戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百回 新しい時代に何を手放すのか(7)

1.非時間の絶対性

 

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モモ ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫

 時間の国に辿り着いたモモは、マイスター・ホラの導きによって、星の振子が揺れる場所に立つ。その振子が黒い池の水面に近づくと、超絶的な美しさの花が咲くのであった。モモはそれを「すべての花のなかの花、唯一無比の奇跡の花」と呼んだ。

 だが、振子がその「奇跡の花」から遠ざかっていくと、花は盛りを過ぎ、黒い水底に散り、沈んでいった。モモは声を上げて泣きたいくらいに悲しくなったが、この場所に辿り着く前にマイスター・ホラとした約束、すなわち沈黙の決まりを守り、一切の声を出さない。

 そうしたモモの感情の揺れを横に置き、振子は揺れる。すると、その揺れは再び新しい花を咲かせる。その度にモモは思う。「これこそが最高の花だ」と。毎回形を変え、まったく違った個性として花は咲くが、その都度最高なのだ。「奇跡の花」が枯れ、消えてゆく姿にモモは悲しんだが、それは「その花」だけを切り取り、執着したからであった。

 実際の世界はそうした「切り取り」と違い、全体性である。咲き誇る花とそれを無化する黒い池、花を生かして殺す時間の振子、そしてそれを見て喜びと悲しみの間を揺れるモモ。これらの間に切れ目はなく、一心同体である。その瞬間瞬間が全体性の表現であり、完全性の具体化である。井筒俊彦(1914-1993)はそうした瞬間の絶対性について、次のように表す。

 

読むと書く 井筒俊彦 慶應義塾大学出版会 398頁

ありとあらゆるものが宇宙的な生命のざわめきの中に顫動し、波立ち湧きかえっている。一切のものが刻々に生起したかと思うと、虚無の底に沈み、沈もうとしてはまた蘇る、明滅する生と死の脈搏のうちに所謂「連続的創造」が行われて行く、そういう全存在界の光景が一望のもとに捉えられなければならない。それは宇宙の永遠の若さの直観である。

 

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読むと書く 井筒俊彦 慶応義塾大学出版会

 ミヒャエル・エンデ(1929-1995)は童話作家で、井筒俊彦は哲学者だと分類してしまうと、両者がまったくジャンルの違う専門家に見えてしまう。だが、実際は表現の違いに過ぎず、内容の違いはない。エンデはそれを童話として表すが、井筒は学問的な論文として表す。両者が共通して表したいと思っているものは「今ここ」であり、それは宇宙の永遠の若さの直観である。

 読み手としての我々は、「切り取り」の知性により片方を子ども向け、もう片方を哲学の専門家向けとして分類し、満足するが、そうした「切り取り」はかえって作者の意図を汲み取らない。それは道元禅師(1200-1253)の言葉を読む際も同じである。有名な「正法眼蔵」であっても、我々はそれを抹香臭い仏教書として読むのではなく、宇宙の永遠の若さの直観として読了しなければ、作者の真意を汲み取ることはできない。

 

全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一 誠信書房 3頁

たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

 

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全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一訳 誠信書房

 薪が燃えて灰になる。薪は原因で、灰は結果に見える。しかしそれは薪と灰をサピエンスによって「切り取る」からであり、薪から灰に移るという直線的な時間軸も、サピエンスによるものである。つまり、宇宙に絶対的な時間軸があり、その進行によって薪が灰になるのではなく、時間という色眼鏡によって薪が灰になっているように見え、因果関係が存在するように見えるのである。

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朝顔の実験 ペイント3D

 我々は朝顔の実験を通じて、科学の基礎を学ぶ。それはホモ・サピエンスとして生きるための基本を学ぶことであり、たとえプロの科学者にならなくても、我々はそうした知性がなければ社会生活をおくることができない。だから、薪が燃えて灰になるという因果関係と時間軸について知ることも重要であり、日光に照らした朝顔は咲き誇り、日光を遮断した朝顔は枯れて死ぬという知識も重要である。

 我々はホモ・サピエンスであり、これを引退して明日から野生動物として生きることはできない。だからサピエンスは我々人間にとって宿命であると言える。エデンからの離脱は宿命なのだ。だが、離脱したままでは、我々の地球破壊と自己破壊はとどまることを知らない。

 それゆえ、我々はサピエンスに飲み込まれて終わるのではなく、科学的物語から脱却することも宿命づけられている。第一の宿命がサピエンスの発展だとしたら、第二の宿命はサピエンスという縛りからの解放であろう。

 サピエンスの巨大なメリットは、同時に巨大なデメリットでもある。科学的な物語は壮大な文明を築くと同時に、「宇宙の永遠の若さ」を隠蔽して見えなくさせる。科学的物語を「物語だ」とわかっている上で、その役割を演じるのならば、まだいいだろう。だが、その物語を宇宙の真理だと誤信すれば、フィクションの時間軸の中で漂いながら人生を終えることになる。

