戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十四回 ディープステートはどこにある(3)

1.侮蔑と侮辱の違い

 大衆は侮蔑されたがっている。小林秀雄はそう述べた。だがこれは大衆の見地からすれば、意味不明な言葉である。世の中のどこを見ても、馬鹿にされて喜んでいる人はいない。刑法231条では侮辱罪が定められている。つまり、侮辱は「悪」だと社会的に認知されている。一体、「侮蔑されたがっている」人間はどこにいるのか。

 

f:id:isoladoman:20210815172853j:plain

小林秀雄(1951年)

 慧眼の小林はこの問題について解答を与えていない。それは彼にとってこの問題が、問題ですらないほどに、当たり前だったからかもしれない。彼が生きていたら言ったかもしれない。侮蔑と侮辱はまったく違うと。

 「侮辱」とは相手を馬鹿にして名誉を損なうことである。「侮蔑」とは相手を侮り、見下し、蔑むことである。辞書的な意味では、両者の線引きは明確ではない。だが、小林の言う「侮蔑」はより本格的な支配の法則のことであろう。そこでの「侮蔑」は、朦朧とした境界線の中で「侮辱」の側に溶け込むものではない。真の「侮蔑」は「侮辱」の次元より、さらに深層にある。

 人は馬鹿にされれば怒る。これは確かなことであろう。だが「馬鹿にされている」と気づかなければどうだろう。真の悪魔的知性は侮蔑を気づかせない。手玉に取られた人間は、その心地良さの中で自ら「侮蔑されること」を求めるようになる。つまり依存心である。

 「侮辱」の次元では、まだ人は相手を人間と見なしている。つまり、そこでの「馬鹿」とは「馬鹿な人間」であり「モノ」ではない。その点では、我々が生活の隅々でよく見かける罵り合いは、まだ対等なレベルの喧嘩である。「馬鹿!」と声を張り上げる人間も、相手を殺すつもりはない。人間として認めているから「馬鹿!」と言うのである。

 白人がネイティブ・アメリカンを「インディアン」と言って馬鹿にすることは「侮辱」である。だが白人がネイティブ・アメリカンを本気で「侮蔑」し始めたら、そこにはインディアンもネイティブ・アメリカンも存在しない。「モノ」があるだけである。冷酷な眼差しの下では、人間の笑顔や感情、温かい肉体は利益のパーツとなり、損益計算書の数字と化す。

 「侮蔑」にはプロセスがある。最初、それは友好と贈与から始まる。例えばウイルス兵器である。その起源を見たいなら、西洋人によるアメリカ大陸侵略の時代にまで遡る必要がある。新大陸にやってきた西洋人は、ネイティブ・アメリカンに友好の印としてあるものをプレゼントした。それは天然痘に感染した兵士が使っていた毛布であった。これにより、大量のネイティブ・アメリカンが死んだ(第四十八回ブログ参照)。

 またある時、白人はネイティブ・アメリカンにプレゼントをした。ウイスキーなどのヨーロッパ製の酒である。これでネイティブ・アメリカンアルコール依存症になった。誇り高い酋長が、ウイスキー一本を手に入れるために、莫大な土地を白人に明け渡すようになった。

 逆説的なことだが、人が相手を本気で侮蔑する時、侮辱は存在しない。考えてみれば当然だ。侮辱して相手が怒ってしまえば、友好と贈与から始まり侵略へと向かうプロセスが破綻する。だから侮蔑のベルトコンベヤーが流れる場面においては、紳士は存在しても罵詈雑言は存在しない。

 DS(ディープステート)というと、悪辣に大衆から全てを奪うというイメージがある。だが、実際の彼らは「与える者」である。添加物にまみれた食品は安くておいしい。便利である。消費者は懐が痛まず、時間を節約でき、舌を喜ばすことができる。GAFAのツールはほとんどが無料である。YoutubeだろうがFacebookだろうが、Twitterであろうが全て無料である。

