第三次世界大戦を心配するブログ

国際情勢や歴史、その他について書いていきます。

第七十五回 命の選別とトリアージ(3)

1.社会的対立は個人の心の中にある矛盾の反映である

 「命の選別」という言葉は、人の心にさざ波を起こす。今回の大西つねき氏の問題も、その「さざ波」の奔流のままに進み、除籍処分によってなし崩し的に終わりを迎えた。世の中はこれで問題終結と見なしたようだが、私はこの問題を奔流と決裂で終わりにするのではなく、根本から考えなおしてみたい。

 この世界は二元論の世界である。それゆえ「命の選別」の問題も、賛成派と反対派に分かれた。山本氏を中心としたれいわ新選組は「命の大切さ」を訴え、大西氏の発言を容認できないものとして除籍処分を下した。他方、大西氏を擁護する声もネット上にあがった。「現実的には選別も必要だ」という意見が多かった。

 私はどちらか片方に賛成するのではなく、むしろ今回の事件を例にして、二元的議論が陥る必然的なパターンについて考えたい。それは、当事者が望むと望まざるにかかわらず暴力で問題を解決しようとするパターンである。

 まずは「命の選別」を許さないという方の立場を検証してみよう。この立場の根底には、「命の大切さ」や「命の尊厳」がある。それを訴える人達は、人間が持つ集団的な暴力性に警鐘を鳴らす。人類のそうした暴力性は、ナチスによる大量虐殺の歴史などを見れば、簡単に証明できるものである。我々が「命の大切さ」という考えに共鳴するのは、悲惨なカルマからの解放を願うからであり、その根底にあるのは民族の垣根を越えて我々が持っている普遍的な生命観である。

 その具体的な現れが、「山川草木悉有仏性」という仏教の有名な言葉であろう。そこでは虫も人間も「仏性」として差はない。人間が行う「命の選別」は、そこからすればエゴでしかない。しかし、こうした絶対的無差別観は、命の現実と直面した時に必ず難問とぶつかる。

 無差別だと言いながら、命は命を殺して食べる。それは野生の世界のみならず、文明化された人間の生活においても同様である。また外の自然界のみならず、内なる自然でも同じである。体の中で、細胞は細胞を殺す。無数の細菌を免疫細胞が食べることによって、個体の生命が維持される。

 この矛盾は普通の意識からすれば解決不可能な難問である。いくら感謝しながら「命」をいただこうが、「平等な命」を殺して食べるという矛盾は解消されない。従って、この矛盾はある種の諦観と結びつく。食わなければ生きていけないという現実から、「弱肉強食」という暴力が容認されていく。この容認が発展すれば優生思想となり、優れたものが生き残り、弱いものが滅びることまで容認されるようになるかもしれない。

 二元論の世の中を表面的に眺めれば、二つに分かれ、対立しているように見える。しかし観察を深めてみると、実際に対立しているのは世界ではなく個人の心であるとわかる。我々の心は葛藤する。二つの重りが乗った天秤が、常に揺れるのだ。

 例えば「命の選別」を許さない立場と容認する立場が対立する。我々はこれを見て、自分の外に対立の世界が存在していると思い込む。しかし実際には対立は個人の心の中で起きている。例えば上で述べた「命の平等」と「弱肉強食」の対立がそうである。我々は「山川草木悉有仏性」という言葉を肯定しながらも、日々命を殺して食べている。これは一人の人間の心の中にある矛盾である。

 人間も動物も仏性として同じである。と同時に、人間は命を殺して食べる。社会の対立的な議論以前に、個人の心が分裂している。分裂は天秤であり、揺れる。秤のどちらかに重りが傾けば、その人の立場は右か左かのどちらかに寄る。個人の心は揺れる天秤であり、社会は天秤の複合体である。社会の趨勢がどちらを選択するかは、秤の重さ、すなわち多数決で決まるだろう。

 

f:id:isoladoman:20200809175957p:plain

天秤

 分裂を抱えた個人の集まりが社会である以上、社会は常に対立を内包する。社会的対立は個人的分裂の巨大な反映にすぎない。我々は世界で起こる様々な分裂をどこか他人事として見ているが、あらゆる社会的対立の源泉を辿っていけば、個人の心の中にある矛盾に必ず行き着くのだ。

 

2.天秤からの解放が奴隷解放である

 例えば憲法9条改正に賛成派と反対派がいる。この社会的分裂は外から眺めるかぎり、自分とは切り離された対象世界に見える。しかしこの問題の源泉も、やはり個人の心の中の矛盾である。実際、戦争を嫌悪するのは社会という目に見えない複合体ではなく、個人の心である。命は平等であり、誰だって人を殺したくないし、殺されたくない。

 しかし、敵が攻め込んでくることを考えると、防衛力が必要だと思えてくる。泥棒の侵入を防ぐためには頑丈な扉と鍵が必要である。命は大切であり、その大切な自分の命を守るためには、強大な武器を持って防衛することが安心になる。

 こうした思考パターンは社会的な議論以前に、一人一人の心で起こる天秤の揺れである。世の中が常に不安定なのは、ここに原因がある。個人の不安定な心がそのまま世の中に反映されるのだ。戦争が起きたと思ったら平和になり、平和を享受していると思いきや戦争になる。暴力を反省し、暴力を嫌悪するかと思いきや、暴力を容認し、暴力で解決しようとする。

 それは国家の防衛政策のみならず、障害者や老人についての福祉政策も同じである。また、家庭における子育てもそうであろう。天秤は「命の大切さ」と「弱肉強食」の間を揺れる。我が子の「大切さ」を知らない親はいない。しかし思うままにならない子どもに対し、秩序をもたらすために親の強権から暴力を振るう。それは肉体的暴力だけでなく言葉の暴力もそうである。

 西洋哲学の伝統では、物事を正しく考える力を理性と言う。これは暴力で物事を解決するのではなく、むしろ暴力とは何かをきちんと考える力である。しかし、世の中では野放図な欲望を抑える力を理性と呼ぶ。これでは暴力を抑える暴力が理性ということになってしまい、哲学的な意味で言う理性とはまったく違ってしまう。

 なぜ理性のような非暴力的なものが世の中では暴力的な抑圧になってしまうのか。それは世の中の源泉である個人の心が天秤であり、天秤の揺れは力によって抑えるしかないからである。天秤に哲学的理性を期待しても無理だ。なぜなら天秤はどちらか片方に軍配を上げるしかできないからだ。天秤がなぜ命についての根源的な難問を解決できないのかというと、秤の両方に載っているテーゼがどちらも正しいからである。

 「命は平等」というテーゼも「弱肉強食」というテーゼもどちらも正しい。どちらも正しいとなれば、「正しさ」VS「正しさ」の戦いとなり、暴力で決着をつけざるを得なくなる。国と国との戦いであればそれは戦争という暴力となり、国内での戦いとなれば多数決という暴力となろう。

 暴力の犠牲者はいつでも社会的弱者であり、彼らはこうした天秤社会に常に翻弄される。社会が柔和なやさしさに傾けば、彼らは様々な形で社会から「支援」されるだろう。これが福祉政策である。しかし、社会が個人の不安定な天秤としての心で成り立っているなら、そうした「やさしさ」は状況の変化によって蛍の光のように儚く消えるしかない。

 いつのまにか社会から「やさしさ」や「命の尊さ」は廃れていき、「弱肉強食」が頭をもたげるようになる。昼の太陽が夜の寒さとなるように、いつのまにか社会は変わる。平和を謳歌し、命を尊重する社会に軍靴の音が響くようになり、不寛容と非難の応酬が波のように襲ってくる。

 多くの人々は、世の中はそういうものだと諦観するだろう。しかし、「そういうもの」なのは世の中ではない。自分の心である。現状をそのまま追認して考えないことは、哲学的理性ではない。心が揺れるままに右往左往することは天秤の奴隷となっているだけであり、人間の尊厳ではない。

 それゆえ、奴隷解放は社会改革では達成されない。形式的に奴隷解放を達成しても、そこには「市民」という名の新しい奴隷が誕生するだけである。解放は社会以前に個人で達成される。そのためには個人の心にある天秤そのものに疑いの目が向けられる必要がある。

 

3.弱肉強食に対抗する弱者の暴力

 我々の心は天秤のように揺れ、葛藤する。そして我々はこの揺れを当たり前だと思い、天秤そのものを疑わない。灯台が常に外の対象だけを照らし、決して自身を照らすことがないように、我々も対象としての右と左で迷っても、迷う自分の心を疑わない。我々が天秤に対して疑いの目を向けない限り、天秤は揺れながらも安泰である。天秤が盤石である限り、個人の天秤を反映するこの世界も全く変わらない。

 その意味では、自分が変わり、世界が変わり、新たな夜明けを迎えるためには、天秤に翻弄されて終わりにするのではなく、天秤に揺れるという心の動き方そのものが疑われなければならない。天秤を固定化したままなら、二元論の自分(世界)は地球が滅びるまで存続するだろう。逆に、新しい夜明けは水平線の先ではなく垂直として立ち上がる。天秤の揺れで迷うのではなく、天秤自体を壊してしまえば、水平的迷妄は終焉し、垂直的思考が自動的に生起するだろう。

 天秤社会が続く限り、その揺れに翻弄されるのは人類そのものであるから、そこに勝者はいない。勝ち組は物資的な次元での勝ち組に過ぎず、心の次元では誰もが負け組である。とはいっても、物質的犠牲をまっさきに押し付けられるのは社会的弱者である。

 そのため社会的弱者は常に不利である。「山川草木悉有仏性」は寛容な時代では尊重されるが、時代が変われば少数派となり、「弱肉強食」に対する諦観が広がり、その諦観が優生思想の肯定へと発展する。それに同調圧力が加われば、弱者は省みられることがなくなり、切り捨てられる。

 この危機に対して、弱者はどう立ち向かうか。その際、弱者自身が二元論者なら、強者とおなじように二元論的発想で対抗するだろう。つまり、暴力に対して暴力で対抗するようになる。例えば弱者が数を増やして少数の強者に対抗し、権利を獲得するといったやり方である。しかしこれは数という暴力で勝利する方法であるから、やはり暴力によって暴力を解決するという発想でしかない。ニーチェ(1844-1900)が言った「ルサンチマン」である。

 二元論では、二つの矛盾するテーゼの対立について、固定的な対立しか見ることができない。片方が正しいなら、もう片方は間違っているとしか考えられないのだ。それゆえ白黒つけるには、最終的には暴力で解決するしかない。戦争のみならず、多数決も暴力である。

 二元論に生きる我々は、世界を見て、そこに自らの心の呪縛を投影する。二元的な見方にとらわれている人は二元論を世界に投影する。そうなると、自然界は弱肉強食に見えてくる。ライオンがウサギを食べるシーンを見れば、ライオンが強者でウサギが弱者に見えてくる。我々が折角、原初的な宗教的生命観から「命の平等」を感受しても、二元的な世界観に固執するなら、現実世界は弱肉強食に見えてしまう。

 しかし、現実(Real)としての自然は残虐でもなければ暴力でもない。自然が弱肉強食に見えるのは、現実が弱肉強食だからではなく、二元論の色眼鏡を通して対象を見るからである。その色眼鏡からすれば、対象は「弱」と「強」の二項対立にならざるを得ない。

 これは善悪でも同じである。究極的に強弱がRealではないのと同じように、究極的には善悪もRealではない。それは断片的な「正しさ」でありRealとしての「全体性」ではない。しかし二元論にはそれがわからないため、白黒つけなければ気が済まない。

 その結果大西氏の件では、総会によって多数決がとられ、票が集まらなかった人間が除籍されるということになった。除籍処分が悪いということではないが、おそらく処分を下した総会側は、自らの暴力に無自覚であろう。

 それは「どの命も大切だ」と言いながら、問題発言をした大西氏の命(思想)は排除するという矛盾となる。もちろん、どんなメンバーに対しても一切の処分をしないというのでは、組織運営が成り立たない。それゆえ今回れいわ新選組が下した処分に対して、外野が批判しても建設的な議論にはならないだろう。

