戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第八十七回 一人でやる民主主義(1)

1.発芽としての「分断」

 前回述べた通り「一人でやる民主主義」という言葉は語義矛盾である。「民」には人間集団という意味が当然に含まれているからだ。だが、現在の人間社会における閉塞状況が人間に求めている転換は、この語義矛盾の実践によって成し遂げるしかない。以下、このことについて確認していきたい。

 「一人民主主義」の反対の言葉、すなわち「集団民主主義」は、これまでの歴史で繰り返し見てきたように、簡単に瓦解するものである。それを壊すには侵略戦争のような派手な暴力は不要であり、諜報活動で十分である。瓦解した民主主義は、看板だけの民主主義であり、1%の支配者層が大衆を支配するイミテーション民主主義となる。

 支配者層は民主主義が極めて脆い楼閣であることを熟知している。堅牢なダムが小さな穴で決壊するのと同じように、民主主義の破壊も一本の針があればよい。その針が「分断して統治せよ」の原則である。この針一本で、彼らは世界中の民衆を自由自在に操作し、奴隷化してきた。

 例えば原子力発電所の建設に当たっては、地元住民に対する説明会が行われる。最初の段階では住民のほとんどは懐疑的である。もろ手をあげて賛成という住民はほとんどいない。もちろん、このままでは原発の建設は不可能だ。だがエージェントからすれば問題はない。彼らの目的は住民を説得して賛成多数を形成することではない。目的は説得ではなく分断である。

 この時、針は刺された。村に刺さった針はとても小さく、血も出なければ痛みもない。村人たちに自覚症状はない。この後、政府のエージェントたちは、地元の有力者に金を配る、噂を流す、あるいは事業を誘致するといったマニュアルに基づいて粛々と仕事をこなせばよい。小さな分断は徐々に大きくなり、放っておけばやがてダムは決壊する。

 分断の種は発芽し、順調に育っていく。気づいた時には、温和と助け合いの精神に満ちた田舎の人間関係はない。あるのは住民同士の喧嘩と、自主的な言論統制である。特に気兼ねなくリラックスして話し合えた間柄はもうない。原発の話となれば喧嘩となり、喧嘩しないためには互いに原発の話題を出さないように気をつけなければならない。

 それまでお祭りや町内会、収穫やその他の行事で互いに手弁当で助け合ってきた人々が、左翼と右翼という「括り」を基に対立するようになる。それまでの村には左も右もない。マルクス主義者も皇道派も存在しない。ただ畑や田んぼと商店街、役場と公民館、子どもたちと親、そして老人がいただけだ。

 しかし、山の向こう、はるか遠くの大都会からやってきたエージェントたちは、地元に小さな針を刺した。それは「分断して統治せよ」という鉄則であった。これにより、統治側は戦わずして勝った。彼らが武力で村を制圧しなくても、住民たちが二つに分かれて戦争してくれる。賛成派は反対派を左翼と罵り、反対派は賛成派を権力の犬と罵る。

 もちろん、住民たちも人間なので、それまでも好き嫌いや喧嘩はあった。ただ、そういう突発的な対立は生じては消え去る波のようなものであり、継続性はなかった。だから穏やかな農村風景が続いて来たのである。ところが「分断して統治せよ」の鉄則が導入されて以来、住民たちはかつてありえなかったような罵倒の言葉を吐くようになり、敵対勢力には挨拶もせず、無視をするようになる。

 ここで注意しなければならないことがある。多くの人たちは、無垢な村に「分断」が持ち込まれたと考える。全てはエージェントが悪いのだと。村人は絶対善、エージェントは絶対悪という公式が頭の中に打ち立てられる。しかしそれは幻想であり、真相ではない。

 例えば、水(H2O)は気温という条件により気体、液体、個体と形を変える。気温は外的要因であるが、水が形を変える性質は気温とは無関係の内的なものである。これと同じように、純朴だった村人が他者を汚い言葉で罵倒し、長閑だった村が分断戦争となるのは、人間が内的に持つ性質である。

 どんなに温和で諍いのない集団であっても、人間の集団である以上、そこには分断の種が眠っている。寝た子が起きるか否かは外的要因によるが、内的事実は外的要因と無関係に存在する。我々は穏やかな農村に醜い争いが生じると、それをもたらした中央政府が全ての元凶だと解釈する。エージェントを絶対悪だと解釈することで、自分自身の内にある種を見ない。

