戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第八十八回 一人でやる民主主義(2)

1.未来を夢想して今を犠牲にするという暴力

 これまでの民主化運動は、「より良い未来」を目的としたものであった。それは現状に欠陥を見出した理想家が、大衆に対して「より良い未来」を提唱し、働きかけるものであった。それは善意による働きかけであった。だが悪意がなく、純粋であればあるほど、他人を「良い」方向に導くという行為は、必然的に暴力の危険性を伴う。

 最初は純粋な善意であっても、いつのまにか暴力になるという可変性が、そこには存在する。善意に満ちた暴力ほど恐ろしいものはない。発展すれば、正義の戦争を正当化する力となる。国と国との戦争だけではない。善意の戦いは国内でも起こり、分断となる。1861年に起きたアメリカの南北戦争は約50万人の死者を出したが、それは過去の遺物ではなく、現在、未来においても起こり得るものである。

 だから、善意から暴力へと流れるこの可変性について意識的な人間は、他者に対する働きかけについて非常にセンシティブである。それは、他人を操作することの恐ろしさを知っているということである。他人から操作されることは不自由である。他者に不自由をもたらそうとする者は、自分も他人から操作されるという運命を招く。こうして互いに相手を不自由にするという連鎖が生まれる。

 もし善意の暴力、集団的イデオロギー、あるいは洗脳から自由でありたいなら、まずは自分自身が他者の操作という悪循環から離脱するしかない。だから大西つねき氏は、「より良い未来」のために「今」を争うことはナンセンスだと訴え続けている。

 

-総理になる-大西つねき(衆議院選挙神奈川4区立候補予定者)

 

  我々は「より良い未来」を夢想し、それを手に入れるために他者の心に手を入れて、変えようとする。だが、その微細な暴力性は「今」の自分の心に波を起こしている。つまり、「今」の自分の心は平和ではなく、未来の平和を手に入れるために、今、異なる考えを持つ他人と戦っているのだ。

 これは「より良い未来」のために今の平和を蔑ろにすることであり、未来の利益のために現在の自分を売り渡していることである。「未来」という頭の中にしか存在しない夢のために、今の自分という掛け替えのない魂を売り渡してしまうなら、結果としてより良い未来も手に入るはずがない。

 我々は政府から暴力的に攻撃されることについては意識的であっても、身近な他者を無理やり変えようとする暴力については無自覚である。だから人類としての我々は「より良い未来」という夢想のために社会革命を試み、異論を封じ込め、他者を自分の思想に染めようとして戦い、数限りない失敗を繰り返してきた。

 大西氏が単なるアジテーターや、平凡な運動家、あるいは線香花火のように燃えては消える刹那的な革命家と違って現実的なのは、彼が「他人を操作しない」ことを自らの運動の中心に据えている点にある。それは非暴力の運動であり、夢の未来よりも平和な今を大切にするという思想である。

 もちろん、「他人を操作しない」ことを信条にしている大西氏であっても、相手が間違っていると思えば「間違い」だとはっきり述べる。だが強制はしない。明らかに間違っているように見える考えであっても、その人からすればその間違いは貴重な体験である。それは他人の手によって無理やり捻じ曲げられるべきものではなく、その人自身の気づきと体験によって、その人に還元されるべきものである。

 民主主義を集団的な運動とせず、自分一人の自由な生き方とすることの意義はそこにある。自分の心の平和を作ることができる人間は自分しかいない。それは過去でも未来でもなく、今作るものであり、今この瞬間に自分自身の平和に気づくことである。

 集団的なイデオロギーは、民主主義であろうが何主義であろうが、「より良い未来」のために今の自分の心を疎かにするという愚となる。だから真に自由と平和を愛する人間は、今の自分を自由化し、本来の自分に備わっている平和に帰還しようとする。その帰還が結果として他者に影響を及ぼし、社会に波及し、国家が平和になり、世界平和となる。

 遠い理想を追い求めて今を犠牲にするのではなく、今の平和を志向し、今の自分が平和なのだと気づく。それが最も現実的な平和主義であり、自分にしかできない仕事である。世界の平和を夢想するよりも、今の自分を平和の化身とする。それが世界平和への第一歩であり、平和を求めて右往左往してきた人類にとっての最終的な答えでもある。