 問題は自覚的であるかどうかである。二元論的世界に疑いを持たずにいると、暴力を否定しながら、いつのまにか暴力で物事を処理するという矛盾となってしまう。もし、こうした暴力の連鎖に対して自覚的でありたいなら、二元論を脱却した視点が必要となる。脱却した視点からすれば、暴力の起源は自然界の残酷さではなく、自らの色眼鏡にあると気づく。

 ではどうすればいいか。今回それについて書く予定であったが、その前段階の部分のみで結構な分量になってしまった。次回でそれについて詳述し、終わりとしたい。

第七十四回 命の選別とトリアージ(2)

1.洗脳解除

 前回のブログで述べたように、大西つねき氏は形だけ当選しても満足しない。こう言うと、他の立候補者も次のように言うだろう。「私も形だけの当選は目指していない、当選して政策を実行するのが目標だ」と。

 普通の政治家は政策が第一だと言う。中身が薄かろうが厚かろうが、彼らの主張はとことん政策である。Give and TakeのGive(政策)を実行するために、まずは当選(Take)しなければならないと考えている。これが凡庸な政治家の思考パターンである。

 他方、大西氏は当選も政策も第一目標にはしない。当選(Take)しようが、政策(Give)を実行しようが、政権交代をしようが、我々の頭が洗脳から解放されなければ意味がないと彼は言う。確かにそうであろう。政治家も国民も洗脳されている現状において、仮に立派な政策が実行されようが、そんなものは砂上に楼閣が建つようなものである。

 では洗脳とは何であろうか。その最たるものは、我々のお金に対する勝手な思い込みである。お金はどうやって生み出されるのだろう。この世にお金が生み出される場面を頭に思い浮かべてみよう。多くの人は、財務省管轄の造幣所が紙幣を印刷している場面を思い浮かべるかもしれない(実際には国立印刷局がつくっている)。

f:id:isoladoman:20200802155459j:plain

お札の製造工程(独立行政法人国立印刷局

独立行政法人 国立印刷局

https://www.npb.go.jp/index.html

 

 しかし、紙として印刷されるお金はマネー全体(正確にはマネーストックM2)の10%に過ぎない。90%のお金が、手で触ることができない非物質としての金(Money)である。ではそれはどうやって生まれるか。財務省が発行するのか。それとも日銀が発行するのか。

 答えは財務省でも日銀でもない。それは国民の誰かが銀行で金を借りた時に生まれる。例えばその人が銀行から百万円を借りる。銀行はその人に百万円を貸し、借主の預金通帳に金額を書く。「貸し」の100万と「借り」の100万はプラスマイナスゼロである。こうしてお金はこの世に出現する。これが「信用創造」である。

 我々が当たり前のように使っているお金は、もともと預かり証である。純金を預かった証としての証券である。だから、財布の中から一万円札を取り出して表面を見ても、そこには「お金」と書かれていない。「日本銀行券」と書かれている。

 我々は「銀行券」の意味が何かを知らない。札の意味すらわかっていないのだ。金を欲しがりながら金のことを何もわかっていない人間は、金に精通している人間からすれば奴隷である。奴隷はお金がなければ生きていけないと洗脳され、強迫観念の中で生きる。

 一般大衆のみならず政治家も洗脳されている。何もわかっていない政治家が政策を叫び、何もわかっていない国民が好き嫌いで政治家を選ぶ。れいわ新選組が万に一つの確率で政権を取っても、国民が変わらないのなら笛吹けど踊らずである。

 お金の発行の仕組みについては、以下の動画を見てもらえばいいだろう。IMF財務省は無知な我々を好きなように操作する。その結果、国民一人当たり1000万円の借金とか、そのツケは子孫が払わなければならないとか、政府紙幣を発行すればインフレになるとか、消費税を上げなければ国家財政が破綻するいったデマが大手を振って闊歩する。こうして奴隷は緊縮財政を容認し、ギリギリの状況の中で諦める。

 新型コロナウイルスの広がりによって多くの人の生活が破綻の危機に瀕しても、政府は国民一人あたり10万円を配って終わりにしようとしている。本当に財源がないなら仕方がない。しかし、あるものを「ない」と嘘をついて金を出し渋るなら、それは泥棒であるのみならず殺人である。生活苦から、今、この瞬間にも自殺を考えている国民はたくさんいる。

 もともと国家財政は国民のものである。それを「ない」と嘘をついて死に瀕した人たちに配らないという殺人がまかり通っているのは、我々が財政についてあまりにも無知だからである。政府と御用メディアがまき散らす嘘を国民が信じることで、政府の殺人行為が正当化されてしまうのだ。

 我々は大西氏を好きになる必要はない。大西氏の信奉者になり、彼の太鼓持ちになる必要はない。ただ、金の奴隷を脱却したいのなら、彼が指し示す「指」の先に何があるのか、よく知る必要があるだろう。それは彼に投票するだけでは達成されない。個人が自分の洗脳を解くことから始まるのである。

 

大西つねきの週刊動画コラムvol.6_2017.12.18:財源論をぶち壊せ

https://www.youtube.com/watch?v=ZhOwThI5fKc

 

常識が覆る!全てがわかる!背筋も凍る!世界一わかりやすいお金の仕組み

https://www.youtube.com/watch?v=r-RyAtkZdhA

 

国の借金1100兆円の大嘘|山本太郎×三橋貴明【総集編】

https://www.youtube.com/watch?v=SdQ8ATGRtHw

 

Money As Debt(日本語字幕版)

https://www.youtube.com/watch?v=PnVBwrXA990

 

2.「命の選別」はできないゆえに基準を設ける

 「命の選別」という言葉は優生思想を思い起こさせる。私自身、大西氏の思想内容についてこれまでの蓄積がなかったならば、切り取って報道されたこの発言を見て、優生思想だと思ったかもしれない。しかし、大西氏の他の動画を見る、あるいは彼の著作を読み、その思想の全体を理解すれば、彼が述べた「命の選別」は優生思想の問題ではなく、トリアージ(Triage)の問題だとわかる。

 実際、彼は令和2年7月17日の会見においても、老人介護の金が足らないなら金を発行すればいいだけのことであり、長生きしたい老人はいくらでも長生きしてもらえばいいと述べている。ここが相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月26日)の犯人が述べていたことと違うところである。犯人の優生思想は障害者福祉が国家財政を逼迫させるというものであり、彼も財政について洗脳されていたことがわかる。

 大西氏が述べていた「命の選別」の問題は、トリアージの問題である。トリアージ(Triage)とは、緊急事態における優先順位のことである。例えば戦場における野戦病院がそうである。次から次に負傷兵が運ばれてくる野戦病院において、軍医が足りなければ全員を治療することはできない。そのため軍としては、医者が現場で立往生しないために事前にトリアージを設定しておくのである。

 優生思想による「命の選別」は、経済的生産性という一面的な価値観から差を設定し、その分別の根拠について深い考察をすることなしに「命の選別」をするものである。トリアージは逆に、命の価値に差はないという認識をスタートラインとする。

 戦場では若い兵士もいればベテランもいるだろう。階級が低い兵士もいれば高い兵士もいる。男も女もいる。軍医からすれば、どれから治療していけばいいのかわからない。しかし、手が回らない場合は誰かを放っておくしかない。いっぺんに二人も三人も手術をすることは不可能だ。

 この時、あれこれ考えていたら誰の手術もできない。何も決められずにただ時間が過ぎるということは、全員を見殺しにするということである。そのためトリアージ(優先順位)を無理やりつくる。例えば早い者勝ちの原理をたてる。階級も性別も年齢も関係なく、1秒でも早く病院に入ってきた患者を優先的に治療し、残りは待たせる。

 ただ、この原理に対しては当然クレームも出る。早い者勝ちの軽・中程度の患者を治療するために、緊急性のある重傷者が待たされることになるかもしれない。1秒前の命と1秒後の命に価値の優劣はない。待たされているうちに患者が死亡したら、遺族は恨むだろう。

 結局のところ、どのような線引きをしても誰かは不利益を被ることになる。この際に医療現場がトリアージをつくったら、遺族から恨まれるのは医療従事者である。そのため国が責任をとり、現場に負担をかけないためには、医療従事者ではなく国が決めるべきである。

 もちろん、命の価値に上下をつけることは政治家にもできない。どの命も大事なのだから、そこに優劣をつけることはできないという認識は、優生思想の否定である。この否定を土台としながらも、あえてトリアージを国が決めるのは、現場で苦悩する医療従事者にツケをまわさないためである。

 戦前の日本政府は兵站を軽視したため、特に南方戦線の兵士たちは食料に苦しんだ。そのため多くの兵士が現地人から食料を略奪し、それでも足りずに餓死した。米軍と戦う前に、食料不足で死んだのである。日本人はこれを過去の出来事と切り捨てるが、こうした精神的傾向は現代の我々も克服していないと考える方が賢明であろう。

 戦前の国民は「兵隊さんありがとう」と歌った。現代の我々は医療従事者に感謝の寄せ書きを送ったり、看板を掲示する。しかし現場はそれよりも実質的な「モノ」が欲しい。戦前の兵士は食料が欲しかったし、現在の医療従事者は物資や人手や休息が欲しい。そして何よりも、そうした「モノ」が現場に行き渡るべき規定する法律が欲しい。感謝の念や一時的な義援金よりも、補給を保障する法制度が欲しいのだ。

f:id:isoladoman:20200802160120j:plain

感謝を伝える広告(神奈川県横浜市 2020年4月29日)

 現場が四苦八苦する中、政治家や官僚は兵站の法整備を怠り、現場に苦労を押しつける。これは今だけの問題ではなく、戦前から続く日本の悪癖である。「命の選別は政治家の責任」という大西氏の発言は、そういう意味であろう。ただ、彼の言う「命の選別」の意味を理解するためには、「選別」という言葉について根源的に考える必要がある。

 

3.「命の大切さ」を学ぶという二元論

 短絡的な優生思想の観点から「命の選別」を肯定する人達は世界中にたくさんいる。ナチスドイツによるユダヤ人絶滅計画、南アフリカにおけるアパルトヘイト政策などは過去の事件として終わったものではなく、現在においても形を変えて生きている。Black Lives Matterの運動が世界的な広がりを見せているのも、優生思想が現在においても継続しているからである。

 ただ、優生思想とトリアージはまったく違う。優生思想は命に優劣をつける思想であるが、トリアージはむしろ命に優劣をつけることは不可能だと得心することからはじまる。その得心の上で、緊急事態における優先順位を法制化するのである。これは同じ「選別」であっても全く違う。

 今回の大西氏の「命の選別」発言は、主に感情的な反応から騒動になり、除籍処分へと発展した。れいわ新選組の山本代表は、「優生思想的なものは誰の心にもあり、自分の中にもある」ということから、安易に大西氏を除籍して終わりにしたくないと述べていた。

 そのため大西氏を単純に切って終わりにするのではなく、「命の大切さ」について学ぶ会を同党は開催し、大西氏も含めた同党のメンバーがそれに参加したそうである。そこで障害者福祉に携わる人達の話を聞いたりすることで、大西氏も大変に勉強になったそうだが、大西氏からすればこの流れは納得いかないものだったそうだ。

 確かにそうだろう。大西氏からすれば、優生思想について一言も語ったわけではない。彼としてはトリアージを設定すべき場面での政治家の怠慢について述べたつもりであった。政治家がきちんと仕事をしなければ、現場の人間にツケをおわせることになる。その話がいつの間にか優生思想発言として受け取られ、新聞やネットで騒動となり、「命の大切さ」についてのレクチャーを受けることになった。

 しかも山本代表が「優生思想は誰の心にも秘められており、大西氏だけでなく自分の心の奥底にもそういった危険な芽がある」と述べ、大西氏に教育の機会を与えたことで、大西氏がそれに参加すれば大西氏の心の奥底にも優生思想があるということになってしまった。

