戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第九十二回 一人でやる民主主義(6)

0.自己の政治について考える

 前回のブログでは、アフターコロナの世界について述べた。そこではベーシックインカムが導入され、国民一人一人に金が配られるが、個別のケースに応じた細かい福祉は消失するだろう。金が振り込まれて「あとは知らない」という世の中になるのだ。つまり、自立も堕落も全ては自分次第という世界の到来である。

 これは一見、自由ではあるが誘惑でもある。つまり自由時間は増えるが、誘惑のベルトコンベヤーに乗ってしまえばGAFAの餌食になるだけなのだ。そうした世界においては自己の政治が極めて大事なものとなってくる。

 これまでの「政治」は「投票」だと考えられてきた。どの党に「投票」し、政権を取らせるか。それが主権者としての国民の「政治」だと考えられてきたのだ。しかし、ベーシックインカムが導入されれば、国家は個人に金を配り、「あとは自分で何とかしてくれ」という時代になる。

 つまり、自分で自分の人生をどうするのか、個人個人が考えざるを得ない時代がやってくるのだ。そこでは政党政治よりも自己の政治が重要なものとなってくる。そこで今回は、社会の餌食にならないための自己の政治、すなわち「政(まつりごと)」について考えてみたい。

 

1.「選挙は政治ではない」という発言の真意

 安冨歩(やすとみあゆみ)氏は著書や講演の中で、「選挙は政治ではない」と繰り返し述べている。これは一般的な選挙の観念とは真逆の発想である。普通、選挙は政治の枢要であると考えられているから、安冨氏の発言は一見すると、民主政治の破壊のようである。

 曽我逸郎氏は長野県で安冨氏の講演を聞き、驚いたようである。

 

安冨歩講演会で考えた事 曽我逸郎

 

 私自身は、この衝撃的な言葉をより緻密なものとして言い直してみたい。すなわち「選挙は政治の一点にしか過ぎない」と。つまり、本番前に勝負は決しているということである。投票日の結果はそれまでの積み重ねに対する忠実な反映に過ぎない。

 抽象的な話に聞こえるかもしれないが、実は我々は日常生活においてこのことを具体的に経験している。スポーツでも勉強でも、本番の番狂わせはほとんど起きない。それまでの準備がそのまま結果に反映される。勝敗は戦う前に決まっているという原則は、孫氏の兵法を学ぶ以前に誰でも体験していることである。

 もちろん、弱小チームが勝つこともある。しかし、そこには弱小の緻密な準備と、強豪の油断が必ず存在する。日々の小さな積み重ねがいかに大事であるか、我々は自分の仕事や生活においても痛いほど経験しているはずである。

 ただ、日々の積み重ねと言うと、投票日という本番までの候補者たちの努力が連想されるかもしれない。確かに地元を放置して永田町を奔走するばかりでは選挙には勝てない。だが、忘れてはならない。この国は国民主権の国であるから、選挙結果は政治家の反映というよりも国民の反映である。

 つまり、選挙の結果は政治家の努力の反映ではなく、国民の日々の生活の積み重ねの反映である。それは、運動不足と快楽的な食生活が体形にそのまま反映することと同じである。国民が社会に魂を売るような生活をすれば、政治家もその反映としてアメリカに魂を売るだろう。だから大西つねき氏は、世界がこうなってしまった原因を、政治家や官僚、マスコミだけに帰すことはできないと述べている。

 

HOPE 希望 ~日本から世界を変えよう 大西つねき フェア党 6

それは恐らく、私たちがそれを選択して来たからだ。異論のある人もいるだろう。自分は何も間違ったことはしていない、と。そう、多分間違ったことをした人などほとんどいないのだ。ただ、毎日の生活の中で、例えば面倒を避けておかしいと思う事におかしいと言わなかったり、自分に何かできることがあるのに何もしなかったり、または十分に知ろうとしなかったり、勉強を怠ったり。そんなことはなかっただろうか? 私は恥ずかしながら、胸を張って十分に努力したとは言えない。そんな無作為の積み重ねが、今の政府を、行政を、社会を作ったのではないだろうか。これは政治家のせいでも、役人のせいでも、マスコミのせいでもない。私たち一人一人の責任だ。

