戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第十八回 「報道の自由」と「報道しない自由」

 私は民主主義における「報道の自由」を否定しているわけではない。民主主義国家なら自動的に国民に「知る権利」が手に入るという甘い話はないと言いたいのである。独裁主義国家や共産主義国家の体制を転覆して民主主義国家にすれば、「大本営発表」が自動的に克服されるわけではないし、「真実」が棚から牡丹餅式に国民に転がり込むわけでもない。例えば米軍が北朝鮮を滅ぼし、金王朝体制をひっくり返して、民主主義の国家体制をつくりあげたとしよう。それは北朝鮮の国民のみならず、世界中の人が喜ぶ祝祭となるだろう。しかし、ハネムーンの夢気分は長く続かない。

 北朝鮮が民主主義、自由主義の国となったら、それまでの共産主義体制とは違い、日本やアメリカのように、民間企業が報道の担い手となるであろう。メディアが巨大な利権となるわけだ。そうなると、自由国家の北朝鮮の報道機関は自ら「報道の自由」を放棄して、利益を独占する大手メディアが権力と一心同体となり、国民に対して大本営発表をするようになるだろう。

 そうなった時、北朝鮮の国民は試されることとなる。それまでの独裁主義体制であれば、国民は報道を信じなければよかった。政府は特権階級の集まりであり、一般庶民の味方ではない。少数の権力層が、多数の国民を支配する。その中で、政府と一体となった放送局が、真実を報道するはずがない。政府の失態をひたすら隠し、国民を欺く報道ばかりを流す。そのような中で、国民が取る態度は一つしかない。政府と一心同体のメディアを信用しないことである。

 共産主義体制や独裁主義体制においては、国民は報道について「どうせ嘘だ」と思っていればいい。現に共産主義体制の報道は嘘だらけである。しかし、民主主義体制になったら国民に自動的に真実が転がり込むわけではない。もし、北朝鮮民主化されたら、北朝鮮の国民は、どの情報を信用するか、自分で考えて判断するしかない。共産主義メディアは嘘だらけであるが、資本主義メディアも嘘だらけである。

 しかし、多くの国民はおそらく大手メディアを信用してしまうであろう。民主主義のベテランであるアメリカ国民でさえ、およそ200年くらい同じパターンで騙され続けている。民主主義歴70年以上の日本国民も、いまだに騙され続けている。北朝鮮が民主主義体制になるとしても、デモクラシー初心者の国民が、すぐにデモクラティックになるはずがない。結局のところ、彼らも民主主義国家における奴隷とならざるをえないであろう。せっかく独裁体制の奴隷から抜け出せても、今度は民主主義国家において奴隷となってしまうのだ。

 民主主義国家における報道機関は、国家権力ではなく、民間の会社である。日本においては、NHKですらも国営組織ではなく、民間の法人である。こうした民間企業により、政府と癒着した報道が国民に流され、いかにも中立公正な「ニュース」という風体をとる。まるで間違いのない「事実」のような顔をした情報が国民に流されるのだ。

 独裁国家が国民を騙すことは誰でも知っている。しかし、民主主義国家においても政府は平気でウソをつき、報道は平気でウソを垂れ流す。これを国民はどれだけ自覚しているだろうか。イラク兵がクウェートの病院を襲い、赤ん坊を病院の壁に投げつけたという報道はウソだった。涙の証言をしたナイラは駐米クウェート大使の娘だった。油まみれの水鳥は、フセインの軍隊による犠牲者ではなかった。中東の平和をかき乱すとされた核ミサイルは、イラクに一発もなかった。核施設のためのアルミ製チューブと言われた部品は、ただの建築用チューブだった。

 何もかもがウソであり、ウソの大合唱であった。それによってイラク人やアメリカの若き米兵が大量に亡くなったが、政府もメディアも一切責任を取らない。チェイニーは軍事関連会社のハリバートンの役員であったから、あの戦争で相当に儲けただろう。ブッシュ一族は軍事投資会社であるカーライル・グループの幹部である。戦争で軍事関連企業は儲かり、そこに投資した金融業も儲かり、過熱報道をしたメディアも儲かった。犠牲者は戦場に行ったアメリカの貧困層の若者とイラク国民である。金持ちたちは、彼らを犠牲にして大儲けしたのだ。

