戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十三回 命の選別とトリアージ(1)

0.予定の変更

 今回からイラン近現代史に戻る予定であったが、予定を変更し、今回と次回の二回に渡り、大西つねき氏の「命の選別」発言について考えていきたい。

 

1.騒動の経緯と訣別の原因

 れいわ新選組所属の政治家、大西つねき氏の「命の選別」発言については、マスコミで以下のように報じられた。

 

れいわの立候補予定者が「命の選別」発言

https://www.asahi.com/articles/ASN795SFXN79UTFK00T.html

 

大問題となった「命の選別」発言、大西つねき氏が本当に伝えたかったこと

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74321

 

 この騒動を受け、令和2年7月16日れいわ新選組の総会が開かれた。総会は大西つねき氏の除籍を決定した。問題となった動画は以下である。一度削除されたが、その後再アップロードされた。

 

「正しさ依存症」とそれを生み出す教育について(Live配信2020/7/3)

https://www.youtube.com/watch?v=whuSV-Uq2_A

 

 私は大西氏の著作を読んでいる。また上記動画以外にもYoutubeで10~15本程度の大西氏の動画をこれまで視聴している。つまり、私はそれなりに大西氏の思想内容を知っている。そうした人間からすれば、大西氏が今回の動画で優生思想を語っているものではないことはわかる。ただ、大西氏についてよく知らない人がこの動画の該当箇所を視聴すれば、「命の選別」発言は優生思想に聞こえるかもしれない。

 れいわ新選組山本太郎代表をはじめとした総会のメンバーは、大西氏の発言を優生思想に基づくものだとして除籍処分を下した。それに関する山本氏の説明は、以下の動画にある。

 

れいわ新選組 記者会見 大西つねき氏の処分について 2020年7月16日

https://www.youtube.com/watch?v=e94gkQqnpXA

 

 これに対する大西氏の記者会見の動画は以下である。

 

大西つねき記者会見中継(Live配信2020/7/17)

https://www.youtube.com/watch?v=VkNEOUsekBI

 

 私は上で紹介した動画を視聴し、山本氏と大西氏の話の両方とも素晴らしいものだと感じた。日本の政治家で、ここまで高レベルな話を誠実な態度でできる人物は、私は見たことがない。また今回の騒動と会見によって、私は両名の基盤は共通しており、ほとんど差がないと思った。

 山本氏と大西氏は二人きりで会って話したようであるが、会話の内容を私は知らない。なので以下は私の推測に過ぎないが、両者は対立しているわけでもなく、喧嘩別れでもないだろうと思う。では基盤を同じくする両者がなぜ訣別しなければならないか。その原因は嫌悪でもなければ対立でもなく、互いの互いに対する理解の深度が足りなかったからであろう。

 普通の政党なら、メンバーの思想の深度はたかが知れている。だから、互いの理解も容易である。深く知り合う必要もない。しかしメンバーの一人一人が深いコンテンツを持っている場合、互いが互いを知るために相当の努力が必要となる。

 山本氏やその他メンバーは、それなりに大西氏の思想を知っていただろう。しかし、大西氏の動画を見て、言葉の表面ではなく真意を察知するまでの理解度は持っていなかったであろう。大西氏の一見危険な発言の「向こう側」を洞察するためには、視聴者側に学習の蓄積が必要である。

 この点、山本氏をはじめとしたれいわ新選組総会のメンバーが、大西氏という一人のメンバーに対して、そこまでの労力をかける気持ちがなかったならば、遅かれ早かれこのような問題は起きたであろう。大西氏が物議を醸さない発言に終始するということはないだろうから、今回騒動が起きなくても、いつかは同じようなことが起きる。その点から考えれば、今回の訣別は残念ではあるが必然的なものだったと言えるだろう。

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大西つねきと山本太郎(2019年7月10日 岡山県

2.安くて便利な政治家を求める国民

 大概の政治家は中身がない。我々は内容空疎な政治家に慣れている。しかし内容がないというのは便利でもある。中身が薄いなら、我々有権者にとっても理解は簡単だ。逆に、中身がつまった政治家は理解に骨がおれる。一人の人間が根底的な疑念と考えを述べる場合には、聴き手の方にも相応の努力が求められる。

