戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第九十六回 新しい時代に何を手放すのか(3)

1.サピエンスに対する恐れ

 「最も恐ろしいもの」と言われて、何が頭に浮かぶだろう。核ミサイルであろうか。戦争であろうか。全財産を失うことであろうか。それとも究極の恐怖、すなわち死であろうか。ところで私ならその問いにこう答えたい。「最も恐ろしいもの」、それはサピエンスだと。

 もちろん、普通の人間意識にとってサピエンスは恐れの対象とはならないだろう。空気よりも自然なものだからだ。だが実際にはその当たり前が恐怖の源泉である。戦争、核ミサイル、死・・・といった恐怖の現象は、全てサピエンスという母体から生み出される。サピエンスと一体化した生き物、すなわちホモ・サピエンスはそれに気づかない。サピエンスが映し出す幻影を本物だと思ってしまうのだ。

 このカラクリに気づいた歴史上の最も有名な人物が、ゴータマ・シッダールタ、すなわち仏陀であろう。映画館のスクリーンに映し出されるストーリーをホモ・サピエンスは恐れる。だが、これらの映像は映写機をストップしてしまえば幻影だと気づかれる。だとすれば、問題はスクリーンの中で展開する映像ではなく、映写機の方である。

 映写機に気づかず、映像の中の敵とひたすら戦い続けようとする人間意識を、ゴータマは無明と呼んだ。しかし聡明な彼であっても、王宮を捨て出家し、修行の日々に埋没しなければならなかった。それは彼であってもホモ・サピエンスである以上、映写機は自動的に動き続けるからであった。

 普通の意識からすれば、豪華な王宮を捨てることは理解不可能だ。むしろサピエンスはあらゆる問題の解決をサピエンスの力で克服しようとする。病気が起これば医学の進歩に頼り、死の先延ばしを願う。不便なことはテクノロジーで解消しようとし、人間関係のいざこざは金で解決しようとする。

 101歳で亡くなったデイヴィッド・ロックフェラー(1915-2017)は、心臓移植を6回していると言われている。これが事実であるか、私は知らないし、知ろうとも思わないが、あり得ない話ではないと思う。というのも、ロックフェラーに限らず、世界の金持ち、権力者にとって臓器移植は珍しいことではないからだ。

 

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Jiang Zemin, Henry Kissinger and David Rockefeller 1995

 中国ではウイグル人チベット人法輪功の人達の内臓が抜き取られ、金持ち用の臓器として広く利用されている。これが日本のマスコミで騒がれないのは、日本の富裕層もこのサービスを利用しているからだ。

 

チャイナ“臓器狩り” 日本は最大の顧客か

 

中国での臓器移植、大半「後ろめたくない」 岡山大・粟屋教授が中間報告

 

 デイヴィッド・ロックフェラー天皇を自宅に招いて食事をした唯一の民間人と言われているが、これは日本人であれば総理大臣であってもできないことである。宗主国の権力者であるからこそ、現人神(あらひとがみ)と言われる天皇を自宅に招いて食事をすることができるのだ。

 

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  心臓移植を6回したということは、それによって名もなき誰かが6人死んだということである。これを世界中の人達が批判するが、デイヴィッドからすれば痛くも痒くもないであろう。「君たちは金も権力もないからできないだけで、本当はやりたいだろ」と言われたら、反論できない人も多いかもしれない。批判の裏には嫉妬があるという事実については、無数の批判を受けてきたデイヴィッドが一番よく知っているだろう。

 ゴータマはデイヴィッドのような金持ち、権力者、およびそれに対する嫉妬と一体化した批判を、豪華な王宮で嫌というほど見たのかもしれない。彼ならデイヴィッドを批判しないし、羨ましいとも思わないだろう。むしろそこまでして死を逃れ、生にしがみつくサピエンスの力を恐れたであろう。

