戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第百五回 新型コロナワクチンと大出血(3)

1.ウイルスと細菌の違い

 人間が感染症に罹る原因は、ウイルスまたは細菌である。だがウイルスと細菌は、完全に別物である。だから細菌に有効な抗生物質は、ウイルスには全く効かない。今回はそういう基礎的なことから確認していこう。

 細菌は生物であり、その構造は基本的に人間の体の細胞と同じである。彼らも外から栄養を取り込み、そのエネルギーによって生きており、細胞分裂によって自己増殖するのだ。細菌と言うと、外から人間の体内に入って来るイメージを抱くかもしれないが、体内に常在する細菌も存在する。

 例えば一人の人間の腸の中には、およそ3万種類、数にして100兆から1000兆の細菌が生息している(腸内細菌 enteric bacteria)。それら一個一個の細菌が、人間が口から入れた食べものを腸内で栄養源として生きており、細胞分裂によって増えているのである。

 他方、ウイルスは細胞と異なり、自己増殖する能力はない。そのため、細胞の中に侵入し、リボソームに遺伝子を複製させることによって増殖する。人間の体細胞のみならず、細菌もウイルスの標的となる。大腸菌に侵入し、増殖するウイルスも存在する(例:T2ファージ)。

 

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ウイルスと細菌の違い

 上図では便宜的に両者を同じような大きさで描いたが、実際はまったく異なる。細菌は人の細胞の10分の1程度の大きさであるが、ウイルスは100~1000分の1程度の大きさである。自己増殖できないウイルスは、細胞よりもはるかに小さく、細菌と違い、独立した生き物とは言えない。また、ウイルスは細胞ではないため、細胞構造を破壊する仕組みを持つ抗生物質は効かない。

 簡単に言えば、相手が細菌ならそれは生き物であるから、生き物を殺す技術によって撲滅することができる。例えば抗菌剤がそうである。だが、ウイルスは細胞膜を持った生き物ではないので、抗菌剤を服用しても効き目はない。

 ただ、ウイルスは細胞膜を持たないが、エンベロープという脂質性の膜で覆われている。そのため脂質を溶かす作用を持つ消毒剤を手に塗り込む、あるいは石鹸の泡で手をこすれば、手に付着したエンベロープが破壊され、ウイルスは無効化するのである(ウイルスは生き物とは言えないため「死んだ」という表現は不適切なため無効化と表現した)。

 だが、体の中に入り、細胞内に侵入したウイルスを攻撃する薬品の開発は難しい。そのため、風邪などのウイルス感染症は体内で免疫ができるまで、安静にして自然治癒するのを待つしかない。風邪の時に内科で抗生物質が処方されることがあるが、あれはウイルス感染によって体力が低下し、その結果として体内で増えた細菌を殺すためのものであって、風邪のウイルスを攻撃するものではない。

 また新型コロナウイルスの治療として、レムデシビルやアビガンといった薬品が注目されたが、そういった抗ウイルス薬はRNAポリメラーゼを阻害する効能があり、重症化を防ぐことが期待されているが、血中に漂う新型コロナウイルスを直接攻撃する能力はない。

 結局のところ、ウイルスを克服するには体内の免疫系が働く以外にはなく、人間が開発する薬品はそれを補佐あるいは増強するものでしかないのである。つまり、細菌を殺すための服用薬や注射は存在しても、ウイルスを殺す(正確には無効化する)ための薬は基本的に存在しないのだ。

 となると、人間の体がウイルスに打ち勝つための主役は、あくまでも免疫系である。発熱や下痢は、そうした免疫反応が適切な形で体に現れていることの証明である。熱に弱いウイルスを叩くため発熱し、腸内にあるウイルスを早く外に出すために下痢をする。これらはウイルスに対する人体の適切な対処である。

 

2.新型コロナウイルス感染の仕組み

 ウイルスについての基礎知識を得たところで、前回のブログのおさらいも兼ねて、以下、新型コロナウイルスが体内でどのように作用するのかについて確認してみよう。なぜウイルスは体内に入ったら増えるのか。そのメカニズムが理解できれば、ワクチンについての知見も深まる。

 もちろん、そのメカニズムについて本格的に研究するとなると、10年、20年、あるいはそれ以上の時間がかかるであろう。だからここではごく簡単にその骨子だけについて考察したい。その際、キーファクターとなるものが、ACE2(アンジオテンシン変換酵素2 Angiotensin-converting enzyme 2)という酵素である。

 人間の体の中には様々な酵素が存在し、それぞれの酵素が生体維持のために働いている。ACE2は血圧上昇を抑制する働きがあり、呼吸器系や腎臓、腸のみならず、舌や目にも発現していることがこれまでの研究で明らかにされている。このACE2とうまく結合して細胞内に侵入するウイルスが、SARSコロナウイルス(Severe acute respiratory syndorome coronavirus)である。

 SARSコロナウイルスは2003年に中国で流行し、一旦沈静化したと思われたが、これと祖先を同じくする同種のウイルスが、現在猛威を振るっているSARSコロナウイルス2(Severe acute respiratory syndorome coronavirus 2)である。

 なお、ニュースでよく目にする「COVID‐19(coronavirus disease 2019)」はウイルスの名前ではない。ウイルス感染の結果生じる疾病をあらわす名称である。つまり病気の名前である。「SARSコロナウイルス2」という名前のウイルスに感染することで、「COVID‐19」という名前の病気になるのである。

 「COVID‐19」という病気になれば、肺炎が重症化して呼吸困難となり、死ぬかもしれない。だから世界中の人が恐れているのである。この「SARSコロナウイルス2」、すなわち新型コロナウイルスが人体の細胞に侵入する際に、キーファクターとなるものがACE2である。

 

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細胞内に侵入する新型コロナウイルス

 新型コロナウイルスの表面には「スパイクたんぱく」という突起したタンパクが多数ついている。よく「いぼいぼタンパク」と呼ばれているものである。これがACE2と極めてうまく結合する。普通、細胞はウイルスという異物が中に入ることを許さないが、ACE2と結合したウイルスなら許してしまう。

 

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コロナウイルスの細胞の構造

 我々も普通、赤の他人のことは信用しない。だが、信頼する友人とその見知らぬ相手が一緒に来るなら、両方とも家に入れてしまうだろう。細胞もそれと同じである。普通なら領地に入れない相手であっても、「ACE2さんと友達なら」ということで開門し、招き入れてしまうのである。

 入場を許されたウイルスはリボソームRNA(設計図)を渡し、複製を依頼する。銀行のATMが正規のキャッシュカードであろうが泥棒のキャッシュカードであろうが平等に紙幣を出すように、リボソームはウイルスの求めに応じて、いくらでも複製をしてしまうのだ。

 こうしてウイルスは人間の体内で爆発的に増えていく。人間からすれば迷惑な話に見えるかもしれない。だが、ウイルスからすれば自己増殖の能力がない以上、そうやって細胞に侵入し、細胞という他者の力によって増殖する以外に方法がないのだ。寄生こそが、ウイルスにとっての唯一の生存戦略である。

 

3.新型ワクチンが効く仕組み

 「SARSコロナウイルス2」と呼ばれるウイルスは、スパイクたんぱく(いぼいぼタンパク)がACE2と結合することで細胞に侵入する。ということは、この仕組みをうまく利用するようなワクチンができればいい。そうした意図から開発されたワクチンが、「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」である。

 

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コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン

 「コミナティ筋注」というのは商品名である(「筋注」は筋肉注射のこと)。商品名と中身は異なる。例えばエーザイによる「チョコラBB」という有名なビタミン剤があるが、「チョコラBB」というのは商品名であり、中身はビタミンBである。同じように、ファイザー社が作った「コミナティ筋注」という商品には、「コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン」が中身として入っているのである。

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エーザイ株式会社 チョコラBBプラス 

中身はビタミンB群およびそれを錠剤に固めるための添加物である

 このワクチンはコロナウイルスのスパイクたんぱくに着目したワクチンである。要はスパイクたんぱくがACE2と結合することからウイルスが細胞内に侵入するのであるから、スパイクたんぱくさえ防ぐことができれば、ウイルス本体は放っておいても無効化する。ならば、新型コロナウイルスに感染する前に、体内でスパイクたんぱくに対する抗体を作っておけばよいという想定となる。この考えから、ワクチンが開発された。

 従来のワクチンは、病原体の毒性を弱めたもの、あるいは不活性化したものである。だが、このワクチンはそうではない。体内でスパイクたんぱくを作ることが目的である。そのため新型コロナウイルスRNA全体からスパイクたんぱくを作り出す部分だけを取り出し、それをリピドナノパーティクル(脂質ナノ粒子)という入れ物に入れたワクチンが開発された。