 日本の政治家に中身がないのは、我々日本人が政治家に便利さを求め続けてきた結果でもある。早い、安い、無内容の三拍子が揃ったインスタントラーメンのような政治家が多いのは、そういった政治家が人々に求められてきたからだ。彼らは大衆が求めるわかりやすさを提供し、有権者に頭を使わせない。考えたくない有権者にとっては「巧言令色鮮し仁」の政治家は便利である。

 凡庸な政治家は「Give and Take」を有権者に訴える。「私が当選したら福祉を充実させ、経済政策を実行し、貧困家庭を援助し・・・」というGiveを彼らは述べる。その見返りとして「一票入れろ」というわけであり、これがTakeである。こうした選挙システムが長い間続いてきた。

 他方、大西氏の訴えはGive and Takeではない。「れいわが政権をとっても、私が総理大臣になっても、それだけでは何も変わらない」と大西氏は繰り返し述べている。これは彼の目的が洗脳を解くことにあるからである。政権交代しようが、聖人君主が総理大臣になろうが、国民が洗脳から自由にならない限り、この国は何も変わらないというのが彼の主張である。

 だから大西氏は形だけ当選しても無意味だと述べる。彼が求めることは、我々が投票所に足を運ぶ前に、自分がどんな魔法にかかっているか気づくことである。それは国家のためでもなければ民主主義のためでもなく、自分という個人の自由のためである。だから大西氏に投票する有権者は、レストランのメニューを眺めて注文するような楽な選挙はできない。

 一人の政治家に一票投じるのに、有権者が自分の洗脳に向き合わなければならないというケースは、もしかしたら日本の選挙史上初めてのことかもしれない。怠惰な有権者は彼に投票することもできない。有権者が政治家を選ぶ前に、政治家の思想が有権者を選ぶ。魔法の世界で満足している国民は、彼を選ぶ前に精神の自由から選ばれていない。

 我々は常日頃、中身がない政治家を条件反射的に軽蔑する。そして、政治家は深い思想を持つべきだと盲目的に思い込んでいる。しかし、本当に中身のある政治家に投票したいなら、我々の方も相応の勉強をすべきだということになる。それは、これまでのような好き嫌いを基準とした無責任な投票は出来ないということを意味する。

 自由主義国家のマーケットは、常に消費者が欲しがるものを提供する。安くて口当たりのいい食品が売れるなら、高くて健康にいい食品はマーケットシェアで少数派となる。これと同様、民主主義の選挙では常に有権者が欲する政治家が当選する。議会の椅子のほとんどを便利な政治家が占めるという現象は、添加物がふんだんに入った食品がスーパーの棚を占めているのと同じ現象である。

 豊かなコンテンツは、精神の自由を求める個人がそれを咀嚼し、自家薬籠中の物とすれば実りとなる。しかし、楽をしたい人からすればそうした歯ごたえのあるコンテンツは面倒なものである。深みのある人間は得てして便利な人間ではない。我々は軽薄な政治家を軽蔑するが、安くて便利なものを求める自分の心の動きには無意識なものである。

 我々は楽をするために便利なものを求める。結果、人間にも便利さを求める。会社は便利な人間を採用し、男は便利な女と結婚し、親は便利な子どもを望み、政党は便利な候補者に公認を与える。人間は便利なものを求め、安くて便利で口当たりのいいものを開発し、消費者に提供し続けてきた。結果、我々のまわりには便利なものが溢れるようになったが、皮肉なことにそれによって誰も幸福を実感しない。

 大西氏がれいわ新選組から除籍されたのは、彼が問題発言をしたからだと言われている。しかし、私はそうでないと思っている。かといって、私は彼の発言を擁護したいのではない。そうではなく、彼が除籍された原因は彼の問題発言ではなく、彼が不便だからだと私は言いたいのだ。

 今回、問題発言がなかったとしても、彼はいつかは物議を醸す発言をしただろう。なぜなら彼は便利な人間ではないからだ。便利な人間を求める組織からすれば、彼は厄介である。大西氏はれいわ新選組という小さな世間を追い出されたが、そもそも世間自体からしても厄介な人間なのだろう。大西氏が自分自身を曲げず、ひたすら自分自身であることを貫けば、彼の不便さはより光り輝く。

