戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十九回 積極財政は「ばら撒き」ではなく「返還」である

1.通貨発行についての勘違い

 世間とは何か。答えは様々である。おびただしい量の世間論があり、見解を一つに統一することは難しい。だが、ある視点からすれば答えは単純になる。それが「金(Money)」という視点である。百花繚乱の世間論と違い、「金(Money)」という一点から透過すれば、世間は著しく単純化する。すなわち、世間とはお金に関して勘違いした人々による共同体である。

 誰かの勘違いは、誰かの利益である。庶民は知らぬ間に金を吸い取られ、金融資本家は巨利を得る。そもそも人々は、「金(Money)」の出所について勘違いしており、紙幣は政府が発行していると思い込んでいる。だが真実は異なる。

 確かに印刷は国立印刷局が行っている。だがそれはプリントアウトにすぎない。本の権限が印刷所ではなく出版社にあるように、国は紙幣を発行する権限を持たない。証拠は身近にある。財布の中から一万円札を取り出して、よく見てみるとよい。日本国紙幣とはどこにも書かれていない。日本銀行券と書かれている。

 

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日本銀行券 一万円札

 

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渋沢栄一デザインの一万円
渋沢栄一の師匠がフランスの銀行家ポール・フリュリ=エラール(1836-1913)であり、エラールのボスはアルフォンス・ド・ロスチャイルド伯爵(1827-1905)であった。

 日本国民の誰もがこの紙幣を使い、これがなければ飢え死にする。つまり国民生活の根幹である。仮に生活に困って、本物と見分けがつかない精巧な一万円札を自分で作ったら、偽札作りとして犯罪である(通貨偽造罪:刑法148条)。なぜ犯罪なのか。多くの人は言うかもしれない。札を作っていいのは国だけだと。

 だが日本銀行は政府機関でもなければ国立銀行でもない。JASDAQに上場している民間の法人である。なぜ民間法人が紙幣を発行するのか。なぜ一法人の「券」が、生殺与奪の権を握るのか。不可思議な制度である。だが、誰も疑問に思わない。

 確かに、かつては国だけが通貨発行権を持っていた。江戸時代に日銀は存在しない。イエス・キリストは言った。「カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返しなさい(マルコ福音書12章17)」。カエサル、つまり国家は通貨であり、通貨は国家であった。

 ところが19世紀、国立であった中央銀行に民営化の波が襲いかかる。ナポレオン戦争で弱り切った英仏政府に、ロスチャイルドが入り込んだのだ。こうして民営化された中央銀行が「金(Money)」を作るという制度がヨーロッパで確立され、世界中に広まっていった。今や北朝鮮、イラン、キューバ等の異端を除けば、中央銀行は国立ではなく民間法人である。

 アメリカのFRB国立銀行ではない。民間法人である。それが世界通貨であるドルを発行している。ユーロはヨーロッパ中央銀行が発行している。おかげでEU加盟国は自国で通貨を発行できない。見た目は独立国であっても、経済の根幹としての通貨は外部組織に握られている。ギリシアはそれで破綻した。

 国家が銀行家に乗っ取られ、必要な時に自分で通貨を発行できずに潰れるとは愚の骨頂である。慧眼のエイブラハム・リンカーンAbraham Lincoln 1809-1865)はこの禍を見通し、政府紙幣を発行した。ゆえに殺された。詳しく知りたい方は、このブログを第一回から読み直していただきたい。

 ともかく、これは陰謀論ではない。信じるか信じないかはあなた次第の都市伝説ではなく、我々一人一人の財布の中身において現実化していることである。ロスチャイルドの影響は、信じようが信じまいが、我々の生活の隅々にまで浸透している。だがロスチャイルドからすれば、我々がそれを知る必要はない。彼らからすれば、我々は死ぬまで「金(Money)」について誤解していればいいのである。

 

2.さらなる勘違い

 お金はどうやって生まれるか。多くの人々は、政府の造幣所が紙幣を印刷することで「金(Money)」が生まれると思っている。だが紙として物質化される「金(Money)」は、全体(正確にはマネーストックM2)の1割程度に過ぎず、残りの9割は電子上のデータとしての「金(Money)」である。

 では本当の発生はどこにあるか。答えは借金である。国民の誰かが銀行で金を借り、通帳に金額が書き込まれた時に「金(Money)」が生まれる。これがいわゆる「万年筆マネー」と呼ばれるものであり、「信用創造」である。詳しくは第七十四回ブログを見ていただきたい。

 預金も同様である。我々は銀行に金を預ける時、自宅の金庫の代わりに銀行に金を預けるのだと勘違いしている。どんな立派な金庫があっても、自宅に1億円を置いておくのは不安だ。だから銀行に預けるという発想である。

 だが、預金とは銀行側からすれば借金である。貯金や預金、すなわち「預けて終わり」という考え方は世人の勝手な思考停止であり、法的に正確に表現すれば、これは債権債務である。預金者は銀行に金を預けているのではなく、貸している。100万円を銀行に預けるというのは、銀行に100万円を貸していることだ。だから微小ながらも利子がつく。借金に利子がつくのは当然である。

 私が100万円をみずほ銀行に渡したら、私はみずほに対する100万の債権を持ち、みずほは私に対して債務を持つ。私は債権者であり、銀行は債務者である。誰かの債務が誰かの債権であり、誰かの借金が誰かの資産である。片方が消えたら、もう片方も消える。これがお金の鉄板の法則である。

 以上、述べてきたことはお金に関する初歩の初歩であるが、普通の国民はその第一歩ですら勘違いしている。そういった無知な人間が大量に集まり、「世間」という巨大な集合体を構成しているなら、悪知恵の働く者なら「これを利用しない手はない」と考えるのが当然であろう。

 1億2千512万の国民のうち、この「初歩の初歩」をきちんと理解している人は何%いるだろうか。その割合が少なければ少ないほど、金融資本家は得をする。だから学校も会社も教えない。テレビも新聞も言わない。

 馬鹿が多ければ多いほど儲かる。この仕組みに嫌気がさすならば、まずは自分自身が幻想の共同体から抜け出すことである。やり方は単純だ。他人はともかく、まずは自分一人がお金の仕組みをきちんと理解することである。自分の理解が幻想の終焉である。

 

3.人間をモノとして扱う精神力がなければAgentの資格はない

 洗脳というのは恐ろしいものである。私自身が20代の頃は、国の借金は返さなければならないのだと思い込んでいた。国の借金は1000兆円をこえ、国民一人頭で約1000万円の借金があると思い込んでいたのだ。だが、ある時から「おかしい」と感じ始めた。そこから「金(Money)」の仕組みについて調べ始めたが、決定打となったのは大西つねき氏の以下の著作であった。

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HOPE 大西つねき フェア党

 確かにおかしな話である。HOPEにも書かれているが、日本は対外純資産ランキングにおいて世界のトップである。一位の座は30年間不動だ。だが、この国は膨大な借金をかかえ、日に日に貧乏になり、苦しみの中で喘いでいると言われている。確かに生活実感として、この国が金持ちだとはとてもじゃないが思えない。この時、正常な神経を持つ人間なら思うはずだ。何かがおかしいと。

 

www.globalnote.jp

 

 誰かの負債は誰かの資産である。誰かの喘ぎは誰かの利益である。そういう仕組みについて、我々庶民は知る必要がないとされている。養豚場の豚は、豚肉の市場動向について知る必要はない。真実は「主(あるじ)」だけが知っていればいいのだ。日本国民がお金の仕組みについて知らず、世界情勢や自国の現状について無知蒙昧であるというマイナスは、そのまま金融資本家たちにとってのプラスなのだ。

 それゆえ今回の選挙戦においても、この無知蒙昧は継続してもらわなければ、彼らからすれば困る。だから手先(Agent)は民衆に強く訴える。国の借金は増えている。次の世代にツケを負わせてはダメだ。だからバラマキはダメだ。そう言って、国民の勘違いを助長するのだ。

 

www.daily.co.jp

 

 吉村知事はもともとサラ金トップの武富士の顧問弁護士であったが、その後政治家になっても、やっていることは弁護士時代とちっとも変わらない。吉村知事率いる維新の人達が、大阪の資産をどれだけ外国人の資本家に横流ししてきたかについては、ネットで少し調べればわかることなので、ここで言及することはやめておこう。

 私が吉村氏の言動、態度、あの恐ろしい目つきを見て思うのは、「これは大物だ」ということだ。彼はクレサラという戦場で、相当の修羅場を踏んできている。私もクレサラ界隈に身を置いたことがある。もちろん立場は逆で、吉村氏は債権者・資本家側、私は債務者・困窮者側であったが。

 

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弁護士時代の吉村洋文氏

 

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当時、全国クレサラ弁護団の団長は宇都宮健児氏であった。

 20年前、クレサラ(クレジット・サラ金)問題全盛期の頃、私は多重債務で困っている経営者を相手とするボランティア相談員をしていた。そういう最前線では、死人が出る場面にも遭遇せざるを得ない。ある日の会合のことであった。先週相談に来た零細企業の経営者が来ていない。

 私は事務局に聞いてみた。

 

 私 「Aさん、今日は来てませんね?」

 事務局 「ああ、Aさんはお亡くなりに・・・自殺したそうです・・・」

 私 「え! 先週は普通に話をしましたし、そんな感じではなかったですが・・・

    本当ですか?」

 事務局 「ええ、首を吊ったそうです・・・」

 

 つい一週間前にお茶を飲みながら、問題解決に向けて話し合い、闇の中で小さな希望を一緒に見た相手が、いきなり「消える」というのは妙なものである。あまりにも突然なことに、悲しみの感情が生じる余地がない。むしろ疑問が湧いてくる。何で死んだ? 奥さんやお子さんはどうなる? 社長が突然死んで、会社の従業員はどうすればいい? 不可解な空虚さで頭がいっぱいである。