 体内に注入されたリピドナノパーティクルは、体細胞に付着し、mRNA(メッセンジャーRNA)が細胞内に侵入する。これによりリボソームがスパイクたんぱくを大量に作成し、細胞外にスパイクたんぱくが出る。

 

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ワクチンによってスパイクたんぱく抗体ができる仕組み

 このいきなり現れた「いぼいぼ細胞」は、体からすれば異物である。当然、免疫系が働き、抗体が作られる。免疫系はそれを記憶し、「いぼいぼ」を見たら攻撃するという体制ができる。こうして、スパイクたんぱくと戦うことに慣れた軍隊が出来上がる。

 敵が攻めてきてから、慌てて軍隊を作り、それから応戦するとなると、勝負としては分が悪い。だが、戦い慣れた軍隊が常に戦闘準備にあるなら、相手が攻めてきてもまったく恐くない。こうして、理論的には新型コロナウイルスが体内に入っても脅威にならない仕組みが体の中に出来上がるというわけである。

 

4.ワクチンに対する懸念事項

 こうして見ると、ワクチンはコロナ禍における救世主に見える。ワクチンによって皆の体の中に免疫体制が出来上がれば、新型コロナウイルスも恐れるに足らずというわけだ。しかし、普通なら最低でも5年はかかるワクチン開発が、これだけの短期間で承認されているとなると、不安も残る。多くの人がワクチンに対して不安感を持つのも当然であろう。

 この点、ウイルス研究の専門家である長谷川秀樹氏(国立感染症研究所インフルエンザウイルス研究センター長)は、このワクチンは「急造」ではないと述べている。

 

www.businessinsider.jp

 

  長谷川先生の話を私が勝手に要約すると、次のようになる。すなわち、ウイルスについての「素人(しろうと)」は、ワクチンに対して以下のような誤解をしており、その結果、要らぬ心配をしてしまうというわけである。「素人」がその無知により心配してしまう事項は次のようである。

 

(一)短期間で開発された急造ワクチンを体に入れても大丈夫なのか?

(二)ワクチンを体内に入れることで、COVID-19を発症しないのか?

(三)ワクチンで遺伝子を入れたら、人体が遺伝子組み換えになってしまうのではないか?

(四)mRNAを入れることで、体内でスパイクたんぱくが無制限に増殖してしまうのではないか?

(五)アナフィラキシーショックで死んでしまう人が出るのではないか?

 

 こうした素人の心配に対するプロ(長谷川先生)の回答はこうである。

 

(一)この10年間でmRNAワクチンについての特許出願は113件あり、狂犬病やジカ熱に対する臨床試験も行われてきた。BioNTechもヒトパピローマウイルス感染症を対象に臨床試験の実施例がある。その流れの中でCOVID-19が現れ、これらの実績を応用した中でワクチンが作られたわけだから、このワクチンは「急造」ではない。むしろ、10年間の実績の積み重ねによって出来たものである。

 

(二)従来のワクチンは病原体を弱毒化したものであるから、体の弱った人ならその弱毒化した病原体の攻撃に耐えきれない危険性もある。だがこの新しいワクチンはスパイクたんぱくを作るだけであり、ウイルス本体を体の中に入れるわけではない。スパイクたんぱくが体内で増えてもCOVID-19になるわけではない。

 

(三)レトロウイルスという種類のウイルスは、RNAからDNAを作ることができるから、感染した細胞のDNA内にウイルス遺伝子が組み込まれる現象は起こり得る。だが、そのためには「逆転写酵素」というタンパク質が必要であり、今回のワクチンには逆転写酵素を作るmRNAは含まれていない。だから、このワクチンを打っても、私たちの細胞のDNAが組み換えになることはない。

 

(四)mRNAは非常に壊れやすく、その寿命はせいぜい一週間程度である。そのため、ワクチン接種後、いつまでもスパイクたんぱくが体内で作られることはなく、スパイクたんぱくの無限増殖は起こり得ない。

 

(五)10万回に1回という非常に稀な頻度ではあるが、アナフィラキシーという急性反応が起こることは報告されている。だが、アナフィラキシーが起きるのは接種後15~30分がほとんどで、エピネフリンという治療薬で対処できる。

 

 これら長谷川先生の回答は、説得力のあるものであり、嘘でもなければ誤魔化しでもなかろう。また、これはワクチンを肯定する医師・研究者なら誰でも言うことであるから、医学界における共通認識であることが伺える。

 実際、私自身、ネット上で様々な医師・研究者の見解を読んでみたが、ほとんど上記の内容と変わらなかった。つまり、素人による憶測の恐怖に対して、彼らは科学的に反論し、検証しているのである。この点は私も否定する気はない。

 だが、様々な医師・研究者の見解を見ているうちに、ワクチン推進派が共通に言及しないこと、あるいはあえて強調しない点があることに私は気づいた。そのキーワードは「わからない」である。私はこの「わからない」というキーファクターをどう捉えるかが極めて重要なことだと確信している。詳しくは次回に述べたい。

 

第百四回 新型コロナワクチンと大出血(2)

1.新型コロナウイルスやワクチンよりも恐ろしいもの

 新型コロナワクチンの副反応については、大手メディアもかなりの量の報道をしている。以下のNHKの報道を見てもわかる通り、内容はそれなりに詳細なものではある。だが、中立公平な顔を見せながら、その報道の仕方は明らかに一つの傾向性を持っているように見える。

 それは、デメリットを小さく扱うという傾向性であり、国民に安心感を与えようという意図が垣間見えるものである。また、一見詳しく説明しているようであるが、その内容は薄く広いものであり、肝心なことについては言及を避けているように見える。

 

www3.nhk.or.jp

 

 ワクチンについての報道が多々ある中で、私が最も納得できないものがこの種のものである。ワクチンの副反応として、これこれこういうことが起こり得るという説明はいくらでもある。だが、副反応の原因について述べる報道はほとんどない。

 ワクチンを接種すれば、何らかの変化が体の中で起こり、それが副反応という結果に表れるはずである。ならば、肝心なことは体内変化のメカニズムであるはずだ。それを知らない限り、我々はいくら個々の現象を知ったところで、何も知ったことにはならないはずである。

 肝心なことを知らない限り、我々のワクチンに対する意識は曖昧模糊なままである。曖昧な意識は、漠然とした恐怖心に帰着する。つまり、どっちつかずの宙ぶらりんの状態である。コロナが恐いからワクチンを打ちたい・・・でも、ワクチン打つのも恐い・・・心の天秤が揺れ続ける状態である。

 

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揺れる天秤(コロナ恐い VS ワクチン恐い)

 この天秤状態に、大手メディアの報道は甘い誘いを投げかけてくる。医者がテレビに出て、「心配ない」と言う。しかし、ワクチンがどういうものか自分でわかっていない状態で、赤の他人である医者が「大丈夫」だと言ったところで、何の解決になるだろうか。他人が「大丈夫」と言っても、自分の心の曖昧状態が解決されなければ何にもならない。

 コロナも恐いしワクチンも恐いとなった時に、自分で考えるという習慣を持たない精神は、専門家の甘言に飛びつこうとする。となると本当に恐ろしいものは、コロナでもなければワクチンでもないのではないか。自分の心の曖昧状態を放置したまま、専門家の話を聞いて安心しようとする我々の怠惰な精神の方が、コロナやワクチンよりも遥かに恐ろしいものなのではないか。

 ならば、真っ先に駆逐すべきものは、コロナでもなければワクチンでもなかろう。最も恐ろしいものは自己の曖昧性である。となれば、私自身がコロナやワクチンに対して、無知蒙昧であることを止めなければならない。自らの情報収集をもとに、私が自分で自分の心をすっきりさせることが先決であり、ワクチンを打つか打たないかはその後の問題であろう。

 我々の高度に発達した文明社会は、それぞれの分野に権威ある専門家を配置している。それはそれで大変に役立つものであるが、それによる副作用も当然に存在する。我々の一人一人が、自分の心の不安を自分で考えて解決せずに、専門家という他人に頼るようになるという副作用である。

 この副作用は非常に恐ろしいものであり、我々一人一人を奴隷化する力を持つ。我々一人一人の心が奴隷化すれば、いくら憲法や個々の法律を民主化しようが、国家体制としてはイミテーション民主主義にしかならないはずである。

 奴隷というものは、必ずしも足に鎖をつけられた人のことではない(第三十八回ブログ参照)。「医者が大丈夫と言うから」という理由で「大丈夫」だと思ってしまう心の動きが奴隷なのだ。自分の命の判断を他人に預けてしまうというのは、奴隷的心性以外の何ものでもない。