 確かにかつての人類は、何千年も分断なしに生きてきた。アメリカ大陸やオーストラリアにおいては、白人の侵入以前は文明による堕落は存在しなかった。彼らは星の数ほどの月日の積み重ねの中で、醜さや愚かさや地球破壊と無縁に暮らしてきた。

 しかし、誇り高い部族たちが一瞬にして堕落したという事実は、彼らが我々と同じ「人間」であることを証明している。侵略者たちはネイティブたちの遺伝子に分断の破壊力を植え付けたのではない。白人たちは崇高な部族の人々も自分たちと同じ人間だという単純な確信をもとに、彼らが持つ分断の種を刺激したのである。

 侵略者たちは何千年と地面に隠れる原油を噴き出させるノウハウを持っていた。それはアメリカやオーストラリアといった新大陸に赴く以前に、ヨーロッパの手もとに位置したアフリカや中東で実験と検証を積み重ねたノウハウであった。彼らは我々が持つ潜在的な攻撃性を引き出す。それにより、我々は未知だった自分自身の愚かさと醜さを、油田のように吐き出すようになる。

 支配者層は急ぐ必要がない。ゆっくり待てばよい。何千年と沈黙を守ってきた硬い種であっても、小さな亀裂が生じれば、驚くほどのスピードで発芽する。やがてそこでは「分断」の花が咲く。純朴だった村人たちが、醜い争いの花を次々に咲かせるようになる。その後、巨大利権という実りの秋がやってくる。

 彼らはそれを粛々と収穫する。その時、原子力発電所であろうが、米軍基地であろうが、毒液を吐く巨大工場であろうが、そうした巨木を引き抜くことは誰にもできない。そうなった時にはもう、地元の若者の多数はその巨大プラントの社員となってしまっている。住民たちは枝や葉となり、巨木の幹を通じてしか養分を取れないようになってしまっているのだ。

 

2.母を売って金を得る

 「どうしてこんなことになってしまったのか・・・」

 

 多くの村人たちが右と左に分かれ、選挙の度に一票の奪い合いに夢中になっている最中、ふと冷静になった心は想起する。かつての村には醜い争いがなく、それが当たり前だった。そこには農作業と収穫と豊年祭しか存在しなかった。豊かな自然とそれを敬う人々の純朴な心しかなかった。

 年寄りは積み重ねによって得た生活の知恵と霊験により尊敬され、子どもたちは無邪気で、大人は働き者であり、忍耐強かった。そこには長年続く循環があり、進歩がない代わりに堕落がなく、戦争や環境破壊や人心の荒廃は存在しなかった。

 それが、なぜこんなことになってしまったのだろうか。エデンの園は、遠くからやって来た知的で進歩的な文明人が蒔いた種によって、一瞬で破壊されたように見えた。しかし、侵略者は紳士的だった。彼らは暴力的ではなく、洗練されていた。杜撰な暴力によって住民に恨まれてしまえば、占領統治の利益が無化してしまうからだ。

 だから彼らは住民が自らすすんで奴隷になるように、物事を進めてきた。彼らは一切暴力をふるわず、住民が攻撃的になるように仕組んだ。有力者に金を配り、格差をつくる。持つものは驕り、持たざるものは妬む。そうして餌を撒き、食わせることで本当の目的を果たす。目的は制圧ではなく分断である。侵略者が暴力をふるうのではなく、住民が住民に対して暴力を振るうようにするのが目的である。

 こうして豊かな自然に恵まれた村は、愚かな争いに明け暮れるようになる。原子力施設の建設が問題となった青森の六ケ所村では住民同士が喧嘩をするようになり、米軍基地の問題で揺れる沖縄では村民の間で冷酷な仲間外れや無視が生じるようになり、自衛隊の弾薬庫が設置される宮古島では賛成派が反対派の人々を恫喝するようになる。

 これは遠くの田舎で起きた特殊な事件ではなく、世界のどこでも起きたことである。そして、今どこでも起きうることである。それは定形的なプロセスである。賛成派は国策だからしょうがない、食わなければ生きていけない、防衛上仕方ないと諦観し、長い物に巻かれることを「現実的」だと主張するだろう。他方、反対派は命の問題、これから生まれてくる未来の子どもたちへ美しい故郷を残そう、平和と民主主義と自己決定権、住民投票が必要だと主張するだろう。