 吉村氏は当時、私とは反対の立場にいた。つまり、亡くなったAさんのような人達から、金をとことん吸い尽くすという立場である。当然、遺族やクレサラ弁護団は許せない。違法と合法のグレーゾーンの手法による悪質な取り立て行為、あるいは一線をこえた暴力について裁判所に訴える。

 それに対して、武富士が損をしないために、これまた違法スレスレ、あるいは明らかに一線をこえているように見える隠蔽工作などで応戦し、相手を潰す、またはうまく逃げることが、弁護士としての吉村氏の仕事であったはずである。

 

www.excite.co.jp

 

 恐らく、彼のもとには悲惨な報道や報告、手紙といったものが、次から次に来ていただろう。いくら高額の報酬を貰っても、普通の神経なら参ってしまう仕事である。良心が少しでも残っていれば、トラウマになる。業界トップ、武富士の弁護士として活躍できたということは、真の鬼、悪魔になれたということである。凡庸な弁護士にできる仕事ではない。

 彼は修羅場の中で、法的能力や弁論能力を上げただけでなく、金融理論、メディア戦略、大衆心理操作論、違法スレスレの暴力のやり方などを学び、向上させたのであろう。人がたくさん死ぬ戦場、クレサラの現場を経験した彼は、そのノウハウを政治家として今もいかしているはずだ。だから彼からすれば、演説の途中で涙を流す山本太郎は「弱い」人間に見えるかもしれない。

 

www.youtube.com

 

 子どもの貧困率7人に1人、鬱病の患者数100万人、自殺者年間2万人。そういう抽象的なデータを聞いても、人の感情はそれほど動かない。だが現場で働く人間は、そのデータが「本当なんだ」と実感することになる。生身の人間が死ぬことで、数字が示す悲惨さに強烈なリアリティを感じ、切迫感を抱くようになる。

 山本太郎雨宮処凛氏(作家、週刊金曜日編集委員)らとともに、貧困支援の現場で活動した。おそらく人が死ぬ場面も経験しただろう。山本は演説でデータを述べながら、亡くなったAさんやBさんといった生身の人間を思い出しているのかもしれない。

 

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生活困窮者支援活動において雨宮処凛とともに食事を配る山本太郎

 山本はこの動画の中で、人間が交換のきく部品のように扱われていることに涙する。それは吉村知事からすれば、政治家として「甘さ」の証明に見えるかもしれない。吉村氏は言うかもしれない。人間をモノのように扱い、好きなように操作できる能力がなければ、本当の意味で「政治家」とは言えないと。

 確かに、山本総理大臣が将来誕生する可能性はほぼゼロであろう。他方、今後十年以内に吉村総理大臣が誕生するという話は現実味がある。吉村洋文という男には、嘘と冷血と暴力を貫き通せる雰囲気があり、悪の風格がある。小泉進次郎のようなお坊ちゃんとはレベルが違うように見える。お坊ちゃま、お嬢さまの二世、三世議員たちは、「悪の強さ」という点で、いかにも頼りがいがない。

 

smart-flash.jp

 

 だが山本の言う通り、この国では誰もが食い物にされている。忠犬も用済みとなれば捨てられる。総理大臣にまで成り上がっても親会社から雇われた子会社の社長に過ぎず、奴隷隊長でしかない。人間をモノとして扱うカポーは、宗主国の人間からモノとして扱われる。山本はそれをわかっているから、小沢一郎の弟子として生きることをやめたのだろう。

 

4.我々国民には返還請求権がある

 銀行が企業に金を貸せるのは、私のような一般市民が銀行に金を貸しているからである。私の立場からすれば、私は銀行に対して債権者であり、銀行は債務者である。銀行から金を借りる企業からすれば、銀行が債権者であり、企業は債務者である。債権と債務は二つで一つであり、片方がなくなればもう片方もなくなる。つまり両方消えるのである。

 国債も同様である。国が借金を背負う、つまり債務者になるということは、民間が債権者になるということである。これのどこが「子孫にツケをまわす」ことになるのか。だから、山本太郎は言う。政府の借金と言われているものは、政府が通貨を発行したことの記録に過ぎないと。

 

www.youtube.com

 

 政府の借金が1000兆円。それは嘘ではない。だが、それは国民にとって危機ではない。それを危機であるかのように勘違いさせる御用学者は、事実を撒き餌に国民を勘違いさせるカポーである。まるで「プルトニウムは飲んでも安全」という真実を餌にして、あたかもプルトニウムが安全であるかのような勘違いを国民に抱かせる大橋先生のようである(詳しくは第百六回ブログ参照)。

 政府の借金が膨大だから破綻すると言うのなら、国民から膨大な量の金を預かっている巨大銀行は破綻寸前なのだろうか。銀行預金とは借金である。我々預金者が銀行に金を貸しているのだ。ランキングで言えば、1位ゆうちょ、2位三菱東京UFJ、3位みずほ、4位三井住友である。つまり国民からの借金が多いランキングである。これらの銀行は財政破綻の危機に喘いでいるのか。

 「借金」という言葉を聞いて、条件反射的に「悪いもの」と思う精神構造を、我々はそろそろやめる必要があるだろう。誰かが資産を持つには、誰かが負債を負うのだ。もちろん、無限に国債を発行すれば、民間の金が膨大になり、金の価値が下がる。そうなれば、仮に一人10万円を毎月受け取っても、結果的にマイナスになる。米が5㎏で一万円になってしまえば、10万円を受給しても足りない。

 だから、インフレにならないように国は財政を調整しなければならない。上記動画でいうバスタブにおける水抜きと蛇口の調整である。民間に金が足りない時は蛇口をひねり、水を足す。これによって民間に金を行き渡らせ、雇用を増やし、デフレを脱却する。逆にインフレの兆候が出てきたら、税の徴収によって民間から金を引き上げる。水抜きである。

 国家経営として、そうした「やるべきこと」をやらずに、自公政権は水抜きとしての消費税引き上げを行い、法人税を下げてきた。これは金持ち優遇であるのみならず、国家の資産の外国への横流し、つまり国際金融資本家を太らせる行為であった。

 日本国民から血を吸い上げ、外国人を太らせるというこれまでの仕組みが緊縮財政と呼ばれるものであり、これまで自公政権財務省、御用学者や大手マスコミが喧伝してきたことであり、プロパガンダであった。これを逆向きにすることが、積極財政である。

 政府が積極財政をして、国民に金を配る。バスタブに水を足し、民間の資産を増やす。それは「バラマキ」ではない。これまで国民を騙して金を搾り取ってきた政府による、国民に対する損害賠償である。それが積極財政であり、財政出動である。

 これはコロナ禍で皆が経済的に困っているからやるべきことなのではない。コロナであろうがなかろうが、三十年以上に渡って不当に搾取されてきた分については、国民が取り戻さなくてはならないのであり、そのために政府は積極財政すべきなのである。つまり、それは「返還」である。我々国民には、これまで騙し取られて来た分に対する返還請求権がある。

 私は山本太郎の信奉者ではないし、れいわ新選組の熱烈な支持者でもない。だが今回の選挙においても、相変わらず与党も野党もお金の仕組みについて何も言わない。きちんと説明しているのは私の知っている限り、「れいわ」の候補者と、神奈川4区から立候補している無所属の大西つねき氏だけである。

 本来なら、「自由」と「民主主義」を標榜する自民党が、これまでの失政を反省し、積極財政を実行するのが筋であろう。政権交代によってその罪が有耶無耶になるより、自民党がその反省と責任において償いをする方が良い。だが、自民党はもともとCIAが作った政党であり、国際金融資本家のAgent集団であるから、そんなことはしないだろう(詳しくは第二十七回ブログ参照)。

 今日は10月29日であるが、二日後の選挙結果は今の時点でわかっている。政権交代は起こらない。自公政権が続く。それは決まっている。財政の仕組みについて知らない、あるいは知っていて知らぬフリをして、国民に嘘を言い続ける政治家の集まりが、この国の財政の根幹を握る。国民は日に日に家計が苦しくなっているのに、そんな政権を支持、あるいは渋々容認する。

 妙な話である。皆が金に困り、金を必要としているのに、国民は金を返還する意思を持った政治家に投票しない。むしろ、国民をいじめるプロを選ぶ。冷血な吉村知事の人気は上がる一方である。世間は一体どうなっているのだろうか。世間とは、騙されたがっている人間の集合体なのだろうか。

 だが私は騙されて喜ぶ人間ではないし、世間に染まるつもりもない。だから自分で考えている。これからも変わらない。それはこのブログの読者の皆さんも同様である。世の中がどんなに悪くなろうとも、私もあなたも、悪魔に魂を売る必要はないのだ。

 

※ 次の準備のため、しばらくお休みします。

第百十八回 ワクチンを打たない人間は非国民なのか(3)

1.宮坂祐氏、死去

 前回のブログ大阪大学の宮坂先生について取り上げたが、その時点では、私は宮坂先生の息子さんの件についてはまったく知らなかった。最初、その衝撃的なニュースを目にした時、私はフェイクニュースではないかと疑った。

 ワクチン推進派として名高い宮坂先生のご子息が、ワクチン接種後にくも膜下出血によって亡くなったという話は、いかにもフェイクな筋書きに見えたからだ。だが調べてみると、「くも膜下出血で亡くなった」ということは事実だと明らかになった。

 

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宮坂昌之氏 大阪大学名誉教授

 

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宮坂祐氏 株式会社ビービットエグゼクティブマネージャー

 宮坂祐氏は、Web関係のコンサルタントとして、日本の第一人者であったようだ。氏は2021年8月2日にはプロジェクトメンバーたちとの会議に参加していたとのことである。その翌日にくも膜下出血で倒れ、緊急搬送。すぐに手術となったが、8月20日、残念ながら永眠されたとのことである。

 

markezine.jp

 

 宮坂祐氏がくも膜下出血によりお亡くなりになったことの原因は果たしてワクチンにあるのか。その因果関係については、私にはわからない。そもそもワクチンを打っていなかった可能性もある。だが以下のページによると、宮坂祐氏は二回目のワクチン接種の副反応から復活した際に、白ワインとパエリアでお祝いしたそうである。