 大西氏はここに暴力を感じ、離党の意を代表に伝えたそうである。確かに、このベルトコンベヤーに乗ったままでは、大西氏の発言は彼の心の奥底にあった優生思想が表に出たものとして処理され、固定化されてしまう。

 「誰の心の奥底にも優生思想はある」という考えは、一見すると深い真理のようであるが、その実危険性を孕んでいる。というのも、「命の大切さ」をしっかりと学ぶことによって優生思想という敵を押さえつけるという発想は、それ自体が暴力的だからである。

 我々は暴力が嫌である。誰もが暴力をくわえられることを恐れ、それを避けたいと願う。しかし、二元的な世界に生きる我々は、そうした暴力の脅威から自己を守るために別の暴力で対抗しようと思う傾向がある。暴力を否定しながら、暴力で防衛しようという矛盾である。我々は優生思想という暴力を嫌悪するが、それゆえに優生思想を暴力で押さえつけるという矛盾に陥りがちである。

 山本氏は「誰の心の奥底にも優生思想はあり、自分の心にもある」と述べた。これは確かに彼の豊かな感性に基づく自己省察の力をあらわすものであろう。その共感力によって、大西氏を切って終わりにするのではなく、一緒にレクチャーを受講しようとした態度は賞賛すべき慈悲心である。しかし、それは二元的である。

 そもそも優生思想が間違いなのは、「命」を対象化して選別するからである。それを克服するために優生思想というイデオロギーを対象化し、「命の大切さ」というイデオロギーで押さえつけようとするのは、二元的な暴力の域を出ない。

 暴力が暴力を呼ぶという二元的世界の悪無限を克服するためには、非二元の観点が必要である。その次元からすれば、目の前の命が大切なのは、「命が大切」だからではなく、その命が自分だからである。二元的世界ではいくら「命は大切」だと肝に銘じても、目の前の命は自分と切り離された命にしか見えない。だから常に優生思想を心の奥底に持ちながら、命のレクチャーというカンフル剤を投与することによって悪玉菌の増殖を防ぐしかなくなる。それは悪と反省の無限ループとなる。

 他方、非二元の観点からすれば命は「選別」以前に一つである。どの命も自分である。命に優劣をつけることができないのは、命が大切だからではなく、どの命も自分だからである。自分と自分を比べて優劣をつけることはできない。これに気づけば、心の奥底にある優生思想を駆除する必要はない。優生思想に縛られる「自分」が幻想だと気づくからである。

 ただ、その気づきに至るためには、「選別」についての根源的な思考が必要である。大西氏が提起したテーマについては今回で終わらせるつもりだったが、いったんはじまると話が長くなるという私の悪癖のせいで、今回で終わらせることはできなかった。続きは次回にしたい。

第七十三回 命の選別とトリアージ(1)

0.予定の変更

 今回からイラン近現代史に戻る予定であったが、予定を変更し、今回と次回の二回に渡り、大西つねき氏の「命の選別」発言について考えていきたい。

 

1.騒動の経緯と訣別の原因

 れいわ新選組所属の政治家、大西つねき氏の「命の選別」発言については、マスコミで以下のように報じられた。

 

れいわの立候補予定者が「命の選別」発言

https://www.asahi.com/articles/ASN795SFXN79UTFK00T.html

 

大問題となった「命の選別」発言、大西つねき氏が本当に伝えたかったこと

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74321

 

 この騒動を受け、令和2年7月16日れいわ新選組の総会が開かれた。総会は大西つねき氏の除籍を決定した。問題となった動画は以下である。一度削除されたが、その後再アップロードされた。

 

「正しさ依存症」とそれを生み出す教育について(Live配信2020/7/3)

https://www.youtube.com/watch?v=whuSV-Uq2_A

 

 私は大西氏の著作を読んでいる。また上記動画以外にもYoutubeで10~15本程度の大西氏の動画をこれまで視聴している。つまり、私はそれなりに大西氏の思想内容を知っている。そうした人間からすれば、大西氏が今回の動画で優生思想を語っているものではないことはわかる。ただ、大西氏についてよく知らない人がこの動画の該当箇所を視聴すれば、「命の選別」発言は優生思想に聞こえるかもしれない。

 れいわ新選組山本太郎代表をはじめとした総会のメンバーは、大西氏の発言を優生思想に基づくものだとして除籍処分を下した。それに関する山本氏の説明は、以下の動画にある。

 

れいわ新選組 記者会見 大西つねき氏の処分について 2020年7月16日

https://www.youtube.com/watch?v=e94gkQqnpXA

 

 これに対する大西氏の記者会見の動画は以下である。

 

大西つねき記者会見中継(Live配信2020/7/17)

https://www.youtube.com/watch?v=VkNEOUsekBI

 

 私は上で紹介した動画を視聴し、山本氏と大西氏の話の両方とも素晴らしいものだと感じた。日本の政治家で、ここまで高レベルな話を誠実な態度でできる人物は、私は見たことがない。また今回の騒動と会見によって、私は両名の基盤は共通しており、ほとんど差がないと思った。

 山本氏と大西氏は二人きりで会って話したようであるが、会話の内容を私は知らない。なので以下は私の推測に過ぎないが、両者は対立しているわけでもなく、喧嘩別れでもないだろうと思う。では基盤を同じくする両者がなぜ訣別しなければならないか。その原因は嫌悪でもなければ対立でもなく、互いの互いに対する理解の深度が足りなかったからであろう。

 普通の政党なら、メンバーの思想の深度はたかが知れている。だから、互いの理解も容易である。深く知り合う必要もない。しかしメンバーの一人一人が深いコンテンツを持っている場合、互いが互いを知るために相当の努力が必要となる。

 山本氏やその他メンバーは、それなりに大西氏の思想を知っていただろう。しかし、大西氏の動画を見て、言葉の表面ではなく真意を察知するまでの理解度は持っていなかったであろう。大西氏の一見危険な発言の「向こう側」を洞察するためには、視聴者側に学習の蓄積が必要である。

 この点、山本氏をはじめとしたれいわ新選組総会のメンバーが、大西氏という一人のメンバーに対して、そこまでの労力をかける気持ちがなかったならば、遅かれ早かれこのような問題は起きたであろう。大西氏が物議を醸さない発言に終始するということはないだろうから、今回騒動が起きなくても、いつかは同じようなことが起きる。その点から考えれば、今回の訣別は残念ではあるが必然的なものだったと言えるだろう。

f:id:isoladoman:20200727190722j:plain

大西つねきと山本太郎(2019年7月10日 岡山県

2.安くて便利な政治家を求める国民

 大概の政治家は中身がない。我々は内容空疎な政治家に慣れている。しかし内容がないというのは便利でもある。中身が薄いなら、我々有権者にとっても理解は簡単だ。逆に、中身がつまった政治家は理解に骨がおれる。一人の人間が根底的な疑念と考えを述べる場合には、聴き手の方にも相応の努力が求められる。

 日本の政治家に中身がないのは、我々日本人が政治家に便利さを求め続けてきた結果でもある。早い、安い、無内容の三拍子が揃ったインスタントラーメンのような政治家が多いのは、そういった政治家が人々に求められてきたからだ。彼らは大衆が求めるわかりやすさを提供し、有権者に頭を使わせない。考えたくない有権者にとっては「巧言令色鮮し仁」の政治家は便利である。

 凡庸な政治家は「Give and Take」を有権者に訴える。「私が当選したら福祉を充実させ、経済政策を実行し、貧困家庭を援助し・・・」というGiveを彼らは述べる。その見返りとして「一票入れろ」というわけであり、これがTakeである。こうした選挙システムが長い間続いてきた。

 他方、大西氏の訴えはGive and Takeではない。「れいわが政権をとっても、私が総理大臣になっても、それだけでは何も変わらない」と大西氏は繰り返し述べている。これは彼の目的が洗脳を解くことにあるからである。政権交代しようが、聖人君主が総理大臣になろうが、国民が洗脳から自由にならない限り、この国は何も変わらないというのが彼の主張である。

 だから大西氏は形だけ当選しても無意味だと述べる。彼が求めることは、我々が投票所に足を運ぶ前に、自分がどんな魔法にかかっているか気づくことである。それは国家のためでもなければ民主主義のためでもなく、自分という個人の自由のためである。だから大西氏に投票する有権者は、レストランのメニューを眺めて注文するような楽な選挙はできない。

 一人の政治家に一票投じるのに、有権者が自分の洗脳に向き合わなければならないというケースは、もしかしたら日本の選挙史上初めてのことかもしれない。怠惰な有権者は彼に投票することもできない。有権者が政治家を選ぶ前に、政治家の思想が有権者を選ぶ。魔法の世界で満足している国民は、彼を選ぶ前に精神の自由から選ばれていない。

 我々は常日頃、中身がない政治家を条件反射的に軽蔑する。そして、政治家は深い思想を持つべきだと盲目的に思い込んでいる。しかし、本当に中身のある政治家に投票したいなら、我々の方も相応の勉強をすべきだということになる。それは、これまでのような好き嫌いを基準とした無責任な投票は出来ないということを意味する。

 自由主義国家のマーケットは、常に消費者が欲しがるものを提供する。安くて口当たりのいい食品が売れるなら、高くて健康にいい食品はマーケットシェアで少数派となる。これと同様、民主主義の選挙では常に有権者が欲する政治家が当選する。議会の椅子のほとんどを便利な政治家が占めるという現象は、添加物がふんだんに入った食品がスーパーの棚を占めているのと同じ現象である。

 豊かなコンテンツは、精神の自由を求める個人がそれを咀嚼し、自家薬籠中の物とすれば実りとなる。しかし、楽をしたい人からすればそうした歯ごたえのあるコンテンツは面倒なものである。深みのある人間は得てして便利な人間ではない。我々は軽薄な政治家を軽蔑するが、安くて便利なものを求める自分の心の動きには無意識なものである。

 我々は楽をするために便利なものを求める。結果、人間にも便利さを求める。会社は便利な人間を採用し、男は便利な女と結婚し、親は便利な子どもを望み、政党は便利な候補者に公認を与える。人間は便利なものを求め、安くて便利で口当たりのいいものを開発し、消費者に提供し続けてきた。結果、我々のまわりには便利なものが溢れるようになったが、皮肉なことにそれによって誰も幸福を実感しない。

 大西氏がれいわ新選組から除籍されたのは、彼が問題発言をしたからだと言われている。しかし、私はそうでないと思っている。かといって、私は彼の発言を擁護したいのではない。そうではなく、彼が除籍された原因は彼の問題発言ではなく、彼が不便だからだと私は言いたいのだ。

 今回、問題発言がなかったとしても、彼はいつかは物議を醸す発言をしただろう。なぜなら彼は便利な人間ではないからだ。便利な人間を求める組織からすれば、彼は厄介である。大西氏はれいわ新選組という小さな世間を追い出されたが、そもそも世間自体からしても厄介な人間なのだろう。大西氏が自分自身を曲げず、ひたすら自分自身であることを貫けば、彼の不便さはより光り輝く。

 世間からすればそんな不便な人間は厄介である。れいわ新選組のみならず、どの政党からしても欲しい人材ではない。これは彼が悪いのではない。我々がそういう不便な人間を迎え入れて学びたいと思うほど向上心があるわけではなく、怠惰なのである。

 

3.時間泥棒から国民を救うべく立ち上がった山本太郎は時間を泥棒されている

 有権者だけでなく政党も同じである。党が中身のある政治家を抱えたいのなら、党としてその深いコンテンツを理解しなければならない。既存政党が中身の薄い政治家を抱えるのは、その方が楽だからである。彼らは上からの命令でロボットのように動く議員が欲しいのだ。

 コンテンツのある政治家を党のメンバーとすることは、組織のコンテンツを充実させ、深めるというメリットがある。しかしどんなメリットも、裏返せばデメリットである。深いコンテンツを抱え込むということは、党がそのコンテンツを理解するために努力をしなければならないということである。