 そもそもテレビに出ている医者というのは、出世しているということである。出世しているということは、「寄らば大樹の陰」ということで、何らかの大樹のお陰で出世しているということである。ならば、その医者は国民一人一人の命のためではなく、大樹のために発言するに決まっているし、そういう医者しかテレビには出演できないはずである。

 ただ、このブログの読者なら、そういうことはわざわざ言わなくてもわかっているだろう。日本という巨大資本主義国家においては、巨大メディアは巨大資本の奴隷であり、そこに出演する医者も巨大医療業界の奴隷である。そんなものを鵜呑みにしても意味がない。だから読者はこのブログに来ているはずである。

 そうした賢明な読者の期待にこたえることができるかはわからないが、以下、私が自らの無知蒙昧を多少なりとも克服していく過程を明らかにしていきたいと思う。

 

2.外からmRNAを入れ、リボソームを騙す

 ワクチンと言えば、普通は病原体の毒性を弱めたもの、あるいは不活性化したものである。それを体内に入れると、人間の体は異物と見なして免疫ができる。その後、本物の病原体が入って来た時に、前もって体内で作られた免疫系が効力を発揮し、病原体の増殖を抑え、重症化を防ぐというメカニズムである。これまでのワクチンは皆、そういう構造のものだった。

 だが、新型コロナワクチン、例えばファイザー社製のコミナティ筋注(コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン)は全く違う。前回のブログで紹介したシカハンターさんの動画でも述べられている通り、このワクチンの主役はmRNA(メッセンジャーRNA)である。

 

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コミナティ筋注 コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン 説明書

 

 mRNA自体は、我々の体内で当たり前に働いているものである。mRNAはタンパク質を作るための設計図であり、この設計図に則り、細胞内のリボソームでタンパク質が作られる。

 

ja.wikipedia.org

 

 タンパク質を作ると言っても、体の各部位ごとに異なったものが作られなければならない。例えば、皮膚ならコラーゲン、赤血球ならヘモグロビン、髪の毛ならケラチンといったタンパク質が必要である。これらは皮膚なら皮膚の細胞、赤血球なら赤血球の細胞、髪なら髪の細胞におけるDNAに則り、その細胞に必要なタンパク質が設計図(mRNA)に則って作られるわけである。

 細胞の核内にあるDNAが全ての親元であり、ここからmRNAが作られ、そのmRNAをもとにリボソームで必要なたんぱく質が作られ、順次補充される。だから古い皮膚が剥がれ落ち、髪の毛が伸びても、次々に新しいものができ、瞬間瞬間に体は生産され続けているのである。我々の体は、約40兆の細胞の各々が、刻々と生産を続けながら生きているものである。

 このように、もともとmRNAは我々の体内に当たり前の機能としてあるものであるが、これを外から入れようと試みたものが新型コロナワクチンである。このmRNAは「スパイクたんぱく」を作ることに特化したmRNAである。ただ、そのまま体内にいれたら一瞬にしてこのmRNAは死んでしまうので、リピドナノパーティクル(脂質ナノ粒子)という脂肪の固まりの中に「スパイクたんぱく」作成用のmRNAを入れて、体内に注入するのだ。

  ワクチンとして外から入ったスパイクたんぱく作成用の特殊mRNAは、細胞内に入り、リボソームでスパイクたんぱくを次々と作る。普段、リボソームでは体内にあるmRNAに則ってたんぱく質を作るが、ワクチンとして細胞内に入った押し込み強盗のようなmRNAと、普段から暮らしている家族のようなmRNAの区別は、リボソームにはできない。リボソームは自分の家に入ったmRNAなら、余所者であろうが家族であろうが、言われたままにたんぱく質を作ってしまう。

 こうして大量のスパイクたんぱく質ができれば、体としてはいきなり現れた異物なので、免疫系が攻撃態勢に入る。こうして、その後に入ってくる新型コロナウイルスに対しても免疫系が攻撃することによって、重症化が防がれるというわけである。

 新型コロナウイルスは必ずスパイクたんぱくを身にまとって現れる。ということは、ウイルスに感染する前に、スパイクたんぱくに対して攻撃する癖を体につけておけば、いざウイルスが入って来た時には防衛体制ができているというわけである。何も防衛体制ができていない状態で体内にウイルスが入って来るのと、防衛体制が完備されている状態でウイルスが入って来るのとでは全く違う。

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コロナウイルスの細胞の構造

コロナウイルスの構造と複製サイクル(ライフサイクル)-城西国際大学

 

 山中伸弥先生によると、ファイザー社製ワクチンの有効率は95%であり、非常に効果の高いものである。

 

ワクチンの有効性-山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 

 これだけ見ると、夢のワクチンのようである。実際、ワクチン接種が進むイスラエルではマスクなし、居酒屋に密集という生活ができているようである。

 

「マスクなし外出」「パブに鈴なりの人」 ワクチン接種進むイスラエルの現状

 

 しかし、私は疑問に思う。もちろん、私はプロの医師でもなければ科学者でもない。しかしだからこそ、素朴な疑問が生じるのだ。細胞内のリボソームを騙し、スパイクたんぱくを大量に作り上げるためのmRNAが入ったリピドナノパーティクル(脂質ナノ粒子)を体内に入れる。果たしてそんなことをしていいのだろうか?

 これに対する考察は、次回に述べたいと思う。

 

第百三回 新型コロナワクチンと大出血(1)

1.表のストーリーと裏の理由

 新型コロナウイルス(COVID-19)のためのワクチンが世界に広まっている。その表向きの理由は、コロナ禍に苦しむ人類の救済である。大手メディアの報道によって構築されている表世界(おもてせかい)では、ワクチンこそが救世主であると信じられている。人類がコロナウイルスに打ち勝つための絶対に必要な手段だと信じられているのだ。

 それは、支配者層(Deep State)の陰謀や金儲けではなく、中国の森に潜むコウモリから始まったとされている。悪いのは全てコウモリであるから、どこにも罪人はいないというわけである。人類は不運なことに、コウモリからウイルスを貰い、そのために世界的に苦しんでいるというわけである。

 この災厄に断固として戦う決意を示したのが、各国政府の首脳たち、科学者たち、そして製薬会社たちである・・・各国政府はファイザー等の製薬会社や科学者たちと連携し、一秒でも早く、人々の間にワクチンが普及すべく努力し、また我々一般国民もそれを強く望んでいる・・・ということになっている。

 こうしたストーリーが、ワクチン世界普及の表向きの理由となっている。だが、表があるということは、当然、裏もあるということである。このブログの読者の方々は、「表の物語」に簡単に騙されてしまうほどにナイーブではないだろう。

 日本においても「早くワクチンをうちたい」という肯定派は7~8割にとどまるようである。つまり、2~3割は疑念を持っているのである。それは、健全な精神なら当然に持つ疑念だと言えよう。

 

www.asahi.com

 

 大手メディアは表の理由しか報道しない。もちろん、ワクチンに対する副反応など、ネガティブな面も報道されている。また、今後ワクチンによる死者が増加すれば、それも報道されるかもしれない。しかしいずれにせよ、それらは必ず表面的なものに終始するはずだ。

 このブログでは百回以上に渡り、表のストーリーの背後には裏の理由があることについて述べてきた。だからこのブログの読者の方々は、テレビや新聞によるワクチン報道では満足しないだろう。そうした表面に浮遊する洗脳言説の奥底にどんな欲望が潜み、我々一般市民はどのようにその餌食となっていくのか。そうした深層を読者は知りたいはずである。

 今回のワクチンがmRNAが組み込まれた新たな構造によるワクチンであり、これまでのインフルエンザワクチンとは仕組みが全く異なること。通常はどんなに早くても5年はかかる厚労省の承認が、あっという間の早業でなされたこと。副反応として発熱や頭痛、腕の痛み、全身の倦怠感といったものがあること。場合によってはアナフィラキシーショックにより、死に至る危険性があること。これらのことは大手メディアも報じているので、今や誰でも知っている。

 問題はそうした表面的事実ではなく、その奥に潜む原因である。もちろん、どんな薬品であろうと、あるいはワクチンであろうと、副作用、副反応というものは存在する。リスクゼロのワクチンは不可能であるから、ある程度の危険性は国民も覚悟しなければならない。

 だが、今回のワクチンは旧来のものとは仕組みがまったく異なる。だから、我々がそのリスクを考慮する場合も、ワクチンの組成に遡った考察が必要である。効能と副反応を主軸とした考察は、いかにも表面的であり、マスコミはそれに終始するが、それでは以下のような記事を読んだ時にも、なぜ厳しい副反応に晒され、場合によっては大出血にまで至るのか、原因がわからないままだ。