 

www.worldofgosen.com

 

 以下の記事によると、宮坂祐氏には2011年に生まれた息子さんがいたそうである。家族を残し、仕事を残し、一流のコンサルタントとして未来を期待されていた宮坂祐氏が、45歳の若さでお亡くなりになったことは大変残念なことである。お悔やみ申し上げたい。

 

ameblo.jp

 

2.コロナに勝ち、スパイクタンパクに負ける

 宮坂祐氏がくも膜下出血で倒れた約2週間後に、医師である西川史子氏が脳出血で倒れた。こちらもワクチンとの因果関係は不明である。

 

news.livedoor.com

 

 因果関係はまったくわからないが、「わからない」ことは安全性の証明にはならない。宮坂祐氏や西川史子氏の脳出血の原因がワクチンであると断定することは不可能であるが、ワクチンのメカニズムから考えれば、このワクチンが脳出血を起こす可能性は十分にあり得る。

 

news.yahoo.co.jp

 

biz-journal.jp

 

 コロナワクチンを接種すれば、その成分は全身に行き渡る。それは脳だけでなく、全身のどこかで出血を起こす可能性がある。それについては第百三回ブログ以降において詳述したので見ていただければと思うが、ここではワクチンによって体内で作られるスパイクタンパク自体が危険性を持っている可能性について紹介しておきたい。

 

hc.nikkan-gendai.com

 

 体内でスパイクタンパクが大量に生み出されれば、それに対する免疫抗体ができる。ワクチンによって、体の中でスパイクタンパクに対する攻撃準備が整うわけだ。こうして防衛体制ができた後にウイルスが入って来るなら、我々はウイルスをそれほど恐がる必要はない。ワクチンを打った人の体には防衛体制ができているのだから、ウイルスが入ってきても重症化することはないというメカニズムである。

 

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コロナウイルスの細胞の構造

 だが、ワクチンによってコロナに打ち勝っても、人体はスパイクタンパクに負けるかもしれない。宮坂祐氏や西川史子氏、あるいは体の様々な部位の出血で苦しんだ世界中の人々は、もしかしたら体内で急激に増えたスパイクタンパクによって打撃を受けたのかもしれない。もちろん、証拠はない。だが可能性としてはゼロではない。

 

3.イスラエルの現在は日本の未来

 カイ・コーヘン(Kai Cohen)さんは、日本人の父とイスラエル人の母の間に生まれ、東京都練馬区で育ったそうである。小学校は日本、中高はイスラエル、その後イスラエルでは徴兵制があるために軍に入った。徴兵が終わった後に日本に戻り、慶応大学に進学。現在は通訳業をしながら、タレントとして活躍している。

 

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カイ・コーヘン(Kai Cohen)さん

 なお、コーヘン(CohenまたはCoenコーエン)は古代イスラエル時代の世襲の祭司を意味し、ユダヤ系の人物では非常に多い姓である。イギリスのピアニストであるハリエット・コーエン(Hariiet Cohen)、アメリカの映画監督コーエン兄弟(Coen Brothers)、イギリスの映画監督・俳優のサシャ・バロン・コーエン(Sacha Baron Cohen)といった有名人は、皆ユダヤ系である。

 

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Hariiet Cohen(1895 - 1967)



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Coen Brothers コーエン兄弟(映画監督)

 

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Sacha Baron Cohen サシャ・バロン・コーエン(映画監督、俳優)

 イスラエルはワクチン先進国であり、接種率は8割をこえる。日本でワクチンが広まる以前に、イスラエルでは接種が進み、その後ワクチンパスポートの制度が導入されている。ワクチン推進派の人々からすれば、正に羨ましいほどの先進国である。

 だが、世界最先端のワクチン国家で、コロナが終息する気配はない。むしろ感染爆発が起きている。

 

news.yahoo.co.jp

 

www.data-max.co.jp

 

 この点、カイ・コーヘンさんの話は日本というコロナ対策後進国からすれば大変興味深いものである。日本とイスラエルという二つの母国を持っているカイ・コーヘンさんは、両国の状況を知っている。イスラエルの現在の状況は、日本の未来の姿となりえるから、コーヘンさんの話に耳を傾けることは損にならないのではなかろうか。

 

www.youtube.com

 

 コーヘンさんはイスラエルの失敗経験から、日本ではワクチンパスポートを導入しない方がいいと述べている。パスポートのために打ちたくないワクチンを打たざるを得なくなり、打つか打たないかは個人の自由と責任であるというワクチン制度の根幹が崩れるからである。

 コーヘンさんの別の動画に紹介されているが、イスラエルでは親が子どもを感染者に近づけさせ、あえてコロナに感染させることによって子どもに抗体証明を取らせるという本末転倒の事態まで出ているようである。

 本来、ワクチンは重症化を避けるためのものである。この根本が忘却され、パスポートがなければ仕事に行けなくなり、生活費の獲得のためにワクチンを打つとなると、話は滅茶苦茶になってくる。コロナで死にたくないからワクチンを打つのではなく、失業して飢え死にしたくないからワクチンを打つということになるのだ。

 イスラエルは馬鹿なことをしてしまったが、日本はそれを他山の石にして、同じ轍を踏む必要はない。カイ・コーヘンはそう述べている。果たして、日本人にその教訓が活かせるだろうか。今後の数か月で判明するだろう。

 

第百十七回 ワクチンを打たない人間は非国民なのか(2)

1.マーガリンを「バター」と呼ぶ

 沖縄ではマーガリンのことを「バター」と呼ぶ人が結構いる。結果、両者の区別は極めて曖昧になる。ご飯の上にマーガリンをのせ、醤油をかけて食べる人がいる。

 

ushigyu.net

 

 もちろん、沖縄でもマーガリンの主たる用途はパンであり、ご飯のおかずになることはそれほど多くない。問題は呼び方である。マーガリンを「バター」と呼んでしまうことは、危機意識を著しく軽減させる。実際、バターとマーガリンは完全に別物であり、片方の原料は牛乳、もう片方は石油である。

 牛乳と間違って石油を飲んでしまうという人はいないだろう。だが、マーガリンとバターは見た目が似ているために、持って非なるものを混同する危険性がある。こうなると、沖縄県ではマーガリンの消費量が他県よりも多いように感じられる。

 だが、データで見ると沖縄県は全国で41位である。マーガリンをごはんにのせて食べ、スーパーで売られているパン類にはほとんどマーガリンが入っており、なおかつマーガリンを「バター」と呼ぶ人が多い沖縄県。その事実からすれば、マーガリン消費量41位という結果は意外である。

 

todo-ran.com

 

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株式会社ぐしけんの「健康パン」

      「健康」と言いながら、中身はマーガリンたっぷりである。

 

 とは言っても、やはりバターとマーガリンの区別は大事ではなかろうか。マーガリンはバターより安い。だが「安い」というのは理由がある。牛乳を原料としたらあの値段は無理である。石油だから安いのだ。そのことをちゃんと認識すれば、やむを得ずマーガリンを摂る場合でも、自覚的にリスク管理ができるはずである。

 

2.こちらの混同の方が恐いかもしれない

 ワクチンの問題もこれと同じである。呼び方というものは恐ろしい。マーガリンを「バター」と呼べば警戒心が激減することと同じように、「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」を単に「ワクチン」と呼んでしまえば、人々の危機感は激減する。

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ファイザー社 コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン

 これまで我々が接種してきたワクチンは、治験を終了し、厚労省によって承認されたものである。開発から早くて4~5年、遅ければ10年、20年を経たものである。それでも100%の安全性は達成できない。例えばインフルエンザワクチンにおいては、接種後の死亡者が毎年発生している。平成30年シーズンでは、副反応報告208、重篤78、死亡3だったとのことである。

 

平成30年シーズンのインフルエンザワクチン接種後の副反応疑い報告|厚労省

 

 一方、ファイザーの新型ワクチンの治験終了の予定日は、2023年5月2日である。今は2021年10月、つまり治験の真っ只中である。治験が終わっていないものを人々が接種するのだから、「承認」ではなく「特例承認」なのである。

 もちろん、様々な要因からこの治験に参加し、危険性を覚悟の上で新型コロナの抗体を得たいという人もいる。だから、接種は個人の自由である。打つも自由、打たぬも自由が治験中の原則である。ところが、である。最も大事な自由の原則が、欧米を中心に雪崩の如くに崩壊しつつある。義務化の嵐が欧米で席巻しているのだ。

 

jp.reuters.com

 

 この記事の内容は恐ろしい。新型コロナウイルスはたとえ感染しても、若年層においては重症化あるいは死亡の確率が極めて低いことが世界的に知られている。だが、カリフォルニア州の知事は児童に対して治験中のワクチンを義務付けると述べている。しかも、その理由が凄まじい。

 「カリフォルニア州ではすでに、はしかやおたふくかぜ、風疹の予防接種を生徒に義務付けている。新型コロナウイルス感染症にも同様の措置を取らない理由はない」と知事は述べているが、承認済みワクチンと治験中のワクチンを混同してはいけない。強制的に打たれる子どもからすれば、非常に困ったことである。

 アメリカ人はトランス脂肪酸について日本人よりも遥かに神経質であり、マーガリンを好まない。彼らからすればマーガリンを「バター」と呼び、ご飯の上にのせて食べている沖縄県民は愚かに見えるかもしれない。

 だが、アメリカ人の混同も凄いものがある。もし、子どもたちに給食で毎日マーガリンを食べさせる学校があったら、アメリカでは父母からの強い批判が来るだろう。しかし、ワクチンでは平気でそうした混同が起きている。

 自己責任でマーガリンを食べるのは自由であろう。だが、無理やり口の中に入れられるなら暴力である。しかも犠牲者は子どもたちである。一体、この世界はどうなってしまったのだろうか。沖縄の人たちの勘違いが馬鹿にされるような時代は、まだ牧歌的であった。これからはワクチンを打たない人間が非国民と見なされる時代が到来し、国家の暴力が当たり前となってゆく。

