戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百一回 新しい時代に何を手放すのか(8)

1.純粋な耳だけが星々の声を聞く

 はじめ、モモは時間の国で奇跡の花に見とれていた。至上の花が咲き、枯れて、散ってゆく。すると、すぐにそれとはまったく異なる花が誕生する。その都度、最高の花である。まるで宇宙飛行士が漆黒の闇の中で回転する地球を見続けるように、いつまでも見飽きることなく、モモはその風景を見続けていた。

 だが、そのうちモモは光の別の側面に気づく。丸天井の中心から射し込む光は、視覚として捉えられる光であるだけではなかった。その光は音でもあった。最初、風のざめめき、滝の音のような風景音のように聞こえていた光の声は、懐かしい思い出とともに、モモの心に甦った。星空の下、誰もいない廃墟で聞こえてきた音楽がそれだったのだ。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 3233

 モモは犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざわめく風にまで、耳をかたむけました。するとどんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。

友だちがみんなうちにかえってしまった晩、モモはひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちのなかにすわっていることがあります。頭のうえは星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。

 こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、ふしぎと心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。

そういう夜には、モモはかならずとてもうつくしい夢を見ました。

 

 禅の修行とは、修行僧に坐禅をさせ、強制的に耳たぶの底に座らせることである。だが、強制的に「やらされている」うちは、音楽は聞こえてこない。修行僧はどこかで「強制」から「自発」への転化が迫られる。それがなければ、修行は死ぬまで牢獄で終わるだろう。

 モモにとって「耳たぶ」は自然なことであり、そこに強制の色合いは一切存在しなかった。彼女にとって、聞くことは生きることそのものだったのだ。だから人の話だけでなく、コオロギやカエル、雨や風の話もすすんで聞いた。

 モモは「悟り」という利益を得るために、耳たぶの底に座ったわけではない。他方、我々ホモ・サピエンスは、何らかの利益のためにモノを聞く。それが当たり前になってしまっているので、ただ純粋に相手の話を聞くということができない。そうなると、たとえ耳に異常はなく、音はしっかり聞こえても、星の世界の声は聞こえなくなる。

 だから道元(1200-1253)は只管打坐を説いた。それは「悟り」という利益のために坐禅をするのではなく、ただ「耳たぶ」であるために坐ることである。

 

全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一 誠信書房 2

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

 仏道を習うことは自己を習うこと、すなわち自己を知ることである。自己を知るとは、「自分は何々である」というデータについては一切忘れ、万法、すなわち宇宙の声を聞くことである。そうすれば「自分はこうである」という「こだわり」(自己の身心)、あるいは「他者はこうである」という「こだわり」(他己の身心)は脱落し、純粋な声そのもの(万法)が聞こえてくるはずである。

 モモは時間の国で、射し込む光の声を聞き、徐々にその言葉が聞きとれるようになった。それは習慣的に使用され、秩序を失ったバラバラの言葉や知識が、再統合される瞬間であった。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 243

 じっと耳をかたむけていると、だんだんはっきり、ひとつひとつの声が聞きわけられるようになってきました。でもそれは人間の声ではなく、金や銀や、その他あらゆる種類の金属がうたっているようなひびきです。するとこんどはすぐそれにつづいて、まったくちがう種類の声、想像もおよばぬとおくから言いあらわしがたい力強さをもってひびいてくる声が、聞こえてきました。それらはだんだんはっきりしてきて、やがてことばが聞きとれるようになりました。いちども聞いたことのないふしぎなことばですが、それでもモモにはわかります。それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの〈時間の花〉のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをしているのか、どのように力をおよぼしあっているのかを、知る鍵となっているのです。

 

2.空っぽの心が心を見る

 ひたすら聞く。それが只管打坐である。我々は知識が邪魔をして、ただ聞くこと、ただ見ること、ただ座ることができない。そうした最も単純なことができないから、もっと複雑で難しいことをしようとする。そうした複雑で難しいことを為した人に、金と名誉が集まるという世界の構造になっている。

 だがそれでは根本を知ることはできない。サピエンスがいくら発展しても、宇宙の声からは遠くなるばかりである。モモは皆が目指す方向とは逆に進んだ。結果、「自己をわするる」ことによって「自己を習う」こととなった。サピエンスとしての自己が完全に忘れられる時、万法は巨大な顔となり、自分一人に語りかけられていたことに気づく。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 243244

 そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、じぶんに語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となってモモのほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!

