戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第十六回 大手メディアという既得権益(その一)

 前回のブログで見たように、1835年のアラモ砦の戦い以来、アメリカが戦争を起こすパターンは約200年に渡って同じである。政府および関連企業が戦争を起こすためのシナリオを書き、メディアがそれに協力し、国民はそれに騙される。リメンバーアラモ、リメンバーメイン、リメンバーパールハーバー、リメンバートンキン、リメンバー911。内容は変わっても、形式は驚くほど同じだ。

 戦前の日本や現在の北朝鮮のような「言論の自由」や「報道の自由」が存在しない国家体制であれば、政府とメディアが一体となって国民を騙し続けるという構図は当たり前と言える。そういう国であれば、そもそも国民には「知る権利」がない。憲法において「知る権利」や「言論の自由」が保障されなければ、自由な報道は不可能であり、国家御用達の報道に国民が異を唱えることも許されない。

 「勝った、勝った、また勝った」と連日報道が行われていた大日本帝国においても、それを疑う人間はいただろう。ではそういう人が自らの疑念をもとに独自で取材をし、その成果を国民に広く知らしめることはできたであろうか。皇軍が大陸や洋上で手痛い敗戦を蒙っていたことを独自取材し、紙に印刷して国民に配ったとしたら、その人はどうなるだろう。その内容が真実であったとしても、間違いなく治安維持法によってその人は逮捕される。結果、特高に拷問されて死ぬか、大陸に送られて731部隊の生体実験の材料にされたかもしれない。

 では、「知る権利」や「言論の自由」、「報道の自由」が憲法で保障される国家においては、大日本帝国北朝鮮と違い、メディアは真実を報道できるのであろうか。その答えは、半分イエスであり、半分ノーである。半分YESというのは、メディアが真実を報道しても国家に逮捕されないということである。つまり、メディアは自由に報道できる。半分NOというのは、大手メディアは決して真実を報道しないということである。民主主義国家においては「言論の自由」が保障されているので、政府にとって都合の悪い内容が報道されても、治安維持法によって逮捕されることはない。それゆえ、真実の報道は国家によって保障されているのであるが、大手メディアはそうした自らの権利を放棄するのである。

 なぜなら、大手メディアは巨大な「利権」だからである。戦争は、国家間の憎悪や宗教の違いが原因ではなく、利権争いが原因だと私は何度も書いてきた。国際金融資本家からすれば、国家間における宗教の対立や人権の問題などはどうでもいい。民主主義か独裁国家かという問題も、どうでもいい。正義がどっちにあるかということも、どうでもいい。戦争によって独裁国家を民主国家に変えるという目的は建前にすぎない。本当の関心は「いくら儲かるか」である。そのために戦争をいろいろな手練手管で「起こす」し、邪魔者は排除する。

 ヴィクター・ソーン(Victor Thorn 1962-2016)が、世界四大金儲けは、戦争、麻薬、エネルギー、金融だと言ったが、その四つは密接にからんでいるため、実際には、金儲けは一つであり、それは一つの共同体だと言えるだろう。四つの利権に群がる人々が戦争を起こすのである。もちろん、政府は国民に対して、そのような本当のことは言えない。利権にからむ大手メディアも、本当のことは言えない。それゆえ、国民はいつでも「正義の戦争」という夢を信じて死んでいくのである。

 独裁国家共産主義国家において、国民がメディアに騙される理由は、政府とメディアが組織として同体だからである。他方、民主主義国家においても国民が相変わらず騙され続けることの理由は、メディアと政府は別組織であるが、メディアはメディアでそれ自体「利権」だからである。国際金融資本家、およびその操り人形である政治家は、自らの利権のために国民を騙す。騙して戦争を起こし、それにより、金も権力もない一般国民は大量に死ぬ。こうした詐欺と暴力の構造に、メディアも重要な役割を演じているのである。

 こうした暴力と悲劇を防ぐために、国民には憲法で「言論の自由」や「報道の自由」が保障され、報道機関には権力を監視するという役割が当てられている・・・と建前ではなっている。これが民主主義国家の建前であるが、この建前が機能することは、憲法上でいくら「報道の自由」が保障されようとも、極めて難しい。なぜなら、国民の多くが信じる「大手メディア」は、巨大な「利権」であり、利権によって利権を監視するという構造が、民主主義国家における「権力の監視」だからである。

 具体的な例をあげよう。大日本帝国が戦争をするに当たっては、大新聞やNHKラジオなどの御用メディアが、国民の戦意高揚のために大変に役に立った。これと同様、民主主義国家のアメリカがイラクを滅ぼし、その結果莫大な利益を国際金融資本家が得るために、ニューヨーク・タイムズは大変に役に立った。

 イラク戦争開戦の大義とされ、戦争に踏み切るか否かについての極めて重要なファクターであったのが、イラク大量破壊兵器保有しているという情報であった。これの真偽について、開戦前は多くの議論があったが、当時のニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、イラク大量破壊兵器保有している旨の記事を多く書いた。911事件の約一年後、彼女は2002年9月8日のニューヨーク・タイムズ一面トップ記事を同僚記者との連名で書いた。それは、イラクフセイン政権が核兵器の部品調達を急いでいるという内容の記事であった。

 イラク核兵器の開発のために、濃縮ウラン製造のための遠心分離機に使われるアルミ製チューブの購入を企んでいると同紙は書いた。その後、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がTVのニュース番組にゲスト出演し、ニューヨーク・タイムズの一面記事を紹介しながら、「イラク大量破壊兵器保有していることは間違いない」と国民に向かって訴えた。こうしてアルミ製チューブは、全米大手メディアのネットワークを経由して、国民に広く知られるものとなった。