 

2.「勉強しろ」という説教の暴力性と親の民主化

 動機が善意であっても、実際の行動は暴力であるという逆説は、市民運動や市民革命だけに見出されるものではない。普通の家庭のコミュニケーションにおいても、当たり前のように見出されるものである。現に、誰もが子ども時代に体験している。あるいは現在子育て中なら、親として頻繁にやっていることである。

 以前、ある教育テレビの番組で、子どもが親から言われて最も嫌なことのNo.1が「勉強しろ」だという統計を見た。「散らかすな!」や「早く寝ろ!」など、日々子どもは親から様々な説教をされるものであるが、そうした数々の説教の中で、子どもが親から言われて最も腹を立てる言葉の第一位は「勉強しろ!」だそうである。

 

「勉強しろ」は逆効果! 統計でわかった、親が本当にやるべき3つのこと

 

  親が子どもに「勉強しろ!」と命令するのは、「良かれ」と思ってやっていることである。しかし、子どものためと言いながら、実は親自身の不安感のためである。親は「あなたのため」と言いながら、子どもにとっての「より良い未来」を口実に説教するわけだが、本当の動機は自分の「今」の不安感である。

 親は子どもの未来を心配して説教するが、実際は未来のことは誰にもわからない。子どもが宿題をしないからといって、その子が立派な大人にならないとは限らない。逆に、成績優秀な子が大人になって犯罪者になるケースもある。

 とは言っても、勉強しない我が子を見ていれば、親として強烈な不安感に苛まされる。その不安感から、条件反射的に子どもに対する説教となる。だが、本当に子どもが欲しいものは夢想としての「未来」ではなく充実した「今」である。

 もちろん、朝から晩までテレビゲームに明け暮れていることは、刺激と興奮の快楽ではあっても、本当の意味で充実した「今」ではない。いくら楽しくても、そんな「今」は虚ろなものである。だから、子どもの側も目先の刺激の奴隷となることは良くないとわかっている。

 だが、人生経験の浅い子どもからすれば、刺激に満ちたゲームの世界は極めて魅力的であり、初めての世界である。「良くない」とわかってはいるが、やめられない。だから、その刺激から距離を置き、隷属状態から自由になれる境地について、年輪を重ねた人生の先輩である親から教えてもらいたい。

 しかしその時、親は子どもの期待を見事に裏切る。子どもは親が自分よりも高いレベルの境地を示してくれるものと期待するが、実際に目の前に出てくるものは、ゲーム中毒の自分と同レベルの人間の姿である。

 目先の刺激に夢中になっている子どもと、感情の奔流に我を忘れている親。それは同じレベルの争いであり、子どもが期待する隷属状態からの突破口ではない。「良かれ」と思ってなされた説教であっても、善意という名の感情的な暴力に過ぎないなら、子どもにとってはまったく説得力がない。むしろ逆効果であり、年を重ねた親が子どもと同レベルであるという虚しい現実に対する失望でしかない。

 「なぜ勉強するのか?」という問いを発しても、親は低いレベルの理由しか口にしない。「勉強しないといい大学にいけない」とか「いい大学に行かないといい会社に入れない」といった理由だ。しかし、それは刺激と反応のレベルでしかない。

 大学という巨大組織に入り、大企業という巨大組織に入る。そこで飴玉を貰い、言いなりになって働くことは、自己をシステムに売り渡すということである。毎月の家賃や住宅ローンの支払い、食費や娯楽、外食や酒やショッピングモールで見る映画といった餌を貰うために、どんな悪事をしているかわからない巨大組織に自己を売り渡す。そんな大人になるという未来像は、子どもにとって悪夢である。

 「より良い未来のため」と言いながら説教する親が示す「未来」は、薔薇色ではなく完全に灰色である。子どもはテレビゲームの奴隷になっている自分が、どうやったらゲーム市場の奴隷状態から抜け出せるのかを親から聞きたいのであるが、親が提示する答えは、ことごとく奴隷として生きるためのノウハウにしか過ぎない。

 もちろん、「勉強しろ」と説教せず、ひたすら放置する親もいる。しかし、それも子どもにとっては失望である。感情の奴隷となって「勉強しろ!」と叫び続ける親にも失望するが、怠惰と思考停止の奴隷となっている親にも、子どもは失望するのだ。

