戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第六十五回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(15)

0.前々回の続き

 今回からイランの現代史に戻りたい。第六十三回ブログの続きである。

 

1.立憲民主制の終焉

 1979年1月16日、イラン王であるモハンマド・パフラヴィーは、イランから出国した。王はその後イランの地を踏むことなく、翌年カイロで死去した。一方、王がいなくなったイランではバクティヤール内閣が奮闘していた。

 1978年末に王から首相の指名を受け、翌年1月に発足した内閣であった。緊急の課題は混乱の鎮静化であり、目標は民主主義の確立であった。独裁者はいなくなったのだから、モサデクが志半ばで諦めたイランの民主化を実行するチャンスであった。

 しかしその試みも束の間、大事件が起こる。1979年2月1日、フランスにいたホメイニーがエールフランスの特別機でイランに帰国したのだ。ホメイニーがイランの地を踏んだのは1964年の追放以来であるから、15年ぶりの帰国であった。

 

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Arrival of Ayatollah Khomeini on 1 February 1979

 イラン政府系のニュースサイトPars Todayによると、この時熱狂的に集まった群衆の数は世界記録となったそうである。

 

イラン、世界最大の群衆の集結地

https://parstoday.com/ja/news/iran-i50746

 

 熱狂的に国民から迎えられたホメイニーは、すぐにイスラム革命評議会をひらいた。構想15年のイスラム国家を樹立するためである。ホメイニーからすれば、パフラヴィー王の指名を受けて成立したバクティヤール内閣は無効であった。王という存在自体がホメイニーからすれば違法なのだから、違法な存在によって指名を受けて成立した内閣も違法である。革命評議会はメフディー・バザルガン(Mehdī Bāzargān 1907-1995)を首相に任命し、革命政府における内閣が成立した。

 

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Ruhollah Khomeini and Mehdi Bazargan

 これは、バクティヤール政権からすれば寝耳に水である。15年間イランを離れていた宗教家が帰国し、いきなり別人を首相に指名した。バクティヤールからすれば自分達こそが正規の政府なのだから、革命評議会の決定を認めるわけにはいかない。こうして1979年2月、イランには二つの政権が並び立つこととなり、内戦状態となった。

 政権が二つ成立するとともに、軍も二分した。これまで王に忠誠を誓っていた親衛隊、陸軍空挺部隊内務省治安部隊は、王が指名したバクティヤール政権を支持した。他方、軍内にはホメイニー支持者たちがいたので、両グループは対立し、戦闘状態になった。この時、王の軍隊と長年対立してきたムジャヒディンハルクやフェダインハルクがホメイニー派に加わった。

 ムジャヒディンハルクはイスラム社会主義の政党であり、フェダインハルクは非スターリン派(つまり非ソ連派)のマルクス主義政党である。これによりホメイニー派を中心とする反政府軍の軍事力は政府軍を上回るものとなった。

 日本国民にはピンと来ないだろうが、世界の様々な国々では政党が軍事力を持っている場合が多い(第四十四回ブログ参照)。例えば人民解放軍中国共産党という政党の軍である。ムジャヒディンハルクやフェダインハルクは政治集団であるが(政治集団であるゆえに)、軍事力を持っている集団である。

 日本では自民党公明党といった政党が軍事力を保有しないために、日本人は軍と言われれば国軍しか頭に浮かばない。しかし世界の多くの国々、特に発展途上国ではその常識は通じない。政党が軍事力を持っていることが当たり前の国々の人達がもし、「日本ではおよそ70年に渡って自民党一党独裁である」という話を聞くなら、彼らは「自民党は凄い軍隊を持っているんだな」と想像するかもしれない。

 ムジャヒディンハルクやフェダインハルクは、それまで反王という目標のために戦い、多くの犠牲者を出してきた。それゆえここで政府軍の味方をするわけにはいかなかった。ホメイニー派とそうした援軍が結びつくことで、戦いは2月11日に終わった。政府軍はあっけなく敗北し、首相や大臣などは逮捕された。バクティヤール政権は一か月しかもたなかった。こうして立憲民主主義のイランは滅亡した。

