戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十三回 ディープステートはどこにある(2)

1.テンカちゃんは肝心なことは黙る

 前回のブログを読んだ人は思うかもしれない。なぜ厚労省は危険な添加物を認可するのかと。厚労省は自らを任務懈怠だと認めないだろう。彼らは主張する。認可された添加物は全て厳格な基準を通過した安全なものであると。

 審査が厳格であることは嘘ではないようだ。日本食品添加物協会のテンカちゃんによると、日本の食品添加物は極めて厳格な審査によって安全性を確かめられたものである。

 

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テンカちゃん(日本食品添加物協会)

 

安全性の確かめ方|日本食品添加物協会

 

 安部司さんは、動物と人間では消化吸収の能力や仕組が異なるから、動物実験で安全を確認しても人間で安全とは限らないと述べる。これに対して、日本食品添加物協会などの推進派の立場は次のように反論する。

 動物実験で用いられる添加物の量は、その動物が一生食べ続けても安全だと思われる無毒性量である。その数値に100分の1をかけ、人間が一日に食べてもよい摂取許容量とする。つまり、動物にとって安全な量の、さらに100分の1しか人間の口には入らない。それを危険だと言うのはおかしい。安全な添加物を危険だと言うことは、添加物に対する風評被害を招くことになる。

 確かにこの「100分の1」説は嘘ではない。安部さんの本にはその点について詳しく書かれていないが、厚労省の認可基準は確かに「無毒性量×100分の1」である。その点では、推進派の学者たちが言う「厳格性」は間違いではない。有路昌彦氏は次のように言っている。

 

business.nikkei.com

 

  我々国民が風評に惑わされず、もっと科学的・論理的に考えることが大事だと有路氏は言う。それは確かにそうであろう。だがこれは、放射能やワクチンなど様々な分野で繰り返し見てきた風景である。「デジャブ(déjà vu)」であり、既視感である。

 安全性についての科学的な検証は、我が国では食品添加物に限らず、どの分野においても厳格であろう。だが推進派の学者たちは、科学的検証で抜け落ちる不明な部分、すなわち「わからない」ことについては一切言及しない。

 結局のところ、肝心なことは言わないという姿勢は、どの分野でも変わらない。これは共通している。そしてもう一つ共通していることがある。添加物、遺伝子組み換え、放射能、ワクチン・・・どれも巨額の金が動く世界である。そこでは学者たちが厳格な基準で安全性を審査している。そしてその検証から抜け落ちる危険性については皆が黙る。黙る学者しか雇ってもらえないからである。

 

2.厚労省のアリバイ仕事

 食品添加物業界の推進派の学者たちがダンマリを決め込む事実がある。それが「組み合わせ」についての安全性である。例えばビタミンCとしての「アスコルビン酸」は安全である。他方「安息香酸」、これもそれ自体は厳格な審査によって安全な添加物として厚労省によって認可されている。

 だが両方が合わさってベンゼンが発生すると、これは発がん性物質となる。DHCが発売した「アロエベラ」には「アスコルビン酸」と「安息香酸」が入っていた。結果、ベンゼンが発生していた。ベンゼンの安全基準は10ppb以下と決まっているが、「アロエベラ」からは73.6ppbのベンゼンが検出された。その後、DHCが「アロエベラ」を自主回収した。

 

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アロエベラ DHC 2006年

厚生労働省:清涼飲料水中のベンゼンについて

 

清涼飲料水「アロエベラ」から基準値超えるベンゼン

 

 厚労省はAについて厳格な審査をし、安全と認定する。同様にBも認定する。食品会社はその認定をもとに製品を売り出し、ラベルにAとBを表示する。だが、そのAとBの組み合わせにより、Cという物質が発生するかもしれない。そのCについては当然ながらラベルに表示されない。

 だから添加物入りの食品を摂る場合、消費者は常にこの未知のCを摂る可能性がある。これについては、誰かが発見しなければ永遠に存続することになる。「アロエベラ」の場合はたまたまその危険性が発見されたが、それは氷山の一角である。今も我々は危険な何かを口にしているのかもしれないが、それは誰にもわからないし、誰も責任を取らない。

 添加物の認可は厚労省がやっていることである。つまり国がやっていることである。となれば、法改正によってその認可方式を見直すことができる。国会議員が国会の議論によって変えることが可能なのだ。だが、選挙では争点とならない。だから何十年経っても変わらない。むしろ、認可される添加物は増える一方である。

