戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百十五回 ディープステートはどこにある(4)

1.快楽の城壁に風穴をあける

 侮蔑のシステムは巨大である。そこでは我々は人間と見なされず、徹底的に「モノ」として扱われる。システムは次から次へと新たな欲望を作り出し、我々はそうした欲望を欲望させられる。我々はどこか遠くまで行って快楽を探す必要はない。このベルトコンベヤーにのっている限り、DSからのプレゼントはシャワーのように我々に降り注がれる。

 近代消費社会に生み落とされた我々にとって、ベルトコンベヤーは空気よりも当たり前なものである。だから我々はその当たり前に気づかない。無自覚な我々にシステムは夢を贈与する。我々の一人一人が自分の意思を持った「主権者」であるという夢である。この夢の中で我々は錯覚する。自らを主体的に欲望する存在だと思い込むのだ。

 快楽も夢もプレゼントである。もちろん、タダほど高いものはない。プレゼントの対価は自分の人生である。奴隷とは何か。それはDSからのプレゼント攻撃に喜んでしまう人間のことである。ならば、逆転の発想を持つことができよう。すなわち、プレゼントを丁重にお断りできるようになれば、奴隷から脱却できるということである。

 この際に極めて大事になるポイントがある。それは拒否を「我慢」と捉えないことである。プレゼントを受け取らないことは、「我慢」ではなく「幸福」である。安物の快楽を手放すことで、真の人生を手に入れる。偽物を受け取らないことで本物を獲得する。それが「幸福」である。

 だから「我慢」は意味がない。仮に最初はうまくいったとしても、「我慢」はストレスの蓄積となり、そのうち耐えきれなくなる。YouTubeFacebookTwitterに触れず、添加物入りの食品を食べず、酒や清涼飲料水を飲まず、テレビを見ない。あらゆる快楽や利便性を拒絶し、ただひたすらに我慢し続ける。そんな人生ならベルトコンベヤーに乗って快楽を享受する方が「まし」であろう。

 だから何のためにプレゼントを断るのかという目的意識が重要である。イミテーションを拒絶して本物を手に入れる。それが目的である。そのためには「快楽」と「幸福」が区別されていなければならない。DSはこのことを決して言わない。秘密が秘密でなくなってしまえば、奴隷が激減してしまうからだ。

 我々はDSの世界に生きている。だから快楽と幸福の区別がつかない人間を頻繁に目にする。その意識状態を覗いてみよう。ぼんやりとした意識空間。そこでは幸福と快楽の境界線が曖昧である。朦朧とした明滅の中で、本来は別物であるはずの両者が互いに混じりあってしまっている。DSからすれば、この意識状態は大いに利用価値がある。気持ちいいことが幸せなのだとテレビが繰り返し言うのは、そのためである。

 

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 DSからのプレゼントを「おいしい~しあわせ~」と思っているうちはDSから抜け出すことはできない。逆に、この快楽は侵略であって幸せではない、そう気づくなら、奴隷解放のための一歩を踏むことができる。

 これは意志の力で欲望を抑え込むことではない。むしろ負けを認めることである。自分の味覚はDSによって作り上げられてしまっていることを認めること。それが大事だ。これを認めるということは、もし飲んだら自分がどうなるかということが飲む前にわかるということである。飲んでしまったら「おいしい」と感じ、虜になるに決まっている。

 素直に負けを認めることで、そうした予測力が働くようになる。これは我慢の力、意志の力で欲望と喧嘩することとは、全く異なる。DSと戦うのではなく、適切な距離を持つことが大事なのだ。「飲んだら負ける」ということがわかっているなら、喧嘩をするのではなく、接触を避けようとするだろう。

 そうした距離感覚が身につけば、無意識的に毎朝自動販売機で買っていた缶コーヒーを、今日だけは「離れておこう」と思うようになる。飲料会社によって作られた舌に、飲料会社に雇われた優秀な科学者によって作られた味が放り込まれたら、DSにとって最も都合のいい肉体反応が現れるに決まっている。だから負ける戦いはしない。それが距離感である。

 距離感によって快楽は手に入らないが、自由は手に入る。それはDSのベルトコンベヤーを降りた瞬間であり、快楽地獄から解放された幸福の時間である。これを満喫すればいい。そうやってこの時間が一日の中で少しずつ増えていけば、快楽の瞬間よりも、快楽ループから解き放たれる時間の方が真の意味で充実していることに気づいていくだろう。