 バクティヤールは王が逃げ去ったイランにおいて、首相としてイラン軍の最高責任者となるしかなかった。それゆえ武装蜂起が起きたら、正規軍によってそれを鎮圧するしかなかったが、革命軍からすれば正規軍は王制の象徴であり、打ち倒すべき敵であった。こうしてバクティヤールは、一か月前までは反王派として仲間であった人間と戦争をすることとなり、敗北し、逮捕された。

 この結果、王もいなければ王が指名した内閣も消滅し、イラン・イスラム共和国が誕生した。これは民主主義国家ではない。また連立政権でもない。つまり、かつて王制打倒のために一緒に戦った政党は、新政府にとって邪魔である。かつて反王運動で戦友だったムジャヒディンハルク、フェダインハルク、トゥーデ党、国民戦線は敵となった。こうしてイラン・イスラム共和国は、内に分裂を抱え、外にアメリカという敵がいるという難しい国となったのである。

 

2.ナショナリズムの熱狂の中、民主主義は捨てられる

 バクティヤール政権という民衆が長く渇望してきた立憲民主主義のイランはあっというまに崩壊した。そして、王制でもなければ民主主義でもないという宗教国家があっというまに成立した。これはある意味、民衆の多数派が望んできたものとは違った結果となったと言える。と同時に、民衆の多数派が選択した結果だとも言える。つまり国民の多数派は、長年自分達が渇望してきたものではないものを選択したのである。なぜだろうか。

 その答えを探るために、歴史を振り返ってみよう。もともとイラン国民の多数派が求めていたものは立憲民主主義であり、王の廃位ではなかった。民衆の不満は以下の三点だったと言えるだろう。

 

①王がCIAの言いなりになっており、内閣が王の言いなりになっていること。

②政策決定の全てがアメリカおよびイランの富裕層のためになされていること。

③石油が欧米石油メジャーに強奪されていること。

 

 この三つの壁を乗り越えるために、イランの民衆は内閣を王(およびCIA)から取り戻し、国民のための内閣を打ち建てることを目標とした。すなわち王に憲法を守らせ、国民が選んだ政治家によって国のことを決めるということである。主権が国民になく、アメリカの傀儡政権に全てが握られているという状態の脱却を国民は望んだのであり、王を廃位することまでは望んでいなかった。

 これは宗教界でも同様であった。第六十二回ブログで紹介したモハンマド・シャリアトマダーリーのような宗教界の大物も、立憲民主主義を望んでいた。王を廃位し、国のトップを宗教者で占めるという思想は、ホメイニー派だけが考えていたことであり、宗教界の多数派においてもホメイニー派は過激だと思われていた。

 しかし1978年の頭から始まった血で血を洗う闘争は、徐々にエスカレートし、国民の感情も沸騰するようになった。冷静な判断ができなくなれば、過激な思想が求められるようになる。そして、当初の目標は忘れ去られる。民衆が主権を回復することよりも、王(アメリカ)を打ち倒すことが目標となっていったのだ。戦争状態になれば人権よりも憎悪が上回り、主権よりも勝利が目標となってくる。

 この熱狂にはメリットとデメリットがあった。メリットは、それまでバラバラであった野党側が一つにまとまったことである。平時においては野党側もバラバラであった。そのためパフラヴィー王制は不安定ながらも安定していた。パフラヴィー王制が優れていたというより、野党がお互いに喧嘩をしてくれたために、パフラヴィー政権は助かったのである。

 しかし度重なるデモと増加する死傷者の連鎖の中で、国内はある種の内戦状態となった。こうなると、野党側もそれぞれの立場を主張するよりも、目の前の戦いに一致団結しようとなる。政党間の主張の違いは棚上げとなり、共通の敵に対する憎悪で一枚岩となる。しかしこのメリットはデメリットでもある。熱狂状態は一枚岩というメリットを生み出すが、その裏で巨大なデメリットを生む。民衆が当初の目標を忘れ、ナショナリズムに熱狂してしまうのだ。

 こうなると穏健で平和主義的な政党は、民衆にとって魅力的なものに見えなくなってくる。逆に、それまで過激派として疎まれていた攻撃的な政党が、魅力的なものに見えてくるようになる。こうしてナショナリズムの熱狂の中、当初の対立の図式である「民主主義VS独裁」が、「国民VS王」、「イラン人VSアメリカ人」、「イスラム教徒VS欧米人」という図式にすり替えられていく。