 スーパーやコンビニで弁当を買って昼食を済ませれば、それだけで添加物を約200種類摂ったことになる・・・と安部司さんは言う。裏の表示には200種類が記載されていない。キャリーオーバーなどは記載される必要がないという法律となっているから、弁当の裏に書いてある添加物は全体の一部にしか過ぎない。

 

www.youtube.com

 

  この200種類が組み合わさり、どのような化学反応を起こしてどうなるかは、誰にもわからない。結局、添加物を個別に審査しても、安全性については「わからない」のだ。その「わからない」ものを安全だと決めきることは無理な理屈であるし、安全だと思い込むことは信仰に過ぎない。

 もちろん、このことは厚労省の役人や彼らと組んで実験作業をしている科学者たちもわかっていることであろう。だが、わかっていてもやめられないだろう。彼らは一つ一つの添加物について「厳格に」審査さえしていれば、責任を問われることはないのだ。

 それゆえ、今日も役所では「アリバイ仕事」が行われることになる。それは国民の安全を守るための仕事ではなく、自分が責任追及されないための仕事である。彼らも自分の身を守るだけで精一杯である。ユダヤ人に鞭を打つカポーは、そうやってナチスの役に立っている間は殺されなくて済むのである。

 

3.大衆を侮蔑する勝者は悪魔にならざるをえない

 食品添加物の問題を考えれば考えるほど、私が思い出す言葉が小林秀雄の以下の名言である。以下の言葉はヒットラーの大衆支配について小林が述べたものであるが、商売にもそのまま当てはまると言える。大衆を侮蔑することが上手な食品会社は、ヒット商品を生み出し、大儲けすることができる。

 

小林秀雄全作品23 考えるヒント(上) 新潮社 148頁

人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群衆の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。

 

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小林秀雄全作品23 考えるヒント(上) 新潮社

 安部司さんが学校で講演をする時に、よくこのような光景が出てくるという。

 

安部「これって実は石油で出来てるんだよ!」

子ども「え! こわーい!」

 

 その怖い添加物を使って、安部さんが子どもたちの目の前でニセモノの豚骨ラーメンのスープを作る。それには豚の骨は一切使われていない。化学物質100%で作られたスープである。だが、それを飲ませると、子どもたちは驚く。おいしいのだ。子どもたちの手は止まらない。一口、二口、三口・・・と喜んで飲んでいく。

 

安部「え~! さっきは石油怖いって言ったじゃーん!」

子ども「いいもん! おいしければ石油でも!」

 

 子どもたちに石油を食べさせるわけにはいかない。そう思って必死になって無添加のお菓子を作り続ける人がいる。だが、そういうやり方は儲からないだろう。大手食品会社は高給で優秀な科学者を雇っている。彼らは日々研究している。大衆の弱点を突く研究である。そこに命の尊厳はない。あるのは命に対する侮蔑である。

 これは大衆操作の鉄板法則であるから、商品開発でも法案成立でも変わらない。例えば小林興起さんは、郵政民営化法案に反対し、敗北した。だが反対派議員グループの中心として活動をする中で、当時の小林さんは自分たちの勝利を疑わなかったそうである。「こんな馬鹿げた法案が通るわけがない」と思ったからである。

 

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主権在米経済 小林興起 光文社

 だが、結果は逆であった。敗因について小林氏は言う。我々は国民を信じていた。だが小泉、安倍、竹中は違った。彼らは完全に国民を馬鹿にしていた。だから彼らが勝ったのだ。

 

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安倍晋三 竹中平蔵 小泉純一郎 2005年

 相手の馬鹿さ加減を正確かつ詳細に分析し、その弱点を突く。馬鹿が欲しがるものを与える。相手はその餌付けの奴隷となる。これが勝利の方程式である。だが、それは勝者を堕落させる方程式でもある。なぜならその時、勝者も悪魔になるからである。

 我々の世界は今、徹頭徹尾この法則によって成り立っている。違いは規模の大小のみである。権力者は大悪魔をやっており、小市民は小悪魔をやっている。かつて安部司さんは普通のサラリーマンであり、悪魔であった。

 これがわかれば、DS(ディープステート)に対する考え方も変わるだろう。DSは打ち倒すべき敵ではなく、依存症である。アルコール依存症の患者となった場合、酒は敵に見えるかもしれない。だが酒も酒屋も、本当は敵ではない。酒屋を燃やすより、自分の依存症を治すべきであろう。詳細は次回以降に述べたい。