戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第七十六回 命の選別とトリアージ(4)

1.スナップショットは断片でしかない

 命は大切である。しかしその大切な命を私は食べる。主客二元論ではこの難問を解くことはできない。解けないことは、妙な開き直りの方向へ人を誘う。「命は大切だ」と思いながらも弱肉強食、強者の暴力を容認するという流れになる。この流れが発展すると、優生思想に結実する。

 問題は二項のどちらが正しいかということではない。「命は平等」という命題は正しい。逆に「弱肉強食」という命題も正しい。ただ、そうした命題は動的な命の一場面を撮影したスナップショットにしかすぎない。場面としては嘘でなくても、実際の命は動的なものであり、スナップショットを無数につなぎあわせても生命全体とはならない。

 断片的なスナップショットを絶対だと思ってしまうと、二つの命題の矛盾に心が引き裂かれる。命題同士が心の中で戦うことになってしまうのだ。しかしよくよく考えてみると、二つの命題は同じ「命」から出ていることがわかる。

 「命の大切さ」を認識する力も「命」から出るものであり、「命」を食べる力も「命」から出るものである。だから断片に固執せず、全体の運動として「命」を見るなら、異なった風景が見えてくる。我々は弱肉強食で「命」を食べているのではない。自分が自分として自分を食べている。命が命として命を食べているのだ。

 日本語では「自己(self)」のことを「自分」と表現するが、そこには深い言語的叡智としての意味がある。「自ずから分かれる」と書いて「自分」である。今でも日本のある地方では、「あなた」という二人称に「自分」という言葉を使う。「自分、そんなことしたらアカンやん」と言われたら、それは「あなたはそんなことしたらいけないよ」という意味である。

 何気ない日常の会話に、思いもよらない深い叡智が隠れている。「そんなことしたらアカン」という「自分」は、「あなた」という他人でありながら「自分」である。それは「自ずから分かれた」ところに発生する「あなた」と「私」であり、どちらもが「自分」である。

 言の葉の一枚、例えば「私」という言葉(意味)に固執すれば、自己と他者は別物である。逆に固執から解放されれば、本当の「自分」は葉の一枚ではなく、その根本にある枝であり、枝がついている幹である。つまり、樹木全体である。さらに遡れば大地となり、地球となり、銀河となり宇宙となる。どこからどこまでが自分であると言うことはできない。宇宙としての「私」は、切れ目のない一枚の布なのだ。

 一個の受精卵が、分裂して二個になる。その二個が分裂し、そうした分裂が繰り返され、35兆から45兆の全体となって、人間の体が出来上がる。その分裂した細胞が他の細胞を食べる。自己が分裂した自己を食べることで、一個の人体が成り立つ。命はスナップショットのような静的なものではない。分裂と統合で絶えず動き続けるものである。

 こうした「命」そのものの必然的な分裂(生動)の結果として「選別」がある。生きることは瞬間瞬間の「選別」であるから、生命活動と選別活動は同じものの両面である。「選別」の根源は命であり、一つの命が自己を分裂させることによって、別の命という自己と出会うのである。だからその「選別」基準は命の具体的現れである身体に即している。カエルの体からすれば、食べものとして「選別」される命はハエなどの虫であり、牛からすれば草である。

 それは循環して連動する一つの生命であり、そこに区切りを設けて片方を「勝ち組」、もう片方を「負け組」としてスナップショットを撮るのは人間の知性であり、物語である。場面ごとに切り取れば、ライオンが勝ち組でウサギが負け組だという神話を創り上げることはできよう。しかしそうした断片的神話が、生命の全体性を表現できるはずもない。

 あらゆる衝突は、断片を全体だと思い込む暗愚を原因とする。巨大な戦争も小さな夫婦喧嘩も、結局は「正しさ」と「正しさ」のぶつかり合いであるが、問題はどちらもスナップショットとしては正しいところにある。両者が断片を絶対的な「正しさ」だと思い込めば、どちらも正しい以上、最後は暴力で解決する他はない。

 人類はこれまで、「正しさ」の衝突を暴力で処理してきた。この処理システムが次々に進化していくことで、暴力は人類全体を葬り去るレベルへと発展した。結果、我々はこのシステムが破綻していることに気づいた。なぜなら、最終的な暴力は人類全体を根絶やしにするので、そこには勝者も「正しさ」も存在しないからである。

 

2.人間の言語空間はエデンをはみ出す

 自然界では「命の選別」は問題とならない。その「選別」が徹底的に体(自然)に根ざしているからである。旧約聖書はこれをアダムとイブが追い出される以前のエデンとして表現する。動物も他の生き物を殺す。ライオンは牛を殺し、牛は草を殺す。しかし、彼らは体の範囲をはみ出す「選別」は行わない。