 

news.yahoo.co.jp

 

www.cnn.co.jp

 

3.非国民から国民へ、そして御用学者へ

 最近、最も驚いたニュースが下記神戸新聞の記事であった。

 

www.kobe-np.co.jp

 

 宮坂先生については、第百六回ブログで取り上げた。日本の免疫学の第一人者であり、推進派の学者たちが揃って口を閉ざす、あるいは否定するADE(Antibody-dependent enhancement 抗体依存性感染増強)のリスクについて積極的に発言されていた先生であった。詳しくは以下の記事を見ていただきたい。

 

diamond.jp

 

 記事が削除されることを考慮して、以下に先生の発言を一部引用しておく。

 

日本の感染状況では、東京や大阪などの新規感染者数は10万人当たり20人から50人くらいです。しかもその中で、他の人にうつすのは1割から2割といわれている。要は、私たちが他人にうつす感染者と出会う確率は、1万人に1回あるかないかです。

 一方で、ワクチンを接種して重篤な副反応が現れる頻度は100万回に数回です。私たちは、ワクチンのメリットとリスクを天秤にかけて判断しないといけません。

 ワクチンは治療薬と違い、健康な人が予防効果のために接種するものです。高い安全性が求められます。ワクチン接種が始まるのは2021年半ば以降と見込まれますが、拙速に動くべきではありません。

 また、ワクチンは皆が接種を受けないといけないと迫るべきものではありません。個人の自由、個人の意思の下に受けるなら受け、受けたくない人は無理に受けなくていいとすべきものなのです。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

きちんと手順を踏まずに接種をすれば人体実験になってしまう。効果の低いワクチンで安心し、かえって感染を広げることも。効いたらもうけものだという考えではだめ。有効なワクチンの開発には2年はかかるだろう。

 

diamond.jp

 

政治的な思惑もあり、世界的にワクチン開発に巨額の資金がつぎ込まれていますが、とにかく拙速に動くべきではありません。

 

 「個人の自由」と言っていた宮坂先生であるが、神戸新聞の取材においては「打たないチョイスはない」と言いきっている。また、繰り返しADEの危険性について述べていた先生であるが、神戸新聞の記事では一切触れられていない。また、内容的には完全にワクチン推進派の文脈になっており、慎重に思考する従来の先生の姿は消え失せている。

 正に「君子豹変す」である。だが私は先生を批判するつもりはない。私は先生の事情を知らないのだから、批判しても意味がない。私の知らないところで、「豹変」せざるをえない事情が、先生にはあったのかもしれない。

 正論を述べることはリスクを伴う。特に、著名人となればそのリスクは格段に増す。もしかしたら、正論を述べていた先生のもとには、様々な誹謗中傷のメールやFAX、電話が到来し、街宣車が来たのかもしれない。あるいは、CIAの人が「お見舞い」に来たのかもしれない。もちろん、私には真相はわからないが。

 ちなみに、街宣車は一部の方々に人気があり、プラモデルにもなっており、ネット上で取引がされているようである。

 

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プラモデル 三菱ふそう エアロクイーン 護國尊皇 右翼街宣車仕様

 先生は新型ワクチンを打った理由を、最新の論文を読んで安全性を確認したからだと述べている。だが、もしそれが建前で本音は違うとしたならどうだろう。本当の理由が非国民から正規国民に昇格するためだとしたら、「打たないチョイスはない」理由は、「ウイルスが恐いから」ではなく、「人間が恐いから」である。

 理由が同調圧力なのだとしたら、最新論文のデータは建前の理由にしかすぎない。そういったデータがなくても、人間が恐い場合には打つだろう。それは科学的な判断ではなく、政治的な判断である。自らの政治的な判断を、まるで科学的な判断であるかのように見せかけ、権力の傘の下で不利益から逃れ、利益を得る学者を、我々は「御用学者」と呼んでいる。

 バターとマーガリンを混同してはいけないことと同様、我々は学者と御用学者を混同してはならない。マーガリンはバターより安いが、本物の学者は御用学者より貧乏なものである。また、肩書もない。そして自由に発言ができるから、精神的に幸福である。

 北海道で町医者をしているシカハンターさんは、Youtubeで開いた複数の新型コロナ関連チャンネルを消されたために、ニコニコ動画で発言をしている。氏は、新型ワクチンは若者にとって「百害あって一利なし」とはっきりと、かつ科学的な知見をもとに述べている。削除される危険性を考えても、ご興味ある方は早めに見る方がいいかもしれない。

 

www.nicovideo.jp

 

 氏によると、日本の若者が「百害あって一利なし」のワクチンを強要されている理由は、感染防止のためでもなければ、重症化阻止のためでもない。日米関係のためである。つまり、科学的な理由ではなく、政治的な理由である。

 この正論が迫害され、YouTubeでは消されてしまうためにニコニコ動画に上げられ、なおかつそれもこの先どうなるかわからないというのは、妙な話である。人間という不思議な生き物は、正論よりも未承認のワクチンの方が好きであり、マーガリンより正論の方が嫌いなのかもしれない。

 

※ 次回は2021年10月22日にアップロード予定です。

第百十六回 ワクチンを打たない人間は非国民なのか(1)

1.私のまわりのコロナ・ワクチン体験

 新型コロナ騒動が始まって以来、二年近くが経とうとしている。世界の感染者数は累計で2億人を超え、日本は170万人である。私の限られた人間関係の範囲においても、4人がCOVIT-19に罹患している。その4名はPCR検査で陽性結果が出たことから出勤停止となり、自宅療養で回復し、現在は元の生活を取り戻している。

 そのうちの一人は発熱や咳に苦しんだが、一週間の自宅療養で全快した。最初は「まさか自分がコロナに」ということで、精神的なショックがかなり大きかったようだ。だが、最終的には後遺症もなく、かつ体内に抗体もできたことから、コロナに対する恐怖心も相当に軽減したようだ。その人は「結果的にコロナになって良かった」と述べている。

 もちろん、このようなケースは私の限られた人間関係の範囲内でのことであり、安易に一般化はできない。重症化する人や死亡する人、あるいは退院しても後遺症で苦しむ人達もいるわけであるから、楽観できる状況ではないだろう。

 だがコロナ禍の恐ろしさは、ウイルスの恐ろしさにとどまることはない。むしろ、そこから派生する人間の愚かな判断こそが、ウイルスよりも恐ろしい甚大な被害へと繋がりかねないだろう。恐怖心にとらわれ、冷静かつ正確な思考を失えば、コロナよりも恐ろしい同調圧力の時代が到来しかねない。

 こうした中、ワクチンの接種は急速に進んでいるようである。ほんの二か月前までは、接種者は少数派であり、非接種者が大勢であった。だが今では立場が逆転し、非接種者は完全に少数派となっている。気になる副反応であるが、私の限られた人間関係の範囲内では、接種後に死亡したケースはないようだ。

 だが、腕の痛みや発熱で苦しむケースはよく耳にする。接種後、腕が肩より上にあがらないというケースや、38~40度の発熱というケースをよく聞く。男性ではまったく副反応がないというケースも頻繁に聞くが、女性の場合、重い副反応に苦しむケースがよくあるようだ。中には2~3日、自宅の寝床から起き上がれない人もいたようである。

 今のところ、非接種者に対するワクチンの強制や非難の声といったものは聞いていない。「注射した?」と質問されることはあっても、してないからといって批判されるという雰囲気ではない。だが、接種するかしないかの問題は、感染防止のフェイズから次の段階へと動きつつあるように感じられる。ワクチンパスポートの問題である。

 ある30代の男性は、ワクチンを接種していない。その人は肉体的に頑健であり、持病もない。また、年代的に死亡や重症化の可能性も低い。また、職場の4人の罹患者についても知っており、彼らが後遺症もなく元気に仕事に復帰している姿を見て、コロナを恐ろしいものであると彼は実感していない。だから同僚が次から次へと接種しても、彼は接種しなかった。

 だが、最近の彼の気持ちは接種へと傾きつつあるようだ。原因はワクチンパスポートである。近い将来、パスポートがなければ劇場やホール、スーパーマーケットや店舗などへの立ち入りが出来なくなるという噂話が広まりつつあるのだ。

 そのため、非接種者への非難の雰囲気はまだないとはいえ、心配の雰囲気は広がりつつある。「早く注射した方がいいよ」と親切にアドバイスする先輩も出てくるようになっている。もし噂が本当になるなら、事はプライベートの生活にとどまらない。様々な場所が出入り禁止になれば、仕事への影響も大きい。そのため、接種する気がなかった彼も、パスポート制度が我が国で確立する前に、接種を済ませる方がいいのではないかと考え始めている。

 このような心の動きは、彼にとどまらず、全国にたくさん生じているかもしれない。だが、よくよく考えてみると、これは妙な話である。もともとワクチンはCOVIT-19という病気の恐ろしさゆえに登場したものである。病気は恐くないが、店舗に入れなくなることは恐いのでワクチンを打つというのでは、もともとの目的から大きく逸脱することになる。

 これは危険な兆候ではなかろうか。最初、誰もがコロナという病気を恐れた。それがいつの間にか、ワクチンを打たないことによる村八分が恐いという方向へフェイズが変化してゆく。コロナは恐くなくても人間が恐いということになってくるのだ。ウイルスは発端に過ぎない。次のフェイズでは、「非接種者=非国民」という愚かな圧力が問題となってくるのである。

 

2.人類史上初めての試み

 次から次へと皆がワクチンを打っていく。特に何の心配もせず接種している人もいるが、相当に悩んだ末に接種する人もいる。もちろん、今でも接種に踏み切れない人もいる。それは当然だろう。重い副反応で苦しんだ人の体験談を、直接本人の口から耳にすれば、聞いた方は接種を躊躇うに決まっている。動揺するなと言う方が無理であろう。