 こうして我々は、贈与をスタート地点とするプロセスに載せられ、奴隷化される。彼らは奪うのではない。与えるのだ。本当に恐ろしい人間は、人から嫌われることをしない。爽やかな笑顔で近づき、静かに計画を実行する。その人は口では言うかもしれない。お客様は神様です。We will continue our efforts with ‘Customer First’ principles.(これからもお客様第一主義で努力していきます。)

 だが、その場合の「お客様(Customer)」とは、彼らからすれば「モノ」である。馬鹿にされているうちは、まだ華なのかもしれない。人間として認められているからだ。だが悪魔から侮蔑される時、そこには馬鹿も利口も存在しない。「モノ」に馬鹿も利口もないからである。

 

f:id:isoladoman:20210815173251j:plain

amazon customer first (Jeff Bezos)

 

2.快感を与えて人生を奪う

 日本マクドナルドの創業者である藤田田氏は言っていた。味覚は12歳までに作られる。それゆえ、12歳までにマクドナルドの商品を繰り返し食べさせることで、その子は大人になってからもマクドナルドを自動的に食べるようになる。

 マクドナルドが店の外装、内装をテーマパーク的に作り上げ、ハンバーガーのセットメニューに子ども向けのオモチャをつけていたのは、そういう理由からであった。要は、無料のオモチャを餌に子どもを招き寄せ、化学調味料と添加物いっぱいのハンバーガーを食べさせ、味覚を形成する。その人は12歳までに仕込まれた味覚から抜け出すことができない。こうして奴隷化される。

 

f:id:isoladoman:20210815173406j:plain

藤田田氏(日本マクドナルド創業者)

 

f:id:isoladoman:20210815173453j:plain

ユダヤの商法 藤田田 ベストセラーズ

 

f:id:isoladoman:20210815173525j:plain

勝てば官軍 藤田田 ベストセラーズ

 私はあるミュージシャンから興味深い話を聞いたことがある。その人は才能あるミュージシャンであった。だが音楽活動だけでは生活費を賄うことができなかったので、教師もしていた。個人事業主として生徒と契約し、音楽指導をしていたのだ。

 だが私はその人の抜き出た能力を知っていたので質問してみた。いくら懇切丁寧に教えても、ほとんどの人にとっては才能の壁というものがあるはずだ。あなたのような才能の持ち主は、プロの中でも稀であろう。となると、あなたからすれば「この人はダメだな」というのは教えているうちにわかるのではないか。

 その人は微笑しながら答えた。確かにそうですね。「こりゃダメだ」という人はいます。でも、そういう人をほめたり、励ましたりするんです。いくら頑張ってもうまくならない人はいます。でも「がんばれ」と励ませば、ずっと来てくれますから。才能ある人は、ちょっと教えたらコツをつかんで来なくなりますけど、ない人はずっと来てくれますから。

 私はごく身近なところでDSを見たような気がした。そこでは「やればできる!」や「がんばれ!」という励ましが、プレゼントであった。生徒はそれによっていつまでも月謝を払ってくれる。奴隷が泥沼から抜け出るには、プレゼントは得ではないと気づくことが必要である。気づかないなら、牧場主によって柵に囲い込まれ、毛皮を刈り取られ続けることになる。

 「大衆は侮蔑されたがっている」という言葉は、「大衆は常に安く、手軽で便利な快感を求めている」という言葉と同義である。快楽中毒がエスカレートすれば、さらに侮蔑が欲しくなる。その人は自分からベルトコンベヤーを降りようとはしなくなる。しがみつくだろう。

 侮蔑の無限ループにハマってしまった奴隷からすれば、「体に悪いからやめたほうがいい」という言葉は不快である。良心の言葉は快楽と一致しない。それは幸福と快楽が同義でないことの証明である。ベルトコンベヤーに拘束され続ける人生は幸福ではない。だが、快楽は与えられる。多くの人々が魂を捨て、快楽を選択する。

 

f:id:isoladoman:20210815173639j:plain

映画「マトリックス」の一場面 

マトリックスから離脱し、その後マトリックスに戻るサイファ

 自分の意思でベルトコンベヤーに戻るCypherサイファー)は、まだ「まし」かもしれない。多くの人は自分が悪魔に魂を売っていることに気づかない。イエスが言うところの「自分が何をやっているのかわかっていない」状態である。これはDSにとって最も都合のいい状態であり、「モノ」である。

