戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十六回 ワクチンを打たない人間は非国民なのか(1)

1.私のまわりのコロナ・ワクチン体験

 新型コロナ騒動が始まって以来、二年近くが経とうとしている。世界の感染者数は累計で2億人を超え、日本は170万人である。私の限られた人間関係の範囲においても、4人がCOVIT-19に罹患している。その4名はPCR検査で陽性結果が出たことから出勤停止となり、自宅療養で回復し、現在は元の生活を取り戻している。

 そのうちの一人は発熱や咳に苦しんだが、一週間の自宅療養で全快した。最初は「まさか自分がコロナに」ということで、精神的なショックがかなり大きかったようだ。だが、最終的には後遺症もなく、かつ体内に抗体もできたことから、コロナに対する恐怖心も相当に軽減したようだ。その人は「結果的にコロナになって良かった」と述べている。

 もちろん、このようなケースは私の限られた人間関係の範囲内でのことであり、安易に一般化はできない。重症化する人や死亡する人、あるいは退院しても後遺症で苦しむ人達もいるわけであるから、楽観できる状況ではないだろう。

 だがコロナ禍の恐ろしさは、ウイルスの恐ろしさにとどまることはない。むしろ、そこから派生する人間の愚かな判断こそが、ウイルスよりも恐ろしい甚大な被害へと繋がりかねないだろう。恐怖心にとらわれ、冷静かつ正確な思考を失えば、コロナよりも恐ろしい同調圧力の時代が到来しかねない。

 こうした中、ワクチンの接種は急速に進んでいるようである。ほんの二か月前までは、接種者は少数派であり、非接種者が大勢であった。だが今では立場が逆転し、非接種者は完全に少数派となっている。気になる副反応であるが、私の限られた人間関係の範囲内では、接種後に死亡したケースはないようだ。

 だが、腕の痛みや発熱で苦しむケースはよく耳にする。接種後、腕が肩より上にあがらないというケースや、38~40度の発熱というケースをよく聞く。男性ではまったく副反応がないというケースも頻繁に聞くが、女性の場合、重い副反応に苦しむケースがよくあるようだ。中には2~3日、自宅の寝床から起き上がれない人もいたようである。

 今のところ、非接種者に対するワクチンの強制や非難の声といったものは聞いていない。「注射した?」と質問されることはあっても、してないからといって批判されるという雰囲気ではない。だが、接種するかしないかの問題は、感染防止のフェイズから次の段階へと動きつつあるように感じられる。ワクチンパスポートの問題である。

 ある30代の男性は、ワクチンを接種していない。その人は肉体的に頑健であり、持病もない。また、年代的に死亡や重症化の可能性も低い。また、職場の4人の罹患者についても知っており、彼らが後遺症もなく元気に仕事に復帰している姿を見て、コロナを恐ろしいものであると彼は実感していない。だから同僚が次から次へと接種しても、彼は接種しなかった。

 だが、最近の彼の気持ちは接種へと傾きつつあるようだ。原因はワクチンパスポートである。近い将来、パスポートがなければ劇場やホール、スーパーマーケットや店舗などへの立ち入りが出来なくなるという噂話が広まりつつあるのだ。

 そのため、非接種者への非難の雰囲気はまだないとはいえ、心配の雰囲気は広がりつつある。「早く注射した方がいいよ」と親切にアドバイスする先輩も出てくるようになっている。もし噂が本当になるなら、事はプライベートの生活にとどまらない。様々な場所が出入り禁止になれば、仕事への影響も大きい。そのため、接種する気がなかった彼も、パスポート制度が我が国で確立する前に、接種を済ませる方がいいのではないかと考え始めている。

 このような心の動きは、彼にとどまらず、全国にたくさん生じているかもしれない。だが、よくよく考えてみると、これは妙な話である。もともとワクチンはCOVIT-19という病気の恐ろしさゆえに登場したものである。病気は恐くないが、店舗に入れなくなることは恐いのでワクチンを打つというのでは、もともとの目的から大きく逸脱することになる。