 おそろしさよりもっともっと大きななにかが、モモを圧倒しました。

 その瞬間、彼女を手まねきしているマイスター・ホラのすがたが目に入りました。モモはかけよりました。マイスター・ホラにだきあげられ、その胸に顔をうずめました。ふたたび彼の手が雪のようにふわっと目をふさぐと、すべてはくらく、しずかになって、不安は消えました。彼は長いろうかをとおって、もどって行きました。

 時計のすきまの小さなへやにかえりつくと、彼はモモをきもちのよいソファーにねかせました。

 「マイスター・ホラ、」と、モモはささやきました。「あたし、ちっとも知らなかった。人間の時間があんなに・・・・・・」――ぴったりすることばをさがしましたが、見つかりません。しかたなく、こうむすびました――「あんなに大きいなんて。」

 

 「あんなに大きい」とは、誰もが持っている「心」である。宇宙が大きいのではない。宇宙が大きいとわかる心が大きいのだ。だがこれがわかるのは「心」だけである。心がわかるのは心だけなのだ。つまり、サピエンスにはわかりようがない。

 サピエンスの「自己」とは、永遠の欠乏である。だから、次から次へと獲物を求める。この「自己」に純粋贈与、すなわち「何もかもが宇宙から与えられている」という言葉を投げ込んでも、理解が起こるはずはない。「私はこんなに足りないのに、ふざけるな!」という反発しか帰ってこないだろう。

 サピエンスは常に進化し、繁栄することが宿命づけられている知性である。だから、進歩に対する「手放し」、すなわち道元の言う「わするる」は受け入れることができない。泳ぎ続けなければ死んでしまう鮫のように、サピエンスは永遠の改善を求め続ける。

 自殺願望でさえも「永遠の改善」であり、「死んだら今よりも良くなる」と思うから、自殺を改善だと思うのである。犬や猫はマンションの屋上に駆け上がって、そこから飛び降りようとはしない。「永遠の改善」は文明の力であり、ホモ・サピエンスの存在基盤と言えるものであるから、人間が普通の意味での「人間」である以上、これを手放すことは困難だ。

 その意味では、人間がエデンに憧れながらエデンに帰らないのは、人間がエデンを拒絶しているからであると言える。人間は時として、自らがホモ・サピエンスであり続けるために、解放を拒絶し、塩水を飲み続け、時には死を選ぶ。

 その意味では、サピエンスは宇宙の真理を知ろうとしながら、同時に宇宙の声を拒絶するという態度をとる。だから原発でも基地問題でも、政府は地元住民の意見を聞くためと言って何度も集会を開くが、実際は地元の声を聞くつもりはないのである。「聞く」と言いながら結論は決まっているのだから、「聞く」つもりなんかあるはずがない。

 タオス・プエブロネイティブ・アメリカンの古老は、ナンシー・ウッドとの会話の中で次のように話す。世界中から人々が訪れ、ネイティブ・アメリカンから宇宙の叡智を聞き出そうとする。しかし、本当に聞くつもりはない。

 サピエンスを握りしめながら叡智を掴もうとしても、無理に決まっている。まずは握りしめているものを離さなくてはならない。空っぽの心だけが心を見ることができるのである。

 

今日は死ぬのにもってこいの日 ナンシー・ウッド 金関寿夫訳 めるくまーる 2-3

いろんな人がここへやって来る、そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。やたら質問するのだけれど、答えは聞くまでもなく、連中の頭の中でもうできてるんだ。俺たちの子どもは素晴らしいと言うけれど、本当のことを言うと、可哀想だと思ってる。さかんにあたりを見まわしても、やつらに見えるものといえば、それは埃だけさ。俺たちのダンスを見にくるのはいいが、写真を撮ろうと、いつもキョロキョロしている。連中は俺たちのことを知ろうと思って、俺たちの家へ入ってくるけれど、時間は五分しかないと言う。土と藁でできてる俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。だからここに住んでなくてよかった、と本当は思っているわけ。そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑ってる。俺たちの人生の秘密を見つけだそうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえ見つけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ。

 

3.人間自身が森羅万象となる

 時間は五分しかないのではない。本当は、時間は無尽蔵に与えられている。それがわかれば時間を切り売りする必要もなく、惜しむ必要もなく、争う必要もない。仏教ではこれをタターガタ・ガルバtathagata-garbha(如来蔵)と言う。それが人間の一人一人に与えられている「心」である。

 無尽蔵の蔵があるということは、何もかもが与えられているということである。このことに気づけば、その主体は転換を迎える。それまで様々なことに不足を感じ、不平不満を言っていた自我は、袋を裏返しにしたように転換し、何も欲しがる必要がないことに気づく。これが心の飢餓の終焉である。

 この終焉により、古い自我も終焉し、終わりと同時に新たな自己が誕生する。贈与される自我から贈与する自己への転換である。「全てが自分に与えられている」という気づきがあれば、様々なモノを欲する「自分」でさえも必要なくなる。だから自我の終焉なのである。