 

アストラ製ワクチン打った元テコンドー世界チャンピオン、足を切断「腫れて血が噴き出た」

 

エリック・クラプトン、ワクチン接種に警鐘「二度とギターを弾けなくなると思った」

 

松井大輔がコロナワクチンで副反応「体全体に痛み、頭痛、怠さ、これはキツイですね」

 

2.コロナを踏み台にして癌で儲ける

 デーヴ・ミアーズさんの事例は他人事ではない。我々もこのワクチンをうった場合、大出血し、場合によっては死に至る可能性がある。だが、私はワクチンを全面否定したいという思いはない。大事なことは全否定ではなく、リスクの深層にある仕組みを理解し、どのような場面で自分がワクチンをうつかを冷静に判断することであろう。

 そもそも、なぜ製薬会社や各国政府は、このような危険性のあるワクチンを一秒でも早く国民にうちたがっているのか。表の理由としては、国民をコロナウイルスから救うためである。だが、裏の理由もある。このブログの読者は気づいているだろう。もちろん、金儲けのためである。

 だが、その金儲けは今回のワクチンの売上による利益にはとどまらない。今回のワクチンは、更なる金儲けのための撒き餌にしか過ぎない。この点、北海道で医師をしているシカハンターさんがYoutubeで非常にわかりやすい説明をしている。

 

www.youtube.com

 

 今回のコロナ禍により、ワクチン会社は膨大な利益を上げる。当然、そこに資金注入している投資家も莫大な利益を得る。だが、その巨額の金儲けは、その後の更なる金儲けのための下準備に過ぎない。本丸はコロナではなく癌なのだ。

 癌治療で大儲けするためには、今回のワクチンの基本的な型であるmRNA入りのリピドナノパーティクル(固体脂質ナノ粒子)を治験しなければならない。しかし、通常の状態ならその治験には莫大な経費がかかるであろう。誰が好き好んでリピドナノパーティクルを体内に入れるだろうか。普通なら治験者を集めるのも大変だろう。

 だが、コロナウイルスが世界に蔓延した状態なら、膨大な数の人々が志願して人体実験をしてくれる。しかも、その経費を払うのは製薬会社ではなく国民だ。国民が血税で製薬会社からワクチンを買い、進んでリピドナノパーティクルを体内に入れ、人体実験に参加してくれる。

 製薬会社と投資家からすれば、これほどうまい話はない。政治家やマスコミも、その利益共同体の成員である以上、彼らが国民にこのことを知らせるはずはない。だからYoutubeも、上記動画は歓迎していないようで、Youtubeの検索窓に「ファイザー社が最終的に目指すところ」と入力しても、上記動画は出てこないように設定されている。

 試しにYoutubeの検索ボックスに、一字一句間違いなく「ファイザー社が最終的に目指すところ」と入力してみるといい。まったく関係のない動画が次から次へと出てくるはずだ。しかもそれらの動画はファイザー社を肯定するものばかりである。

 ただ、製薬会社の金儲けシステムについて理解しても、ワクチンをうった人がなぜ大出血する可能性があるのか、それについてはまだ読者も不明瞭であろう。また、このワクチンが上記のようなどす黒い欲望によって成り立つものであっても、私はこのワクチンを全否定するつもりはない。それについては次回以降に述べたい。

 

第百二回 戦争と平和、そして無記

1.自己分析としての戦争

 国際政治の舞台において、真に何が行われているのか。世界はどうなっているのか。我が国と国際社会はどのような関係にあるのか。そもそも、戦争という巨大な災厄が起きる場合、どのような原因でそれが起こるのか。人間はなぜ、そのような愚かなことをしてしまい、しかも飽きもせず繰り返してしまうのか。第三次世界大戦へと着々と歩を進める我々人類は、いったい何者なのか。

 これまで、このブログは101回に渡り、上記のような問題意識で言葉を重ねてきた。それはウェスリー・クラークが目撃したちょっとしたメモ書きの驚きから始まった(第一回ブログ参照)。そこから第三次世界大戦を心配する私の考察が始まったわけであるが、いろいろと探っているうちに、戦争という巨大災厄の原点のようなものが見えてきた。それは我々自身、すなわち私自身の心である。

 戦争というと、戦車や戦闘機、兵士や機関銃、あるいは核ミサイルや、昨今では戦闘用のドローンや最新のテクノロジーによるAI兵器などが頭に浮かんでくるかもしれない。あるいは、原爆によって破壊された町や黒焦げの死体、逃げ惑う子どもたちがイメージとして生じるかもしれない。

 しかし、それらは戦争の結果であって原因ではない。大量殺戮兵器がなくても、人類は身近な道具を使って大量殺戮をする。かつてルワンダでは、50万人から100万人、すなわちルワンダ国民の10%から20%が、農作業用のマチェーテ(山刀)によって殺害されたと言われている(1994年ルワンダ虐殺)。広島、長崎における原爆の死者が20万から30万と言われているから、ルワンダの虐殺はその規模を超えたものだったのである。

 

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ルワンダのスーパーで売られているマチェーテ

www.businessinsider.jp

 

 ルワンダの人達が他の民族と比べてDNA的に凶悪というわけではないだろう。つまり、ルワンダで起こったことは、世界のどこでも起こりえるのだ。我々は何らかの立場を信じる。その立場を脅かす相手がいなくなれば、自分は幸福になれると信じる。この単純な信仰心が戦争の原因であろう。これは宗教や民族にかかわりなく、人類が共通に持つ心の動きである。

 

「あいつさえいなければ・・・」

 

 それは戦時のみならず、平時においても我々の心で鳴り響く悪魔の声である。この小さな声が集合化し、炎が合算されて大火となる時、ジェノサイド(genocide)が起こる。核ミサイルなどの大量破壊兵器は、そうした我々の心の動きを手っ取り早く実行するための道具に過ぎない。なければないで、我々は農機具を用いて大火を実践するだろう。

 我々の心は、テクノロジーが進歩するようには進歩しない。むしろテクノロジーだけが進歩し、心は置き去りになるという状態が続いている。だから、我々は戦争の恐ろしさを知るだけでは戦争を放棄することはないだろう。

 反戦教育は世界中で行われている。だが、戦争はなくならない。それは我々が戦争という結果を恐れるばかりで、戦争に至る心の動きに無頓着だからであろう。戦争という結果を恐れるよりも、それを作り出す自らの心の動き、すなわち原因の方を恐れるべきではないか。

 私はそうした問題設定のもと、戦争の悲惨さに着目するよりも、何らかの言い訳をしながら人殺しを容認する人類の心の動きに着目した。それは他者観察というよりも自己観察である。だから私が戦争を分析する際、それは外面世界の分析ではなく内面の分析、すなわち自己観察である。徹底した自己観察こそが、結果的に透徹した客観分析に至ると、私は確信するのである。

 

2.「無記」から現象を見る

 これまでは「第三次世界大戦を心配するブログ」というタイトルであったが、これからは「戦争と平和、そして無記」というタイトルでブログを書いていきたいと思う。タイトルを変える理由は、より内容的に幅広く、かつ深奥に迫ったものを書いていきたいからである。

 これまで、主に国際政治や紛争について述べてきた。だが、これからはそうした現象の背後にある我々の心の動き、すなわちより根源的な哲学、宗教的な意味での心のメカニズムについて述べていきたいと思っている。

 このブログの目的は、国際政治の真相について世の中に知らしめることでもなければ、世界の陰謀を暴露することでもない。もちろん、このブログには情報提供という側面もあるだろうが、それは副次的なものに過ぎない。真の目的は、私自身が世界の実相を探る作業を通じて、私自身の心の実相を知ることにある。その際のキーワードが、「無記」である。

 「無記(パーリ語:avyākata アヴィヤーカタ)」とは仏教用語であり、善悪の二元が発生する以前の原初のことである。これは「中立的立場」とは、明らかに異なる。中立というのはそれ自体が「中立」という立場であるから、無色透明ではない。一つのスタンス(stance)である。

 他方、「無記」はスタンスではない。それはあらゆるスタンスの出所であり、自らを「中立」という立場に押し込めることがない。「中立」は自らを「中立」で在らしめるために自らを緊縛するが、「無記」は何にも緊縛されることがなく、自由である。それは野放図な自由ではなく、創造的な自由である。

 だからといって「無記」は無色透明ではない。生命を失った中立性とは違い、「無記」は自らに相応しい色を表現する。それは自らの偏狭な思想を延命させるための保身ではなく、無の深淵から自らを開花させるための動きである。