 

2.悪魔の細胞としての国民

 自堕落な生活が内臓脂肪という結果に反映される。これと同じように、無作為の積み重ねが売国政策という結果となる。そう考えると、やはり自由とは極めて厳しいものである。自由の下では自己管理が必要であり、それがなければ待っているものは地獄である。個人の自由な生活においても、国家としての自由主義においても、それは変わらない。

 国民主権とは、自堕落の反映を王様に責任転嫁することができないという政治制度である。全てが自分に跳ね返ってくる。自分が立場主義という落とし穴から抜け出すことができなければ、国家も立場主義から抜け出すことは不可能だ。

 国民の立場主義とは何か。それは選挙の時だけ政治参加し、あとは知らぬフリという生活態度のことである。「投票者」という立場にある時だけ政治をする。そうなれば政治家も「候補者」という立場の時だけ政治をするようになるだろう。「候補者」の時だけ真面目腐った政策を語り、終わったら派閥争いと売国政策に明け暮れる政治家になるわけだ。

 安冨氏が「選挙は政治ではない」と何度も繰り返し述べるのは、内閣の首をすげ替えてもこの国は何も変わらないという実感を氏が持っているからであろう。国民が政治家の立場主義を批判することは容易だ。難しいのは自分自身の立場主義である。我々が「投票者」という限局された立場だけを政治と考える限り、日本という国家のシステムは変わりようがない。

 このシステムは国民の思考停止をエンジンとして動いている。ということは、この怪物を止めるためには、「投票」以外の様々な運動が必要だということになる。といっても、デモやビラ配りや署名活動といった大掛かりなものを連想すべきではない。もっと大事なことは日々の細かい生活である。政治とは、一瞬で終わる「投票」や一時的な盛り上がりで終わるデモではなく、24時間の生活のことであろう。

 勉強やスポーツにおいて本番に奇跡が起きないことと同じように、選挙の時だけ頑張っても無意味である。結果はそれまでの積み重ねとして、投票日以前に出ているのだ。例えば、日々の買い物である。買物は商品に対する投票だと言われているが、グローバル企業のサービスを毎日消費すれば、国際金融資本家を支援することになる。

 巨大新聞を買えば、日本記者クラブを支援していることになり、CIAを支援していることにもなる。無料だからといってテレビのワイドショーを見続ければ、スポンサーを支援していることになる。YoutubeGoogleの子会社であるから、それを支援することは軍産複合体を支援することである。100円ショップで物を買えば、中国共産党を支援することになる。

 「便利だから」「楽だから」という理由からAmazonで買物をし、巨大メディアが垂れ流す情報を受け入れ、遺伝子組み換え食品をスーパーで買い、Appleスマートフォンの奴隷となり、FacebookやLineやTwitterInstagramといった軍産複合体が提供するサービスに夢中になっているならば、たとえ悪意はなくても、その人は悪魔の細胞として機能しているのだ。

 安冨氏はこの世界を「豪華な地獄」と呼んでいるが、我々の一つ一つの消費行動がそうした地獄システムをつくっている。だから我々が自分の生活態度を省みずに、国際金融資本家を悪魔と批判してもまったく意味がない。既に世界は地獄であり、我々一人一人が小さな悪魔として行動しているからだ。

 もちろん、現代社会においてそうしたサービスの全てを拒絶して生きることはできない。システムの全てを排除するとなれば、無人島で自給自足の生活をするしかないだろう。All or Nothingの思考は適切ではない。まず自分が日々の生活で何をしているのか、知ることが突破口となる。イエス・キリストは十字架に磔になった時、天の父に祈った。

 