 こうして民衆は平和と民主主義よりも、民族の誇りを鼓舞するリーダーを求めるようになる。ナショナリズムの熱狂の中で、最初の目標は忘れ去られる。民主主義は放棄され、カリスマ性のある民族主義者が求められるようになる。こうした熱狂の中で、空から降ってきたのがホメイニーであった。

 

3.熱狂の民衆心理はアジテーターを求める

 エールフランスの特別機で空港に降り立ったホメイニーは、国民に熱狂的に迎えられた。それまで一部の過激派にしか支持されていなかったホメイニーは、闘争で熱くなっていた国民にとっては強力なリーダーに見えた。

 「頭を冷やせ」と説教する知的なインテリは、そこでは求められない。求められる人物は、火に油を注ぐアジテーターである。アジテーターは対立の構図を鮮明にし、大衆に向かって敵をわかりやすく指差す。アメリカを「大悪魔」と15年に渡って言い続けたホメイニーは、平時においては過激派だった。しかし、戦時においては光り輝く救世主に見えるようになった。ホメイニーが変わったのではない。民衆が変わったのだ。

 民衆のデモを暴力で押さえつけたパフラヴィー王は、民衆の冷静さを失わせた。これによって、ホメイニーが政権を取る土壌がつくられた。「独裁VS民主主義」の戦いは、結果として「独裁」も「民主主義」も勝たなかった。両方とも敗れ、勝ったのは両者とも望んでいなかったホメイニーであった。

 人間が冷静に物事を考えることができない時、熱狂の中で選択した結果が想像もしなかったようなものとなると驚くものである。しかし「こんなはずではなかった」と思っても、それを選択したのは紛れもなく本人である。熱狂的にホメイニーを支持した人達は、イスラム革命が成功した後のイランの状況に驚いた。

 パフラヴィー王のもとでは一応形だけとはいえ存在した民主主義は消え去った。信教の自由はなくなり、イスラムシーア派以外は生きずらい国となった。また同じシーア派であってもホメイニー派以外は認められないので、シャリアトマダーリーのようなシーア派多数派の大物でさえ弾圧された。

 立憲民主主義を主張するシャリアトマダーリーはホメイニーと対立し、後にホメイニーから自宅軟禁処分を受ける。シャリアトマダーリーを尊敬していたホメイニーは、かつて敬った師と対立し、自宅に閉じ込めたわけである。

 

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Shariatmadari and Khomeini

 地方自治も認められなくなった。そのため、クルド人などの非主流派民族は迫害されるようになった。自治権を求めれば、暴力で鎮圧された。政党の自由はなくなったので、野党は迫害された。かつて反王戦争でホメイニー派と戦友だったムジャヒディンハルクなどの政党は、テロリスト認定されることとなった。女性は髪型の自由を奪われ、ヒジャブをつけることが義務付けられた。

 ペルシャ人のみならず様々な民族と宗教で成り立っている多民族国家イランにおいては、元来自由と独立を望むイラン人の気風があり、権力に従順な国民性ではない。そのため、それを無理やり押さえ込むとなると、かなりの暴力が実行されることとなる。イランが現在でもアムネスティなどに批判されているのはそのためであろう。

 

イラン、17歳2人の死刑執行 人権団体が非難

https://www.cnn.co.jp/world/35136482.html

 

裁判官 4000人を死刑にした男 【日本初公開】

https://asiandocs.co.jp/con/224?from_category_id=5

 

 私は第十四回ブログにおいてバルーチ人組織について書き、また第四十六回ブログにおいてアルバニアを拠点として活動するムジャヒディンハルクについて書いた。彼らが今でもイラン政府に反抗するのは上記のような理由がある。彼らは長きに渡ってホメイニー派とともに、反王、つまり反米の戦いをしてきた。

 しかし、ホメイニーのイランが成立した後、彼らはCIAから資金援助を受け、反政府運動を展開している。戦いによる解決を夢見た彼らは、今でも戦い続け、解決は夢のまた夢である。その戦いでは敵と味方が逆になり、昨日の敵は今日の友になり、昨日の友は今日の敵になる。自由を求める戦いは、不自由と対立と予想外の結果を生み出しているのである。