 当時の世界の人々は、気づかなかった。大量破壊兵器は、イラクにあるとずっと言われていたが、実はもっと身近なところにあったのだ。それは利権のためなら何でもする政治家であり、関連企業であり、大手メディアである。アメリカは、国自体が大量破壊兵器であり、それを支援する日本も同様である。兵器とは、爆弾やミサイルだけではない。戦争によって儲けようとする政治家や企業は大量破壊兵器であり、戦争を煽るメディアも兵器であり、メディアの言うことを鵜呑みにする国民も兵器である。

 当時、子どもを爆弾で亡くしたイラク人の女性が、テレビカメラに向かって、「うちの子がなぜ死ななければならないの!」と泣き叫んでいた。その問いに対する答えは単純である。そうした人達が戦争で死ねば、地球の裏側の誰かが、非常に儲かるからである。誰かの悲しみは、誰かの利益である。

 民主主義国家においては、「報道の自由」が憲法によって保障されている。その「自由」は、履き違えられて、「政府から流れてくる情報をそのまま報道する自由」となったり、あるいは逆に「肝心なことを報道しない自由」となったり、「忖度した情報を流す自由」となったりする。本来、「報道の自由」とは、国民が真実を受け取ることを国家によって妨げられないことを意味する人権である。しかし、それは大手メディアが「金を儲ける自由」と成り果ててしまった。

 この履き違えられた自由をもとにして、大手メディアはきちんと事実を検証せず、政府筋から貰った情報をそのまま紙面に載せる。あるいは知っていて知らぬフリをする。例えばナイラ証言にしても、ナイラは大使の娘であったわけだから、画面でその顔を見た瞬間に気づいた人はいたはずだ。国務省関係者や外交官、あるいは外交担当のジャーナリストの中には、その茶番に気づいた者もいただろう。しかし、そうした外交のプロたちは、気づいていても、あえて声をあげなかった。余計なことを言って自分の地位と年収が脅かされることを恐れたわけである。

 アルミ製チューブについても同様である。核施設用のアルミ製チューブと、通常の建築資材としてのアルミ製チューブでは明らかに形が違う。普通の建築用アルミ製チューブは、濃縮ウランの製造という厳しい環境では使用できない。太さも強度も明らかに異なる。これは、公開された写真をもとに、ジャーナリストが核施設の建築に携わる専門家に取材すれば、簡単にわかることである。しかし、彼らはそのような取材をしなかった。あるいは取材の結果、あれは濃縮ウラン用のチューブではないと明確にわかったのかもしれない。わかっていながら口を閉じたのだろう。

 おそらく、大手メディアのそうした在り方を批判したり、文句を言うことは建設的ではないだろう。彼らは自らの既得権益を守っているだけであり、企業活動の自由が保障されている民主主義国家において、金儲けしているだけである。金儲けの自由が保障されている民主主義国家において、金儲けのために存在している企業を責めても意味はない。彼らには「報道の自由」があり、「報道しない自由」もある。それは、「わかっていながら隠す」という自由であり、当たり障りのない報道をして自分の利権を守る自由でもある。

 現在(2019年7月10日現在)、「新聞記者」という映画が日本全国で公開されているようである。私はまだこの映画を見ていないが、次のようなセリフがこの映画に出てくるそうである。

 

「この国の民主主義は形だけでいいんだ」

 

日本には民主主義によく似た形があるだけ

https://president.jp/articles/-/29272

 

 独裁国家共産主義国家が民主主義国家になれば、「報道の自由」が確立されるだろう。しかし、それと同時に、その国は、「形だけの民主主義」に陥る危険性もある。この「形だけ」に国民が満足する時、その国は支配者層にとって大変に操りやすい国となる。

 嘘の情報をもとに戦争が起きても、メディアはその嘘を暴かないし、国民もそれを疑わない。後でそれがバレても、誰も処刑されない。誰も罰せられることはない。費用は全額税金、死傷者は一般国民、儲かるのは国際金融資本家という構図が出来上がる。「形だけの民主主義」は、国自体が一つの大量破壊兵器となる可能性を秘めている。