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書23章34

 

 自分が何をしているのかわからないと地獄に落ちる。あるいは既に落ちている。なら逆に、天国の入口は自分が何をしているかの自覚にある。気づいてみれば、次のことがわかる。我々は選挙の時だけ投票しているのではない。わかっていないのは本人だけで、実際は誰もが毎日投票行動をしているのだ。

 あるいは安冨氏はこういう言い方もしている。「自分は政治に関心がないと言う人は、それだけで大きな政治的表明をしている」と。投票箱に投票用紙を入れなくても、先に示した通り、我々は買物などで投票行動をしている。

 この世界は「政治に関心がない」という本人の意向が実現されないようにできている。つまり、「政治に関心がない」という政治的表明が政策に反映されるようにできているのだ。個人の意向が何であれ、一つの買物、一つの行動、一つの発言が政治となる仕組みができあがっている。これが民主主義の世界である。

 これがわかれば、日常のちょっとした行動が政治だと気づき、その行動が直接的な政治活動になるだろう。例えば巨大スーパーで食品を買うのではなく、古い形態の個人商店で買う。アマゾンで本を買うのではなく、あえて小さな書店で買う。ショッピングモールのレストランで食事をするのではなく、個人で創造的なメニューを作っているレストランで食事をする。

 投票日だけ民主主義を実行するのではなく、24時間の生活において、自分自身が政治の中心となる。外にある政治に参加するのではなく、自分という国家が24時間の中で様々な政策を実行する。それは、今日の昼食をどこで取るかという政治的決断である。悪魔の細胞の一つとしてベルトコンベヤーの上で生きるよりも、そうやって自分で考えて生きる方が遥かに楽しいのではないだろうか。

 

3.快楽と幸福は同じものではない

 ここまで読んでいただければ、安冨氏の「選挙は政治ではない」という謎の言葉が、徐々に明快なものになってきたことであろう。確かに選挙は政治ではない。政治であるとしても、それは氷山の一角に過ぎない。なぜなら我々の人生全てが政治だからである。

 一つ一つの「自分らしい」決断が「自分らしさ」を形作っていき、そうやって形成された「自分」が、更に一つ一つの「自分らしい」決断を行っていく。そうやって重層的に形作られていく「自分」の運動体が政治なのだから、政治とは自分の外にあって勝手に動いているものではない。

 だから最も大事なものは、一時的に盛り上がって線香花火の如くに消えていく政治運動でもなければ、その果てにある政権交代でもなければ、その後に訪れる自民党の復活でもない。最も大事なものはそういった集団運動ではなく、「自分らしさ」としての自分の運動である。

 システムに動かされるのではなく、一つ一つの行動を通じて「自分らしく」生きる方が楽しいはずである。しかしここで注意しなければならないことがある。それは快楽と幸福の区別である。この区別ができないと、快楽に引っ張られ、岡崎直子氏(第九十回ブログ参照)の言うとおり、他人の欲望を欲望することになってしまう。

 エゴとは、快楽と幸福の区別ができない自我のことである。曇った意識の中で快楽と幸福が混ざり合い、境界線が曖昧になってしまえば、区別ができなくなってしまう。そうなると、他人が用意した快楽システムに易々と載ってしまうことになる。餌に釣られてしまうのだ。

 例えば麻薬は他人が開発したものであり、エゴを餌食にするために作られたものである。真我はそれを幸福と見なさない。快楽を買うために自分を売り払うことは、自分らしく生きていることにはならないからだ。

 逆に一切の快楽を排して禅寺で修行することは、一般的には幸福に見えないかもしれないが、本人からすれば幸福なのである。その人は俗世にいると快楽の誘惑に勝てないことを自覚しており、一時的にそうした隔離施設が必要だと自覚しているのだ。