 これは餌付けによる幸福とまったく異なる。餌から解放された時間であり、餌を必要としない幸福である。餌を幸福だと思い込んでいるうちは、解放の幸福は訪れない。快楽は快楽を呼び、次から次へと欲しくなる。塩水はいくら飲んでも満ち足りることはない。だから真の幸福は、「塩水は幸福ではない」という気づきから始まるのだ。

 もちろん、これは一朝一夕に達成できることではない。糖質中毒にしてもスマホ中毒にしても、簡単に克服できるものではない。我々の感覚がDSによって作られてしまっているからだ。だから、はじめは「今日一日だけ(Just for Today)」から始める。そうやって距離感を持つことで、小さな亀裂が生み出される。そこから徐々に亀裂を大きくしていき、幸福の時間を増やしていくのだ。

 最初は小さな亀裂である。だがこの小さな穴が、巨大なダムの決壊に繋がってゆく。快楽の城壁に生じる小さな亀裂は、幸福の窓口である。これは自分の肉体感覚として実践していく他ないものである。革命は他人がやってくれるものではない。自分の足で、その一歩を踏み出すのである。

 

2.自己侮蔑

 DSは民衆を侮蔑する。このことはもうよくわかったことだろう。では、もう一つの侮蔑についてはどうだろうか。DSが我々を侮蔑する時、実は必然的にもう一つの侮蔑が発生している。そのことに果たして気づくことができるだろうか。

 答えは自己に対する侮蔑である。これはDSによる侮蔑よりも、ある意味深刻である。我々はDSによる侮蔑に慣れきっている。だから自分が侮蔑されていることに気づかない。だがそれより無意識的にやっていることがある。それが自己侮蔑である。

 例えばある食品が石油で出来ていることが判明する。すると、怒る人が出てくるだろう。

 

「馬鹿にするな。」

「人間に石油を食わせるとは何事だ。」

「子どもが食べたらどうするんだ。」

「病気になったら誰が責任を取るんだ。」

「そんなものを認可する国は国民を馬鹿にしている。」

 

 だが、別の人は次のように思うかもしれない。

 

「いいじゃないか、おいしければ石油でもかまわない。」

 

 人間には誰にでも、その人としての価値がある。だがその価値は自分で見出さなければならない。もし自分の価値を見出さない場合、その人にとって自己は安物である。だから、そういう人は快楽のために簡単に自分を売る。これが自己侮蔑である。

 植民地が宗主国に資源や財産を売り渡すように、個人もDSに自分の体や人生を売り渡すのである。それは愛の欠如である。植民地の忠犬に愛国心が欠けていることと同じように、DSに体を売る個人にも自己愛が欠けている。

 愛する子どもに石油を食べさせたいと思う親はいないはずだ。それと同様、マグダラのマリアが敬愛するイエスをもてなす時に、マクドナルドのハンバーガーとコーラで接待するという場面は考えられない。つまり、本当に自分を敬愛する人は、自分の体にコーラや酒、たばこ、添加物入りの食品といったものを与えないはずなのである。

 

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Mary Magdalene and Jesus Christ(Noli Me Tangere ,1506 Fra bartolomeo)


 DSが国民を侮蔑する以前に、自分が自分を侮蔑しているなら、快楽のために自己をDSに売り渡してしまうことも必然の理である。自己卑下、自己に対する低評価、自分の人生に対する諦観。そういったものが、この世界の根源を成している。だから、この根源を解決することなしに社会システムの形だけを変えても、真の解決にはなりようがないのだ。社会革命よりも自己革命が先決なのはそのためである。

 

3.単なる我慢と自己統御は別物である

 自分という人間に価値を見出せない場合、それは自己侮蔑となる。こうなると、人間は自己のバーゲンセールを始めるようになる。目先の快楽のために体を売る。これは売春に限らない。コンビニでカップラーメンを買って食べるなら、食品会社とその株主に体を売っているのだ。