 ではどうすればいいか。この時、親は子どもに立派な答えを提示する必要はない。親は聖人君子ではなく、普通の悩める人間である。ならば、正直にその悩める姿を子どもに提示すればいいのではなかろうか。そもそも人間がなぜシステムの奴隷になってしまうのかという問いに対して、簡単に答えが出るはずがない。

 勉強しない子どもに対して、「良かれ」と思って「勉強しろ!」と説教するだけでは、親子揃ってシステムの歯車になっているだけである。しかし「なぜ勉強しなければならないのか?」という子どもの問いに対して、親が「そう言われるとそうだな…」と思って子どもと一緒に考え始めるならば、システムの自動運動はその時止まる。

 命の輝きにとって必要なものは、立派な解答ではなく、当たり前だと思っていた自動反応システムの停止である。子どもの「なぜ?」という問いは、完全無欠に思われた巨大システムに亀裂を生じさせる。そうした子どもの「なぜ?」をきっかけとして、親も子どもの心を取り戻して考え始める時、親は親という立場を離脱し、一人の考える人となる。

 親が親の立場を強権として振りまわすのではなく、ともに「なぜ?」を考える存在となってくれるならば、子どもは親を権力ではなく同胞と見なすようになるだろう。その時、親は子どもを奴隷システムに引きずり込むエージェントではなく、「今」の命を生きる仲間となる。こうして親子関係は独裁体制から離脱し、民主化される。

 親が自分を一人の人間として民主化すれば、家庭が民主化され、国家が民主化され、ひいては世界が民主化される。逆に、世界が民主化されても、自分自身が奴隷のままなら意味がない。それは立派な答えを持っていることではない。今、自分が世界を問い、考えているという状態のことである。

 学問は答えではなく、学問をすることによって「今ここ」で、自分自身をシステムの自動運動から解放しているという状態のことである。親の解放された姿を見て、子どもも真似をするようになる。だから、子どもを虚しいゲームから解放したいなら、親が子どもを操作する前に自分自身を解放し、虚しい人生ゲームから離脱するべきである。

 

3.自己の民主化と新しい時代の到来

 子どもが学校に行き、ただ黙って勉強しているだけでは、システムの奴隷となるだけである。その子はせいぜい文科省がつくった教科書のコピー品にしかならないだろう。しかし、野放図な無秩序状態としての子どものままでは、人間としての自由は実現できない。

 だから知性が必要となる。そのための学問が必要となるのだ。システムの奴隷となるための勉強は不要であっても、人間が自己実現するための学問は必要である。そのためには親が子どもに「勉強しろ」と説教するのではなく、自分自身が学問を実践する姿を子どもに見せなければならない。

 それは親が会社を辞めて大学に入りなおすことではない。あるいは会社に行きながら放送大学の講座を受講することでもない。「大学」という巨大システムの奴隷になってしまうなら、本当の意味の学問とは正反対である。学問とは大学システムの歯車になることではなく、「問う」て「学ぶ」ことである。それはシステムに対して疑問を持ち、考える自分自身の「今ここ」の状態にしか存在し得ないものだ。

 例として、安冨歩(やすとみあゆみ)氏が実践する女性装について考えてみたい。これを単なる「女装趣味」と捉えてしまうと、根本的な勘違いとなるだけであるが、氏の実践を一人で行う民主主義、つまり学問的実践なのだと捉えるならば、その意図が明確に見えてくる。

 それは女の恰好をしていると性的興奮を感じるといった変態趣味ではない。自分に対して男性の恰好を強いるという独裁から卒業するということである。つまり自己の服装の民主化である。氏は他人を自分の都合のいいように作り変える前に、自己を民主化し、解放したのである。

 男だから男の服を着なければならないという社会的な考えがある。ただ、それに隷属し、自己に強制することは、システムを自分自身という命に強制することである。しかし本来、衣服は命のためのものであり、命が衣服に隷属しなければならない理由はない。服装システムに隷属することは、変人として奇異な目で見られないという飴玉をシステムから貰うために、自分をシステムに売り渡すことである。

 

