戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百四回 新型コロナワクチンと大出血(2)

1.新型コロナウイルスやワクチンよりも恐ろしいもの

 新型コロナワクチンの副反応については、大手メディアもかなりの量の報道をしている。以下のNHKの報道を見てもわかる通り、内容はそれなりに詳細なものではある。だが、中立公平な顔を見せながら、その報道の仕方は明らかに一つの傾向性を持っているように見える。

 それは、デメリットを小さく扱うという傾向性であり、国民に安心感を与えようという意図が垣間見えるものである。また、一見詳しく説明しているようであるが、その内容は薄く広いものであり、肝心なことについては言及を避けているように見える。

 

www3.nhk.or.jp

 

 ワクチンについての報道が多々ある中で、私が最も納得できないものがこの種のものである。ワクチンの副反応として、これこれこういうことが起こり得るという説明はいくらでもある。だが、副反応の原因について述べる報道はほとんどない。

 ワクチンを接種すれば、何らかの変化が体の中で起こり、それが副反応という結果に表れるはずである。ならば、肝心なことは体内変化のメカニズムであるはずだ。それを知らない限り、我々はいくら個々の現象を知ったところで、何も知ったことにはならないはずである。

 肝心なことを知らない限り、我々のワクチンに対する意識は曖昧模糊なままである。曖昧な意識は、漠然とした恐怖心に帰着する。つまり、どっちつかずの宙ぶらりんの状態である。コロナが恐いからワクチンを打ちたい・・・でも、ワクチン打つのも恐い・・・心の天秤が揺れ続ける状態である。

 

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揺れる天秤(コロナ恐い VS ワクチン恐い)

 この天秤状態に、大手メディアの報道は甘い誘いを投げかけてくる。医者がテレビに出て、「心配ない」と言う。しかし、ワクチンがどういうものか自分でわかっていない状態で、赤の他人である医者が「大丈夫」だと言ったところで、何の解決になるだろうか。他人が「大丈夫」と言っても、自分の心の曖昧状態が解決されなければ何にもならない。

 コロナも恐いしワクチンも恐いとなった時に、自分で考えるという習慣を持たない精神は、専門家の甘言に飛びつこうとする。となると本当に恐ろしいものは、コロナでもなければワクチンでもないのではないか。自分の心の曖昧状態を放置したまま、専門家の話を聞いて安心しようとする我々の怠惰な精神の方が、コロナやワクチンよりも遥かに恐ろしいものなのではないか。

 ならば、真っ先に駆逐すべきものは、コロナでもなければワクチンでもなかろう。最も恐ろしいものは自己の曖昧性である。となれば、私自身がコロナやワクチンに対して、無知蒙昧であることを止めなければならない。自らの情報収集をもとに、私が自分で自分の心をすっきりさせることが先決であり、ワクチンを打つか打たないかはその後の問題であろう。

 我々の高度に発達した文明社会は、それぞれの分野に権威ある専門家を配置している。それはそれで大変に役立つものであるが、それによる副作用も当然に存在する。我々の一人一人が、自分の心の不安を自分で考えて解決せずに、専門家という他人に頼るようになるという副作用である。

 この副作用は非常に恐ろしいものであり、我々一人一人を奴隷化する力を持つ。我々一人一人の心が奴隷化すれば、いくら憲法や個々の法律を民主化しようが、国家体制としてはイミテーション民主主義にしかならないはずである。

 奴隷というものは、必ずしも足に鎖をつけられた人のことではない(第三十八回ブログ参照)。「医者が大丈夫と言うから」という理由で「大丈夫」だと思ってしまう心の動きが奴隷なのだ。自分の命の判断を他人に預けてしまうというのは、奴隷的心性以外の何ものでもない。

 そもそもテレビに出ている医者というのは、出世しているということである。出世しているということは、「寄らば大樹の陰」ということで、何らかの大樹のお陰で出世しているということである。ならば、その医者は国民一人一人の命のためではなく、大樹のために発言するに決まっているし、そういう医者しかテレビには出演できないはずである。

 ただ、このブログの読者なら、そういうことはわざわざ言わなくてもわかっているだろう。日本という巨大資本主義国家においては、巨大メディアは巨大資本の奴隷であり、そこに出演する医者も巨大医療業界の奴隷である。そんなものを鵜呑みにしても意味がない。だから読者はこのブログに来ているはずである。

 そうした賢明な読者の期待にこたえることができるかはわからないが、以下、私が自らの無知蒙昧を多少なりとも克服していく過程を明らかにしていきたいと思う。

 