 かつての村にはイデオロギーは存在しなかった。「正しさ」とは、農作業のやり方や祭りの手順など生活に密着したものに限局された言葉に過ぎなかった。しかし今では思想上の問題となっている。農作業と身体という自然に密着した善悪しか存在しなかった世界に、侵略者は観念上の「正しさ」を導入した。ここから頭でっかちな罵り合いに発展する。

 賛成派から見れば反対派は左翼となり、逆から見れば右翼となる。罵倒には尾ひれがつき、「中国や朝鮮のスパイだ」ということになるだろう。いずれにせよ、どちらも命と生活をかけた正義の問題ということになるから、引くことはできない。そこから勝てば官軍ということになり、正義のためなら多少は汚いことをやってもいいという言い訳が闊歩するようになり、泥沼の戦いとなる。

 分断とは正義と正義の戦いである。コーヒーに牛乳を入れればカフェオレになることを我々は知っているが、侵略者たちは平和の大地に「正義」を投げこめば「分断」が生じることを知っている。元来、静かな農村では「正義」をがなり立てる人はいなかった。そんな人がいれば精神異常者に見えたことだろう。

 かつては沈黙こそが最高の正義であった。人間が黙って自然に正しさを問い、空や海や山の声を拝聴することが、唯一の正義だった。しかし、時代は変わった。侵略者がやってきて以来、人間が自分の生活のために正義を主張し、その声の大きさや数の多さこそが、正義の指標だと見なされるようになった。

 侵略者は素朴なネイティブたちに金の数え方を教えた。この山を開発すればいくらになる。この海岸にリゾート施設を建てればいくらになる。そうして、かつて母だった大地は「土地」という価値になり、天からの恵みだった海は観光客から金を引き出すための道具となった。彼らは母を敬うことは一円にもならないことを教えた。母を売春婦として売れば金になることを教えたのだ。

 農作業をしても年収は限られている。過疎化すれば後継者はいない。だから原発を建て、基地を誘致し、天然ガスを掘り、リゾート施設を建てれば、莫大な金になる。売ることを知らなかった人達は、自然を売り、自分を売ることの快楽を知ってしまった。一度味をしめてしまった人は、もう止まらない。何から何まで売るだろう。自分の肉体と精神を売ることは、地球全体を売る道へと繋がっているのだ。

 

3.その人は反対しても反対派ではない

 賛成派から「左翼」とレッテルを貼られ罵倒される反対派の人達は、社会主義者でもなければ革マル派でもなく、赤ん坊を抱えた普通の母親だったりする。彼女たちは母なる大地を売ることに、本能的な恐怖を感じる。頭でっかちなイデオロギーの問題ではない。頭以前の皮膚感覚である。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 61頁

モモだけは、ある晩、廃墟のいちばん高いへりの上に彼らの黒い影があらわれたとき、男たちをよく見ていました。彼らはたがいに合図をしあい、そのあとなにか相談するように頭をよせあいました。声はなにも聞こえませんでした。けれどモモはふいに、これまで味わったことのないようなさむけにおそわれました。ぶかぶかの上衣をいくらしっかりとからだにまきつけても、むだでした。ふつうのさむさとはぜんぜんちがうものだったからです。

 

 地球上のどこでも、この「さむけ」を感じる人たちがいる。しかしそれは侵略者たちにとっても想定の範囲内である。感じる人たちは村の中で少数派である。多数派は鈍感であり、金の快楽に弱い。あとは鈍感な人達に対して、頭でっかちな正義感を掻き立てるような工作をすればよい。あいつらは左翼だ。共産主義者だ。愛国心があるなら彼らを放逐せよ。

 反対派の人達からすれば、これはいわれなき中傷である。美しい自然を守り、子どもたちに平和で誇り高い地球を残し、受け継がせる。それは私利私欲を越えた全体的な幸福を願う心であり、良心そのものである。そこに何ら「悪」はない。

 しかし、侵略者からすれば自分たちのプロジェクトの前に無敵の良心が立ちはだかることも織り込み済みである。良心は正義感に転化しやすい。純粋で偽りのない良心も、それに対する抑圧と不条理な誹謗中傷が積み重なれば、正義感に転化する。そうなれば、かつて純粋だった良心にも攻撃性が帯びてくる。心に生まれた攻撃性は、母たちにこう囁く。良心を理解しないあいつらは「悪」だと。