「立場主義」に囚われた社会システムから抜け出すための「女性装」――東大教授・安冨歩氏インタビュー

 

 システムの歯車であることを当たり前だと思っている条件反射的な奴隷からすれば、どこからどう見ても中年男性にしか見えない人が女装をして街中を闊歩していることは奇異に見える。ある人は氏をおもしろがるかもしれないし、ある人は変態と見るかもしれないし、ある人は不快だと感じるかもしれない。

 しかしそうしたシステムの条件反射は、安冨氏という命からすればどうでもいいものである。氏は世の中から変人として見られないという飴玉を貰うことよりも、命を優先する。そうした安冨氏の態度は、それ自体が政治的行為である。

 この国が民主的であるか以前に、まずは自分自身を民主化し、解放する。自分自身を無理やりシステムに当てはめるという自分に対する強権政治をやめる。自分の自分に対する独裁をやめ、民主化され、解放された自分の姿を世の中に見せ、それが世の中の人々の意識を変えるかどうかは、それぞれの人に任せる。強制はしない。それが一人でやる民主主義である。

 「民主主義とは何か?」という疑問に対して明確な答えを出すことが、大事なことではない。その問いをそのまま生きることが、大事なことである。正解と正解のぶつかり合いは、正義と正義の戦いにしか過ぎない。それよりも、今の自分の服装は自分らしくないのではないかと疑問を持つことの方が大事である。

 正義の刃で他人を切ることは、自己の解放にはならない。正義の刃を振り回すことは、我々にとっての本当の充足感にはならず、つまらないことである。そんなつまらないことに熱中するよりも、自己が自己の独裁から解放されることに尽力する方が、遥かに充実する生き方である。

 自己が解放されれば、世の中というシステムがどうであろうが、自分においてシステムの停止が起こる。自分においてシステムが停止されれば、その止まった工場の地面から命そのものが湧き上がってくる。その香りが自分の体から発せられれば、それに触れた他者も自然と変容が生じるであろう。

 これが仏教で言う「薫習」である。一人の解放が他者の解放となり、国家の解放となり、世界の解放となる。解放は他人に強制するものではない。香りによって魅了された他者は、自主的に自分なりの解放の仕方を探究する。その自主性によってもたらされた香りは、さらなる他者を魅了し、その連鎖によって世界は解放の香りに満ち溢れるだろう。

 安冨氏は東大教授であるが、氏が東大を辞めて無職になっても、氏が学者であることは変わらない。氏にとっては24時間考え、考えながら生きることが人生である。それは固定した答えに居座り続ける教条とは違い、問い続け、考え続けるという喜びに満ちた運動体である。

 立場主義の人は、「教授」という立場を学者だと勘違いする。大学というシステムを学問だと勘違いする。だが本当の学問とはシステムが飴玉として人間に与える「立場」から自由になり、自己を解放する生き方のことである。

 だから安冨氏にとっては東大に行き、教授の椅子に座ることだけが学問ではない。女性装で街を歩き、選挙活動をし、馬に乗ることも学問である。子どもたちは彼の本を読んで学問を学ぶのではない。彼が自己を解放する「今」の瞬間を見ることで、生きた学問としての命を見るのである。

 子どもたちがシステムを生きる大人から上手な奴隷の成り方を教わるのではなく、命を生きる大人から学問を学ぶようになれば、世界は民主化されるだろう。その世界は子どもを大人にとっての都合のいいロボットに仕立て上げる世界ではない。子どもの「なぜ?」が肯定され、その「なぜ?」が自らの命の木として発展し、枝葉を茂らせる世界である。

 大人の一人一人が、システムから飴玉を貰うための狡知を磨くという生き方をやめ、集団システムの民主化ではなく、自己の民主化に励むようになる時、子どもたちはそんな大人の姿を心に焼きつけ、強制ではなく、自主的に学びの枝葉を育み始めるだろう。

 それは新しい地球の出現である。と同時に、古い地球の姿への帰還でもある。我々は新しい時代の到来を迎えつつあり、その扉の前に立っている。その扉を開けた時、目の前にある時代は見たことのない世界ではなく、悠久の時間としての世界である。自己の民主化により、自己を解放し、自己の扉をあけ放つとき、そこにある世界は夢想された未来ではなく、命としての今なのである。