 だが、不思議なことがある。私の限られた人間関係の範囲内ではあるが、ワクチンの中身を調べてから接種したというケースは聞いたことがない。清水の舞台から飛び降りる決意で接種した人も、ワクチンの組成については何も知らないし、知るつもりもないようだ。賛否両論あるワクチンであるが、賛成派も心配派も、内容を調べないという点では、貫かれた鉄板の如くに共通している。

 私の地域ではファイザーかモデルナの二者択一であるが、いずれもタイプ的には「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」である。これは人類がこれまでに接種してきたタイプのワクチンとはまったく異なる仕組みを持つ。歴史上初めて人間の体の中に注入されるものである。だが、説明書を読んでから接種したという話は聞いたことがない。

 

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ファイザー社 コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン

 「ワクチン」という慣れ親しんだ名前で呼ばれるゆえに、安心感を持っている人もいるようだ。確かに、これまでの人生でワクチンを一本も体に入れたことがないという人は、ほとんどいないだろう。ワクチンで死んだ人もほとんど見たことがないはずだ。だから「ワクチン」と言われても恐怖心が生じないのは、ある意味普通である。

 だが、修飾ウリジンRNAワクチンは全く異なる。これまでのオーソドックスな不活化ワクチンとは全くの別物と認識すべきだ。我々の誰もがこのタイプには未経験だ。初めてのことであるから、打った後に具体的にどうなるかは、誰にもわからない。

 本来なら実験を繰り返す中で「長期安定性」について明らかにしていくことが筋道であるが、緊急事態ということで極めて短い実験期間の末に特例承認され、いきなり一般市民の体に入れられることとなった。こんなことは医療史上初めてのことである。一般市民がモルモットとなるのである。

 このことは説明書にも書かれている。普通のワクチンや薬剤における説明書では、「製造販売後も引き続き情報を収集中である」という恐ろしい文言はない。危険性についての情報収集が一定程度済んでから、承認・販売という流れが当たり前だからである。

 国民がモルモットになるという異常事態が特例として承認されたのは、COVIT-19の蔓延により医療体制が逼迫し、特に高齢者の間で重症化、死亡のケースが増大したからである。国民モルモットという異常事態と、COVIT-19の脅威が天秤にかけられ、日本も含め多くの国で「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」という得体の知れないものが特例で承認されることとなった。

 これは「危険であっても仕方がない」という理屈で成り立った承認である。だから打つか打たないかは、各自の判断ということになった。つまり自己責任である。製薬会社は責任を取らないのであるから、打った結果死ぬにしても、細胞が癌化するにしても、全てはその人の責任である。

 判断は個人のものであり、他人や社会が干渉する余地はない。これは特例承認で世に出たというこのワクチンの成り立ちから、当然に行き当たる帰結である。ところが、最近では話が違う方向へ進みつつある。ワクチンを打たない判断を尊重しようという風潮よりも、非国民として排除しようという風が強くなりつつあるのだ。コロナより恐い同調圧力である。

 

3.自由から義務へ、そして暴力へ

 新型コロナウイルスおよびワクチンのメカニズムについては、第百三回ブログ以降において詳述したので、疑問点のある方はそちらを参照していだたきたい。そこでは陰謀論として新型ワクチンを否定するのではなく、純粋科学的に新型ワクチンの「わからなさ」について考察している。

 私はQアノンの信奉者と異なり、ワクチンを全否定していない。新型ワクチンの未知の危険性について認識しつつも、場合によってはワクチンを必要とすることもあるだろうと思っている。各人の状況は異なる。私のケースで保持される正しさや妥当性を、他者に押し付けることはできないはずだ。

 年齢や生活環境を考慮してワクチンを打ちたいと思っている人がいる。あるいは感染確率の高い環境で働かざるを得ない等の理由から、危険性を覚悟の上でワクチンを接種する合理性があるという人もいる。そのあたりについては、第百九回ブログで詳述しているので、疑問点がある方はそちらを参照していただきたい。

 コロナやワクチンを怨む人がいる。だが、コロナやワクチンといった物的な対象を悪者にする思考は、あまりにも安易であろう。問題は人間の考え方であるはずだ。より正確に言えば、あまり物事を考えない人間の安易な決めつけや偏見こそが、真の問題であるはずだ。

 問題は、いつの間にか話がすり替わってしまうことである。もとはと言えば「個人の判断」の問題であったものが、いつの間にか社会的義務の問題へとすり替わる。こうした「すり替え」を怠惰に放置しておけば、そもそも根幹としてあった「選択の自由」は簡単に風化する。

 安全は保証できない。だから選択の自由があった。危険性と自由。それは二つでセットだったはずだ。それなのに、いつの間にか自由は強風によって吹き飛ばされ、危険なワクチンが義務化されるという制度が確立されてしまう。

 以下のNHKアンケートによると、ワクチン接種を拒否する人に対して、国は罰を与えるべきだと考える人は、40.3%になるらしい。

 

www3.nhk.or.jp

 

 NHKのアンケートがどれだけ現実的に世相を反映しているかは、私にはわからない。だが、もしこの調査結果がそれなりに信憑性のあるものだとしたら、かなり時代は危険なものへと流れていっていると判断して構わないであろう。国民の4割が非接種者に対する罰則規定を本気で考えているのだとしたら、それはこのワクチンの制度趣旨が忘却されていることの証明である。

 このワクチンにはまだ不明点が多い。まさに今、実験中なのである。それは説明書にも書かれている。だからこの大規模人体実験に参加するかしないかは、個々人の判断に完全に委ねられている。これが接種制度の根幹であったはずだ。この柱が忘却され、義務化となれば、国家による暴力の始まりである。

 国民が正確な思考を怠り、同調圧力と暴力に染まってゆけば、政府としてはそれを利用しない手はない。ワクチンの圧力は国民生活の様々な面に及び、ワクチンパスポートがなければ生きていけないという国家体制が確立されてゆく。

 この場合、ワクチンの副反応は義務化される。そうなれば薬害は自己責任ではない。国家義務だ。これは徴兵制と同じである。かつて戦争に行きたくない若者が徴兵され、戦地で死んだ。徴兵拒否した者は監獄で死んだ。これは国家による殺人である。ワクチンの義務化がそれと違うと誰が言えよう。

 いつの間にか反戦を唱える人が非国民と見なされていったことと同じように、ワクチンを打たない人は今後、非国民と見なされていくのかもしれない。特例承認ゆえに自己判断。その原則から始まったワクチン接種であるが、今や根幹は忘れ去られ、流れは完全に暴力的な方向へ向かっているようだ。

 自由から義務へ。そして暴力へ。これは初めての風景であろうか。いや、違う。日本人である我々にとって、この風景は骨身に沁みるほどの痛みの中で見たはずである。それは1945年の苦悩の中で、皆で捨て去った風景のはずだ。だが、皮肉なことにまたそんな時代が到来しつつある。まさに今、目の前に迫りつつあるのだ。

 

第百十五回 ディープステートはどこにある(4)

1.快楽の城壁に風穴をあける

 侮蔑のシステムは巨大である。そこでは我々は人間と見なされず、徹底的に「モノ」として扱われる。システムは次から次へと新たな欲望を作り出し、我々はそうした欲望を欲望させられる。我々はどこか遠くまで行って快楽を探す必要はない。このベルトコンベヤーにのっている限り、DSからのプレゼントはシャワーのように我々に降り注がれる。

 近代消費社会に生み落とされた我々にとって、ベルトコンベヤーは空気よりも当たり前なものである。だから我々はその当たり前に気づかない。無自覚な我々にシステムは夢を贈与する。我々の一人一人が自分の意思を持った「主権者」であるという夢である。この夢の中で我々は錯覚する。自らを主体的に欲望する存在だと思い込むのだ。

 快楽も夢もプレゼントである。もちろん、タダほど高いものはない。プレゼントの対価は自分の人生である。奴隷とは何か。それはDSからのプレゼント攻撃に喜んでしまう人間のことである。ならば、逆転の発想を持つことができよう。すなわち、プレゼントを丁重にお断りできるようになれば、奴隷から脱却できるということである。

 この際に極めて大事になるポイントがある。それは拒否を「我慢」と捉えないことである。プレゼントを受け取らないことは、「我慢」ではなく「幸福」である。安物の快楽を手放すことで、真の人生を手に入れる。偽物を受け取らないことで本物を獲得する。それが「幸福」である。

 だから「我慢」は意味がない。仮に最初はうまくいったとしても、「我慢」はストレスの蓄積となり、そのうち耐えきれなくなる。YouTubeFacebookTwitterに触れず、添加物入りの食品を食べず、酒や清涼飲料水を飲まず、テレビを見ない。あらゆる快楽や利便性を拒絶し、ただひたすらに我慢し続ける。そんな人生ならベルトコンベヤーに乗って快楽を享受する方が「まし」であろう。

 だから何のためにプレゼントを断るのかという目的意識が重要である。イミテーションを拒絶して本物を手に入れる。それが目的である。そのためには「快楽」と「幸福」が区別されていなければならない。DSはこのことを決して言わない。秘密が秘密でなくなってしまえば、奴隷が激減してしまうからだ。

 我々はDSの世界に生きている。だから快楽と幸福の区別がつかない人間を頻繁に目にする。その意識状態を覗いてみよう。ぼんやりとした意識空間。そこでは幸福と快楽の境界線が曖昧である。朦朧とした明滅の中で、本来は別物であるはずの両者が互いに混じりあってしまっている。DSからすれば、この意識状態は大いに利用価値がある。気持ちいいことが幸せなのだとテレビが繰り返し言うのは、そのためである。

 

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新おいしい! 新・一番搾り キリンビール株式会社

 DSからのプレゼントを「おいしい~しあわせ~」と思っているうちはDSから抜け出すことはできない。逆に、この快楽は侵略であって幸せではない、そう気づくなら、奴隷解放のための一歩を踏むことができる。

 これは意志の力で欲望を抑え込むことではない。むしろ負けを認めることである。自分の味覚はDSによって作り上げられてしまっていることを認めること。それが大事だ。これを認めるということは、もし飲んだら自分がどうなるかということが飲む前にわかるということである。飲んでしまったら「おいしい」と感じ、虜になるに決まっている。