 悪に対する正義。そうなれば、最初にあった純粋な「さむけ」とはだいぶ違ったものになってくる。美しい自然を破壊する政府は悪だ。それを裏で操る宗主国はもっと悪だ。さらに言えば、そうした策略に対して鈍感に喜び、補助金や雇用やピカピカの公民館といった餌で釣られている住民たちも悪だ。

 こうしていつのまにか正義と悪が線引きされる。支配者は悪であり、支配されている奴隷も悪である。そうなると、人類のほとんどが悪としてカテゴライズされるようになる。キリストは言った。敵を愛し、迫害する者のために祈れと(マタイ5章44)。これは空疎な道徳律ではなく、純粋な良心を正義感に転化させないための鉄則である。

 純粋な良心が正義感に転化し、怒りとともに悪と戦うようになれば、エージェントの思う壺である。平和の大地に「正義」が投げ込まれれば、地球は自動的に分断される。こうして「さむけ」を感じた良心の人間が、エージェントにとって都合のいい駒となる。

 反対の理由は愛だったはずなのに、気がつけば裁いてしまっている。裁いているのは他の誰でもない。自分である。

 

パウロ コリント人への手紙 13章4-5

愛は寛容であり、愛は親切である。また妬むことをしない。愛は自慢せず、高慢にならない。無作法をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪に執着せず、不正を喜ばずに真理を喜ぶ。

 

 愛、そしてそれに基づく良心は、裁きに猛り狂う正義とは違う。愛と裁きは両立しないので、愛に基づきながら正義を生かすためには、裁きという暴力の杖を捨てなければならない。正義は怒りの拳を振り上げた瞬間に、相手に対する威圧となる。圧力を受けた相手は瞬間的に防御の態勢をとる。

 正論は相手に対する愛がなければ、理屈による威圧のように感じられ、相手が自分の心に手を入れて矯正を図っているように感じられる。言われた方はこう感じる。この人はありのままの自分を認めてくれない。理路整然と話すこの人は、のろまで、鈍感で、ものわかりがよくない自分を教育して、作り変えようとしている。この人は、私を改造して操作しようとしている。

 愛と正義は両立し得ないものではない。むしろ、愛と表裏一体となった正義ほど強いものはないだろう。しかし、そうした正義は極めて繊細である。繊細な正義とは、母を売り、自分を売ることの恐怖心であり、直観である。それは四角い言葉では表現できない神秘であり、檻に閉じこめた瞬間に死ぬものである。

 繊細な正義が死ぬか生きるかは、その正義を行使する人自身にすべてがかかっている。それを手の中に入れて強く握りしめてしまえば、窒息して死んでしまう。繊細な正義は文言や綱領といった檻の中で飼うことはできず、常に新鮮な空気が入れられることによって命を保つ。時にはユーモアが必要かもしれない。そして一番大事なものは、目の前にいる相手である。相手が威圧による恐怖心を感じた時、繊細な正義は消えてなくなる

 繊細な正義が死に、怒りをもとにした矯正の力としての正義がまかり通る時、農村の住民は二分する。「分断して統治せよ」の原則がそこに発動する。支配者層としてはシナリオ通りである。こうして今日もまた、地球のどこかの純朴な村にバベルの塔が建てられてゆく。

 政府から派遣された官僚や学者たちが、長い時間をかけ、塔を建てることについての大きなメリットを住民に説明する。最初の段階では9割が反対派である。しかし灰色のスーツを着た男たちは気にしない。分断の種は既に撒かれた。いずれ発芽し、放っておいても「正義」と「正義」の戦いになる。図面段階のバベルの塔は、その時、現実に建ったのと同じである。

 この時、一人の人間だけが、バベルの塔を俯瞰して見る。自分の村の一大事として見るのではなく、人類の歴史で起きる必然的なパターンとして見る。その人は反対であっても「反対派」ではない。その人は群れない。その人は怒らない。正義の杖で悪を裁かない。その人の下では分断の種は発芽しない。その人は決して種に水をやらないからだ。

 その人は賛成派と反対派のぶつかり合いの中で、人権や民主主義を主張しない。その人は決意している。一人でやる民主主義を決意している。その人は相手を矯正しようとして口を開かない。相手を無理やり説得しようとすれば、エージェントが作ったベルトコンベヤーにのるだけである。

 だから、その人は他人を自分の都合のいい人間に作り変えようとしない。自分一人で生き、かといって人との交わりを拒絶しない。人と会話しながら、相手を統治しようとしない。国という他人を統治する以前に自己を統治し、自分という独立国を民主化することについて、その人は語るのみである。