 幻影の死を恐れるがゆえに、6人の心臓を奪ってまで生きようとする無明の力。それが自分にもあることをゴータマは恐れた。彼にとってそれは死よりも恐ろしいことだ。病気や死や貧困を恐れるなら、王宮を捨てるはずがない。しかし無明の恐ろしさに気づいた意識からすれば、王宮は豪華な地獄である。無明の巣窟である王宮は一秒でも早く去る方がいいと彼は判断し、夜中にこっそり抜け出すこととなった。

 

2.恐怖から修行へ

 人の心臓を6回奪い、101年生きたデイヴィッド・ロックフェラー。金のかかった継ぎ接ぎだらけのその肉体自体が、まさに豪華な地獄であった。彼の帝国はその体を延長したようなものであった。イランの民主主義を潰し、多くの国に爆弾を落とし、植民地から搾取することで、その帝国は築かれた。以下は、デイヴィッドさん御自身が、豪華な自宅(地獄)を案内してくれている動画である。

 

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  こういう権力者を非難し、文句を言うのは簡単なことだ。結局のところ、いつの世でも変わらずに難しいのは他人の問題ではなく、自分の問題である。恐ろしいのはロックフェラーの世界帝国ではない。それは現象としてこの世に出ているにすぎない。問題はその現象の出所としてのサピエンスである。ロックフェラーが抱える心の地獄は、自分自身も同じように抱えているという事実が問題なのだ。

 普通の意識からすれば、王宮を捨てたゴータマの行動は、恐れ知らずの大胆不敵なものに見える。しかし恐れ知らずゆえに彼は王宮を出たのではなかろう。むしろ、彼は大いに恐れたはずだ。それら様々な恐怖を生み出す「おおもと」に対して。現象の一つ一つに右往左往するのではなく、恐怖の「おおもと」、すなわちサピエンスを恐れたゆえに、彼は王宮を捨てた。つまり、恐れるべきものを正しく恐れたゆえに、豪華な地獄から離脱したのだ。

 しかし巣窟から逃げてもサピエンスから逃げ切ることはできなかった。彼自体がサピエンスだからだ。自分がホモ・サピエンスであるという事実から逃れることができる人間は存在するはずがない。仏道の修行は、このジレンマから始まる。サピエンスの出所、すなわち脳を切り落とせば問題は消えるが、それでは問題の廃棄ではあっても、解決ではない。

 生きながら脳の奴隷にならないことは可能であろうか。結局、この問題はサピエンスでは解決がつかず、またサピエンスと戦っても勝ち目はない。サピエンスと戦って頭を働かせること自体がサピエンスだからだ。それゆえ聡明なゴータマ・シッダールタは、学術的にサピエンスを研究しようとは思わなかった。

 ここでシッダールタがとった起死回生の逆転策が、何もしないこと、すなわち坐禅であった。それはリラクゼーションのための瞑想でもなければ、Googleの社員たちが会社の売上アップとストレス解消のために行う瞑想でもない。文明の進歩のために行う瞑想は、名前と形式が「瞑想」であっても、本来の仏道とは動機が完全に異なるのである。

 

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Meditation and Business at google

 何らかの目的のために瞑想をしてしまえば、それはサピエンスの餌となるだけだ。だから只管打坐は目的を持って坐ることを徹底的に拒絶し、修行者に対して「坐るになりきる」ことをひたすらに要求する。

 もちろん、「何もしない」ことを求め、「坐るになりきる」ことを目標に坐れば、それ自体が進歩を求めるサピエンスに他ならない。しかし、最初はそこから始めるしかない。サピエンスに慣れきった人間がいきなり無為自然に気づくことは不可能である。だから最初はそのような有為から始めるしかないのだ。

 サピエンスに翻弄され、サピエンスの恐ろしさに気づいた意識が、サピエンスの稼働を止めるために何もしないことをし始める。ただひたすらに坐り、「坐り」になりきる。しかし、実はそれだけではサピエンスを克服することはできない。仏道の修行には隠された矛盾があり、それはどんなに修行を重ねようとも「私」は悟ることがないという矛盾である。これについては次回に詳しく述べたい。