 草食動物が農業をしたり、肉食動物が養豚場を経営することはない。ハキリアリがキノコの栽培をすることは生物学的には原初的な農業だという話があるが、彼らが農場拡大のためにアマゾンを焼き尽くすということはない。エデンはエデンをはみ出さない。

 ライオンは体の範囲内で動物を殺す。腹がいっぱいになれば、目の前をシマウマが歩いてもまったく興味を持たない。他方、人間にとって食料は「腹」という体をはみ出す。それは貨幣でもあり、資産でもあり、何より「食料」という言葉、すなわち観念である。だから人間は腹がいっぱいでも明日(将来)の食料のために働く。

 このように、人間は良くも悪くもエデンをはみ出す。それは人間が生きる言語空間がエデンをはみ出すからである。これがキリスト教で言うところの原罪である。知恵の木の実を食べた人間は動物ではない。胃腸の働きを逸脱して食物を追い求めるのが人間である。

 エデンをはみ出す言葉は強力である。旧約聖書の冒頭に出てくる蛇は、これを「君たちの眼が開け、神のようになり、善でも悪でも一切が分かるようになる」(創世記 関根正雄訳 岩波文庫 14頁)と表現する。それは善悪二元論の始まりであり、腹がいっぱいになったら昼寝をして何も考えないという動物としての命からの別離であり、食べた瞬間に次の食料について悩む人生の始まりである。

 だからイエスは言った。「明日のことを煩うな」と(マタイ6章34)。これはありもしない観念に振り回されるなということである。しかし、人類はこの警告が2000年に渡って身に沁みなかった。より良い明日と未来のために拡大再生産を続け、百年先の腹が満ちるようにした。結果、地球は破壊され、人類の際限ない欲望が自分自身の破滅を示唆している。

 現状、人類はこうした地球破壊(自己破綻)を法律や国際条約で縛ることによって阻止しようと試みている。しかし、これは暴力によって暴力を阻止しようとする試みであるから、暴力の連鎖はとまらない。法律も暴力であることを忘れてはならない。暴力はより強い暴力に対抗できない。だから、アメリカや中国が国連より強ければ、国連が定めた平和条項や環境破壊防止条項は、死文化する。

 もちろん、自然界も暴力であり、残酷である。野生のライオンの生き様もそうである。雄ライオンは成人すると群れから独立し、孤独にサバンナで暮らす。雌は集団で狩りをし、敏捷性があるので狩りが上手だが、雄は体が重いので狩りが下手である。しかも孤独な雄は集団戦法が使えない。だからほとんどのオスは独立後に死ぬ。

 その中で、ごく一部の選ばれたオスだけが生き残る。厳しい青年期を生き延びたオスが、古老のオスが支配する群れを襲う。力によって老兵を追い出す。そして幼児をすべて噛み殺す。子どもが全ていなくなればメスは発情する。発情したメスと交尾をして、新たな王が自分の領地内で子孫を増やす。もちろん、その王とて安泰ではない。年をとれば若獅子に放逐されるだろう。それが自然(エデン)の循環である。

 ライオンの生はこのように残酷であるが、エデンの理屈にかなっている。彼らは言語で理屈を構築してから行動するわけではないので、エデンの理屈から逸脱しない。他方、人間はシンボル的言語の魔力に則って理屈をこねる。自然の摂理からではなく、人工的な理屈の魔力から残虐性を発揮する。

 ありもしない「ユダヤ人」という人種をつくりあげ、600万人をカマドに入れて燃やす。ライオンは老兵を殺さなければ交尾できないが、ドイツ人はユダヤ人を絶滅しなくても子孫を残せた。現に、今のドイツはユダヤ人と共存している。

 言葉の魔力は殺人ばかりでなく、自殺も起こす。1945年に沖縄の洞窟で自決した民間人は、皇軍が声高に叫んだスローガンを信じた。米軍の捕虜になれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから虐殺されると言われた。スローガンを信じた人々は、米軍の捕虜になる前に自決した。実際は、おとなしく捕虜になった人々には、米軍から水と食料が与えられ、生き延びた。

 これは現代でも変わらない。「国家財政が逼迫している」という嘘が新聞を賑わす。一流大学の経済学者が緊縮財政を声高に叫ぶ。金がないという嘘を国民が信じ込む。信じた国民は増税を容認し、生活保護受給者を恨む。相模原では障害者が殺される。国家財政が逼迫した中で生産性のない人間を生かしておくわけにはいかないというのがその理由である。

 ライオンは学者やメディアに子殺しを推奨されて子殺しをするのではない。ライオンの「殺し」は、教師やメディアの言語によって教えられることではなく、ただひたすらに自己の自然性として行うことである。残酷とは言っても、そこが人間の残酷さとの違いである。

 エデンをはみ出した人間の暴力は、ほとんどがまったく見当違いの暴力である。それは自然の循環とは異なり、自然を破壊し、ひいては人類を破滅させるものである。地球には無数の生き物が存在するが、人間は唯一、その観念的な暴力性によって地球全体を破滅させる可能性を孕む生き物なのである。