 結局のところ、有権者にとっても政党にとっても、ベルトコンベヤーを止めない政治家が一番楽なのだ。もちろん、流れるシステムを一度止めなければ、我々は緩やかな滅亡へと進むだけである。それは保守であれ革新であれ、薄々感じている。国民も心のどこかで感じている。このままではまずいと。

 れいわ新選組は緊縮財政というベルトコンベヤーを止めることを目的としている政党である。だから、洗脳とベルトコンベヤーに満足している政治家はれいわ新選組には必要ない。結果、我々の凝り固まった思考をひっくり返すような政治家である大西氏を党は歓迎し、その懐に迎え入れた。しかし、金もなければ人手もなく、常に自転車操業をしている零細政党は、大西氏のような不便な政治家をじっくりと咀嚼して自家薬籠中の物とするための人手もなければ、金もなければ、時間もない。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 岩波書店

https://www.iwanami.co.jp/book/b269602.html

 

 これはれいわ新選組が抱えるジレンマである。時間を奪われ、命をないがしろにされている人々のために立ち上がったれいわ新選組であるが、今はれいわ新選組自体が時間に追われている。貧乏暇なしの我々がゆっくりと料理をつくって食事をする時間がなく、仕方なく安くて便利で有害な食品を食べることと同じように、れいわ新選組も党のメンバーをじっくりと咀嚼する時間がない。

 大西氏を党として咀嚼しきれていない段階であの事件が起きた。それゆえ党は大西氏の発言を優生思想だと決めつけるレベルから脱しきれなかった。これは致し方ないと言える。私は大西氏の著作をじっくり読み、動画を複数視聴したという蓄積があったゆえに、件の動画を見た際に大西氏の真意を汲み取ることができた。この蓄積がなかったなら、私も大西氏の発言を優生思想だと思ったかもしれない。

 今回、れいわ新選組は大西氏を除籍することで、事件としてはいったん終わった。しかし、同党がコンテンツのある政治家を懐に抱えるなら、このような問題は今後も起きる可能性は十分にある。内容空疎なイエスマンを揃えれば問題は起きないだろうが、それでは党の存在意義がなくなる。しかし、コンテンツのある政治家を抱え、じっくりとそのコンテンツを咀嚼する余裕は党にはない。

 このままでは同党のジレンマが解消するチャンスはないようである。ではどうしたらいいか。私はいったん山本氏が国民の救済を放下著(ほうげじゃく)するのがいいと思う。YouTubeで山本氏の疲労困憊の姿を見るたびにそう思う。

 来たるべき衆院選がどうこう以前に、彼はまず仕事を放棄して2、3カ月休む方がいいのではないか。選挙には勝てないかもしれないが、それは致し方ない。国民の時間泥棒の問題を解決したいなら、まずは先頭をきって自分の時間泥棒の問題を解決することであろう。人を救うよりまずは自分を救う。それが成り行きとして、他者を救うことになる。ジレンマはその成り行きの中で解消されるより他はないはずである。

第七十二回 報道しない奴隷とその脱却法(2)

1.奴隷という鏡

 日本政府が打ち出している観光需要喚起政策である「GoToキャンペーン」は、1.7兆円という大規模予算による政策だそうだ。これが政府と電通との共同事業であることは、勘のいいひとなら新聞を見る前に気づいているだろう。そういう人からすれば、以下のような記事も「やっぱりな」というものであり、驚きはないはずだ。

 

経産省電通と10回面談 Go Toキャンペーン公募前

https://www.tokyo-np.co.jp/article/35111

 

 このキャンペーンは国内旅行を促すものである。しかし現在はコロナウイルスの感染者が増えている時期である。通常なら、以下の二つのことが問題となるだろう。

 

一.移動人口増加によるコロナウイルス感染拡大の責任は誰がとるのか。

二.キャンペーンをやめて1.7兆円の現金を生活苦の人達に配る方がよいのでは。

 

 しかし、大手マスコミも利権の成員なので、上のようなことは言わない。むしろ、政策に疑問を持つ人に対しては「余計なことを言わないでくれ」と制止する。

 

フジテレビ平井文夫上席解説委員 「行かない人が余計な口出さないでくれ」

https://hochi.news/articles/20200715-OHT1T50086.html

 

 結局、一日で約300人の感染が発生している東京を除外する形で、「GoToキャンペーン」が実行されることとなった。これにより大手マスコミにも相当の金が流れることになる。政府から電通へ広告が委託され、電通から大手メディアに仕事が流される。大手新聞の見開きページの広告料相場は約一億円である。

 戦前、気象情報は軍の機密事項だったため、台風情報は国民に報道されなかった。これによって多くの人命が失われた。戦後、コロナ情報は「村」の機密事項であるため、「村」の都合によって「危険だ」と報道されたり、「大丈夫だ」と報道されたりする。

 国民は、ある時は危険だからStay Homeだと言われる。またある時は問題ないから旅行に行こうと促される。当然、国民の命と健康は眼中にない。「村」の経済的な都合によって報道の内容は変わり、国民の行動はそれによって操作される。戦前に比べればかなり洗練されたが、マスコミに良心がなく、国民に「危険」が報道されないという構図は変わらない。

 だからといって、私は報道機関が「けしからん」のだと批判したいわけではない。戦前だろうが戦後だろうが、報道が不自由なのは変わらない。それはマスコミだけでなく、我々人間が食い扶持のためなら良心を捨てるという傾向性を持つからだ。その不変の性質が、戦争が終わり、憲法が変わることでいきなり克服されることはない。

 戦前の人間が食うために報道したのなら、戦後の人間も同じように食うために報道するだろう。戦争が終わって人間の体から胃袋が消えるはずがない。むしろ国家体制が洗練されれば、その変化に応じて胃袋戦略も進化するだろう。その戦略の餌食になれば、日本国民も新たな奴隷へと進化する。それが自分を自由だと思い込む奴隷である。

 ほとんどの国民はこの「自由」という夢の中に眠り込む。しかしそれは全員ではない。数は少なくとも、食い扶持のために良心を捨てることの「つらさ」に気づく者があらわれる。隷属状態の突破口はこの「つらさ」である。つらいことは絶対悪ではなく、重要なシグナルである。

 シグナルをもとに正しく考えれば、自分のつらさは自分が奴隷であることにあるのではなく、自分がいつまでたっても泥沼から出ないことにあると気づく。食い扶持のリスクを覚悟してその泥沼から出ることが革命である。

 自由は社会革命ではなく、個人革命として起こる。その意味では、泥沼で満足している奴隷たちの笑顔も無駄ではない。彼らの歪んだ笑顔のおかげで、繊細な感性の人間は自分の「つらさ」とその奥に隠れた「良心」に気づくことができる。

 気づいた人は、世の中を救うためではなく、まず自分を救うために立ち上がる。「報道しない自由」を行使し、大衆を縦横無尽に操作するという生き方は、他人を傷つける前に自分を傷つける。金のために自分の魂を売ることは、世の中がどうのこうの以前に、自分の人生をないがしろにしているということに気づくのだ。

 世の中が戦争をしていようがいなかろうが、国家が検閲をしようがしなかろうが、最終的には自分次第である。CIAの犬となって大衆を操作するジャーナリストは、魂を売ることの意味を教えてくれている。その姿を見ることで、他人のふりを見て我が身を正す人があらわれる。その意味では、彼らの存在も無駄ではない。腐った魂は良心の鏡なのである。

 

2.「村」からの独立

 戦前の日本では、大手マスコミは政府の御用メディアとして安定した地位にあった。現在では、大手メディアは自分たちでつくった「村」によって安定した地位にある。しかしこれは金と権力のために報道の根幹である「良心」を捨てている。

 これは健全な人間精神からすればつらい仕事である。本当のことを言いたくてこの仕事に就いた人からすれば、危険に目をつぶって沈黙し、騙しの記事を書き続けなければならない仕事はつらいものである。

 ではどうすればいいか。最も簡便な解決法は、「村」から出ることである。その例を、勲章報道から見てみよう。日本国憲法9条は、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と謳うが、日本政府はGlobal強盗に勲章を授与している。例えば2015年にはドナルド・ラムズフェルド旭日大綬章を授与している。

 

アメリカの悪玉になぜ叙勲?「ジャパン・ハンドラーズにばかり頼ることは日本の国益につながらない」

https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_20151119_56920/

 

勲章は政治的玩具か――「イラク戦犯」に旭日大綬章

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0321.html

 

 ラムズフェルドはチェイニーとともに2011年のCPAC(The Conservative Political Action Conference 保守政治活動協議会)に参加した際、ブーイングの混ざった歓声で迎えられている。つまりリベラルのみならず保守の人達の中にも、彼を戦争犯罪人と見ている人が多くいる。

 

Cheney, Rumsfeld Cheered Amid Boos At CPAC

https://www.npr.org/sections/itsallpolitics/2011/02/10/133661385/cheney-cheered-booed-at-cpac-as-he-introduces-rumsfeld

 

 大手メディアは淡々と報道し、余計なことを言わなかったが、安倍首相のお膝元の山口県の長周新聞は、「コラム狙撃兵」のコーナーで「異次元の隷属ぶり」として、歯に衣着せぬ論評を行っている。

 

コラム狙撃兵 戦争狂いに与えた旭日大綬賞

https://www.chosyu-journal.jp/column/1109

 

 長周新聞については私も詳しくは知らないのだが、ホームページの上段には「いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関」と書かれている。これが本当なら、この会社は金に困るだろうと私は推察した。

 そこで、長周新聞について調べてみたところ、やはり金は儲かってないようである。ホームページの中段を見ると「長周新聞の定期購読とカンパの訴え」と書かれている。「村」から金が流れてくるパイプがないため、カンパで経営をまわしているようである。

 

コラム狙撃兵 書ける理由と書けない理由

https://www.chosyu-journal.jp/column/12372

 

 「きみたちは食べるために生きているが、僕は生きるために食べている」とソクラテスは言ったが、結局のところ人生は何を犠牲にして何を得るかであろう。捨てることは拾うことである。何も犠牲にしないというのは人生全体を放棄していることである。時間と労力が限られた中で生きるということは、何かを削って何かに当てることである。

 朝日や読売のような大新聞は、社員に高給を配り、会社を存続させることを第一目標としているのだろう。そこに集まる社員たちも、高い給料を期待して集まっているのだろう。当然、そのような会社に真実の報道を期待しても無駄だ。だからといって意味がないのではなく、われわれもそれを大本営発表だと意識して読めば、それはそれで大本営の言葉を読めるのだから有益である。

 大新聞は金と権力を得る代わりに良心を捨てる。他方、長周新聞のような「いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関」なら、良心のために金脈は諦めなければならない。社員には貧乏でいてもらうしかない。その分、報道のために生きることができる。彼らは精神的健康を取る代わりに利益や安定経営を捨てている。

 搾取の片棒を担がなければ高給を得られない。高給がなければ家族を幸せにできない。そういう強迫観念があるうちは、Global経済に組み込まれることは避けられない。Global経済は力で対抗して勝てるものではない。一人一人の人間が、そこから個人の決断として「降りる」ことで脱却できるものである。

 個人が「村」から出れば、騙しと利益のベルトコンベヤーから逃れることができる。となると、清貧は道徳的な正しさではなく、個人の健康法ということになろう。それは世界の救済以前に、自分自身を大切にすることである。

 Global経済という怪物は、巨大である。これに徒党を組んで対抗しようとするのが社会革命であるが、人類の歴史を見ればわかる通り、そうした「数VS数」の革命はすべて失敗してきた。その意味では怪物は無敵である。しかし、怪物には唯一の弱点がある。それが個人である。無敵の怪物は気づきを得た個人を隷属化できない。無敵に見える怪物は、実は個人の精神的健康の前では簡単に消えてなくなる蜃気楼にしか過ぎないのである。

 