 素直に負けを認めることで、そうした予測力が働くようになる。これは我慢の力、意志の力で欲望と喧嘩することとは、全く異なる。DSと戦うのではなく、適切な距離を持つことが大事なのだ。「飲んだら負ける」ということがわかっているなら、喧嘩をするのではなく、接触を避けようとするだろう。

 そうした距離感覚が身につけば、無意識的に毎朝自動販売機で買っていた缶コーヒーを、今日だけは「離れておこう」と思うようになる。飲料会社によって作られた舌に、飲料会社に雇われた優秀な科学者によって作られた味が放り込まれたら、DSにとって最も都合のいい肉体反応が現れるに決まっている。だから負ける戦いはしない。それが距離感である。

 距離感によって快楽は手に入らないが、自由は手に入る。それはDSのベルトコンベヤーを降りた瞬間であり、快楽地獄から解放された幸福の時間である。これを満喫すればいい。そうやってこの時間が一日の中で少しずつ増えていけば、快楽の瞬間よりも、快楽ループから解き放たれる時間の方が真の意味で充実していることに気づいていくだろう。

 これは餌付けによる幸福とまったく異なる。餌から解放された時間であり、餌を必要としない幸福である。餌を幸福だと思い込んでいるうちは、解放の幸福は訪れない。快楽は快楽を呼び、次から次へと欲しくなる。塩水はいくら飲んでも満ち足りることはない。だから真の幸福は、「塩水は幸福ではない」という気づきから始まるのだ。

 もちろん、これは一朝一夕に達成できることではない。糖質中毒にしてもスマホ中毒にしても、簡単に克服できるものではない。我々の感覚がDSによって作られてしまっているからだ。だから、はじめは「今日一日だけ(Just for Today)」から始める。そうやって距離感を持つことで、小さな亀裂が生み出される。そこから徐々に亀裂を大きくしていき、幸福の時間を増やしていくのだ。

 最初は小さな亀裂である。だがこの小さな穴が、巨大なダムの決壊に繋がってゆく。快楽の城壁に生じる小さな亀裂は、幸福の窓口である。これは自分の肉体感覚として実践していく他ないものである。革命は他人がやってくれるものではない。自分の足で、その一歩を踏み出すのである。

 

2.自己侮蔑

 DSは民衆を侮蔑する。このことはもうよくわかったことだろう。では、もう一つの侮蔑についてはどうだろうか。DSが我々を侮蔑する時、実は必然的にもう一つの侮蔑が発生している。そのことに果たして気づくことができるだろうか。

 答えは自己に対する侮蔑である。これはDSによる侮蔑よりも、ある意味深刻である。我々はDSによる侮蔑に慣れきっている。だから自分が侮蔑されていることに気づかない。だがそれより無意識的にやっていることがある。それが自己侮蔑である。

 例えばある食品が石油で出来ていることが判明する。すると、怒る人が出てくるだろう。

 

「馬鹿にするな。」

「人間に石油を食わせるとは何事だ。」

「子どもが食べたらどうするんだ。」

「病気になったら誰が責任を取るんだ。」

「そんなものを認可する国は国民を馬鹿にしている。」

 

 だが、別の人は次のように思うかもしれない。

 

「いいじゃないか、おいしければ石油でもかまわない。」

 

 人間には誰にでも、その人としての価値がある。だがその価値は自分で見出さなければならない。もし自分の価値を見出さない場合、その人にとって自己は安物である。だから、そういう人は快楽のために簡単に自分を売る。これが自己侮蔑である。

 植民地が宗主国に資源や財産を売り渡すように、個人もDSに自分の体や人生を売り渡すのである。それは愛の欠如である。植民地の忠犬に愛国心が欠けていることと同じように、DSに体を売る個人にも自己愛が欠けている。

 愛する子どもに石油を食べさせたいと思う親はいないはずだ。それと同様、マグダラのマリアが敬愛するイエスをもてなす時に、マクドナルドのハンバーガーとコーラで接待するという場面は考えられない。つまり、本当に自分を敬愛する人は、自分の体にコーラや酒、たばこ、添加物入りの食品といったものを与えないはずなのである。

 

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Mary Magdalene and Jesus Christ(Noli Me Tangere ,1506 Fra bartolomeo)


 DSが国民を侮蔑する以前に、自分が自分を侮蔑しているなら、快楽のために自己をDSに売り渡してしまうことも必然の理である。自己卑下、自己に対する低評価、自分の人生に対する諦観。そういったものが、この世界の根源を成している。だから、この根源を解決することなしに社会システムの形だけを変えても、真の解決にはなりようがないのだ。社会革命よりも自己革命が先決なのはそのためである。

 

3.単なる我慢と自己統御は別物である

 自分という人間に価値を見出せない場合、それは自己侮蔑となる。こうなると、人間は自己のバーゲンセールを始めるようになる。目先の快楽のために体を売る。これは売春に限らない。コンビニでカップラーメンを買って食べるなら、食品会社とその株主に体を売っているのだ。

 DSが国民を奴隷と見なす以前に、自分が自分を奴隷と見なしている。大して価値のない自分。そのちっぽけな自分が生きていく上でのなけなしの報酬が、目先の快楽である。とはいっても、多くの人は次のように思うかもしれない。自分を安売りするなといわれても、天才は一握りしかいない、凡人は食っていくために身を切り売りして生きていくしかないじゃないかと。

 食っていくために仕方がない。これは世の中では驚異的に説得力のあるセリフとなっている。しかし、そのセリフを聞くたびに次のような疑問が生じないだろうか。すなわち、本当に自己卑下しない人間、真の意味で自分の大切さを自覚している人間が、果たして「食っていく」だけで満足するだろうかと。

 自分に価値を見出している人間とは、「いつか大物になってやる」と夢想している人間でもなければ、「俺は本当はもっと凄いんだ」と誇大妄想を抱いている人間でもない。もっと実質的な人間のことである。それを友資さんは、「最高の欲望」と言っている。

 

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

 DSの金持ちたちは「最高の欲望」を持っていない。程度の低い欲望しか持っていないのだ。だから自分の快楽のために他人を奴隷化することで満足している。そして奴隷たちはDSからのプレゼントに夢中になっている。これは主人と奴隷による共犯関係である。この世界はそうした二人三脚によって動いている。我々国民の一つ一つの小さな身売りが、積もり積もって大きくなり、巨大なDSシステムを構成しているのだ。

 他方、真に自己価値を見出している人間は、その程度の欲望で満足することはない。そういう人間はより高い欲望を持っている。だからその人は自己統御ができる。それは単なる我慢ではない。単なる我慢は苦しみに過ぎない。だが「最高の欲望」のために自己を統御することは、人生の喜びである。

 これは健康のために清涼飲料水や酒、たばこ、添加物入りの食品を我慢することとは異なる。「健康で長生きする」という目的は、それ自身が最上位の目的となってしまえば、単なる自己保身に過ぎず、陳腐な欲望である。健康な肉体は「最高の欲望」という目的を達成するための手段であるから、目的と手段が勘違いされる場合は、真の自己統御とはならない。

 自己統御は単なる手段ではない。「最高の欲望」のために手段として自己統御がなされるが、その登山の行程そのものが喜びである。頂上だけが喜びで残りは全て我慢というわけではない。一瞬一瞬の統御自体が、瞬間的な喜びである。我慢は時間の先端にある成果のために今を犠牲にすることである。他方、統御は成果のための行為でありながら、今を犠牲にすることなく、今を喜ぶものなのである。

 

4.説教や強制は無意味である

 延命のための延命は幸福ではなく、苦しみである。他方、「最高の欲望」のために自己を統御し、DSからのプレゼントを丁重に断り、陳腐な快楽の奴隷とならない生き方は、真に充実した人生である。これは自分で作っていくものであるから、他人が起こす社会革命や政権交代によって成し遂げられるものではない。

 そもそも自己にとって何が「最高の欲望」であるかは、自分で発見しなければならない。他人から「これが最高の欲望だ」と提示されても、それが自分にとっての「最高の欲望」になるかどうかはわからない。だから、自分にとっての「最高の欲望」を他人に無理やり押し付けることは暴力となる。

 

bunshun.jp

 

 タマホームの社長は「良かれ」と思ってやっているのかもしれないが、DSからの離脱はあくまでも個々人で行うものである。人から強制されれば重荷になる。かえって反発を招くだけであり、社員に対する愛は暴力に変わる。

 幸福は自分で見出すものである。経典を自分自身の「最高の欲望」として読む人は幸福であるが、義務として読ませられれば苦痛である。その真実から考えるなら、私は人にアドバイスすることもできなければ、人を幸福にすることもできないはずだ。

 では何ができるのか。それは自分がどうやってDSから抜け出し、幸福な時間を過ごせているかを示すことだけである。それは他人に対する強制ではない。強制となった瞬間に苦痛となるものである以上、それは私の生き方として、単に見せることができるだけのものである。

 私が私の生き方を見せる結果、そこから結果的に他人はヒントを得るかもしれないし、何も得ないかもしれない。それはどちらでもいいのである。私が陳腐な説教をしたところでまったく意味はない。そんな無意味なことをするのではなく、単に私は自分の「在り方」を示すだけである。

  

※ しばらくお休みをいただき、次回は2021年10月1日(金曜日)にアップロード予定です。

 

第百十四回 ディープステートはどこにある(3)

1.侮蔑と侮辱の違い

 大衆は侮蔑されたがっている。小林秀雄はそう述べた。だがこれは大衆の見地からすれば、意味不明な言葉である。世の中のどこを見ても、馬鹿にされて喜んでいる人はいない。刑法231条では侮辱罪が定められている。つまり、侮辱は「悪」だと社会的に認知されている。一体、「侮蔑されたがっている」人間はどこにいるのか。

 

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小林秀雄(1951年)