 これは危険な兆候ではなかろうか。最初、誰もがコロナという病気を恐れた。それがいつの間にか、ワクチンを打たないことによる村八分が恐いという方向へフェイズが変化してゆく。コロナは恐くなくても人間が恐いということになってくるのだ。ウイルスは発端に過ぎない。次のフェイズでは、「非接種者=非国民」という愚かな圧力が問題となってくるのである。

 

2.人類史上初めての試み

 次から次へと皆がワクチンを打っていく。特に何の心配もせず接種している人もいるが、相当に悩んだ末に接種する人もいる。もちろん、今でも接種に踏み切れない人もいる。それは当然だろう。重い副反応で苦しんだ人の体験談を、直接本人の口から耳にすれば、聞いた方は接種を躊躇うに決まっている。動揺するなと言う方が無理であろう。

 だが、不思議なことがある。私の限られた人間関係の範囲内ではあるが、ワクチンの中身を調べてから接種したというケースは聞いたことがない。清水の舞台から飛び降りる決意で接種した人も、ワクチンの組成については何も知らないし、知るつもりもないようだ。賛否両論あるワクチンであるが、賛成派も心配派も、内容を調べないという点では、貫かれた鉄板の如くに共通している。

 私の地域ではファイザーかモデルナの二者択一であるが、いずれもタイプ的には「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」である。これは人類がこれまでに接種してきたタイプのワクチンとはまったく異なる仕組みを持つ。歴史上初めて人間の体の中に注入されるものである。だが、説明書を読んでから接種したという話は聞いたことがない。

 

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ファイザー社 コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン

 「ワクチン」という慣れ親しんだ名前で呼ばれるゆえに、安心感を持っている人もいるようだ。確かに、これまでの人生でワクチンを一本も体に入れたことがないという人は、ほとんどいないだろう。ワクチンで死んだ人もほとんど見たことがないはずだ。だから「ワクチン」と言われても恐怖心が生じないのは、ある意味普通である。

 だが、修飾ウリジンRNAワクチンは全く異なる。これまでのオーソドックスな不活化ワクチンとは全くの別物と認識すべきだ。我々の誰もがこのタイプには未経験だ。初めてのことであるから、打った後に具体的にどうなるかは、誰にもわからない。

 本来なら実験を繰り返す中で「長期安定性」について明らかにしていくことが筋道であるが、緊急事態ということで極めて短い実験期間の末に特例承認され、いきなり一般市民の体に入れられることとなった。こんなことは医療史上初めてのことである。一般市民がモルモットとなるのである。

 このことは説明書にも書かれている。普通のワクチンや薬剤における説明書では、「製造販売後も引き続き情報を収集中である」という恐ろしい文言はない。危険性についての情報収集が一定程度済んでから、承認・販売という流れが当たり前だからである。

 国民がモルモットになるという異常事態が特例として承認されたのは、COVIT-19の蔓延により医療体制が逼迫し、特に高齢者の間で重症化、死亡のケースが増大したからである。国民モルモットという異常事態と、COVIT-19の脅威が天秤にかけられ、日本も含め多くの国で「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」という得体の知れないものが特例で承認されることとなった。

 これは「危険であっても仕方がない」という理屈で成り立った承認である。だから打つか打たないかは、各自の判断ということになった。つまり自己責任である。製薬会社は責任を取らないのであるから、打った結果死ぬにしても、細胞が癌化するにしても、全てはその人の責任である。

 判断は個人のものであり、他人や社会が干渉する余地はない。これは特例承認で世に出たというこのワクチンの成り立ちから、当然に行き当たる帰結である。ところが、最近では話が違う方向へ進みつつある。ワクチンを打たない判断を尊重しようという風潮よりも、非国民として排除しようという風が強くなりつつあるのだ。コロナより恐い同調圧力である。

 

