戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十一回 薬屋の帝国と奴隷たち(2)

1.見慣れた風景と見慣れない風景

 日本は豊かな国か。30年前ならYESと言えたかもしれない。だが今は言えない。ジャーナリストの中岡望氏は、日本経済の真の姿について次のように述べている。

 

news.yahoo.co.jp

 

 特に深刻な問題が、日本の子どもたちを侵食する貧困の波である。東京都立大学の阿部彩教授によると、かつての日本は世界第二位の経済大国であったが、今は「子どもの貧困」大国である。

 

president.jp

 

 沖縄で「子ども食堂」を運営している山田マドカ氏(那覇市議会議員)は、ツイッターで子どもの貧困に関する実体験を報告している。そこには、「お金が無くて、生後まもない赤ちゃんにミルクを薄めて飲ませていたお母さん」の話が出てくる。まったくひどい話であるが、これが貧困大国の現実なのであろう。

 

お金が無くて、生後まもない赤ちゃんにミルクを薄めて飲ませていたお母さん

 

沖縄の子ども食堂、2割が弁当配布に切り替え

 

 この国の相対的貧困率は想像以上に高い。この問題は国力の著しい低下を招くため、官僚や学者たちは二十年以上に渡って議論している。だが改善の兆しはない。余計にひどくなっている。我々も徐々に錆びゆく日本の風景に慣れっこになってしまっている。

 他方、見慣れぬ風景が最近ではあちらこちらに顔を出している。ワクチンを接種する人に対しての行政サービスである。

 

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 自己責任。自助努力。自業自得。新自由主義を旗印に、弱者に対して氷のように冷たい態度をとってきたこの国が、なぜかワクチンに関しては態度を豹変し、猫なで声で近づいてくる。これは驚きである。だが、格差社会の大先輩であるアメリカはもっと凄い。金持ちにやさしく、貧困層に冷たい国として世界的に有名であったアメリカであるが、ワクチンに関しては階級の垣根をこえて大盤振る舞いである。

 

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 冷酷から親切への急転換。見慣れぬ風景が展開してゆく。だが、それを「見慣れぬ」ものとして驚くのは、私が先進国の常識に染まりすぎたからであろう。発展途上国では、こんなものは日常の風景である。いちいち驚くものではない。以下を見てもらえばわかる通り、アフリカでは薬屋帝国の振る舞いは人々の日常生活に深く浸透している。彼の地では、これは「生ぬるい」風景なのだ。

 

2.観光地の絵はがきと同じくらい生ぬるい

 「ナイロビの蜂(The Constant Gardener)」という映画がある。アメリカでは2005年、日本では2006年に公開された。ケニアのナイロビを舞台に、製薬会社の巨大な力と悪行を背景に展開する男女の愛の物語である。

 

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ナイロビの蜂(The Constant Gardener) 2006年公開

 「ナイロビの蜂」は邦題であり、原題はThe Constant Gardenerである。「いつも通りの庭師、忠実な庭師」という意味である。レイフ・ファインズ(Ralph Fiennes)演じる主人公のジャスティンは、英国外務省の役人であるが、休日は庭をいじり、植物の世話を楽しむ男である。つまり、箱庭の幸せを愛するThe Constant Gardenerである。だが、箱庭は突然崩壊する。愛する妻が死ぬのである。

 それまでの彼は、国家に忠実な公務員であり、自分の生活の範囲、すなわち箱庭にしか関心がなかった。だからイラク戦争において何十万人の人々が死んでも、「上からの命令だったので」という一言で終わったのだった。

 だがそんな庭師も、自分の妻が死んだことに対しては公務員的無関心を貫くことはできない。イラク人が50万人死んだ事件は、彼にとって大事件ではなかった。それは庭の外の事件に過ぎなかった。だが、1人の美しい妻が死んだ事は大事件であった。箱庭を崩壊させる事件だったからだ。

 彼女の死は明らかに不自然であった。だが警察はThe Constant Gardenerであった。つまり、かつてのジャスティンと同じだった。真実を見ない。あるいは見て見ぬフリをする。女はアフリカ人と浮気をし、痴情のもつれの結果殺された。警察はそうしたありきたりのストーリーで処理しようとした。

 もちろん、ジャスティンは納得がいかない。事件は明らかにそんな小さなものではない。箱庭を破壊された彼は、それまでのThe Constant Gardenerとしての態度を変え、事件について自分で徹底的に調べていくようになる。結果、ありふれた色恋沙汰では済まないような、予想外に巨大な真相が見えてくるようになる。

 レイチェル・ワイズ(Rachel Weisz)演じるテッサは、アフリカで人道支援活動に従事する英国人女性であった。ジャスティンが事件のことを調べていくうちに、彼は妻の未知の面を知るようになる。テッサは明らかに「知りすぎた女」であった。彼女は製薬会社と英国政府との濃厚な関係、そしてその巨大な暴力がアフリカで行っている大規模人体実験について「知りすぎて」いたのだ。

 薬屋帝国にとってテッサは邪魔者となった。帝国の実態について何も知らなかった夫は、妻の死の謎を追ううちに、自身も知り過ぎた男となってゆく。箱庭の住人だった頃には見えなかった世界、あるいは目を背けてきた世界が見えてくる。それはガーデニングによって整えられた庭と違い、搾取と陰謀による荒野であった。