 結局のところ、右にも左にも偏らない真に平等な思想は、一つの立場から生じるものではなく、「無立場」から生ずるものであろう。真の公正性は、中立性から生ずるものではなく、あらゆる立場を「我が事」として包含する「無記」から生ずるはずである。

 人の立場を否定する瞬間、その批判者としての偏狭な自我が、こちら側の主体として生じることとなる。これは絶対的な意識の構造である。他方、どの人の立場も認める時、私は単なる否定的他者ではなく、自分自身でありながら「その人」である。

 通常、こうしたジャンルのブログでは、無辜の市民が国家権力を批判するというスタンスで書かれることが多い。この点、私自身はこれまで繰り返し述べてきた通り、どのような権力に対しても否定や批判をする意図はない。あるとすれば、それは自己批判であり、批判を通して自らを再生(reborn)させるための創造(creation)である。

 真に創造的な言論は、他者批判ではなく、自己批判を通しての自己の再生というプロセスにあるはずである。私は私という宇宙、すなわち「無記」から自らを開花し、自己の精神を解放すべく、自らの文言で自らを創造的自覚へと導きたいと思う。

 読者の方々はその足跡を辿ることで、ご自身の解放の道筋を見出すチャンスを得るかもしれない。それゆえ、読者の方はこのブログの文言を信じて終わりにするのではなく、自己の解放のための踏み台として用い、自らの創造性の発露のために役立てていただきたい。

 

第百一回 新しい時代に何を手放すのか(8)

1.純粋な耳だけが星々の声を聞く

 はじめ、モモは時間の国で奇跡の花に見とれていた。至上の花が咲き、枯れて、散ってゆく。すると、すぐにそれとはまったく異なる花が誕生する。その都度、最高の花である。まるで宇宙飛行士が漆黒の闇の中で回転する地球を見続けるように、いつまでも見飽きることなく、モモはその風景を見続けていた。

 だが、そのうちモモは光の別の側面に気づく。丸天井の中心から射し込む光は、視覚として捉えられる光であるだけではなかった。その光は音でもあった。最初、風のざめめき、滝の音のような風景音のように聞こえていた光の声は、懐かしい思い出とともに、モモの心に甦った。星空の下、誰もいない廃墟で聞こえてきた音楽がそれだったのだ。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 3233

 モモは犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざわめく風にまで、耳をかたむけました。するとどんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。

友だちがみんなうちにかえってしまった晩、モモはひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちのなかにすわっていることがあります。頭のうえは星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。

 こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、ふしぎと心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。

そういう夜には、モモはかならずとてもうつくしい夢を見ました。

 

 禅の修行とは、修行僧に坐禅をさせ、強制的に耳たぶの底に座らせることである。だが、強制的に「やらされている」うちは、音楽は聞こえてこない。修行僧はどこかで「強制」から「自発」への転化が迫られる。それがなければ、修行は死ぬまで牢獄で終わるだろう。

 モモにとって「耳たぶ」は自然なことであり、そこに強制の色合いは一切存在しなかった。彼女にとって、聞くことは生きることそのものだったのだ。だから人の話だけでなく、コオロギやカエル、雨や風の話もすすんで聞いた。

 モモは「悟り」という利益を得るために、耳たぶの底に座ったわけではない。他方、我々ホモ・サピエンスは、何らかの利益のためにモノを聞く。それが当たり前になってしまっているので、ただ純粋に相手の話を聞くということができない。そうなると、たとえ耳に異常はなく、音はしっかり聞こえても、星の世界の声は聞こえなくなる。

 だから道元(1200-1253)は只管打坐を説いた。それは「悟り」という利益のために坐禅をするのではなく、ただ「耳たぶ」であるために坐ることである。

 

全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一 誠信書房 2

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

 仏道を習うことは自己を習うこと、すなわち自己を知ることである。自己を知るとは、「自分は何々である」というデータについては一切忘れ、万法、すなわち宇宙の声を聞くことである。そうすれば「自分はこうである」という「こだわり」(自己の身心)、あるいは「他者はこうである」という「こだわり」(他己の身心)は脱落し、純粋な声そのもの(万法)が聞こえてくるはずである。

 モモは時間の国で、射し込む光の声を聞き、徐々にその言葉が聞きとれるようになった。それは習慣的に使用され、秩序を失ったバラバラの言葉や知識が、再統合される瞬間であった。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 243

 じっと耳をかたむけていると、だんだんはっきり、ひとつひとつの声が聞きわけられるようになってきました。でもそれは人間の声ではなく、金や銀や、その他あらゆる種類の金属がうたっているようなひびきです。するとこんどはすぐそれにつづいて、まったくちがう種類の声、想像もおよばぬとおくから言いあらわしがたい力強さをもってひびいてくる声が、聞こえてきました。それらはだんだんはっきりしてきて、やがてことばが聞きとれるようになりました。いちども聞いたことのないふしぎなことばですが、それでもモモにはわかります。それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの〈時間の花〉のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをしているのか、どのように力をおよぼしあっているのかを、知る鍵となっているのです。

 

2.空っぽの心が心を見る

 ひたすら聞く。それが只管打坐である。我々は知識が邪魔をして、ただ聞くこと、ただ見ること、ただ座ることができない。そうした最も単純なことができないから、もっと複雑で難しいことをしようとする。そうした複雑で難しいことを為した人に、金と名誉が集まるという世界の構造になっている。

 だがそれでは根本を知ることはできない。サピエンスがいくら発展しても、宇宙の声からは遠くなるばかりである。モモは皆が目指す方向とは逆に進んだ。結果、「自己をわするる」ことによって「自己を習う」こととなった。サピエンスとしての自己が完全に忘れられる時、万法は巨大な顔となり、自分一人に語りかけられていたことに気づく。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 243244

 そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、じぶんに語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となってモモのほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!

 おそろしさよりもっともっと大きななにかが、モモを圧倒しました。

 その瞬間、彼女を手まねきしているマイスター・ホラのすがたが目に入りました。モモはかけよりました。マイスター・ホラにだきあげられ、その胸に顔をうずめました。ふたたび彼の手が雪のようにふわっと目をふさぐと、すべてはくらく、しずかになって、不安は消えました。彼は長いろうかをとおって、もどって行きました。

 時計のすきまの小さなへやにかえりつくと、彼はモモをきもちのよいソファーにねかせました。

 「マイスター・ホラ、」と、モモはささやきました。「あたし、ちっとも知らなかった。人間の時間があんなに・・・・・・」――ぴったりすることばをさがしましたが、見つかりません。しかたなく、こうむすびました――「あんなに大きいなんて。」

 

 「あんなに大きい」とは、誰もが持っている「心」である。宇宙が大きいのではない。宇宙が大きいとわかる心が大きいのだ。だがこれがわかるのは「心」だけである。心がわかるのは心だけなのだ。つまり、サピエンスにはわかりようがない。

 サピエンスの「自己」とは、永遠の欠乏である。だから、次から次へと獲物を求める。この「自己」に純粋贈与、すなわち「何もかもが宇宙から与えられている」という言葉を投げ込んでも、理解が起こるはずはない。「私はこんなに足りないのに、ふざけるな!」という反発しか帰ってこないだろう。

 サピエンスは常に進化し、繁栄することが宿命づけられている知性である。だから、進歩に対する「手放し」、すなわち道元の言う「わするる」は受け入れることができない。泳ぎ続けなければ死んでしまう鮫のように、サピエンスは永遠の改善を求め続ける。

 自殺願望でさえも「永遠の改善」であり、「死んだら今よりも良くなる」と思うから、自殺を改善だと思うのである。犬や猫はマンションの屋上に駆け上がって、そこから飛び降りようとはしない。「永遠の改善」は文明の力であり、ホモ・サピエンスの存在基盤と言えるものであるから、人間が普通の意味での「人間」である以上、これを手放すことは困難だ。

 その意味では、人間がエデンに憧れながらエデンに帰らないのは、人間がエデンを拒絶しているからであると言える。人間は時として、自らがホモ・サピエンスであり続けるために、解放を拒絶し、塩水を飲み続け、時には死を選ぶ。

 その意味では、サピエンスは宇宙の真理を知ろうとしながら、同時に宇宙の声を拒絶するという態度をとる。だから原発でも基地問題でも、政府は地元住民の意見を聞くためと言って何度も集会を開くが、実際は地元の声を聞くつもりはないのである。「聞く」と言いながら結論は決まっているのだから、「聞く」つもりなんかあるはずがない。