3.自由から義務へ、そして暴力へ

 新型コロナウイルスおよびワクチンのメカニズムについては、第百三回ブログ以降において詳述したので、疑問点のある方はそちらを参照していだたきたい。そこでは陰謀論として新型ワクチンを否定するのではなく、純粋科学的に新型ワクチンの「わからなさ」について考察している。

 私はQアノンの信奉者と異なり、ワクチンを全否定していない。新型ワクチンの未知の危険性について認識しつつも、場合によってはワクチンを必要とすることもあるだろうと思っている。各人の状況は異なる。私のケースで保持される正しさや妥当性を、他者に押し付けることはできないはずだ。

 年齢や生活環境を考慮してワクチンを打ちたいと思っている人がいる。あるいは感染確率の高い環境で働かざるを得ない等の理由から、危険性を覚悟の上でワクチンを接種する合理性があるという人もいる。そのあたりについては、第百九回ブログで詳述しているので、疑問点がある方はそちらを参照していただきたい。

 コロナやワクチンを怨む人がいる。だが、コロナやワクチンといった物的な対象を悪者にする思考は、あまりにも安易であろう。問題は人間の考え方であるはずだ。より正確に言えば、あまり物事を考えない人間の安易な決めつけや偏見こそが、真の問題であるはずだ。

 問題は、いつの間にか話がすり替わってしまうことである。もとはと言えば「個人の判断」の問題であったものが、いつの間にか社会的義務の問題へとすり替わる。こうした「すり替え」を怠惰に放置しておけば、そもそも根幹としてあった「選択の自由」は簡単に風化する。

 安全は保証できない。だから選択の自由があった。危険性と自由。それは二つでセットだったはずだ。それなのに、いつの間にか自由は強風によって吹き飛ばされ、危険なワクチンが義務化されるという制度が確立されてしまう。

 以下のNHKアンケートによると、ワクチン接種を拒否する人に対して、国は罰を与えるべきだと考える人は、40.3%になるらしい。

 

www3.nhk.or.jp

 

 NHKのアンケートがどれだけ現実的に世相を反映しているかは、私にはわからない。だが、もしこの調査結果がそれなりに信憑性のあるものだとしたら、かなり時代は危険なものへと流れていっていると判断して構わないであろう。国民の4割が非接種者に対する罰則規定を本気で考えているのだとしたら、それはこのワクチンの制度趣旨が忘却されていることの証明である。

 このワクチンにはまだ不明点が多い。まさに今、実験中なのである。それは説明書にも書かれている。だからこの大規模人体実験に参加するかしないかは、個々人の判断に完全に委ねられている。これが接種制度の根幹であったはずだ。この柱が忘却され、義務化となれば、国家による暴力の始まりである。

 国民が正確な思考を怠り、同調圧力と暴力に染まってゆけば、政府としてはそれを利用しない手はない。ワクチンの圧力は国民生活の様々な面に及び、ワクチンパスポートがなければ生きていけないという国家体制が確立されてゆく。

 この場合、ワクチンの副反応は義務化される。そうなれば薬害は自己責任ではない。国家義務だ。これは徴兵制と同じである。かつて戦争に行きたくない若者が徴兵され、戦地で死んだ。徴兵拒否した者は監獄で死んだ。これは国家による殺人である。ワクチンの義務化がそれと違うと誰が言えよう。

 いつの間にか反戦を唱える人が非国民と見なされていったことと同じように、ワクチンを打たない人は今後、非国民と見なされていくのかもしれない。特例承認ゆえに自己判断。その原則から始まったワクチン接種であるが、今や根幹は忘れ去られ、流れは完全に暴力的な方向へ向かっているようだ。

 自由から義務へ。そして暴力へ。これは初めての風景であろうか。いや、違う。日本人である我々にとって、この風景は骨身に沁みるほどの痛みの中で見たはずである。それは1945年の苦悩の中で、皆で捨て去った風景のはずだ。だが、皮肉なことにまたそんな時代が到来しつつある。まさに今、目の前に迫りつつあるのだ。