3.泥沼に蓮の花は咲く

 仮に「GoToキャンペーン」が中止になっても、国民に真実を知らせず、危険を知らせず、「報道しない自由」を振り回すことでマスコミが国民の命を危険にさらすことは変わらないだろう。また、彼らが大衆を洗脳し、国民を権力の都合にいいように奴隷化することも変わらないだろう。そうして生まれてくる子どもたちは、次々に「奴隷と気づかぬ奴隷」に仕立て上げられていく。栽培は永遠に続くのである。

 とは言っても、もっと大きな視点から見れば、腐敗は絶対悪ではない。そもそもマスコミと言っても細かく見れば無限のグラデーションで成り立っている。CIAの手先となった社長がいれば、何も知らない新入社員もいる。出入り業者の人達もいれば、報道にまったくかかわらない経理や総務の人達もいる。隠すことに一生懸命になっている社員もいれば、それに必死にあらがう社員もいる。各人にそれぞれの良心があり、1%の人もいれば99%の人もいる。

 こうした三千大千世界としての「マスコミ村」の中で修業し、腐敗という反面教師から人生を習い、大空へと飛び立つ人もいる。朝日新聞がCIAの手先だからといって、絶対悪とは言い切れない。私はたまたま小笠原みどりさんの以下動画を見たのだが、日本にもこのような優秀なジャーナリストがいたのかと驚いた。彼女は元朝日新聞記者である。穢土から蓮の花は咲くのである。

 

あなたも監視されている~スノーデンの暴露とは

https://www.youtube.com/watch?v=A8sM_LafZqM

 

朝日新聞は「敏腕女性記者」に逃げられた・・・

https://books.j-cast.com/2019/10/30010084.html

 

 動画の中でインタビュー役を務めている白石氏は、OurPlanetTVの代表であり、テレビ朝日系の制作会社、東京メトロポリタンテレビジョンの社員だったようだ。

 

白石草(しらいしはじめ) OurPlanetTV代表

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1535

 

 烏賀陽弘道氏も元朝日新聞の記者である。彼は著書の中で、大手マスコミの報道がなぜ脳死するのかについて書いている。

 

烏賀陽弘道(うがやひろみち) 「報道の脳死

https://www.shinchosha.co.jp/book/610467/

 

 こうした人達は大手マスコミで修業し、技を身につけた後で「村」を巣立った人たちである。彼女(彼)らを育てたのは大手マスコミという腐った「村」であるが、「村」は自らの腐敗した顔を見せることで彼女(彼)らに「こうなってはいけないぞ」と教えたわけである。

 彼女(彼)らも大手マスコミの社員だった時は相当苦労しただろう。しかし、その苦労という泥沼のなかで、彼女(彼)たちは泥沼に屈することなく、自らの技を磨き続けた。それが「村」を出た後で自らの良心を羽ばたかせるための礎となった。泥沼は良心を潰すものではなく、むしろ鍛えるものである。鍛えられた良心は、無邪気で幼稚な良心よりも強い。

 世の中を改良するものはイデオロギーでもなければ社会革命でもなく、個人の強い良心である。その強さは頑固さとも違えば無謀さとも異なる。それは一朝一夕にできるものではなく、泥沼の中で長時間に渡って鍛えられることが求められる。そうやって鍛錬された強い良心が、その人を閉じた卵から外に出し、その人の人生を輝かせる。社会はその輝きを見た他人が少しずつ変わることによって変わっていく。

 結果として、それは世界の変革となっていることだろう。その意味では奴隷の解放は可能でもなければ不可能でもなく、今、目の前で起きている端的な事実だと言える。良心の種は失われるものでもなければ、誰かによって与えられるものでもなく、誰もが既に持っているからである。

第七十一回 報道しない奴隷とその脱却法(1)

0.予定の変更

 前回までイランの近現代史について見てきた。イランという中東の一地域に過ぎない限定的な場所であっても、その歴史をつぶさに見てみると、そこにはGlobal経済の席巻が見て取れる。Global企業が国家と組み、合法的強盗がまかり通っているのが、国際関係の真の姿である。これに深く関与しているのがマスコミである。今回と次回はイランの歴史を横に置き、第十八回ブログの発展版として、メディアについて考えていきたい。

 

1.皇軍の息子から軍産複合体の内臓へ

 戦前の日本には検閲が存在し、報道の自由はなかった。例えば台風情報も国民に隠された。気象情報はすべて軍事機密として扱われたので、新聞やラジオは報道できなかった。そのため、事前にわかっていれば避難できた国民も、台風により命を失った。失われる命を前にして、ジャーナリストは屈辱の沈黙を自らに強いるしかなかった。

 元来、報道とは危機を知らせるものである。知らないことは危険であるゆえに知らせる。知ることによって死ななくて済む。報道は元来、そうした良心と危機感に根差したものである。そこには大学のジャーナリズム論が講釈する晦渋なものはない。危ないものを「危ない」と知らせるものが「報道」であるなら、ジャーナリストの精神とは難しいものでもなんでもない。それは単純明快な「良心」であると言える。

 もちろん、これに対して都合の悪い人々が存在する。報道が良心に基づいた単純な行為であるとしても、知られたら困る方の立場からすれば迷惑だ。こうして権力と反権力の構図が生じる。もともと報道は無意味に国家に楯突くものではなかろう。報道の根っこは反逆ではなく良心であるはずだからである。しかし、隠蔽が人命を危険にさらす場合、良心はやむなく隠蔽する国家に反抗せざるを得ない。危険な隠蔽を黙認する心性は、既にして良心ではないからである。

 さて、戦後の日本では憲法も改まり、21条で表現の自由が保障され、報道の自由が保障されることとなった。屈辱の沈黙を強いられた報道機関は、自由な空を羽ばたけるようになったのである。台風が来たら皆に逃げろと報道できるようになった。負け戦を「勝った、勝ったまた勝った」と嘘つく必要もなくなった。

 しかし、マスコミが世の春を謳歌したのは一瞬だった。すぐに厳しい現実が襲ってきた。食い扶持の問題である。全体主義国家におけるマスコミは楽だった。政府、官僚、軍部の言いなりになって報道すれば食うに困ることはなかった。むしろ戦火が広がるほどに新聞は売れた。彼らは戦争を煽りに煽った。煽れば煽るほど売れたからである。

 平和の世では戦火の方程式は通じない。検閲は縛りであると同時に保護だった。保護者たる国家はマスコミを食わせた。しかし自由国家は検閲をしないと同時にマスコミを食わせない。父が子を養育しない以上、子は自力で食い扶持を稼ぐしかない。こうして戦後のマスコミは自立を余儀なくされた。自由になったと同時に、彼らは食い扶持を稼ぐために必死になった。

 大手メディアは記者クラブをつくり、中小零細報道機関を閉め出し、既得権益の保持に躍起になった。軍部という父を失った代わりに、CIAという新たなパトロンと出会った。さらに官邸や霞ケ関とパートナーシップを結び、大企業と友達になった。こうして大手メディアは、戦前よりも大きなマスコミ帝国をつくった。

 皇軍という父の死後、途方に暮れたマスコミは、頭を使って新しいパトロンを得ることで、しぶとく生き残った。そして戦前よりも高い給料を得る特権階級へと成り上がった。現在の日本の大手マスコミがどれだけの年収を得ているかについては、第十七回ブログを見てもらえばいいだろう。

 現在では、NHKの会長になれば総理大臣と定期的に会食ができる。マスコミが脅せば政治家も怯む。報道によって議員を当選させることも落選させることもできる。検事長を奈落の底に突き落とすこともできる。戦後の焼け野原で父を失い泣いていた子は権力者になった。金も力もある。大衆心理も人心操作も思いのままだ。

 こうして出世した息子はあの時の屈辱を忘れる。台風を報道できなかった屈辱。真実を捻じ曲げて報道した屈辱。嘘を言い、煽りに煽った挙句、300万人が死体となった屈辱。屈辱の中で唇を噛んだ息子は、今では悔しさも忘れ、Global強盗の手先となる。

 それは皇軍という小さなレベルの話ではない。300万人の犠牲者では済まない。Global強盗の手先となることは、世界的規模の軍産複合体と手を組むということである。屈辱の息子は、保護者を失って食い扶持を稼ぐことに夢中になっているうちに、巨大な怪物の肉体へと包含された。皇軍の息子は、今ではGlobal経済という怪物の内臓となって機能している。

 

2.マスコミの進化と奴隷制度の進化

 戦前のマスコミには自由がなく、ただひたすらに屈従があった。その分、楽だった。国家と一体となったマスコミほど楽なものはない。言われたとおりに報道し、言いなりになって仕事をすればいい。考えることを面倒だと思う人間からすれば、そうした職場は堕落という名の天国である。

 この堕落天国は、現在では共産主義国家に存在する。共産主義国家には検閲が存在し、報道の自由がない。検閲は屈辱であり、裏返せば楽である。中国や北朝鮮の人民は、この体制に慣れた。彼らは報道の自由を諦めている。諦めは屈従でありながら安寧である。それゆえ彼らは何十年にも渡って、不自由という安楽椅子に座り続けている。

 では自由主義国家に堕落はないか。答えは否である。自由主義国家においては検閲がない。ということは安楽もない。検閲の裏には安定した生活があるが、自由の裏には競争しかない。売らなければ会社もなく、個人の生活もない。こうして良心の報道よりも金が大事になってくる。共産主義国家のマスコミは検閲に堕落し、自由主義国家のそれは金に堕落する。

 こうして自由主義国家においても真実の隠蔽が大手を振って闊歩するようになる。それは国の強制ではない。自由なメディアによる自由な経営判断である。つまり自由主義国家においては検閲によって国民に真実が隠されるのではなく、マスコミの金と権力により隠されるのである。

 金儲けに走るマスコミを体内に取り込んだGlobal経済という怪物は、ここでふと気づいた。国家が人民を牛耳るのに、検閲は必要ないと。奴隷を縛って統制する時代は終わった。ムチで叩くことは逆効果だ。古い手法に固執する共産主義国家と違い、洗練された国家では国民に自主的に自由を返納させる。

 奴隷制度は消えたのではなく進化した。新しいシステム下では、誰も自分が奴隷だと思わない。中国や北朝鮮のような旧態依然の奴隷国家では、いまだに検閲を行っている。これでは自分が手にする新聞が検閲済みのものだと国民の誰もが気づいてしまう。それよりも自由な新聞各社が競争し、保守系と革新系に分かれて喧嘩する方がよい。

 国民はどちらもCIAとは気づかないから、特に革新系の新聞読者は、自分がリベラルな国民だと勘違いするだろう。民主主義国家の場合、国民は自分の手にする情報を統制されたものだと意識しない。自分が奴隷だとわかっている奴隷と、自分を自由だと思いこんでいる奴隷とでは、どちらが主人にとって都合のいい奴隷であるか。

 

「自由でないのに、自由であると考えている人間ほど奴隷になっている」(ゲーテ

https://note.com/viappia2472/n/nf2c9362a4797

 

 かつて多かった共産主義国家が、今は少ない理由はなんであろうか。ソ連が崩壊したとき、ある自民党の政治家は「勝負あった」と述べた。つまり自由主義陣営が勝ったのだと。そのようなロマンティックな解釈に浸る人は幸せ者なのかもしれない。しかし、真相はより残酷なものかもしれない。

 共産主義国家の情報統制は、党幹部の利益のためである。ということは、国内の利益にしかならない。それに比べれば、Global経済の利益は国境を跨ぐ。日本人の無知はアメリカの利益にもなる。各国を共産化して個別に支配するよりも、世界を自由化し、巨大マスコミを使って世界市場を動かす方が、Global資本家にとっては儲けが多い。

 怪物が世界を股に掛けて行っていることは、Business(仕事)やEnterprise(事業)、時にはCharity(慈善事業)と呼ばれるが、その実質は強盗である。そのため人に見られることはまずい。隠す必要がある。その際、報道を力でねじ伏せるやり方は古い。ナイフで脅すよりも、目撃者を共犯者にする方が利口である。