 タオス・プエブロネイティブ・アメリカンの古老は、ナンシー・ウッドとの会話の中で次のように話す。世界中から人々が訪れ、ネイティブ・アメリカンから宇宙の叡智を聞き出そうとする。しかし、本当に聞くつもりはない。

 サピエンスを握りしめながら叡智を掴もうとしても、無理に決まっている。まずは握りしめているものを離さなくてはならない。空っぽの心だけが心を見ることができるのである。

 

今日は死ぬのにもってこいの日 ナンシー・ウッド 金関寿夫訳 めるくまーる 2-3

いろんな人がここへやって来る、そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。やたら質問するのだけれど、答えは聞くまでもなく、連中の頭の中でもうできてるんだ。俺たちの子どもは素晴らしいと言うけれど、本当のことを言うと、可哀想だと思ってる。さかんにあたりを見まわしても、やつらに見えるものといえば、それは埃だけさ。俺たちのダンスを見にくるのはいいが、写真を撮ろうと、いつもキョロキョロしている。連中は俺たちのことを知ろうと思って、俺たちの家へ入ってくるけれど、時間は五分しかないと言う。土と藁でできてる俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。だからここに住んでなくてよかった、と本当は思っているわけ。そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑ってる。俺たちの人生の秘密を見つけだそうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえ見つけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ。

 

3.人間自身が森羅万象となる

 時間は五分しかないのではない。本当は、時間は無尽蔵に与えられている。それがわかれば時間を切り売りする必要もなく、惜しむ必要もなく、争う必要もない。仏教ではこれをタターガタ・ガルバtathagata-garbha(如来蔵)と言う。それが人間の一人一人に与えられている「心」である。

 無尽蔵の蔵があるということは、何もかもが与えられているということである。このことに気づけば、その主体は転換を迎える。それまで様々なことに不足を感じ、不平不満を言っていた自我は、袋を裏返しにしたように転換し、何も欲しがる必要がないことに気づく。これが心の飢餓の終焉である。

 この終焉により、古い自我も終焉し、終わりと同時に新たな自己が誕生する。贈与される自我から贈与する自己への転換である。「全てが自分に与えられている」という気づきがあれば、様々なモノを欲する「自分」でさえも必要なくなる。だから自我の終焉なのである。

 こうなると、与えられる側から与える側にまわることになる。これまで太陽、水、空気、木々、様々な動物たち・・・といった森羅万象から与えられていた幼い自我は卒業を迎え、「与えられる必要はない」という気づきを携えた大人になる。これが自立である。

 ドストエフスキー(1821-1881)は「カラマーゾフの兄弟」の中で、その「自立」について、主人公アリョーシャの体験として物語っている。

 

カラマーゾフの兄弟(中) ドストエフスキー 原卓也訳 新潮文庫 187

何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、≪その狂態を恥じなかった≫のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が≪ほかの世界に接触して≫、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想とも言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。

 

 森羅万象、すなわち神に向かって「もっとよこせ」と要求していた幼子は、転換を迎えることで贈与する側にまわり、その人自身が森羅万象となる。つまり、人間は環境から搾取する側から転換し、自身が贈与する環境そのものとなるのだ。ミヒャエル・エンデはそれを「音になる」と表現する。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 236237

 「すると、もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったら、どうなるの?」

 「そのときは、おまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうにも言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。人生を逆にもどって行って、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出ていくのだ。

 「そのむこうはなんなの?」

 「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽に加わる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ。」

 

 「環境になる」と言っても、その人は無味乾燥な石ころになるわけではない。むしろその人は自分の命を守るために生きる必要がなくなるから、自由になる。自己保身のための「自己」として生きる必要がなくなるゆえに、かえって自分らしく生きることができるようになるのだ。その意味では、自己防衛のために敵を打ち倒す人物はまだ真の闘士ではない。保身を必要としない人間が、真の意味での「堅固な闘士」なのである。

 それゆえ純粋贈与に気づいた人間は、ただ廃墟に座って満足することはない。そこには一切の停滞はなく、動きのダイナミズムがある。純粋贈与の気づきは自我の終焉であり、同時に自己の誕生でもあるからだ。だから、その人は宇宙としての自己を、ダイナミズムとして生きるのである。

 再生した人間は、サピエンスに翻弄されることもなければ、サピエンスを恐れる必要もない。ただ、それについて熟知しているだけである。泥酔の人が車を運転すれば走る凶器となるが、正常な人が運転する自動車は人を助ける道具にもなる。包丁は素晴らしい料理を創造するが、人殺しの道具にもなる。

 サピエンスを超えた人間のみが、サピエンスに呑み込まれない「人(ひと)」となる。自分の命を守るために生きることは貧しいが、生命そのものを生きることは豊かなことである。逆説的な表現であるが、自分を生きるために、自分の命は必要ないのである。

 もちろん、これは本当にわかった上で行わなければ、無謀な自爆行為に堕落せざるを得ない。「自己を捨てる」ということを頭だけで理解して行為することは、非常に危険である。今も世界のどこかで、自己の命に対する無執着というテーゼを頭だけで理解することで、自爆テロが横行している。

 だから、真理は常にその人自身が身をもって理解することを求めている。我々には太陽、水、空気、木々、様々な動物たち・・・といった無数のものが与えられているが、そうした純粋贈与の中で最も尊いと思われる贈与が、我々人間の心に降りてくる「気づき」である。

 つまり、純粋贈与は最初、太陽、水、空気・・・といった個別のものを我々に与えるが、最終的には純粋贈与自身という御体(御身)を我々に丸ごと与えてくれるのである。それが、時が満ちるということである。時が満ち、女が子を産むように、純粋贈与は御体を人間に与え、自らの子(神の子)を産むのである。

 これは頭(サピエンス)によって強引に理解するものではなく、時が満ちることによって我々一人一人に「産まれる」ものである。だから、そうした「満潮」が至るように祈りながら終わるため、マイスター・エックハルトの言葉を紹介して終わりたい。

 

エックハルト説教集 田島照久編訳 岩波文庫 128129

どうすれば正しいあり方となるのであろうか。預言者の言葉に従えば二つのあり方においてである。預言者は、「時が満ちると、御子が遣わされた」(ガラテヤの信徒への手紙四・四)と語っている。「時が満ちる」のには二つの仕方がある。ひとつは、たとえば晩に一日が果てるように、その終りにおいて、あるものが「満ちる」場合。つまり、すべての時間があなたから失われるとき(つまり死するとき)、このとき時が満ちるのである。二つ目は、時間がその果てに到るとき、つまり、時間が永遠の内へと入るときである。なぜならば、そこでは一切の時間が終りを告げ、そこには以前も以後もないからである。そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。かつて生起したものも、これから生起するものも、あなたはここではひとつの現なる直観の内でつかむのである。ここには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが「時が満ちる」という意味である。そのような正しいあり方にわたしがいたれば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。

 この「時が満ちる」ところにまで、わたしたちが到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン。

 

※ しばらく読書と黙想の時間をいただきたいと思います。

  次回は2021年5月16日、リニューアルオープンを予定しております。

 

第百回 新しい時代に何を手放すのか(7)

1.非時間の絶対性

 

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モモ ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫

 時間の国に辿り着いたモモは、マイスター・ホラの導きによって、星の振子が揺れる場所に立つ。その振子が黒い池の水面に近づくと、超絶的な美しさの花が咲くのであった。モモはそれを「すべての花のなかの花、唯一無比の奇跡の花」と呼んだ。

 だが、振子がその「奇跡の花」から遠ざかっていくと、花は盛りを過ぎ、黒い水底に散り、沈んでいった。モモは声を上げて泣きたいくらいに悲しくなったが、この場所に辿り着く前にマイスター・ホラとした約束、すなわち沈黙の決まりを守り、一切の声を出さない。

 そうしたモモの感情の揺れを横に置き、振子は揺れる。すると、その揺れは再び新しい花を咲かせる。その度にモモは思う。「これこそが最高の花だ」と。毎回形を変え、まったく違った個性として花は咲くが、その都度最高なのだ。「奇跡の花」が枯れ、消えてゆく姿にモモは悲しんだが、それは「その花」だけを切り取り、執着したからであった。

 実際の世界はそうした「切り取り」と違い、全体性である。咲き誇る花とそれを無化する黒い池、花を生かして殺す時間の振子、そしてそれを見て喜びと悲しみの間を揺れるモモ。これらの間に切れ目はなく、一心同体である。その瞬間瞬間が全体性の表現であり、完全性の具体化である。井筒俊彦(1914-1993)はそうした瞬間の絶対性について、次のように表す。

 