 慧眼の小林はこの問題について解答を与えていない。それは彼にとってこの問題が、問題ですらないほどに、当たり前だったからかもしれない。彼が生きていたら言ったかもしれない。侮蔑と侮辱はまったく違うと。

 「侮辱」とは相手を馬鹿にして名誉を損なうことである。「侮蔑」とは相手を侮り、見下し、蔑むことである。辞書的な意味では、両者の線引きは明確ではない。だが、小林の言う「侮蔑」はより本格的な支配の法則のことであろう。そこでの「侮蔑」は、朦朧とした境界線の中で「侮辱」の側に溶け込むものではない。真の「侮蔑」は「侮辱」の次元より、さらに深層にある。

 人は馬鹿にされれば怒る。これは確かなことであろう。だが「馬鹿にされている」と気づかなければどうだろう。真の悪魔的知性は侮蔑を気づかせない。手玉に取られた人間は、その心地良さの中で自ら「侮蔑されること」を求めるようになる。つまり依存心である。

 「侮辱」の次元では、まだ人は相手を人間と見なしている。つまり、そこでの「馬鹿」とは「馬鹿な人間」であり「モノ」ではない。その点では、我々が生活の隅々でよく見かける罵り合いは、まだ対等なレベルの喧嘩である。「馬鹿!」と声を張り上げる人間も、相手を殺すつもりはない。人間として認めているから「馬鹿!」と言うのである。

 白人がネイティブ・アメリカンを「インディアン」と言って馬鹿にすることは「侮辱」である。だが白人がネイティブ・アメリカンを本気で「侮蔑」し始めたら、そこにはインディアンもネイティブ・アメリカンも存在しない。「モノ」があるだけである。冷酷な眼差しの下では、人間の笑顔や感情、温かい肉体は利益のパーツとなり、損益計算書の数字と化す。

 「侮蔑」にはプロセスがある。最初、それは友好と贈与から始まる。例えばウイルス兵器である。その起源を見たいなら、西洋人によるアメリカ大陸侵略の時代にまで遡る必要がある。新大陸にやってきた西洋人は、ネイティブ・アメリカンに友好の印としてあるものをプレゼントした。それは天然痘に感染した兵士が使っていた毛布であった。これにより、大量のネイティブ・アメリカンが死んだ(第四十八回ブログ参照)。

 またある時、白人はネイティブ・アメリカンにプレゼントをした。ウイスキーなどのヨーロッパ製の酒である。これでネイティブ・アメリカンアルコール依存症になった。誇り高い酋長が、ウイスキー一本を手に入れるために、莫大な土地を白人に明け渡すようになった。

 逆説的なことだが、人が相手を本気で侮蔑する時、侮辱は存在しない。考えてみれば当然だ。侮辱して相手が怒ってしまえば、友好と贈与から始まり侵略へと向かうプロセスが破綻する。だから侮蔑のベルトコンベヤーが流れる場面においては、紳士は存在しても罵詈雑言は存在しない。

 DS(ディープステート)というと、悪辣に大衆から全てを奪うというイメージがある。だが、実際の彼らは「与える者」である。添加物にまみれた食品は安くておいしい。便利である。消費者は懐が痛まず、時間を節約でき、舌を喜ばすことができる。GAFAのツールはほとんどが無料である。YoutubeだろうがFacebookだろうが、Twitterであろうが全て無料である。

 こうして我々は、贈与をスタート地点とするプロセスに載せられ、奴隷化される。彼らは奪うのではない。与えるのだ。本当に恐ろしい人間は、人から嫌われることをしない。爽やかな笑顔で近づき、静かに計画を実行する。その人は口では言うかもしれない。お客様は神様です。We will continue our efforts with ‘Customer First’ principles.(これからもお客様第一主義で努力していきます。)

 だが、その場合の「お客様(Customer)」とは、彼らからすれば「モノ」である。馬鹿にされているうちは、まだ華なのかもしれない。人間として認められているからだ。だが悪魔から侮蔑される時、そこには馬鹿も利口も存在しない。「モノ」に馬鹿も利口もないからである。

 

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amazon customer first (Jeff Bezos)

 

2.快感を与えて人生を奪う

 日本マクドナルドの創業者である藤田田氏は言っていた。味覚は12歳までに作られる。それゆえ、12歳までにマクドナルドの商品を繰り返し食べさせることで、その子は大人になってからもマクドナルドを自動的に食べるようになる。

 マクドナルドが店の外装、内装をテーマパーク的に作り上げ、ハンバーガーのセットメニューに子ども向けのオモチャをつけていたのは、そういう理由からであった。要は、無料のオモチャを餌に子どもを招き寄せ、化学調味料と添加物いっぱいのハンバーガーを食べさせ、味覚を形成する。その人は12歳までに仕込まれた味覚から抜け出すことができない。こうして奴隷化される。

 

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藤田田氏(日本マクドナルド創業者)

 

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ユダヤの商法 藤田田 ベストセラーズ

 

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勝てば官軍 藤田田 ベストセラーズ

 私はあるミュージシャンから興味深い話を聞いたことがある。その人は才能あるミュージシャンであった。だが音楽活動だけでは生活費を賄うことができなかったので、教師もしていた。個人事業主として生徒と契約し、音楽指導をしていたのだ。

 だが私はその人の抜き出た能力を知っていたので質問してみた。いくら懇切丁寧に教えても、ほとんどの人にとっては才能の壁というものがあるはずだ。あなたのような才能の持ち主は、プロの中でも稀であろう。となると、あなたからすれば「この人はダメだな」というのは教えているうちにわかるのではないか。

 その人は微笑しながら答えた。確かにそうですね。「こりゃダメだ」という人はいます。でも、そういう人をほめたり、励ましたりするんです。いくら頑張ってもうまくならない人はいます。でも「がんばれ」と励ませば、ずっと来てくれますから。才能ある人は、ちょっと教えたらコツをつかんで来なくなりますけど、ない人はずっと来てくれますから。

 私はごく身近なところでDSを見たような気がした。そこでは「やればできる!」や「がんばれ!」という励ましが、プレゼントであった。生徒はそれによっていつまでも月謝を払ってくれる。奴隷が泥沼から抜け出るには、プレゼントは得ではないと気づくことが必要である。気づかないなら、牧場主によって柵に囲い込まれ、毛皮を刈り取られ続けることになる。

 「大衆は侮蔑されたがっている」という言葉は、「大衆は常に安く、手軽で便利な快感を求めている」という言葉と同義である。快楽中毒がエスカレートすれば、さらに侮蔑が欲しくなる。その人は自分からベルトコンベヤーを降りようとはしなくなる。しがみつくだろう。

 侮蔑の無限ループにハマってしまった奴隷からすれば、「体に悪いからやめたほうがいい」という言葉は不快である。良心の言葉は快楽と一致しない。それは幸福と快楽が同義でないことの証明である。ベルトコンベヤーに拘束され続ける人生は幸福ではない。だが、快楽は与えられる。多くの人々が魂を捨て、快楽を選択する。

 

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映画「マトリックス」の一場面 

マトリックスから離脱し、その後マトリックスに戻るサイファ

 自分の意思でベルトコンベヤーに戻るCypherサイファー)は、まだ「まし」かもしれない。多くの人は自分が悪魔に魂を売っていることに気づかない。イエスが言うところの「自分が何をやっているのかわかっていない」状態である。これはDSにとって最も都合のいい状態であり、「モノ」である。

 逆に、その「気づき」が突破口である。侮辱と侮蔑は異なる。快楽と幸福は異なる。その「気づき」が、人をベルトコンベヤーから降りさせる。侮辱されれば怒るが、侮蔑されると喜ぶという奴隷の次元を跳躍することができる。この「気づき」が奴隷解放のための偉大な一歩であるから、幸福と快楽の区別が「モノ」からの卒業なのである。

 

3.「欲望する」ことと「欲望させられる」ことは異なる

 DSは我々に快楽を与える。それにより人生を奪う。厄介なのは、DSが海の向こうのどこか遠いところにあるのではなく、日常生活のどこにでもあるということである。DSをこの目で見るためには、我々はニューヨークまで行ってロックフェラーに会う必要はない。近くのスーパーやコンビニに行けば十分だ。

 食品添加物は、優秀な科学者の分析によって作られる。我々の味覚は丸裸にされ、人工の物質の組み合わせによっていかような味も作り出される。最近ではこの技術が更に進化し、単なる快感にとどまらず、中毒性を孕むような味も開発されている。こうして人間の舌が奴隷化される。彼らからすれば、我々の味覚は尊厳ある知覚ではなく、利益を生み出すための「モノ」である。

 

news.livedoor.com

 

 人間は何かが「欲しい」となると、それを自分自身の欲望だと思い込む性質がある。だが「欲望する」ことと、「欲望させられる」ことは、まったく別のことである。プレゼント攻撃によってアル中にさせられたネイティブ・アメリカンの酋長は、自分が酒を飲みたいと思っていると勘違いする。だが本当は、そのように欲望させられているだけだ。

 これは300年前の酋長の体験に終わる話ではない。現代も同じである。例えば私が「コカ・コーラを飲みたい」と思うとする。私は主体としての自分が、客体としての「コカ・コーラ」を飲みたいのだと勘違いするかもしれない。だが、実際そのような私を作ったのはコカ・コーラである。彼らが彼らの作ったものを飲みたいという私の味覚と欲望を作ったのである。

 コカ・コーラの原材料費は二束三文である。だが、研究費、広告宣伝費、マーケティング費用は相当にかかっている。あのような無益で有害な飲料会社がオリンピックのスポンサーになるほどに巨大であるということは、世界に膨大な量の奴隷がいるということである。その奴隷たち、一人一人は「自分が飲みたい」と思っているのだと思わせられている。

 

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Coca Cola Tokyo 2020 World Wide Partner

 奴隷が自分のことを奴隷だと自覚せず、自分を主人だと勘違いしてくれれば、支配者としてはそれ以上に好都合なことはない。従順な奴隷より、自分を奴隷だと思わず、主体的に動いてくれる奴隷の方が「モノ」としての価値は高い。だから洗練された奴隷社会においては、足に鎖をつけられた奴隷は存在しない。