 世間からすればそんな不便な人間は厄介である。れいわ新選組のみならず、どの政党からしても欲しい人材ではない。これは彼が悪いのではない。我々がそういう不便な人間を迎え入れて学びたいと思うほど向上心があるわけではなく、怠惰なのである。

 

3.時間泥棒から国民を救うべく立ち上がった山本太郎は時間を泥棒されている

 有権者だけでなく政党も同じである。党が中身のある政治家を抱えたいのなら、党としてその深いコンテンツを理解しなければならない。既存政党が中身の薄い政治家を抱えるのは、その方が楽だからである。彼らは上からの命令でロボットのように動く議員が欲しいのだ。

 コンテンツのある政治家を党のメンバーとすることは、組織のコンテンツを充実させ、深めるというメリットがある。しかしどんなメリットも、裏返せばデメリットである。深いコンテンツを抱え込むということは、党がそのコンテンツを理解するために努力をしなければならないということである。

 結局のところ、有権者にとっても政党にとっても、ベルトコンベヤーを止めない政治家が一番楽なのだ。もちろん、流れるシステムを一度止めなければ、我々は緩やかな滅亡へと進むだけである。それは保守であれ革新であれ、薄々感じている。国民も心のどこかで感じている。このままではまずいと。

 れいわ新選組は緊縮財政というベルトコンベヤーを止めることを目的としている政党である。だから、洗脳とベルトコンベヤーに満足している政治家はれいわ新選組には必要ない。結果、我々の凝り固まった思考をひっくり返すような政治家である大西氏を党は歓迎し、その懐に迎え入れた。しかし、金もなければ人手もなく、常に自転車操業をしている零細政党は、大西氏のような不便な政治家をじっくりと咀嚼して自家薬籠中の物とするための人手もなければ、金もなければ、時間もない。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 岩波書店

https://www.iwanami.co.jp/book/b269602.html

 

 これはれいわ新選組が抱えるジレンマである。時間を奪われ、命をないがしろにされている人々のために立ち上がったれいわ新選組であるが、今はれいわ新選組自体が時間に追われている。貧乏暇なしの我々がゆっくりと料理をつくって食事をする時間がなく、仕方なく安くて便利で有害な食品を食べることと同じように、れいわ新選組も党のメンバーをじっくりと咀嚼する時間がない。

 大西氏を党として咀嚼しきれていない段階であの事件が起きた。それゆえ党は大西氏の発言を優生思想だと決めつけるレベルから脱しきれなかった。これは致し方ないと言える。私は大西氏の著作をじっくり読み、動画を複数視聴したという蓄積があったゆえに、件の動画を見た際に大西氏の真意を汲み取ることができた。この蓄積がなかったなら、私も大西氏の発言を優生思想だと思ったかもしれない。

 今回、れいわ新選組は大西氏を除籍することで、事件としてはいったん終わった。しかし、同党がコンテンツのある政治家を懐に抱えるなら、このような問題は今後も起きる可能性は十分にある。内容空疎なイエスマンを揃えれば問題は起きないだろうが、それでは党の存在意義がなくなる。しかし、コンテンツのある政治家を抱え、じっくりとそのコンテンツを咀嚼する余裕は党にはない。

 このままでは同党のジレンマが解消するチャンスはないようである。ではどうしたらいいか。私はいったん山本氏が国民の救済を放下著(ほうげじゃく)するのがいいと思う。YouTubeで山本氏の疲労困憊の姿を見るたびにそう思う。

 来たるべき衆院選がどうこう以前に、彼はまず仕事を放棄して2、3カ月休む方がいいのではないか。選挙には勝てないかもしれないが、それは致し方ない。国民の時間泥棒の問題を解決したいなら、まずは先頭をきって自分の時間泥棒の問題を解決することであろう。人を救うよりまずは自分を救う。それが成り行きとして、他者を救うことになる。ジレンマはその成り行きの中で解消されるより他はないはずである。