 こうして報道機関は権力の敵ではなくBusiness Partnerとなる。Partnerから国民に流される情報は洗練されたものである。内容は侵略であり殺人であっても、「紛争」という名で報道される。われわれ「市民(citizens)」は、イラク戦争がなぜ起きたのか知らない。そこで何人死んだのかも知らない。どこかの国で台風が来たのと同じように、いつのまにか戦争がはじまり、いつのまにか終わる。そして数年経てば忘れる。

 殺人は報道というパッケージングの過程で、無味無臭のものとなる。「市民(citizens)」は殺され、殺人犯が莫大な利益を得る。それが洗練された「報道」という商品として、異なる場所の「市民(citizens)」に供給される。朝、ニュースを見た「市民(citizens)」は、会社に行って働く。明日は我が身とは思わずに。

 

3.進化するシステムと良心

 アメリカで奴隷制度が消滅し、南アフリカではアパルトヘイトが廃止された。ナチスや皇国は滅びた。ソ連が崩壊し、世界の共産主義は著しく縮小した。全体主義の時代が終わり、自由主義が世界に広まった。これで人類の奴隷時代は去ったかのように見えた。

 しかし、奴隷時代の終焉は新たな次元をもたらした。それが奴隷の隠蔽である。あからさまな奴隷制度が死滅したということは、進化した奴隷制度が生まれたことを意味する。自分が奴隷だと気づかない奴隷の誕生である。新たな奴隷の集合体が「市民社会(civil society)」である。

 もともとアメリカで黒人奴隷の制度が誕生したきっかけは、イギリスの産業革命であった。アフリカから黒人を買って家業を手伝わせるという習慣はそれ以前から存在した。しかしそれは小規模なものに過ぎなかった。イギリスの片隅で生まれたテクノロジーの革命は、こうした牧歌的な奴隷時代を終わらせた。産業革命により、イギリスの綿織物の生産量が激増したのだ。

 イギリスに送る綿花はいくら栽培しても足りないという状況になった。これにより、黒人はいくらいても足りないということになった。こうして黒人奴隷制度は小規模な売買という次元を越える。黒人奴隷の売買は国家レベルの大事業となり、巨大なシステムへと変貌していく。

 このシステムが終焉をむかえたのも、同じく産業革命が原因であった。莫大な黒人によって収穫される莫大な綿花は、莫大な織物となり、供給過剰となった。行き場を失った商品が在庫となるだけでは意味がない。そこで、大量生産を大量消費する「市民(citizens)」が必要となった。奴隷は質素に暮らし、少数の貴族が贅沢をするという生活様式では、このニーズに応えられなくなったのだ。

 人権思想家が奴隷制度に対して怒りの声を上げるより先に、奴隷制度は経済的に無意味なものとなった。拡大し続ける「産業」という怪物は、奴隷に対して別の役割を期待するようになった。つまり、きちんと教育を受け、会社で働き、結婚して子を育て、人口を増やすという「市民(citizens)」の役割が期待されるようになった。莫大な数の市民が莫大な量の商品を欲する巨大市場が求められるようになった。

 奴隷にムチを打って働かせるという行為は、それをすることで儲かるというシステムがなければ意味がない。産業革命の初期は、そうした奴隷を大量に必要とした。しかし後期になると逆に不要となった。不要となった代わりに、別の人間モデルが必要となった。巨大産業という怪物が、人間にモデルチェンジを強いたのだ。この時怪物が必要とした人間の型は、次から次へと現われる商品を購入する欲深な「市民(citizens)」である。

 もともと人間は動物を飼いならし、そこから生活の糧を得るという知性を持つ。その知性の発展として、いつしか人間は莫大に増え、人間が人間を飼いならし糧を得るという生き方が当たり前となった。その過程で奴隷制度が生まれ、その後モデルチェンジがあった。この拡大し、進化する過程の中で、経済もGlobal経済へと進化したのだ。

 すべてが可視から不可視へと進化する過程である。あからまな植民地支配は消滅し、目に見えない植民地支配が行われるようになる。見てすぐわかる奴隷はいなくなり、主人のような奴隷が誕生する。独立国の顔をした植民地が生まれ、同盟国のような宗主国が支配する。公正中立のような報道機関が偏向報道をし、病気を治すための薬が人間を病気にする。綺麗なビルの大企業が殺人鬼であり、正義のための戦争が侵略であり、死ぬまで離婚しない夫婦が仮面夫婦である。

 古来、大地の作物や草原の羊に話しかけ、彼らとコミュニケーションすることで糧を得た人類は、スーパーの陳列棚に置かれる死体を糧として生きるようになった。ビニールパックされた植物や動物を得るために、我々は人間とコミュニケーションをして金を得なければならなくなった。人が人を騙すという高度な知性が進化するうちに、人類は真実を隠すようになった。

 今では報道も進化し、80年前のようにウソで人を騙さなくなった。かわりに彼らは「事実」で騙すようになった(第五十八回ブログ参照)。進化し、洗練された報道は、我々を「市民(citizens)」という穏やかな夢の中に眠らせるようになった。おかげで、誰も自分が奴隷だと気づかない。我々は余計なことを考えず、仕事をし、家庭に帰り、週末はディズニーランドに行って遊べばよい。

 しかし会社で人を騙し、家庭で妻を騙し、週末は遊技場で巨大資本に騙されているうちに、我々は根本的に疲弊するようになる。その疲弊は温泉に入って治るものでもなければ、精神科を受診して癒されるものでもない。

 洗練された「市民社会(civil society)」においては、戦争は軍人ではなく航行代理店によってデザインされ(第十五回ブログ参照)、兵士は戦場で泥をすすることなく、安全な部屋で遠隔操作によって人を殺す。狙撃手はサラリーマンのように通勤し、業務を終えた後はスーパーで惣菜を買って、家族で夕食をとる(第四十四回ブログ参照)。

 高度な知性で「市民(citizens)」を騙すジャーナリストや、高度なテクノロジーで「市民(citizens)」を狙撃する軍人は、高給取りである。年収は1500万から2000万であろう。ただ、ここで当然の疑問が生じてくる。仮にそうなったとしても、我々は隷属から解放されたのだろうか。我々は自由な「市民(citizens)」ではなく、「市民(citizens)」という名の進化した奴隷なのではないだろうか。

 この隷属状態を脱する手立ては、市民革命ではなかろう。革命を成功させても、その先に待っているものはシステムのさらなる進化だからである。では隷属から脱却する術(すべ)は何であろうか。それは冒頭で述べた個人の「良心」であろう。システムが人間を支配できるのは、その物質面のみであり、「良心」は奪えないからである。

第七十回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(20)

1.奴隷制度のグローバル化

 アメリカは資本主義の国である。しかし、この「資本主義」という言葉を「自由な経済競争」と見ると、本質が見えなくなってしまう。「資本主義」という言葉が世に出る前から、「自由な経済競争」は存在したからだ。江戸時代の商人たちが行った「商い(あきない)」も「自由な経済競争」である。では江戸時代の「商売」も資本主義なのかと言えば、それは違う。

 江戸の商人が持たないファクターを、アメリカの資本主義は持っている。それが「奴隷」である。かつてのアメリカは、黒人奴隷によって作られた綿花で儲けた国であった。アフリカから黒人を輸入する。農場で黒人を酷使して綿花をつくる。作った綿花をヨーロッパに売って儲ける。奴隷を管理し、効率的に搾取することによって「資本」、つまり金回りを良くする。金持ちはより金持ちに、奴隷は奴隷のままということで貧富の差は拡大する。

 

f:id:isoladoman:20200704164410j:plain

African American workers picking cotton on a farm somewhere, 1800's

 現在のアメリカもこのやり方を引き継いでいる。ただし黒人奴隷の制度はないので、白人も含めた様々な人種が奴隷となっている。この新しい奴隷は「市民(citizens)」と呼ばれる。かつて黒人が白人のために身を粉にして働いたように、「市民(citizens)」は1%の富裕層を潤すために働く。

 彼らは安く労働力を提供し、多額の税金を納め、体に悪い食品や飲料を体内に取り入れ、思考力を下落させる映画や音楽やゲームを消費し、癌になったら薬品会社や保険会社を儲けさせ、欲しくもない原発を容認し、やりたくもない戦争を受容する。

 かつて、いつのまにか船に乗せられ、気づいたらアメリカの農場で働かせられた黒人と同じく、奴隷制度が消失したはずのこの世界も、いつのまにか政治家、官僚、裁判官、企業、マスコミが巨大資本に牛耳られ、真理は絶版となった古典書が語るのみであり、真実の暴露は個人がインターネットの片隅で行うのみである。

 こうしたアメリカの奴隷制度、すなわち資本主義は、アメリカ国内だけでは成り立たない。グローバル企業はグローブ(Globe 地球)がなければ成立しない企業であり、世界的搾取を求める。つまりそれらは外国に奴隷を求める経済体である。かつてスペイン王国の覇権を成り立たせたエージェント(Agent 手先)は、イエズス会の宣教師たちであった。現在のGlobal企業のエージェントはCIAの職員たちである。

 CIA職員は形式的には公務員である。つまり彼らの給料は税金で成り立っている。しかし、アメリカという国自体が、現在ではGlobal企業の経団連のようなものである。従ってCIAの雇い主は形式的には国家であるが、実質的にはGlobal企業である。大企業の資金がCIAの活動資金になっており、そうした企業群は引退したCIA職員の天下り先にもなっている。

 CIAは海外で有能な人材を見つけ、政治家(奴隷隊長)として育成する。そしてその政治家に国を乗っ取らせる。そうして傀儡政権をつくり、資源を横流しさせる。米軍が外国を侵略して資源を強奪するのではなく、横流し国家をつくることで、その国の主権として横流しさせるのだ。その結果、Global企業は莫大な利益を得る。CIAに投与した金額の何百倍もの儲けを得るのだ。

 グローバル企業は、日本人のイメージからすれば外資系企業であり、社員の年俸が高い企業である。しかし、その年俸の高さは搾取によっている。「商売」の利益はたかが知れている。そこには奴隷もなければ外国資源の収奪もない。資本主義、すなわちGlobal経済には奴隷も搾取も、強奪も戦争も含まれており、そこには何も知らずに畑を耕す途上国の農民の悲鳴も含まれている。

 かつて、アメリカの奴隷制度は国内で行われたものだった。黒人奴隷の搾取がアメリカで禁じられたと同時に、その制度が国をまたいでGlobalに拡大したというのは皮肉な話である。かつてはアフリカから無理やり連れて来られた黒人の肉体だけが、搾取の対象であった。今では、遠く離れた日本人の体も搾取の対象である。

 首に縄をつけて奴隷をアメリカに連れて来る必要はない。奴隷にムチを打つ必要もない。そういう荒っぽいやり方は時代遅れだ。現代の奴隷制度は洗練されている。それはGlobal企業のオフィスのように綺麗だ。

 かつてのアメリカの奴隷制度はあまりにもあからさまであった。見ればすぐにわかる奴隷制度は残酷であり、多くの人の心情に訴えた。そのため奴隷制度は非難された。その反省をいかし、奴隷制度は洗練されたものとして復活した。見える奴隷制度は多くの人に嫌悪感をもたらす。この教訓をいかし、新しい制度は不可視のものとなった。

 アパートの借主が貸主の顔を見ないのと同じように、現代の奴隷は主人の顔を生涯にわたって見ることはない。目に見えるものだけを信じる奴隷は、自由と民主主義という洗脳の中で、自分が奴隷だとは気づかない。気づかない人間は資本主義における最高の商品である。かつての奴隷制度は綿花をつくって儲けた。現代の奴隷制度は無知蒙昧をつくって儲ける。無知は栽培され、増えていくのだ。

 