 実際は、咲き誇る朝顔も枯れる朝顔も、それぞれの法位に住しており、非時間の超絶性の具体的な現れである。色眼鏡を外せば、若さは若さで「若さの法位」に住し、老いは老いで「老いの法位」に住しており、両者はともに「宇宙の永遠の若さ」の表れである。そこに絶対的な差異はない。「前後あり」のように見えながら実際は「前後際断せり」、すなわちこの瞬間が絶対的な完全性なのである。

 

2.表現形式はジャンルではなく運命である

 「切り取り」というサピエンスからすれば、月をさす指もジャンルによって分断されてしまうだろう。すなわち、ミヒャエル・エンデ童話作家である。井筒俊彦は哲学者であり、言語学者であり、大学教授である。道元は禅僧、つまり寺の住職であり、お坊さんである。書店でもそれぞれの本は、それぞれのジャンルで配置されている。同じ指が、それぞれに遠く離れた書棚に置かれている。

 これは日本に限らず、世界中どこでも変わらないから、この星の知性の次元をあらわすものだと言ってよかろう。この三人が言っている内容は驚くほどに同じであるが、地球人は内容に無頓着であり、それぞれを見た目で判断し、分類する。

 一人は童話作家、一人は学者、そしてもう一人は坊主に見えるから、外見に応じてそれぞれのジャンルに配置される。こうした外見による分類は暴力である。相手の話を聞かず、見た目だけで形式的に分類しているからだ。

 もちろん、書店や図書館が悪いのではない。個人が運営する小さな本屋ならともかく、巨大な書店や図書館で、いちいち内容を吟味して書架に配置することは不可能である。巨大システムを運営する際には、必然的に暴力が呼びこまれることになる。

 大事なことは暴力を非難することではない。暴力を非難すれば、その非難が暴力となる。となると、大事なことは暴力の排除ではなく、暴力の自覚である。暴力を悪として断定する瞬間、その断定という「切り取り」自体が悪魔となる。肝心なことは巨大システムが暴力を内包していく必然性をとらえることである。

 システムは暴力を要求する。それは街の書店の棚に暴力的な分類として、静かにひっそりと佇んでいる場合もあれば、ナチスホロコーストのように巨大なものとして表れる場合もある。そこではユダヤ人であれば問答無用に、誰でもガス室におくられた。それぞれの人から個別に話は聞かれる必要がないと判断されたのである。

 見た目だけで判断されるなら、道元であろうと、あるいは仏道からかけ離れた葬式仏教の権威であろうと、同じ坊さんなので、「坊主」というジャンルでひとくくりにされるだろう。そうして書店や図書館の「仏教」のコーナーは玉石混淆となり、結果的に99%が「石」となり、その中から「玉」を見つけ出すことは苦労となる。

 サピエンスに疑いがなければないほど、見た目による判断という暴力は横行するようになる。例えば、サピエンスからすれば、科学は現実で、童話は空想である。それは科学が見た目としていかにも現実的であり、他方、童話は見た目としていかにも空想的に見えるからである。

 だが作者からすれば、童話という形式が表現として採用された理由は、それが真理を表すのに極めて現実的だからである。科学というものが「切り取った」世界における現実しか表せないのに対して、童話はある種、融通無礙である。空想として語ることが逆説的に現実的となり、現実として語ることが逆説的に空想的になる。

 現実としてどこにも存在しない童話、すなわち物語を書くことによって、過去でも未来でも通用する、すなわちどこにでも存在する物語として表すことができる。ミヒャエル・エンデはそのことを次のように書いている。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 398頁

「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

 

 見た目から判断すれば、「過去」と「未来」はまったく違うものである。しかしそれは「起こる」という本源からすれば同じものの表れの違いにしか過ぎない。本物の童話作家は、夢やファンタジーの中で想像を遊ばせる人物ではない。空想に任せて好きなことを書くというのは、童話作家の本当の仕事ではないのだ。

 むしろ本当の童話作家は、その極めて現実的で冷厳な眼差しのために、「童話」という表現形式を招き寄せる。それを本人の選択と言ってしまうと、むしろ空想的になる。それより、「童話」という形式の霊が、真理の生成として、その人を書き手として生み出すという言う方の方が正確であろう。

 哲学であろうが、童話であろうが、仏教であろうが、どの形式によろうが、言い表わされる内容は同じであり、それは瞬間瞬間の絶対性である。内容は同じでも、表現方法が異なるところが興味深いが、形式は本人に選べるものではなく、運命であろう。

 こうした意味での「運命」に比べれば、街角の占い師に占ってもらうような「運命」は、ある意味、右に行こうが左に行こうが、どうでもいいレベルの話である。所詮、それはどちらの道に行けば利益が大きいかという次元に過ぎない。

 キリストはキリストであのように真理を表現するしか他にない運命であるし、仏陀仏陀であのように真理を表現するしかない運命である。どちらも主語は人間ではなく、絶対性が自らを自らとして表す動きである。

 本当は、今回、モモが時間の国で語りかけられた言葉について述べる予定だったが、その前段階でかなりの文字数になってしまったので、それについては次回に述べたい。