 邦題は「ナイロビの蜂」となっている。これは映画に出てくる製薬会社の名前がThree Bees(三匹の蜂)だからである。妻は痴情のもつれで死んだのではなく、蜂の毒針によって殺された。この映画では製薬会社の恐ろしさが描かれている。彼らはアフリカで人体実験を行い、その闇を明るみに出そうとする人間に対しては暗殺も厭わない。

 彼らは仁術の薬師(くすし)ではない。利益のためなら手段を選ばない巨大な暴力装置である。映画はそれを忠実に描写するが、原作者のジョン・ル・カレはこれを「生ぬるい」と言う。ル・カレは作家になる以前、ジャスティンと同じく、大英帝国の公務員だった。だが、彼の職場は「生ぬるい」箱庭ではなかった。

 ル・カレはロンドンのMI5(Military Intelligence Section 5 軍事情報部第5課)に勤務していた。つまりスパイであった。そのため、彼は現場をよく知っていた。箱庭の外に展開する世界について、彼は身をもって知っていたのである。そのため「ナイロビの蜂(The Constant Gardener)」は現実世界と比べれば「生ぬるい」と彼は言う。「観光地の絵はがきと同じくらい生ぬるい」のだそうだ。

 

jbpress.ismedia.jp

 

ジョン・ル・カレの鷹のような目

 

ジョン・ル=カレ氏インタビュー:スイス巨大薬品企業の闇に挑む新作

 

3.観光地の風景は変わらない

 2009年、ファイザーとナイジェリアの原告団との間で和解が成立した。ファイザーの未承認ワクチンによって被害を被ったナイジェリアの人々が、総額2700億円の和解金をファイザーから受け取ることになったのだ。

 

www.afpbb.com

 

 これは一見、ハッピーエンドのようである。格差社会の中で貧困に苦しむ日本人からすれば、羨ましい話に見えるかもしれない。だが、もし本当にそう思ってしまうのなら、その人の意識は観光地の絵ハガキのように生ぬるい。

 製薬帝国が行ってきた罪の深さは、たったの2700億円で贖えるものではない。それはあまりにも安過ぎる。この事件は氷山の一角に過ぎない。アフリカの人たちは、危険な医薬品やワクチンの人体実験となってきた。彼らの体で実験した後に、それらは先進国で販売され、普及するのである。

 あるアフリカ人は言った。私たちが食べ物に困っている時、西欧人は何もしない。だが、いったん私たちの間で病気が流行ると、彼らは大量の薬を持ってアフリカに乗り込んでくる。白衣の彼らは子どもたちの腕にブスブスと針を刺し、血液を採取したら、さっさと飛行機に乗って帰ってゆく。

 先進国では未承認のワクチンや薬品が承認されるまで時間がかかる。また、明らかに未知の危険性を有するものを治験するには、様々な面で難しい。そこで製薬会社はアフリカで人体実験をする。もちろん、正義感に溢れたアフリカ人はそんなことを許さない。そのため製薬グループはそういう邪魔者が出た時のために、普段から脅しの材料を収集しているのである。

 ファイザーはトロバン(Trovan)という未承認のワクチンを、ナイジェリアの保健省の許可なく、子どもたちに投与していた。そのため多くの子どもたちが後遺症に苦しみ、あるいは死んだ。被害者とその家族は原告団を結成し、ファイザーを訴えた。

 ファイザーは「過失なし」として、訴訟の取り下げをナイジェリア政府に求めた。取り下げの権限は法務大臣が持っていた。そのためファイザーは当時のナイジェリアの法務大臣、マイケル・アオンドアカー氏を脅迫するために、氏の汚職の経歴を調査員に調べさせていた。

 

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Michael Aondoakaa

 このことは後に暴露され、ウィキリークスに載ることになる。ファイザーは最初、子どもたちの死とワクチンとの因果関係はないとして一切の責任を否定していたが、次々と裏情報が明るみになったことで、2700億円を支払うという和解の道を選んだのであった。

 

WikiLeaks: ファイザー ナイジェリアで子供への実験薬投与による医療被害のもみ消しをはかる

 

米ファイザーによるナイジェリアでの裏工作 ウィキリークスに掲載

 

 だが、先にも記したようにファイザーからすれば2700億円は安い買物である。それまでの人体実験により獲得した利益は莫大であるから、そのうちのほんの一部を被害者たちに支払ったとしても、利益は揺らがない。

 また、彼らの態度は事件後も変わらない。結局、この事件も忘れ去られ、風化した。今、世界でこの事件を思い出す人はほとんどいない。人々が忘れやすいことを利用し、彼らはアフリカで同じことを繰り返し、莫大な利益を獲得する。

 今、ファイザーのワクチンは世界を席巻している。だが、どのメディアもファイザーの過去の事件について全く報じない。ナイロビの蜂は今も世界を飛び回っているのに、誰も気にしない。The Constant Gardenerは箱庭の外に関心を持たないのだ。

 だが、蜜蜂は密かに狙っている。アフリカ人だけが毒針の餌食になる時代は、もしかしたら終わったのかもしれない。次は我々も刺されるかもしれない。いや、既に刺されているのかもしれない。おかげでThree Beesの売上は、過去最高を記録している。今後も更に業績を伸ばしてゆく見込みである。

 

www.asahi.com

 

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※ 次回は2021年8月1日にアップロード予定です。