2.植民地の政治家はCIAによって作られる

 アフリカの大地に生まれる人間はアフリカ人であり、「黒人」という商品ではない。もともとは商品でない人間を「黒人」として商品化するための専門家が奴隷商人である。彼らはアフリカの王族や政治家たちと交渉し、アフリカ人を「黒人」として買う。王様が言いなりになって黒人を売らないなら、反対勢力に武器を売り、戦争の仕方を教えて、政府を打倒する。そうやって「黒人」を安く大量に横流しする政権をつくり上げる。

 このやり方は現在も続いている。ただし、現在は黒人奴隷の制度が存在しないので、アフリカ人が首に縄をつけられて外国に輸出されることはない。それだけを切り取って見れば、人類の良心の進歩だと言えるだろう。しかし皮肉なことに、このシステムは一度死んだが洗練された形で復活した。それは巧妙なシステムに進化し、アフリカ人と白人だけの閉じたシステムから、Global(地球規模)なものへと巨大化した。

 当然、中東でもこのシステムが席巻する。イランについては既に見た。Global企業はイランの石油とイラン人の肉体を搾取することを欲し、様々なエージェントがその手足となって働いた。途中、それに逆らうイラン人(モサデク)が登場したが、エージェント(CIA)が潰した。CIAによってつくられた独裁者(パフラヴィー)は、Global企業の望み通りに石油を横流しした。

 黒人奴隷がアフリカの大地で自然発生的に誕生することがないのと同じように、発展途上国の独裁者も砂漠の片隅で自然に生じるということはない。それは人為的なシステムによって生まれるものである。これはイランだけの話ではなく、イラクサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937-2006)もそうだった。

 大陸の麻薬利権に深く絡み、本来なら死刑になるはずだった岸信介という怜悧な悪党にGHQが目をつけたのと同じように、CIAは中東でフセインという残酷な悪党に目をつけた。当時のイラクはカシム将軍(Abd al – Karim al – Qasim 1914-1963)が支配していた。カシムはアメリカとの軍事・経済援助協定を破棄し、石油を国有化する方針を固めていた。

 

f:id:isoladoman:20200704164928j:plain

The Indonesian President SUKARNO is visiting a military school along with the General Abd Al-Karim KASSEM, 1963

 1959年、CIAはカシムを暗殺するために22歳の若者を雇った。その若者がサダム・フセインであった。フセインは18歳でバアス党に入党。その後、党内武闘派の若者たちのまとめ役となる。ただ、暗殺は失敗し、フセインはカシムの護衛から銃弾を受けて足を負傷した。CIAはフセインベイルートに速やかに逃れさせた。その後彼はカイロに送られ、カイロ大学に通ったが、その間のエジプトでの学費や生活費を工面したのがイラク・バアス党およびその背後にいたCIAであった。

f:id:isoladoman:20200704165028j:plain

Saddam Hussein in his youth

 フセインがカイロ滞在中にイラクでは欠席裁判が行われ、フセインには死刑判決が下りた。その後、CIAの支援を受けたイラク・バアス党がクーデターを起こし、1968年にカシム政権が倒された。新政権はカシムを処刑した。フセインイラクに帰国し、バアス党の農民局長の地位に就いた。その後、バアス党の内部闘争の中で頭角を現したフセインは、32歳の若さで副大統領となった。この時、秘密警察による監視システムをイラクにおいて構築した。これはおそらくCIAの指導のもとに構築したのであろう。

 1979年、バクル大統領が病気を理由に辞任し、42歳のフセインが大統領となった。ティクリートに生まれた政党(=武装勢力)の殺し屋が、42歳の若さで大統領となる。これは普通では考えられない奇跡である。CIAの支援がなければ、このような奇跡は起きなかったであろう。つまり、これは自然発生的な奇跡ではなく、計画的に育てられた果実である。

 

f:id:isoladoman:20200704165128j:plain

Saddam Hussein in 1980

 翌年9月、イラン・イラク戦争がはじまる。米国および西側諸国は、フセインに衛星やスパイ活動によって収集した情報を提供し、同時に最新兵器を大量に買わせた。これによりフセインは、普通なら喧嘩を売ることができないイランという大国に対して、自信を持って戦争をすることができた。

 こうしてCIAによって作られた独裁者は、アメリカの敵であるホメイニー政権のイランを攻撃することとなった。フセインの見積もりは甘かったかもしれない。彼は短期決戦と予想したかもしれないが、イラ・イラ戦争は8年続く。

 アメリカの軍産複合体からすれば、この予想外の長期戦は嬉しかっただろう。といっても予想外だと思っていたのは、フセインとホメイニーだけかもしれない。戦いを長期化させた原因は、アメリカ、ソ連、中国などの武器会社にある。死の商人たちは、イラクとイランの両方に武器を売ることで、戦争を長期化させた。

 泥沼の長期戦の中で、イラクの軍事費は増大した。その帳尻をあわせるために、フセインイラクの石油をアメリカに対してバーゲンセールせざるを得なかった。これによりアメリカの軍需産業のみならず、石油メジャーも潤った。CIAによる独裁者の栽培は、巨大な果を実らせたのだ。

 

3.グローバル経済という名の合法的強盗

 独裁者を人工的につくることによって、グローバル経済におけるWin-Winの関係が成立する。田舎生まれの戦闘員は、CIAの援助のおかげで大統領になれた。アメリカのグローバル企業は外国の石油を安く手に入れた。武器会社は大儲けした。CIAの職員は天下り先を得て、老後の収入が跳ね上がった。これにかかわった政治家は出世した。多くの雇用が生まれ、巨大な経済が動き、巨万の富が蓄積された。

 これはWin-Winの関係というスケールの小さなものではなく、Win-Win-Win・・・と無限に続くような巨大なWinであった。もちろん、その陰ではイラクやイランの国民が苦しんだ。イラン・イラク戦争で亡くなった「市民(citizens)」は、少なく見積もって両国で100万人以上と言われている。イラクは大量に武器を買ったおかげで多額の負債を抱え、そのしわ寄せは「市民(citizens)」に対する税金となった。

 しかしそれはGlobal経済にとってまったく問題ではない。黒人奴隷経済において黒人の涙はまったく問題とならないことと同じである。現代の資本主義には、かつての奴隷経済と同じものが含まれている。それは奴隷の悲痛はまったく問題にならないということである。むしろ、それはシステムに最初から組み込まれているものであり、かつては黒人、現在では「市民(citizens)」の苦しみ(Suffering)の裏返しが利益(Profit)なのである。

 ナイキ(Nike)の靴は過酷な児童労働の下で生産され、インドネシアの少年少女が犠牲となってGlobalな利益を生み出した。これは日本語で言うところの「商売」や「商い(あきない)」の範囲に収まらないシステムであり、Global経済という名の地球規模の奴隷制度である。

 

アメフトの元スター選手を広告に起用したナイキ、人権と愛国の落とし穴にはまる

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/post-10920_1.php

 

 どの世界にも如才ない人物がいるものである。例えばドナルド・ラムズフェルド(Donald Rumsfeld 1932-)は、水を得た魚のようにこの舞台で活躍した。SufferingとProfitが表裏一体となったGlobal舞台は、彼のような魚にとって心地よい海だった。彼はレーガン政権時の1983年に特使としてイラクを訪問している。ここから約20年後、この男によって処刑されることになるとは、フセインもまったく考えられなかっただろう。

f:id:isoladoman:20200704170138j:plain

Shaking Hands, Saddam Hussein greets Donald Rumsfeld in Baghdad on December 20, 1983

 ラムズフェルドはフォード政権およびブッシュ(息子)政権時に国防長官を務めた共和党の大物政治家であるが、彼が政治家としてそこまで出世したのは、企業と政府のパイプ役として活躍したからだ。彼はイラ・イラ戦争時にはイラクに武器を流し、Global企業にイラクの石油を流した。その約20年後、今度はイラクを潰すために戦争を行い、巨大な利益をGlobal企業にもたらした。

 Wikipediaラムズフェルドを見ると、「アメリカ合衆国軍産複合体を体現した人物」という説明が出てくる。確かにそうだろう。彼はロッキード社外取締役を務め、軍事ハイテク機器メーカーであるゼネラル・インスツルメントの会長も務めた。

 

国民の恐怖はカネになる…ハリウッドが警告し続ける軍産複合体の冷血

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52255

 

 アイゼンハワー軍産複合体(Military-industrial complex 略してMIC)が自由と民主主義を飲み込んでしまう危険性について警鐘を鳴らしたが、実際その後のアメリカは彼の危惧を体現した。アイゼンハワーが若い頃に見た国家と軍隊の姿はそこにはない。軍隊は祖国防衛のために戦うのではなく、強盗のために出動する。泥棒から家を守るために戦うのではなく、自らが泥棒になるのだ。

 強盗においては被害者の涙が犯人の利益である。SufferingがProfitである。しかし強盗には一つ欠点がある。警察に捕まってしまうことだ。そこで利口な人たちが考えついた方法が、合法的な強盗である。国家的強盗なら誰も犯人を捕まえることはできない。

 ラムズフェルドには調整役としての才能があった。彼はGlobal強盗という巨大な舞台で八面六臂の活躍をした。彼はGlobal企業の支援を受けて自らの才能を発揮し、彼のおかげでアメリカの軍産複合体(MIC)は莫大な利益を得た。このWin-Win関係の裏で、多くの「市民(citizens)」の命が失われた。

 これは中東という対岸で起きた火事ではない。ラムズフェルドは軍関係のみでなく、共和党の大物議員に特徴的であるが、バイオ関係企業にも深い繋がりを持っている。彼はギリアド・サイエンシズ(Gilead Sciences)という世界第二位の巨大バイオ企業の元会長でもある。日本人のほとんどがギリアド・サイエンシズという会社を知らないだろうが、同社はインフルエンザ用の薬品であるタミフルやコロナウィルス用のレムデシビルで世界的に有名な会社である。

 

ラムズフェルド米国防長官のタミフル利権疑惑!?

http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col6015.html

 

レムデシビルを開発したギリアド社は「政治銘柄」

https://news.yahoo.co.jp/articles/676a1025917b2c996097bb805a345a6d1fc37584

 

 気づいていなくとも、日本人はタミフルやレムデシビルを自らの体に入れることで、ギリアド・サイエンシズやラムズフェルドなどの大物政治家を支援している。ギリアド・サイエンシズなどの大手製薬会社は、フォートデトリック(Fort Detrick)と回転ドア(Revolving Door)の関係にある。

 子宮頸がんワクチンもそうであるが、日本人がアメリカの薬品(生物兵器の転用)を大量購入することは、軍産複合体を潤すことである。それは彼らのGlobal強盗を強く肯定することでもある。対岸の火事ではなく、日本人も火事場泥棒の参加者なのである。

第六十九回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(19)

1.独立闘争から分裂闘争へ

 1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起きた。この事件によってイランは国際的な非難を浴びたが、国内的には愛国心の高揚につながった。11月6日、バザルガン内閣は総辞職し、ホメイニーを頂点とする宗教指導者たちによる政治が本格的に始まった。

 バザルガン首相が去っても、革命評議会は後任首相を指名しなかった。ホメイニーを頂点とする評議会そのものが行政権を担った。これは新憲法下で司法、立法、行政のシステムが始動するまで続いた。この間、統治に関する全てが革命評議会により決められることとなった。各機関の権限や看護師の月給までが評議会で決められることとなったのである。

 1980年2月、新憲法下で大統領制がはじまり、同年8月12日にイスラム共和国議会が招集され、同日に首相が指名された。これにより革命評議会が全てを決めるというシステムは終了した。イランに司法・立法・行政の三権が戻ったのである。しかしこれはイスラム指導者たちが権力を放棄したのではない。

 新たなイランでは、司法・立法・行政の三権の上に最高指導者が君臨するというシステムが確立された。この国家体制は現在まで続く。この時から、イランでは政教分離は存在しないのである。

 

2/4 イラン政治の基礎知識2007 [社会ニュース] All About

https://allabout.co.jp/gm/gc/293805/2/

 

 ホメイニーとリベラリストによる共同の政権運営は最初だけだった。イランのリベラリストたちが望んだものは、イランの独立と民主化であった。その最大の障壁はアメリカという支配者であり、その傀儡であるパフラヴィー政権であった。