読むと書く 井筒俊彦 慶應義塾大学出版会 398頁

ありとあらゆるものが宇宙的な生命のざわめきの中に顫動し、波立ち湧きかえっている。一切のものが刻々に生起したかと思うと、虚無の底に沈み、沈もうとしてはまた蘇る、明滅する生と死の脈搏のうちに所謂「連続的創造」が行われて行く、そういう全存在界の光景が一望のもとに捉えられなければならない。それは宇宙の永遠の若さの直観である。

 

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読むと書く 井筒俊彦 慶応義塾大学出版会

 ミヒャエル・エンデ(1929-1995)は童話作家で、井筒俊彦は哲学者だと分類してしまうと、両者がまったくジャンルの違う専門家に見えてしまう。だが、実際は表現の違いに過ぎず、内容の違いはない。エンデはそれを童話として表すが、井筒は学問的な論文として表す。両者が共通して表したいと思っているものは「今ここ」であり、それは宇宙の永遠の若さの直観である。

 読み手としての我々は、「切り取り」の知性により片方を子ども向け、もう片方を哲学の専門家向けとして分類し、満足するが、そうした「切り取り」はかえって作者の意図を汲み取らない。それは道元禅師(1200-1253)の言葉を読む際も同じである。有名な「正法眼蔵」であっても、我々はそれを抹香臭い仏教書として読むのではなく、宇宙の永遠の若さの直観として読了しなければ、作者の真意を汲み取ることはできない。

 

全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一 誠信書房 3頁

たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

 

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全訳正法眼蔵 巻一 中村宗一訳 誠信書房

 薪が燃えて灰になる。薪は原因で、灰は結果に見える。しかしそれは薪と灰をサピエンスによって「切り取る」からであり、薪から灰に移るという直線的な時間軸も、サピエンスによるものである。つまり、宇宙に絶対的な時間軸があり、その進行によって薪が灰になるのではなく、時間という色眼鏡によって薪が灰になっているように見え、因果関係が存在するように見えるのである。

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朝顔の実験 ペイント3D

 我々は朝顔の実験を通じて、科学の基礎を学ぶ。それはホモ・サピエンスとして生きるための基本を学ぶことであり、たとえプロの科学者にならなくても、我々はそうした知性がなければ社会生活をおくることができない。だから、薪が燃えて灰になるという因果関係と時間軸について知ることも重要であり、日光に照らした朝顔は咲き誇り、日光を遮断した朝顔は枯れて死ぬという知識も重要である。

 我々はホモ・サピエンスであり、これを引退して明日から野生動物として生きることはできない。だからサピエンスは我々人間にとって宿命であると言える。エデンからの離脱は宿命なのだ。だが、離脱したままでは、我々の地球破壊と自己破壊はとどまることを知らない。

 それゆえ、我々はサピエンスに飲み込まれて終わるのではなく、科学的物語から脱却することも宿命づけられている。第一の宿命がサピエンスの発展だとしたら、第二の宿命はサピエンスという縛りからの解放であろう。

 サピエンスの巨大なメリットは、同時に巨大なデメリットでもある。科学的な物語は壮大な文明を築くと同時に、「宇宙の永遠の若さ」を隠蔽して見えなくさせる。科学的物語を「物語だ」とわかっている上で、その役割を演じるのならば、まだいいだろう。だが、その物語を宇宙の真理だと誤信すれば、フィクションの時間軸の中で漂いながら人生を終えることになる。

 実際は、咲き誇る朝顔も枯れる朝顔も、それぞれの法位に住しており、非時間の超絶性の具体的な現れである。色眼鏡を外せば、若さは若さで「若さの法位」に住し、老いは老いで「老いの法位」に住しており、両者はともに「宇宙の永遠の若さ」の表れである。そこに絶対的な差異はない。「前後あり」のように見えながら実際は「前後際断せり」、すなわちこの瞬間が絶対的な完全性なのである。

 

2.表現形式はジャンルではなく運命である

 「切り取り」というサピエンスからすれば、月をさす指もジャンルによって分断されてしまうだろう。すなわち、ミヒャエル・エンデ童話作家である。井筒俊彦は哲学者であり、言語学者であり、大学教授である。道元は禅僧、つまり寺の住職であり、お坊さんである。書店でもそれぞれの本は、それぞれのジャンルで配置されている。同じ指が、それぞれに遠く離れた書棚に置かれている。

 これは日本に限らず、世界中どこでも変わらないから、この星の知性の次元をあらわすものだと言ってよかろう。この三人が言っている内容は驚くほどに同じであるが、地球人は内容に無頓着であり、それぞれを見た目で判断し、分類する。

 一人は童話作家、一人は学者、そしてもう一人は坊主に見えるから、外見に応じてそれぞれのジャンルに配置される。こうした外見による分類は暴力である。相手の話を聞かず、見た目だけで形式的に分類しているからだ。

 もちろん、書店や図書館が悪いのではない。個人が運営する小さな本屋ならともかく、巨大な書店や図書館で、いちいち内容を吟味して書架に配置することは不可能である。巨大システムを運営する際には、必然的に暴力が呼びこまれることになる。

 大事なことは暴力を非難することではない。暴力を非難すれば、その非難が暴力となる。となると、大事なことは暴力の排除ではなく、暴力の自覚である。暴力を悪として断定する瞬間、その断定という「切り取り」自体が悪魔となる。肝心なことは巨大システムが暴力を内包していく必然性をとらえることである。

 システムは暴力を要求する。それは街の書店の棚に暴力的な分類として、静かにひっそりと佇んでいる場合もあれば、ナチスホロコーストのように巨大なものとして表れる場合もある。そこではユダヤ人であれば問答無用に、誰でもガス室におくられた。それぞれの人から個別に話は聞かれる必要がないと判断されたのである。

 見た目だけで判断されるなら、道元であろうと、あるいは仏道からかけ離れた葬式仏教の権威であろうと、同じ坊さんなので、「坊主」というジャンルでひとくくりにされるだろう。そうして書店や図書館の「仏教」のコーナーは玉石混淆となり、結果的に99%が「石」となり、その中から「玉」を見つけ出すことは苦労となる。

 サピエンスに疑いがなければないほど、見た目による判断という暴力は横行するようになる。例えば、サピエンスからすれば、科学は現実で、童話は空想である。それは科学が見た目としていかにも現実的であり、他方、童話は見た目としていかにも空想的に見えるからである。

 だが作者からすれば、童話という形式が表現として採用された理由は、それが真理を表すのに極めて現実的だからである。科学というものが「切り取った」世界における現実しか表せないのに対して、童話はある種、融通無礙である。空想として語ることが逆説的に現実的となり、現実として語ることが逆説的に空想的になる。

 現実としてどこにも存在しない童話、すなわち物語を書くことによって、過去でも未来でも通用する、すなわちどこにでも存在する物語として表すことができる。ミヒャエル・エンデはそのことを次のように書いている。

 

「モモ」 ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 398頁

「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

 

 見た目から判断すれば、「過去」と「未来」はまったく違うものである。しかしそれは「起こる」という本源からすれば同じものの表れの違いにしか過ぎない。本物の童話作家は、夢やファンタジーの中で想像を遊ばせる人物ではない。空想に任せて好きなことを書くというのは、童話作家の本当の仕事ではないのだ。

 むしろ本当の童話作家は、その極めて現実的で冷厳な眼差しのために、「童話」という表現形式を招き寄せる。それを本人の選択と言ってしまうと、むしろ空想的になる。それより、「童話」という形式の霊が、真理の生成として、その人を書き手として生み出すという言う方の方が正確であろう。

 哲学であろうが、童話であろうが、仏教であろうが、どの形式によろうが、言い表わされる内容は同じであり、それは瞬間瞬間の絶対性である。内容は同じでも、表現方法が異なるところが興味深いが、形式は本人に選べるものではなく、運命であろう。

 こうした意味での「運命」に比べれば、街角の占い師に占ってもらうような「運命」は、ある意味、右に行こうが左に行こうが、どうでもいいレベルの話である。所詮、それはどちらの道に行けば利益が大きいかという次元に過ぎない。

 キリストはキリストであのように真理を表現するしか他にない運命であるし、仏陀仏陀であのように真理を表現するしかない運命である。どちらも主語は人間ではなく、絶対性が自らを自らとして表す動きである。

 本当は、今回、モモが時間の国で語りかけられた言葉について述べる予定だったが、その前段階でかなりの文字数になってしまったので、それについては次回に述べたい。

 

第九十九回 新しい時代に何を手放すのか(6)

1.鈍感力による繁栄

 前回のブログで触れたように、朝顔の実験における科学的理解はIQやEQの問題ではない。また、民族や言語、文化や宗教を問わない。ホモ・サピエンスに共通して埋め込まれている知的プログラムである。