 こうなると、与えられる側から与える側にまわることになる。これまで太陽、水、空気、木々、様々な動物たち・・・といった森羅万象から与えられていた幼い自我は卒業を迎え、「与えられる必要はない」という気づきを携えた大人になる。これが自立である。

 ドストエフスキー(1821-1881)は「カラマーゾフの兄弟」の中で、その「自立」について、主人公アリョーシャの体験として物語っている。

 

カラマーゾフの兄弟(中) ドストエフスキー 原卓也訳 新潮文庫 187

何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、≪その狂態を恥じなかった≫のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が≪ほかの世界に接触して≫、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想とも言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。

 

 森羅万象、すなわち神に向かって「もっとよこせ」と要求していた幼子は、転換を迎えることで贈与する側にまわり、その人自身が森羅万象となる。つまり、人間は環境から搾取する側から転換し、自身が贈与する環境そのものとなるのだ。ミヒャエル・エンデはそれを「音になる」と表現する。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 236237

 「すると、もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったら、どうなるの?」

 「そのときは、おまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうにも言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。人生を逆にもどって行って、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出ていくのだ。

 「そのむこうはなんなの?」

 「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽に加わる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ。」

 

 「環境になる」と言っても、その人は無味乾燥な石ころになるわけではない。むしろその人は自分の命を守るために生きる必要がなくなるから、自由になる。自己保身のための「自己」として生きる必要がなくなるゆえに、かえって自分らしく生きることができるようになるのだ。その意味では、自己防衛のために敵を打ち倒す人物はまだ真の闘士ではない。保身を必要としない人間が、真の意味での「堅固な闘士」なのである。

 それゆえ純粋贈与に気づいた人間は、ただ廃墟に座って満足することはない。そこには一切の停滞はなく、動きのダイナミズムがある。純粋贈与の気づきは自我の終焉であり、同時に自己の誕生でもあるからだ。だから、その人は宇宙としての自己を、ダイナミズムとして生きるのである。

 再生した人間は、サピエンスに翻弄されることもなければ、サピエンスを恐れる必要もない。ただ、それについて熟知しているだけである。泥酔の人が車を運転すれば走る凶器となるが、正常な人が運転する自動車は人を助ける道具にもなる。包丁は素晴らしい料理を創造するが、人殺しの道具にもなる。

 サピエンスを超えた人間のみが、サピエンスに呑み込まれない「人(ひと)」となる。自分の命を守るために生きることは貧しいが、生命そのものを生きることは豊かなことである。逆説的な表現であるが、自分を生きるために、自分の命は必要ないのである。

 もちろん、これは本当にわかった上で行わなければ、無謀な自爆行為に堕落せざるを得ない。「自己を捨てる」ということを頭だけで理解して行為することは、非常に危険である。今も世界のどこかで、自己の命に対する無執着というテーゼを頭だけで理解することで、自爆テロが横行している。

 だから、真理は常にその人自身が身をもって理解することを求めている。我々には太陽、水、空気、木々、様々な動物たち・・・といった無数のものが与えられているが、そうした純粋贈与の中で最も尊いと思われる贈与が、我々人間の心に降りてくる「気づき」である。

 つまり、純粋贈与は最初、太陽、水、空気・・・といった個別のものを我々に与えるが、最終的には純粋贈与自身という御体(御身)を我々に丸ごと与えてくれるのである。それが、時が満ちるということである。時が満ち、女が子を産むように、純粋贈与は御体を人間に与え、自らの子(神の子)を産むのである。

 これは頭(サピエンス)によって強引に理解するものではなく、時が満ちることによって我々一人一人に「産まれる」ものである。だから、そうした「満潮」が至るように祈りながら終わるため、マイスター・エックハルトの言葉を紹介して終わりたい。

 

エックハルト説教集 田島照久編訳 岩波文庫 128129

どうすれば正しいあり方となるのであろうか。預言者の言葉に従えば二つのあり方においてである。預言者は、「時が満ちると、御子が遣わされた」(ガラテヤの信徒への手紙四・四)と語っている。「時が満ちる」のには二つの仕方がある。ひとつは、たとえば晩に一日が果てるように、その終りにおいて、あるものが「満ちる」場合。つまり、すべての時間があなたから失われるとき(つまり死するとき)、このとき時が満ちるのである。二つ目は、時間がその果てに到るとき、つまり、時間が永遠の内へと入るときである。なぜならば、そこでは一切の時間が終りを告げ、そこには以前も以後もないからである。そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。かつて生起したものも、これから生起するものも、あなたはここではひとつの現なる直観の内でつかむのである。ここには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが「時が満ちる」という意味である。そのような正しいあり方にわたしがいたれば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。

 この「時が満ちる」ところにまで、わたしたちが到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン。

 

※ しばらく読書と黙想の時間をいただきたいと思います。

  次回は2021年5月16日、リニューアルオープンを予定しております。