 DSが国民を奴隷と見なす以前に、自分が自分を奴隷と見なしている。大して価値のない自分。そのちっぽけな自分が生きていく上でのなけなしの報酬が、目先の快楽である。とはいっても、多くの人は次のように思うかもしれない。自分を安売りするなといわれても、天才は一握りしかいない、凡人は食っていくために身を切り売りして生きていくしかないじゃないかと。

 食っていくために仕方がない。これは世の中では驚異的に説得力のあるセリフとなっている。しかし、そのセリフを聞くたびに次のような疑問が生じないだろうか。すなわち、本当に自己卑下しない人間、真の意味で自分の大切さを自覚している人間が、果たして「食っていく」だけで満足するだろうかと。

 自分に価値を見出している人間とは、「いつか大物になってやる」と夢想している人間でもなければ、「俺は本当はもっと凄いんだ」と誇大妄想を抱いている人間でもない。もっと実質的な人間のことである。それを友資さんは、「最高の欲望」と言っている。

 

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 DSの金持ちたちは「最高の欲望」を持っていない。程度の低い欲望しか持っていないのだ。だから自分の快楽のために他人を奴隷化することで満足している。そして奴隷たちはDSからのプレゼントに夢中になっている。これは主人と奴隷による共犯関係である。この世界はそうした二人三脚によって動いている。我々国民の一つ一つの小さな身売りが、積もり積もって大きくなり、巨大なDSシステムを構成しているのだ。

 他方、真に自己価値を見出している人間は、その程度の欲望で満足することはない。そういう人間はより高い欲望を持っている。だからその人は自己統御ができる。それは単なる我慢ではない。単なる我慢は苦しみに過ぎない。だが「最高の欲望」のために自己を統御することは、人生の喜びである。

 これは健康のために清涼飲料水や酒、たばこ、添加物入りの食品を我慢することとは異なる。「健康で長生きする」という目的は、それ自身が最上位の目的となってしまえば、単なる自己保身に過ぎず、陳腐な欲望である。健康な肉体は「最高の欲望」という目的を達成するための手段であるから、目的と手段が勘違いされる場合は、真の自己統御とはならない。

 自己統御は単なる手段ではない。「最高の欲望」のために手段として自己統御がなされるが、その登山の行程そのものが喜びである。頂上だけが喜びで残りは全て我慢というわけではない。一瞬一瞬の統御自体が、瞬間的な喜びである。我慢は時間の先端にある成果のために今を犠牲にすることである。他方、統御は成果のための行為でありながら、今を犠牲にすることなく、今を喜ぶものなのである。

 

4.説教や強制は無意味である

 延命のための延命は幸福ではなく、苦しみである。他方、「最高の欲望」のために自己を統御し、DSからのプレゼントを丁重に断り、陳腐な快楽の奴隷とならない生き方は、真に充実した人生である。これは自分で作っていくものであるから、他人が起こす社会革命や政権交代によって成し遂げられるものではない。

 そもそも自己にとって何が「最高の欲望」であるかは、自分で発見しなければならない。他人から「これが最高の欲望だ」と提示されても、それが自分にとっての「最高の欲望」になるかどうかはわからない。だから、自分にとっての「最高の欲望」を他人に無理やり押し付けることは暴力となる。

 

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 タマホームの社長は「良かれ」と思ってやっているのかもしれないが、DSからの離脱はあくまでも個々人で行うものである。人から強制されれば重荷になる。かえって反発を招くだけであり、社員に対する愛は暴力に変わる。

 幸福は自分で見出すものである。経典を自分自身の「最高の欲望」として読む人は幸福であるが、義務として読ませられれば苦痛である。その真実から考えるなら、私は人にアドバイスすることもできなければ、人を幸福にすることもできないはずだ。

 では何ができるのか。それは自分がどうやってDSから抜け出し、幸福な時間を過ごせているかを示すことだけである。それは他人に対する強制ではない。強制となった瞬間に苦痛となるものである以上、それは私の生き方として、単に見せることができるだけのものである。

 私が私の生き方を見せる結果、そこから結果的に他人はヒントを得るかもしれないし、何も得ないかもしれない。それはどちらでもいいのである。私が陳腐な説教をしたところでまったく意味はない。そんな無意味なことをするのではなく、単に私は自分の「在り方」を示すだけである。

  

※ しばらくお休みをいただき、次回は2021年10月1日(金曜日)にアップロード予定です。