 悟りをひらくとは、いわば、快楽と幸福の区別がきっちりできるようになるということであろう。一休宗純禅師(1394-1481)は見性の後に、俗世で快楽的な生活に浸ったと言われている。しかし、これはエゴが快楽に耽溺することとは明確に異なる。きっちりと区別できる人なら、快楽に浸っても快楽を嗜むことができるが、できない人がそれをやってしまうと奴隷になってしまう。

 例えば自分の体と会話できる人は、酒に溺れない。酒を飲みながらも「それ以上飲むな」と言う体の声が聞こえてくるからだ。他方、アルコール依存症の患者にはその声がまったく聞こえない。だからその人は体が崩壊するまで酒を飲み続ける。

 快楽と幸福の区別ができない意識状態にあれば、わかりにくく掴みどころがない幸福よりも、わかりやすく掴みやすい快楽を掴まえようとするだろう。快楽依存症の人はそうした意識の傾向性に逆らい、自己の治療のために我慢しようとするだろうが、それは力で力を抑えつけようとする暴力であり、一時的には有効かもしれないが根本的な解決とはならない。薬物治療も力であるから、補助的な役割しか果たさない。

 この地獄から抜け出すためには、快楽と幸福の区別を自分で明確に意識するしかない。そのための過程として、一時的に無快楽状態に身を置かなければならない。それが坐禅修行であり、これは快楽に慣れたエゴからすれば極めて退屈なものである。しかし、そこを経なければ快楽と幸福の区別がつくようにはならず、依存症は治らない。

 徹底的な無快楽状態がイコール幸福というわけではないが、快でも不快でもない状態は幸福の扉を開けるためのカギとなる。それは睡眠でもなければ覚醒でもなく、苦しみでもなければ喜びでもない。ミヒャエル・エンデは「モモ」の中で、その扉の先にある風景を描いている。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 3233

 友だちがみんなうちにかえってしまった晩、モモはひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちのなかにすわっていることがあります。頭のうえは星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。

 こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、ふしぎと心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。

 

 「私」という主体が客体としての音を聞くのではない。私が耳たぶになり、音になるのだ。その時、宇宙の音楽が聞こえてくる。「聞く」のではない。自然と「聞こえてくる」のだ。それは快でも不快でもなく、幸福でもなければ不幸でもない。それを判別する「私」がいない。その時、幸福はいらない。幸福を求める「私」が脱落すれば、幸も不幸も脱落する。道元禅師(1200-1253)が言った「身心脱落」である。

 だが、真の我(われ)は脱落して終わりではない。無から身を起こすのである。それが「脱落身心」である。幸福を必要としない「我」が身を起こし、動き始める。幸福を求める「私」という主体が動くのではない。幸福を必要としない「身心」が自然と動くのである。そのように活動する宇宙が「私」を必要としない「我」であり、その人生が「幸福なき幸福」である。

 逆説的だが、この「幸福なき幸福」の中で人はやっと「自分らしさ」のために生きることができるようになる。自分が幸福になる必要がないから、かえって自分らしく生きることができるようになり、自分なんてものはどうでもいいとなるから、かえって自己が解放され、自由になるのだ。

 そうなれば自然と、その生き方は24時間の政治に反映されるようになる。変な物を買わず、妙なサービスに騙されず、目が死んだ政治家を選ばなくなる。自分を害するものを選ぶというのは、自分を見失っているから選ぶのである。ならば悪魔が作った地獄を憎む前に、失われた自分を蘇生させるべきであろう。鏡の中の人物が醜いからといって、鏡を殴っても何も解決しない。

 解決のカギは、政治改革でもなければテクノロジーの進歩でもなく、新薬の開発でもない。それは自分にある。つまり外に求める必要はない。何もせずに完全な沈黙にある時、宇宙の音楽が自然と聞こえてくるはずである。そのハーモニーを生きれば、自然とそれは宇宙に広がる。自己の自由が、宇宙の自由へと穏やかに広がるのである。

 

 ※ 次回は2021年1月にアップロードする予定です。

   よいお年をお過ごしください。