2.外からmRNAを入れ、リボソームを騙す

 ワクチンと言えば、普通は病原体の毒性を弱めたもの、あるいは不活性化したものである。それを体内に入れると、人間の体は異物と見なして免疫ができる。その後、本物の病原体が入って来た時に、前もって体内で作られた免疫系が効力を発揮し、病原体の増殖を抑え、重症化を防ぐというメカニズムである。これまでのワクチンは皆、そういう構造のものだった。

 だが、新型コロナワクチン、例えばファイザー社製のコミナティ筋注(コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン)は全く違う。前回のブログで紹介したシカハンターさんの動画でも述べられている通り、このワクチンの主役はmRNA(メッセンジャーRNA)である。

 

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コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン 説明書

 

 mRNA自体は、我々の体内で当たり前に働いているものである。mRNAはタンパク質を作るための設計図であり、この設計図に則り、細胞内のリボソームでタンパク質が作られる。

 

ja.wikipedia.org

 

 タンパク質を作ると言っても、体の各部位ごとに異なったものが作られなければならない。例えば、皮膚ならコラーゲン、赤血球ならヘモグロビン、髪の毛ならケラチンといったタンパク質が必要である。これらは皮膚なら皮膚の細胞、赤血球なら赤血球の細胞、髪なら髪の細胞におけるDNAに則り、その細胞に必要なタンパク質が設計図(mRNA)に則って作られるわけである。

 細胞の核内にあるDNAが全ての親元であり、ここからmRNAが作られ、そのmRNAをもとにリボソームで必要なたんぱく質が作られ、順次補充される。だから古い皮膚が剥がれ落ち、髪の毛が伸びても、次々に新しいものができ、瞬間瞬間に体は生産され続けているのである。我々の体は、約40兆の細胞の各々が、刻々と生産を続けながら生きているものである。

 このように、もともとmRNAは我々の体内に当たり前の機能としてあるものであるが、これを外から入れようと試みたものが新型コロナワクチンである。このmRNAは「スパイクたんぱく」を作ることに特化したmRNAである。ただ、そのまま体内にいれたら一瞬にしてこのmRNAは死んでしまうので、リピドナノパーティクル(脂質ナノ粒子)という脂肪の固まりの中に「スパイクたんぱく」作成用のmRNAを入れて、体内に注入するのだ。

  ワクチンとして外から入ったスパイクたんぱく作成用の特殊mRNAは、細胞内に入り、リボソームでスパイクたんぱくを次々と作る。普段、リボソームでは体内にあるmRNAに則ってたんぱく質を作るが、ワクチンとして細胞内に入った押し込み強盗のようなmRNAと、普段から暮らしている家族のようなmRNAの区別は、リボソームにはできない。リボソームは自分の家に入ったmRNAなら、余所者であろうが家族であろうが、言われたままにたんぱく質を作ってしまう。

 こうして大量のスパイクたんぱく質ができれば、体としてはいきなり現れた異物なので、免疫系が攻撃態勢に入る。こうして、その後に入ってくる新型コロナウイルスに対しても免疫系が攻撃することによって、重症化が防がれるというわけである。

 新型コロナウイルスは必ずスパイクたんぱくを身にまとって現れる。ということは、ウイルスに感染する前に、スパイクたんぱくに対して攻撃する癖を体につけておけば、いざウイルスが入って来た時には防衛体制ができているというわけである。何も防衛体制ができていない状態で体内にウイルスが入って来るのと、防衛体制が完備されている状態でウイルスが入って来るのとでは全く違う。

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コロナウイルスの細胞の構造

コロナウイルスの構造と複製サイクル(ライフサイクル)-城西国際大学

 

 山中伸弥先生によると、ファイザー社製ワクチンの有効率は95%であり、非常に効果の高いものである。

 

ワクチンの有効性-山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 

 これだけ見ると、夢のワクチンのようである。実際、ワクチン接種が進むイスラエルではマスクなし、居酒屋に密集という生活ができているようである。

 

「マスクなし外出」「パブに鈴なりの人」 ワクチン接種進むイスラエルの現状

 

 しかし、私は疑問に思う。もちろん、私はプロの医師でもなければ科学者でもない。しかしだからこそ、素朴な疑問が生じるのだ。細胞内のリボソームを騙し、スパイクたんぱくを大量に作り上げるためのmRNAが入ったリピドナノパーティクル(脂質ナノ粒子)を体内に入れる。果たしてそんなことをしていいのだろうか?

 これに対する考察は、次回に述べたいと思う。