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 プログラム、すなわちそれは自動的に起動するものである。釈迦はその自動起動を恐れたが、それは少数派であった。普通、ホモ・サピエンスはサピエンスを恐れない。むしろ虜となる。知ることは莫大な利益を生むから、味をしめるのだ。知識を応用し、うまく活用すれば、右側の結果を莫大に増やすことができる。サピエンスの波に乗って発展していけば、金銀財宝も思いのままだ。

 

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 釈迦は虜になるのではなく、莫大な利益の先に何があるかを看取してしまった。「さむけ」を感じてしまったのだ。その意味では、俗人の才能とは鈍感力と表裏一体である。金儲け、科学の発展、システムの構築と複雑化・・・次から次へと進化していく才能は、豪華な文明を築き上げていく。

 人類が地上の覇者になれたのは、明らかにこの鈍感力、つまり無我夢中の発展のおかげである。最初、2000人程度しかいなかった人類は莫大に増え、繁栄を謳歌するようになる。

 

人類は7万年前に絶滅寸前、全世界でわずか2000人

 

上限を40倍も超えてしまった「ヒト」|ナショナルジオグラフィック

 

 だが、「さむけ」は現実化した。2500年前に釈迦が予見した通り、世界は豪華な地獄となった。人類は食べきれないほどの食料を生産し、毎日大量に廃棄する。作りすぎたキャベツや白菜は、トラクターで押しつぶされ、土に埋められる。と同時に、莫大な餓死者も出る。サピエンスは莫大な食料生産をもたらし、同時に金がなくて食料にありつけない人々を餓死に追い込む。

 

世界でどのくらいの食料を捨ててるの?? ~世界の飢餓と食料廃棄のジレンマ~

 

恵方巻などの食料廃棄に年1兆円、負担は私たちって知ってましたか??

 

2.花を見て花の夢を見る

 人類はサピエンスの力により、地上で無敵の生き物となった。しかし、いざ玉座についてみると何かがおかしい。いかに鈍感力が売り物のホモ・サピエンスといえども、「さすがにこれは・・・」と気づきはじめているのが、現状であろう。

 その「おかしさ」の根源が、誰もが習う理科の実験に既に表れている。我々は実験に際して、片方の花は死に、片方は生きていると判断している。だがよくよく考えてみていただきたい。これは我々一人一人が、自分で判断しているのだろうか。

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 片方が「生」、片方が「死」。この二元的判断に、我々一人一人の個別性や思考は無関係ではなかろうか。ここで、花を観察するのではなく、花を観察する自己を観察してみよう。冷徹な観察の結果、見えてくるものは何か。答えは「自動反応」である。つまり、判断しているのは「我々」ではなく、サピエンスである。

 こうした二元的判断は、実は「やらされている」ものである。にもかかわらず、本人としては「自分で判断している」という実感を持ってしまう。これがサピエンスの恐ろしさである。それはアルコール依存症に似ている。本人は自己判断で「酒を飲んでいる」つもりでも、実際は酒の力に飲み込まれ、「飲まされている」のである。

 サピエンスに振り回される限り、人類は破滅の運命を辿るしかない。NHKは、2030年までに何とかしなければ人類は破壊的な結末に陥ると警鐘を鳴らす。

 

www.nhk.or.jp

 

 あと9年しかないという状況になって慌てるというのは、まるで8月末になって夏休みの宿題に慌てる小学生のようである。こうした人類危機の1000年以上前に、南泉禅師(748-834)は鈍感力を突破し、サピエンスの夢について語った。人類がサピエンスに「飲み込まれている」ことを、「花を見る夢」として語ったのである。

 

意識と本質 井筒俊彦 岩波文庫 362-363頁

「僧肇は『天地と我とは同根。万物は我れと一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人にたいして、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつつ「世人のこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録、四十)。世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全く見えていない。つまり花を真に今ここに咲く花として成立させている本源的存在性が見えていないのだ。このような形で見られた花は夢の中に現われた花のように実は取りとめもないものだ、というのである。

一たん分節されて結晶体となった存在は、もしそのものとして固定的、静止的に見られるならば、分節される以前の本源的存在性を露呈するどころか、逆にそれを自己の結晶した形のかげに隠蔽するものである。このような場所では、人は存在を見ずに、ただ存在の夢を見る。

 

 サピエンスは対象を切り取り、それを活用する力である。人類はこれにより文明を築くことができたのだから、その恩恵はある。だが、サピエンスの発動を野放図に任せるだけならば、井筒の言う「本源的存在性」は見えてこない。サピエンスは人間の目を分節と利益の方面に開かせると同時に、「本源的存在性」をその「知」の後ろに隠蔽するのだ。

 結局のところ、危機は他人事で済ますことはできない。国連や政府といった自分以外の人類がなんとかしてくれるのを待つのではなく、「自分自身」という人類が気づくしかないのだ。「さむけ」の正体に気づけば、サピエンスに翻弄される段階を越え、その付き合い方がわかってくるようになる。

  酒に飲まれてしまえば酒は悪いものであるが、適度な距離感をもって飲めるなら、それは悪いものではない。同じように、サピエンスもただひたすらに恐ろしいものではない。むしろ、「本源的存在性」の働きとして「自分自身」に包摂されているものなのだ。

 

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十牛図 第六図 騎牛帰家

3.花と非花性は同じものである

 「本源的存在性」とは、「花を今ここに咲く花として成立させている存在性」である。それは「花を今ここに枯らす花として成立させている存在性」と同じであり、そこからすれば「咲く」ことと「枯れる」ことは同じ運動の二側面である。

 一体どういうことか。例えば、右手と左手を体から切り離せば別物となる。だが、それは「切り離す」という人為によって別物(二元)となるのであり、人為がなければ右手と左手は体として同体である。つまり、別物(二元)という現象は人為以前の現実としてあるのではなく、「切り離す」という行為の結果としてあるものである。

 切り離す以前の右手と左手は自然であるが、切り離された手は人為の結果、つまり人工物である。これと同じく、人間によって切り離された朝顔は自然物ではなく人工物である。それは手で引き千切られた対象に限らない。「朝顔だ!」としてサピエンスによって見られた「朝顔」も、自然物ではなく人工物である。

 この意味では、「見る」という行為も「切り取り」である。「切り取り」というと手を使ってするものだと思ってしまうものだが、実は見るだけでも「切り取り」なのだ。そうした「切り取り」によって、人間は対象を活用することができる。科学は「切り取り」がなければ成り立たない。実験、検証のプロセス自体が「切り取り」である。

 たとえプロの科学者にならなくても、我々は日々そのような「切り取り」によって対象を活用し、生活の実験、検証を積み重ねている。子どもから大人になるプロセスは、そうした知識と技能を身につけていくことに他ならないが、それに全身が染まればエデンは見えなくなってくる。細かく切り取れば切り取るほど、エデンはバラバラになり、「本源的存在性」は見えなくなる。

 こうして、花を見ても花の夢を見ているに過ぎないという状態になる。これは知識においても同様である。いくら花についての知識を積み重ねても、花の夢が無際限に細かくなるだけであり、夢から逃れることはできない。目が覚めるための唯一の道は、知識の無尽蔵な蓄積ではなく、「切り取った瞬間に夢になる」ことに気づくことである。

 南泉の花についての指摘から約1000年後、ミヒャエル・エンデ(1929-1995)は花が持つ非花性について、ファンタジー小説の形式で語った。それは、非花性が花となり、再び非花性へと還る運動である。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳 岩波少年文庫 241-242頁

 これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です!

 けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思い出して、じっとこらえました。

 むこうがわに行った振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまで進み、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲き出しました。

 見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。

 

 モモはマイスター・ホラに「あなたは死なの?」と尋ねる。マイスター・ホラはそれに対して、「人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね」と答え、「死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ」と述べる。

 それは我々がサピエンスによる搾取から自由になる瞬間である。我々が花を宇宙から切り取り、搾取することをやめる時、国際金融資本家が我々を搾取する機会もなくなるだろう。我々が悪者を駆除する必要はない。悪を駆除する者が悪となるという愚を犯さなくてよいのだ。

 物語の中でモモは、しばらくの間、次々に咲き誇る花に見とれていた。だが、そのうち目よりも耳に気づく。サピエンスの夢に漂うことをやめ、その奥から発せられている叡智の声に耳を傾けはじめるのである。それは「切り取り」という分節的眼差しに夢中になる次元を乗り越え、全宇宙からの語りかけを「聞く」次元に立つことである。

 それが純粋贈与についての気づきであるが、詳しくは次回に述べたい。