 

3.暴力としてのルールから戒律としてのルールへ

 では人間もライオンのようにエデンの枠内で生きればいいのか。答えは否である。なぜなら人間は地上に生れ落ちた瞬間からエデンをはみ出す言語空間に生きるため、自然の摂理そのものとして生きることは不可能だからである。ライオンが草を食べて生きることは、その胃腸の構造から出来ないことと同じように、人間はその存在自体が人間的言語空間を生きるように宿命づけられている。

 この宿命に自覚的であるかどうかで、人間個人の生き様が変わる。社会に流布する言語に流されるままに生きれば、本人に悪気がなくとも、その人は人類の自己破綻に参加することになる。大嘘を信じ、ありもしない敵をまるで本当であるかのように頭の中でイメージし、虚像を憎む。支配者層はこうした言語的魔力を利用し、大衆を好きなように操作する。

 相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月26日)の犯人は、障害者を「ごくつぶし」と解釈して殺したが、彼が本当に悪者を殺したかったのなら、緊縮財政という大嘘を叫んできたIMF財務省や東大教授を殺すべきだったのだろう。さらに言えば、そのような嘘を簡単に信じてしまう自分を殺すべきだったのだろう。

 その意味では「命は大切だ」という言葉も危険である。相模原の殺人犯は健常者の命を「大切だ」と思ったゆえに、障害者を殺した。「大切だ」という言葉の魔力に無自覚なままなら、あるいは杜撰に考えて細密に考えることがなければ、言葉の魔力に則られたまま、言葉の魔力に流されて殺人をしてしまう。

 オスライオンは子殺しをする。しかしそれは悪ではない。エデンの範囲内であり、ライオンの生命そのものだ。他方、人間がライオンと同じように再婚相手の子どもを殺すなら、それは悪である。エデンをはみだす人間が、ライオンと同じレベルの子殺しをやってしまったら歯止めがきかない。ライオンが子殺しをするのはエデンの範囲内だが、人間が同じことをやってしまえば、野獣よりひどい野獣になる。

 仏教には宗教的戒律がある。これはどの命も平等に尊いからこそ、自分で命に線引きをし、その行為に責任を持つということである。ある僧は米や野菜を食べるが、肉や魚は食べない。ある僧は坐禅中に蚊に刺されても蚊を殺さない。しかし、そうした僧も生き物を殺す。野菜を食べる僧は植物を殺し、蚊を殺さなくても農作業では鍬でミミズを殺し、体内では無数の細菌を免疫細胞が殺している。

 結局、命に線引きはできないのであるから、どんな聖人も命を殺さざるを得ない。だからといってどんな命であっても自分が生きるために殺していいとなったら野放図になってしまう。線引きができないことを自覚し、だからこそ線引きについて考える。それは、放っておけば人間としての自分が野獣以下の野獣になるという危機感である。

 これは法律という外的な暴力とは異なる。外から鎖で縛られることは不自由であるが、自分自身の野獣性(暴力性)を自覚し、自分で考えて自分に規律を課すことはまったく自由に基づく行為である。人間に物事を正しく考える本性が備わっているということは、あらゆる生き物の中で人間だけが、エデンの外で自分の責任で生きる自由があるということである。

 この自由を実行する時、人間は言葉の魔力からも自由になる。言葉に翻弄されている人間は不自由であるが、言葉の表面を信じず、スナップショットを絶対視せず、言葉の奥を見るようにすれば、生の全体性が見えてくるようになる。「木」を見れば自動的に「森」が見え、その「森」を包む大地や空間や地球、そして宇宙全体が見えるようになる。

 その時、言葉は人間を楽園から堕落させる蛇の知恵のレベルにとどまらず、動物にはわからない真理を指し示すものとなる。言の葉は一枚で森全体を指し示す。それは言葉で言えないものを言葉で指し示すことである。この時、それまで言葉の魔力によって堕落した人間が、言葉で救われるようになる。言葉は人間をエデンから追い出す力を持つが、人間をエデン以上のもの(神)へ誘い込む聖霊であると気づくのだ。

 こうして考えると、「命の選別」は人類の戒律の問題だとわかる。大西氏は「命の選別は政治家の責任」と述べ、問題発言として騒動になったが、トリアージも含めた命の問題は、実は政治家のみならず我々一人一人の問題でもある。

 人間は日々の自分自身の「選別」が決定打になる。朝何時に起き、どのようなものを食べ、どのような仕事をし、人と接する時はどのような態度で臨み、どのような言葉を話すか。どんな本を読み、どんな人とつきあい、どんなことを考えるか。我々は瞬間瞬間の「選別」により、単なる生き物としての「命」ではなく、精神としての「命」を決めなくてはならない。それが自由と裏返しの責任である。