 リベラリストたちの試みは一度失敗している。モサデク政権は潰された。この失敗から学んだ彼らは、ホメイニーという宗教的求心力を利用することを試みたのだろう。ホメイニーという劇薬を用いることで国内に巨大な火柱を立ち上げ、その圧力でアメリカとパフラヴィーをイランから追い出した。ここまではうまくいった。しかしフタを開けてみるば、そこにあったのはリベラル国家ではなくイスラム国家であった。

 独立は達成されたものの、民主化は達成されなかった。むしろ、アメリカの植民地時代にイミテーションとして存在した民主主義すらも消去された。リベラリストたちの見積もりは甘かったのだろう。ホメイニーの求心力を利用してイランの独立と民主化を達成しようした彼らは、逆にホメイニーに利用されてしまった。最初は内閣を得たものの、間もなく政権から放逐されることとなった。

 独立運動に燃え一致団結したイランだが、皮肉にも闘争が終わった途端に次の闘争が始まった。独立闘争の終了と同時に、分裂闘争が始まったのだ。各政党やクルド人らの少数民族がホメイニー政権に反発しただけでなく、政権内部でも闘争が起きた。ホメイニーを頂点とする革命評議会も一枚岩ではなかった。ホメイニー派の内部でも分裂闘争が起きたのである。

 

2.ホメイニー派内部の闘争

 イランが独立を果たし、新たな国家がホメイニーの下で成立すると同時に、内部闘争が起きた。この闘争の結果として追放されたのは大統領であった。新憲法の下でイラン・イスラム共和国初代大統領となったバニーサドル(Abolhassan Banisadr 1933-)は、元革命評議会議長であり、ホメイニーの右腕であった。

f:id:isoladoman:20200627192821j:plain

Abolhassan Banisadr

 革命の15年前である1964年、ホメイニーはパフラヴィー政権から追放処分を受けた。ホメイニーはトルコやイランを経て、フランスに住んだ。この時、ムジャヒディン・ハルクのメンバーとともにホメイニーの隠れ家を訪れた人物がバニーサドルであった。バニーサドルは独立運動家であり、パフラヴィー政権時に二度投獄された人物であったが、高貴な宗教家の血筋であった。

 フランス語を流暢に話し、経済学に精通したインテリでありながら、独立運動の闘士でもあったバニーサドルを、ホメイニーはすぐに気に入った。彼はこの時以降ホメイニーの右腕となり、ホメイニーからは「わが息子」と呼ばれた。両者はいつかイランに戻り、革命を成し遂げることを誓いあった。

 世界のほとんどが二人の目標を夢想としか思わなかったが、1979年、夢は実現した。バニーサドルは革命評議会議長を経て、翌年2月にイラン・イスラム共和国初代大統領となる。この時、ホメイニー最高指導者とバニーサドル大統領という体制が確立し、父と子の夢は叶ったように見えた。

 しかし夢の達成は同時に亀裂を生んだ。愛の絶頂は憎しみの始まりである。長く苦しい道のりにおいて、彼ら二人の絆は血の繋がった親子よりも固いものに見えた。だが、大統領となったバニーサドルはイスラム教を尊重していたものの、国家運営としては民主的なイスラム国家を望んだ。これが政権内の宗教指導者たちの反発をかった。

 結局のところ、権力の中枢である革命評議会内部でも、宗教原理主義と民主派の間で対立があった。民主派はイランの民主化を望むとともに、アメリカ大使館人質事件の早期解決を求めた。彼らは西側民主主義国家との関係改善を望んだのである。

 これに反発したのが「アメリカ憎し」のナショナリストたちの支援を受けた宗教原理派たちである。彼らは新憲法の下で国会議員となり、議会で多数派を占めていた。それまでのイランでは、宗教家は政治にかかわらないのが伝統であった。しかし、革命以後はホメイニー派のイスラム指導者たちが国会議員となって政治活動を行っている。この光景は、イスラム革命以前は考えられないものだった。国会議事堂に僧服を着た人たちがうろうろするようになった。

 バニーサドルと民主派の議員たちはこの光景に賛同できなかった。独裁を打倒するために戦ってきたのに、フタを開けてみれば宗教指導者たちによる独裁が横行している。民主派からすれば、国会はあるべき姿とは違ったものに見えた。こうした中、ついに対立は決定的なものとなる。議会はバニーサドル大統領の放逐を求め、1981年6月21日、弾劾決議が可決された。こうしてバニーサドルは、1年4カ月で大統領の椅子から追われることとなった。

 その後、彼はフランスに逃亡し、執筆などでイランの民主化を求める運動を現在まで続けている。彼以外の元革命評議会幹部たちも政権から放逐され、外務大臣を務めたゴトブザーデ(Sadegh Ghotbzadeh 1936-1982)は、政権転覆とホメイニー暗殺を企てたとして、1982年9月15日に処刑された。彼も、もともとはホメイニーが信頼する側近の一人であった。

 

f:id:isoladoman:20200627183527j:plain

Ghotbzadeh and Khomeini

 もちろん、こうした政権の態度には反体制派からの反発があり、第二代大統領のラジャーイー(Mohammad-Ali Rajai 1933-1981)はムジャヒディン・ハルクの爆弾攻撃により亡くなっている。その爆弾は、大統領補佐官が用意したものであった。

 

f:id:isoladoman:20200627183604j:plain

Mohammad-Ali Rajai

 1981年8月2日に、バニーサドルの後任として大統領に就任したラジャーイーは、8月30日、バーホナル首相とともにイラン防衛最高評議会に出席した。その時、補佐官がブリーフケースを会議室に持ち込み、大統領と首相のあいだに置いて立ち去ったそうである。別の人物がブリーフケースを開いた時に爆発。部屋は炎上し、ラジャーイー、バーホナル他3名が亡くなった。ラジャーイーの大統領在職期間はたった16日であった。

 

イラン革命から40年‼ ~ もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

https://blog.goo.ne.jp/giroku0930/e/e28685f4e40e699d227a28a5c102c1bf

 

 フランスに住むバニーサドルは、2019年のイラン革命40年に際して日本の『東京新聞』からインタビューを受けている。そこで彼はホメイニーについて「亡命中は私と同じ国家像を描いていたが、権力を握ると変わってしまった」と述べ、イラン革命は「イスラム法による統治は実現せず」「一部宗教指導者による独裁体制」と述べている。

 1979年の新生イラン誕生以後、イランでは民主化デモが続いている。アメリカとパフラヴィー王を追い出し、独立を勝ち取ったイランにおいて、民衆による民主化デモが起きるというのは皮肉な話である。

 

イラン反政府デモが問う、派閥対立の深い罪

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/post-9352.php

 

3.アメリカの攻撃とイランのナショナリズム

 1979年2月1日にイランに帰国して以来、ホメイニーはリベラリストとの戦いに勝ち続けた。帰国直後はバクティヤールに勝ち、政権を奪ってからはバザルガンを追い出し、イスラム国家樹立後はバニーサドルを放逐した。これによってホメイニーは中枢を賛同者たちで固めた。イスラムの僧服を着た人間たちが政権を握る国家が成立したのだ。

 これは欧米人が大嫌いなイスラム国家である。かつて、イランの政権はスーツを着た西洋帰りの政治家により成り立っていた。女性はヘジャブをつけず、一般市民の服装はアメリカ人と区別がつかなかった。それが1979年以後、まったく変わってしまったのである。

 

f:id:isoladoman:20200627183922j:plain

(L) Tehran University students in the 1970s, (R) a shoe advertisement

 

f:id:isoladoman:20200627183952j:plain

(L) On the streets of Teharan in the 1970s, (R) Actresses Haleh and Mahnaz

 

f:id:isoladoman:20200627184022j:plain

Various Iranian celebs in the 1970s

 

f:id:isoladoman:20200627184046j:plain

Miss Iran 1978 finalists. This would be the last pageant – there would be no Miss Iran 1979 or onward.

 こうしたイランのイスラム化を、西洋のIslamophobia(イスラモフォビア)の人達は嫌悪した。彼らは西洋化したイランを歓迎したが、僧服のイランに対しては眉をひそめたのである。しかし、イランのイスラム化には西側諸国が大きくかかわっている。かつてモサデク政権を潰し、パフラヴィーという傀儡政権を立て、その傀儡王に国民を痛めつけさせたのはアメリカを中心とした西側諸国である。

 そうした西側諸国に対するイラン国民の反発心が、ナショナリズムの高揚とホメイニーに対する支持率上昇に繋がっている。内輪揉めの闘争を繰り返す新生イランにおいて、ホメイニーが政権基盤を固めることができたのは、イラン国民の欧米人に対する反発心があったからである。その強い反発心と運動の巨大なうねりは、もともと立憲民主主義国家を目指していたイラン国民に民主主義を忘れさせた。

 熱狂的な高揚がなければ、イランは立憲民主的な国家、すなわち欧米人も許容する国家になっていたかもしれない。ホメイニーは象徴的な立場にとどまり、政治の運営はリベラリストたちが行ったかもしれない。もともとイラン国民は立憲民主主義を望んでいたのであるから、ナショナリズムの高揚がなかったなら、ホメイニーはリベラリストに妥協せざるを得なかっただろう。

 最初、ホメイニー政権の基盤は弱かった。それゆえ首相にバザルガンを指名し、リベラリストと共同で政権運営を図る他はなかった。しかしそこでパフラヴィー王のアメリカ入国やバザルガンとブレジンスキーの握手などの事件が起こる。そしてアメリカ大使館人質事件が起きた。この流れの中でイランのナショナリズムは高揚し、ホメイニーへの支持率が上昇した。ホメイニーは高い支持率の中で、政治の中枢からリベラリストたちを追放できた。

 この後さらにイランのナショナリズムを高揚させる事件が起きる。これもホメイニーの策略ではなく、むしろアメリカのおかげである。イラン・イラク戦争(1980年9月22日-1988年8月20日)がはじまったのだ。これにより、バラバラになりがちなイラン内部が、外の敵へ向けて結束できた。

 ホメイニー政権は、内部ではリベラリストたちと戦い、外ではムジャヒディン・ハルクなどの政党と戦い、地方ではクルド人勢力などと戦っていた。おそらくイラクという外国との戦争がなければ、イランの内戦状態は終息に向かわなかっただろうし、ホメイニー政権もその中で倒れていたかもしれない。

 もちろん、内部闘争の最中で隣国のイラクが攻め込んで来たのだから、ホメイニー政権としても危機ではあったが、国威発揚には繋がった。ただ普通の軍事的常識からすれば、イラクがイランに一方的に攻め込むということは考えられない。イラクの人口は当時約2500万であるのに対して、イランは当時約6500万である。国土はイランがイラクより4倍大きい。イランの名目GDPイラクの約2倍ある。普通は小国が大国に喧嘩をふっかけることは考えられない。

 しかし、イラクには自信があった。バックにアメリカがついているという自信である。そもそもサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937-2006)という人物が、CIAによって育てられた人物であった。CIAによって育てられ、自信を持ったフセインは、隣国との領土問題を武力によって解決しようと目論んだ。

 フセインアメリカも、戦争は短期決戦で終わると思ったのかもしれない。しかし、この戦争は思いのほか長期戦となった。この長期戦のおかげで、イランのナショナリズムは高まり、ホメイニー政権の地盤はさらに固まった。アメリカのバックアップを得たイラクがイランに攻め込んでくれたおかげで、ホメイニー政権は自らの地盤を固くすることができた。

 この時築かれたイスラム国家体制が、現在のイランまで続いている。現在のアメリカはイランと対立し、アメリカ人のIslamophobia(イスラモフォビア)も相まって、イランは悪の帝国と見なされている。しかし、現在のイランの政治体制をホメイニーとともに作ったのはアメリカであるとも言える。アメリカがイランに対して継続的に攻撃してきたことが、イランのナショナリズムを高揚させたからである。