 逆に、その「気づき」が突破口である。侮辱と侮蔑は異なる。快楽と幸福は異なる。その「気づき」が、人をベルトコンベヤーから降りさせる。侮辱されれば怒るが、侮蔑されると喜ぶという奴隷の次元を跳躍することができる。この「気づき」が奴隷解放のための偉大な一歩であるから、幸福と快楽の区別が「モノ」からの卒業なのである。

 

3.「欲望する」ことと「欲望させられる」ことは異なる

 DSは我々に快楽を与える。それにより人生を奪う。厄介なのは、DSが海の向こうのどこか遠いところにあるのではなく、日常生活のどこにでもあるということである。DSをこの目で見るためには、我々はニューヨークまで行ってロックフェラーに会う必要はない。近くのスーパーやコンビニに行けば十分だ。

 食品添加物は、優秀な科学者の分析によって作られる。我々の味覚は丸裸にされ、人工の物質の組み合わせによっていかような味も作り出される。最近ではこの技術が更に進化し、単なる快感にとどまらず、中毒性を孕むような味も開発されている。こうして人間の舌が奴隷化される。彼らからすれば、我々の味覚は尊厳ある知覚ではなく、利益を生み出すための「モノ」である。

 

news.livedoor.com

 

 人間は何かが「欲しい」となると、それを自分自身の欲望だと思い込む性質がある。だが「欲望する」ことと、「欲望させられる」ことは、まったく別のことである。プレゼント攻撃によってアル中にさせられたネイティブ・アメリカンの酋長は、自分が酒を飲みたいと思っていると勘違いする。だが本当は、そのように欲望させられているだけだ。

 これは300年前の酋長の体験に終わる話ではない。現代も同じである。例えば私が「コカ・コーラを飲みたい」と思うとする。私は主体としての自分が、客体としての「コカ・コーラ」を飲みたいのだと勘違いするかもしれない。だが、実際そのような私を作ったのはコカ・コーラである。彼らが彼らの作ったものを飲みたいという私の味覚と欲望を作ったのである。

 コカ・コーラの原材料費は二束三文である。だが、研究費、広告宣伝費、マーケティング費用は相当にかかっている。あのような無益で有害な飲料会社がオリンピックのスポンサーになるほどに巨大であるということは、世界に膨大な量の奴隷がいるということである。その奴隷たち、一人一人は「自分が飲みたい」と思っているのだと思わせられている。

 

f:id:isoladoman:20210815173902j:plain

Coca Cola Tokyo 2020 World Wide Partner

 奴隷が自分のことを奴隷だと自覚せず、自分を主人だと勘違いしてくれれば、支配者としてはそれ以上に好都合なことはない。従順な奴隷より、自分を奴隷だと思わず、主体的に動いてくれる奴隷の方が「モノ」としての価値は高い。だから洗練された奴隷社会においては、足に鎖をつけられた奴隷は存在しない。

 民主主義が主権者としての国民によって成り立っているはずのシステムなのに、実際はそうなっていないという理由は、そこにあるだろう。奴隷が自分を主権者だと勘違いしてくれるなら、DSとしてこれより好都合なことはない。

 

奴隷制度は昔の話だ。今はもう存在しない。だから私も奴隷ではない。私は自分の意思で自分の人生を切り開いている。」

 

 皆がそのように思い込むことによって、イミテーション民主主義という楼閣が出来上がる。この中で、奴隷が奴隷だと気づかない奴隷制度が存続する。このベルトコンベヤーが動き続ける限り、DSの巨利と支配は止まらない。

 だが、この不可視の奴隷制度には突破口がある。それが「自分が奴隷である」という気づきである。そこから自己の民主化が始まる。制度の改革や社会革命には限界がある。それは一時的に成功しても、線香花火のように終わる。これは歴史が証明している。だからこれからは個人の時代である。個人の気づきが「ただ一つの革命」なのである。

 

f:id:isoladoman:20210815174043j:plain

映画「マトリックス」の一場面 

モーフィアスがネオに真実を告げる