 通常なら原子力工学の専門家でなければ知るよしもない濃縮ウラン施設用のアルミ製チューブが、アメリカ国内で有名なものとなったのだ。その後、ブッシュ大統領パウエル国務長官がアルミ製チューブについて国連で演説し、パウエルはアルミ製チューブの写真をテレビカメラに向けながら国連で演説をした。こうして、ニューヨーク・タイムズが紹介したアルミ製チューブがきっかけとなって、アメリカ国民のあいだでイラクの核開発を疑う人は少数派となり、多数派の国民がイラクにおける大量破壊兵器の存在を信じるようになった。

 こうしてアメリカによる「正義の戦争」は遂行された。以前にも書いたように、イラク戦争による死者は、約50万だと言われている。この悲劇の茶番劇の茶番性が明らかになったのは、50万人がお亡くなりになった後である。誰もが知るように、イラク大量破壊兵器はなかった。世界的に有名となった例のアルミ製チューブは、濃縮ウラン用のものではなく、単なる建築資材用のアルミ製チューブであった。核開発とはまったく関係のないチューブの写真が、濃縮ウラン用のアルミ製チューブだとでっち上げられて使われたのだ。

 さらに、後になって、ニューヨーク・タイムズの一面記事は、当時の政府関係者からニューヨーク・タイムズの記者に流された情報だったことが判明した。ニューヨーク・タイムズは、政府関係者からアルミ製チューブについての情報を受け取り、それを細かく検証せずに、そのまま紙面に載せてしまったのだ。核開発用のアルミチューブは、一般の工業用のアルミチューブとは違い、耐久性の高いものでなければならず、太さや形状や材質がまったく違う。しかるべき原子力工学の専門家や、原子力施設専門の建設業者にきけば、それが原子力用のアルミチューブでないことはわかるはずであった。しかし、ニューヨーク・タイムズはそうした検証をせずに、受け取った情報をそのまま紙面に載せてしまった。

 チェイニー副大統領は、TV出演した際に「ニューヨーク・タイムズの一面に載っているとおり、イラク大量破壊兵器保有していることは間違いありません」と声を大にして国民に訴えた。つまり、彼は自分でニューヨーク・タイムズに情報を流し、自分でつくった紙面を指差して、「新聞に載っているから間違いない」と国民に力説したわけである。

 この時のアメリカ政府がやったことは、戦前の日本の大本営発表や、共産主義国家のTVニュースと同じである。政府と報道機関が同体なのである。そこには権力の監視なんてものは無いに等しい。ただ、民主主義国家においては、一応、政府とメディアは別物で、メディアは権力の監視が役目だという建前になっているために、独裁国家ファシズム体制と違って複雑でわかりにくい。国民は、北朝鮮のニュース映像を見て、「報道の自由がない国は憐れなもんだな」という気分になるが、実際のところは自分の国は北朝鮮と違ってメディアが権力を監視しているという夢を見ているだけである。

 この件で、ニューヨーク・タイムズだけを責めても意味がない。他の新聞がきちんとその記事を検証したかと言えばしなかったわけであるし、TVの方も、ニューヨーク・タイムズの記事が間違っていることを、やる気があれば独自に検証できたはずである。そうした検証があれば、出演した政治家の言うことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自らの検証をもとに政治家に反論することもできたはずである。また、情報を受け取る国民の方も、それを信じない自由は持っていたわけだから、疑うことによって、自分で調べて考えることができたはずである。それゆえ、イラクで50万人の死者を出した責任は、ニューヨーク・タイムズだけにあるわけではない。

 民主主義国家においては、メディアは権力の監視の役割を担い、権力の暴走を止めるという建前となっている。しかし実際のところ、大手メディアの仕事は、権力と親密な関係になって、小さなメディアやフリージャーナリストでは手に入らない情報を獲得することである。そうやって、素人では知りようのない大本営の情報を発表することがプロとしての役割となってしまっているのだ。

 権力と親密であることは、大手メディアにとって財産である。つまり、既得権益である。それゆえ、彼らはそれを国民に向かって隠す。NHKの幹部が頻繁に安倍総理や菅官房長官と夕食をともにしていることを、NHKは夜のニュースで報道しない。大手新聞社の政治部長は、自分が政権中枢や大臣やエリート官僚と親密な関係を持っていることを自慢に思っている。権力の監視ではなく、権力とどれくらい自分が親しいかが彼らの自慢なのであり、それが出世の道なのである。

 国民は自分が見ているTVや新聞が、どのような既得権益で成り立っているかを、普通は考えないものである。へたをすると、一生考えない。大手メディアの社員はいくら給料を貰っているか。そのことをほとんどの国民は考えない。日本国民のほとんどは、NHK、フジテレビ、朝日新聞の社員の平均年収を知ったら驚くだろう。

 大手メディアは、権力と親密になることで自らの仕事が成り立っている。それが民主主義国家における彼らの姿である。彼らは国民に大変に信用されており、少数の会社が利権を独占しているために、富がそこに集中している。大手メディアの社員の給料は高い。癒着によって情報が入り、苦労して取材しないで済むから、仕事は楽だ。楽な仕事で高い給料が貰えるのだから、彼らの仕事で大事なことは、余計な仕事をしないことである。つまり、社会に衝撃を与える事実を報道せず、毒にも薬にもならぬような記事を配信し続けることが彼らの大事な仕事なのである。