治の真相について世の中に知らしめることでもなければ、世界の陰謀を暴露することでもない。もちろん、このブログには情報提供という側面もあるだろうが、それは副次的なものに過ぎない。真の目的は、私自身が世界の実相を探る作業を通じて、私自身の心の実相を知ることにある。その際のキーワードが、「無記」である。

 「無記(パーリ語:avyākata アヴィヤーカタ)」とは仏教用語であり、善悪の二元が発生する以前の原初のことである。これは「中立的立場」とは、明らかに異なる。中立というのはそれ自体が「中立」という立場であるから、無色透明ではない。一つのスタンス(stance)である。

 他方、「無記」はスタンスではない。それはあらゆるスタンスの出所であり、自らを「中立」という立場に押し込めることがない。「中立」は自らを「中立」で在らしめるために自らを緊縛するが、「無記」は何にも緊縛されることがなく、自由である。それは野放図な自由ではなく、創造的な自由である。

 だからといって「無記」は無色透明ではない。生命を失った中立性とは違い、「無記」は自らに相応しい色を表現する。それは自らの偏狭な思想を延命させるための保身ではなく、無の深淵から自らを開花させるための動きである。

 結局のところ、右にも左にも偏らない真に平等な思想は、一つの立場から生じるものではなく、「無立場」から生ずるものであろう。真の公正性は、中立性から生ずるものではなく、あらゆる立場を「我が事」として包含する「無記」から生ずるはずである。

 人の立場を否定する瞬間、その批判者としての偏狭な自我が、こちら側の主体として生じることとなる。これは絶対的な意識の構造である。他方、どの人の立場も認める時、私は単なる否定的他者ではなく、自分自身でありながら「その人」である。

 通常、こうしたジャンルのブログでは、無辜の市民が国家権力を批判するというスタンスで書かれることが多い。この点、私自身はこれまで繰り返し述べてきた通り、どのような権力に対しても否定や批判をする意図はない。あるとすれば、それは自己批判であり、批判を通して自らを再生(reborn)させるための創造(creation)である。

 真に創造的な言論は、他者批判ではなく、自己批判を通しての自己の再生というプロセスにあるはずである。私は私という宇宙、すなわち「無記」から自らを開花し、自己の精神を解放すべく、自らの文言で自らを創造的自覚へと導きたいと思う。

 読者の方々はその足跡を辿ることで、ご自身の解放の道筋を見出すチャンスを得るかもしれない。それゆえ、読者の方はこのブログの文言を信じて終わりにするのではなく、自己の解放のための踏み台として用い、自らの創造性の発露のために役立てていただきたい。