 民主主義が主権者としての国民によって成り立っているはずのシステムなのに、実際はそうなっていないという理由は、そこにあるだろう。奴隷が自分を主権者だと勘違いしてくれるなら、DSとしてこれより好都合なことはない。

 

奴隷制度は昔の話だ。今はもう存在しない。だから私も奴隷ではない。私は自分の意思で自分の人生を切り開いている。」

 

 皆がそのように思い込むことによって、イミテーション民主主義という楼閣が出来上がる。この中で、奴隷が奴隷だと気づかない奴隷制度が存続する。このベルトコンベヤーが動き続ける限り、DSの巨利と支配は止まらない。

 だが、この不可視の奴隷制度には突破口がある。それが「自分が奴隷である」という気づきである。そこから自己の民主化が始まる。制度の改革や社会革命には限界がある。それは一時的に成功しても、線香花火のように終わる。これは歴史が証明している。だからこれからは個人の時代である。個人の気づきが「ただ一つの革命」なのである。

 

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映画「マトリックス」の一場面 

モーフィアスがネオに真実を告げる

 

第百十三回 ディープステートはどこにある(2)

1.テンカちゃんは肝心なことは黙る

 前回のブログを読んだ人は思うかもしれない。なぜ厚労省は危険な添加物を認可するのかと。厚労省は自らを任務懈怠だと認めないだろう。彼らは主張する。認可された添加物は全て厳格な基準を通過した安全なものであると。

 審査が厳格であることは嘘ではないようだ。日本食品添加物協会のテンカちゃんによると、日本の食品添加物は極めて厳格な審査によって安全性を確かめられたものである。

 

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テンカちゃん(日本食品添加物協会)

 

安全性の確かめ方|日本食品添加物協会

 

 安部司さんは、動物と人間では消化吸収の能力や仕組が異なるから、動物実験で安全を確認しても人間で安全とは限らないと述べる。これに対して、日本食品添加物協会などの推進派の立場は次のように反論する。

 動物実験で用いられる添加物の量は、その動物が一生食べ続けても安全だと思われる無毒性量である。その数値に100分の1をかけ、人間が一日に食べてもよい摂取許容量とする。つまり、動物にとって安全な量の、さらに100分の1しか人間の口には入らない。それを危険だと言うのはおかしい。安全な添加物を危険だと言うことは、添加物に対する風評被害を招くことになる。

 確かにこの「100分の1」説は嘘ではない。安部さんの本にはその点について詳しく書かれていないが、厚労省の認可基準は確かに「無毒性量×100分の1」である。その点では、推進派の学者たちが言う「厳格性」は間違いではない。有路昌彦氏は次のように言っている。

 

business.nikkei.com

 

  我々国民が風評に惑わされず、もっと科学的・論理的に考えることが大事だと有路氏は言う。それは確かにそうであろう。だがこれは、放射能やワクチンなど様々な分野で繰り返し見てきた風景である。「デジャブ(déjà vu)」であり、既視感である。

 安全性についての科学的な検証は、我が国では食品添加物に限らず、どの分野においても厳格であろう。だが推進派の学者たちは、科学的検証で抜け落ちる不明な部分、すなわち「わからない」ことについては一切言及しない。

 結局のところ、肝心なことは言わないという姿勢は、どの分野でも変わらない。これは共通している。そしてもう一つ共通していることがある。添加物、遺伝子組み換え、放射能、ワクチン・・・どれも巨額の金が動く世界である。そこでは学者たちが厳格な基準で安全性を審査している。そしてその検証から抜け落ちる危険性については皆が黙る。黙る学者しか雇ってもらえないからである。

 

2.厚労省のアリバイ仕事

 食品添加物業界の推進派の学者たちがダンマリを決め込む事実がある。それが「組み合わせ」についての安全性である。例えばビタミンCとしての「アスコルビン酸」は安全である。他方「安息香酸」、これもそれ自体は厳格な審査によって安全な添加物として厚労省によって認可されている。

 だが両方が合わさってベンゼンが発生すると、これは発がん性物質となる。DHCが発売した「アロエベラ」には「アスコルビン酸」と「安息香酸」が入っていた。結果、ベンゼンが発生していた。ベンゼンの安全基準は10ppb以下と決まっているが、「アロエベラ」からは73.6ppbのベンゼンが検出された。その後、DHCが「アロエベラ」を自主回収した。

 

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アロエベラ DHC 2006年

厚生労働省:清涼飲料水中のベンゼンについて

 

清涼飲料水「アロエベラ」から基準値超えるベンゼン

 

 厚労省はAについて厳格な審査をし、安全と認定する。同様にBも認定する。食品会社はその認定をもとに製品を売り出し、ラベルにAとBを表示する。だが、そのAとBの組み合わせにより、Cという物質が発生するかもしれない。そのCについては当然ながらラベルに表示されない。

 だから添加物入りの食品を摂る場合、消費者は常にこの未知のCを摂る可能性がある。これについては、誰かが発見しなければ永遠に存続することになる。「アロエベラ」の場合はたまたまその危険性が発見されたが、それは氷山の一角である。今も我々は危険な何かを口にしているのかもしれないが、それは誰にもわからないし、誰も責任を取らない。

 添加物の認可は厚労省がやっていることである。つまり国がやっていることである。となれば、法改正によってその認可方式を見直すことができる。国会議員が国会の議論によって変えることが可能なのだ。だが、選挙では争点とならない。だから何十年経っても変わらない。むしろ、認可される添加物は増える一方である。

 スーパーやコンビニで弁当を買って昼食を済ませれば、それだけで添加物を約200種類摂ったことになる・・・と安部司さんは言う。裏の表示には200種類が記載されていない。キャリーオーバーなどは記載される必要がないという法律となっているから、弁当の裏に書いてある添加物は全体の一部にしか過ぎない。

 

www.youtube.com

 

  この200種類が組み合わさり、どのような化学反応を起こしてどうなるかは、誰にもわからない。結局、添加物を個別に審査しても、安全性については「わからない」のだ。その「わからない」ものを安全だと決めきることは無理な理屈であるし、安全だと思い込むことは信仰に過ぎない。

 もちろん、このことは厚労省の役人や彼らと組んで実験作業をしている科学者たちもわかっていることであろう。だが、わかっていてもやめられないだろう。彼らは一つ一つの添加物について「厳格に」審査さえしていれば、責任を問われることはないのだ。

 それゆえ、今日も役所では「アリバイ仕事」が行われることになる。それは国民の安全を守るための仕事ではなく、自分が責任追及されないための仕事である。彼らも自分の身を守るだけで精一杯である。ユダヤ人に鞭を打つカポーは、そうやってナチスの役に立っている間は殺されなくて済むのである。

 

3.大衆を侮蔑する勝者は悪魔にならざるをえない

 食品添加物の問題を考えれば考えるほど、私が思い出す言葉が小林秀雄の以下の名言である。以下の言葉はヒットラーの大衆支配について小林が述べたものであるが、商売にもそのまま当てはまると言える。大衆を侮蔑することが上手な食品会社は、ヒット商品を生み出し、大儲けすることができる。

 

小林秀雄全作品23 考えるヒント(上) 新潮社 148頁

人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群衆の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

 

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小林秀雄全作品23 考えるヒント(上) 新潮社

 安部司さんが学校で講演をする時に、よくこのような光景が出てくるという。

 

安部「これって実は石油で出来てるんだよ!」

子ども「え! こわーい!」

 

 その怖い添加物を使って、安部さんが子どもたちの目の前でニセモノの豚骨ラーメンのスープを作る。それには豚の骨は一切使われていない。化学物質100%で作られたスープである。だが、それを飲ませると、子どもたちは驚く。おいしいのだ。子どもたちの手は止まらない。一口、二口、三口・・・と喜んで飲んでいく。

 

安部「え~! さっきは石油怖いって言ったじゃーん!」

子ども「いいもん! おいしければ石油でも!」

 

 子どもたちに石油を食べさせるわけにはいかない。そう思って必死になって無添加のお菓子を作り続ける人がいる。だが、そういうやり方は儲からないだろう。大手食品会社は高給で優秀な科学者を雇っている。彼らは日々研究している。大衆の弱点を突く研究である。そこに命の尊厳はない。あるのは命に対する侮蔑である。

 これは大衆操作の鉄板法則であるから、商品開発でも法案成立でも変わらない。例えば小林興起さんは、郵政民営化法案に反対し、敗北した。だが反対派議員グループの中心として活動をする中で、当時の小林さんは自分たちの勝利を疑わなかったそうである。「こんな馬鹿げた法案が通るわけがない」と思ったからである。

 

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主権在米経済 小林興起 光文社

 だが、結果は逆であった。敗因について小林氏は言う。我々は国民を信じていた。だが小泉、安倍、竹中は違った。彼らは完全に国民を馬鹿にしていた。だから彼らが勝ったのだ。

 

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安倍晋三 竹中平蔵 小泉純一郎 2005年

 相手の馬鹿さ加減を正確かつ詳細に分析し、その弱点を突く。馬鹿が欲しがるものを与える。相手はその餌付けの奴隷となる。これが勝利の方程式である。だが、それは勝者を堕落させる方程式でもある。なぜならその時、勝者も悪魔になるからである。

 我々の世界は今、徹頭徹尾この法則によって成り立っている。違いは規模の大小のみである。権力者は大悪魔をやっており、小市民は小悪魔をやっている。かつて安部司さんは普通のサラリーマンであり、悪魔であった。

 これがわかれば、DS(ディープステート)に対する考え方も変わるだろう。DSは打ち倒すべき敵ではなく、依存症である。アルコール依存症の患者となった場合、酒は敵に見えるかもしれない。だが酒も酒屋も、本当は敵ではない。酒屋を燃やすより、自分の依存症を治すべきであろう。詳細は次回以降に述べたい。