戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第四十九回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(2)

0.イランとアメリカの関係性

 前回のブログでは、予定を変更して新型コロナウイルスについて考察した。今回は、第四十七回ブログからはじめているシリーズに戻りたいと思う。イランとアメリカがなぜ対立するのか、その歴史的関係性について述べていきたい。

 

1.二代目当主の近代化政策

 「会社は三代目が潰す」とは、よく巷間で聞かれる言葉であるが、パフラヴィー朝イランの場合は三代目に至る前に、二代目で潰れることとなった。しかし、これは致し方ないのかもしれない。今のイラン政権でさえも、二代目のハメネイ時代で存亡の危機にある。中小零細企業を三代目まで持たせることですら難しいのだから、イランの舵取りとなれば、その難しさは想像を絶するのかもしれない。

 一代目は猪突猛進型の創業者、二代目はその正反対の坊っちゃんというパターンは、会社であろうが王家であろうが、よくあることなのだろう。ご多分に漏れず、二代目のシャー(Shāh王)であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Rezā Pahlavi 1919-1980)は、生粋の軍人であった父親と違い、幼少から王族であった。彼は父がシャー(Shāh王)になると同時に、6歳で王子となる。

 そしてモハンマドは、少年時代をスイスのル・ロゼ(Institut Le Rosey)で過ごした。多くの日本人にとって、ル・ロゼ(Le Rosey)は耳にしたことのない言葉かもしれないが、欧米の金持ちからすれば、ル・ロゼを知らない人の方が珍しい。

 

レーニエ大公、セネガル皇太子からショーン・レノンまでが同窓生

https://www.gqjapan.jp/culture/column/20160806/the-worlds-best-boarding-school

 

 ル・ロゼは1880年に設立されたスイス最古の寄宿学校の一つであり、世界で最も高額な授業料を取る学校の一つと言われている。当然ながら、そこでの生徒は大金持ちや王侯貴族の子息・子女ばかりであり、卒業生もベルギー国王やモナコ大公、イギリスの王族やロスチャイルド一族といった顔ぶれである。

 

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Prince Mohammad Reza Pahlavi on the left and his friends, Institut Le Rosey, 1931

 パフラヴィー二世が親しかった御学友の一人に、アメリカ人のリチャード・ヘルムズ(Richard Helms 1913-2002)がいた。ヘルムズは後にCIA長官となり、その後はイラン大使となる。

 

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Richard Helms and Richard nixon

 生粋のペルシア軍人だった父と違い、スイスの貴族学校で少年時代を過ごした二代目シャーにとっては、欧米の文化は身近なものであった。そのため皮肉なことに、二代目の時代のイランは、史上最もアメリカやイスラエルと親密な関係を持っていた。これは、現在のイランの体制とは正反対であり、極端から極端へとこの国の軸が揺れることを示している。

 

2.二代目と保守派の対立

 二代目は無能な金持ちの坊っちゃんではなく、英語とフランス語を流暢に話す国際派であった。そして彼の目標は、皮肉なことに、自らが追い出した父と同じくイランの近代化であった。インターナショナル・スクールで育った彼は、その目標を達成するために、少年時代からの人脈である欧米の金持ちを自国に取り入れた。つまり、外国資本をイランに積極的に導入し、欧米企業をイランに多数誘致したのである。

 それとともに、土地改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を行った。これがイランの白色革命と呼ばれる改革運動であるが、その名称はフランスで国王や皇帝を象徴する色が白(White)であったことに由来する。つまり、国王による「上から」の近代化が、White Revolution(白色革命)なのである。

 この時、イスラム女性が髪を覆うヒジャブ(ヘジャブ hijab)は禁止された。少年時代から欧米文化に慣れ親しんだモハンマドからすると、ヒジャブはイランの後進性の象徴に見えたからである。

 

イランの女性ファッションとメイクは、この100年でこんなに変わった

https://www.huffingtonpost.jp/2015/02/23/how-iranian-beauty-has-changed-over-100-years_n_6740106.html

 

 こうなると、イスラム保守派からすれば、二代目シャーはイスラムの伝統を破壊する欧米の操り人形に見えてくる。そのため、イラン国内ではアーヤトッラールーホッラー・ホメイニー(Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī 1902-1989)を中心とする反体制運動が起こるようになった。モハンマド・パフラヴィーはホメイニーを国外追放処分とし、ホメイニーはパリへ亡命することとなった。この時点では、ホメイニーが負け、パフラヴィーが勝ったように見えた。

 

3.独立は絶対に許されない

 パフラヴィー朝イランの目標はイランの近代化であったが、民主主義は眼中になく、政治体制はシャー(王)による独裁であり、あくまでも上からの改革としての開発独裁体制であった。これは欧米の民主主義とは180度異なるものに見えるが、欧米列強からすれば、言いなりになって動くイランの王様は好都合であった。そのため、当時のアメリカやイスラエルはイランに対して極めて友好的であった。

 アメリカは軍事的にもイランと深いつながりを持ち、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機とボーイング747空中給油機をイラン空軍に納入した。また、同じく最新鋭のボーイング747-SP旅客機をイラン航空に販売している。

 イスラエルにとっては、トルコに次いで二番目に国交を樹立したイスラム圏の国がイランであった。イランはイスラエルに石油を供給し、軍事的にもイランとイスラエルは共同でミサイル開発を行った。つまり、この時の両者は敵国ではなく、同盟国と言ってもいい間柄であった。現在の国際情勢からすれば、まるで別世界である。

 ただ、この「同盟国」という名前は、イラン側の観点からの名称である。白人側からすれば、白人と対等に「同盟」を結べる国家は地球上に存在しない。つまり、彼らからすればそれは「同盟」という名の植民地政策であり、自分たちの言いなりになる有色人種の国家が「同盟国」である。そのため、彼らは民主主義や資本主義、近代化やグローバル経済について声高に唱えても、決して「独立」は許さない。

 植民地が資本主義になることはよい。グローバル企業がその市場で儲けることができるからだ。植民地が民主的な選挙制度を持つことはよい。宗主国がメディアを操作して傀儡政権を持つことができるからだ。植民地が民営化することはよい。植民地の金融とインフラをグローバル企業が握れるからだ。植民地に義務教育が普及することはよい。グローバル企業にとって使える人材が増えるからだ。植民地が男女平等になることはよい。人口の半分だけでなく、全体をグローバル企業の奴隷にできるからだ。植民地と宗主国が軍事同盟を結ぶのはよい。宗主国は植民地に軍事基地を建て、好きなように使えるからだ。

 しかし、植民地が独立するのはダメだ。上記の利益が全て失われるからだ。だから、植民地が独立するなら、それは形だけのものでなければ、宗主国としては困る。植民地の利益は宗主国が享受するのでなければならないので、植民地の利益を植民地の国民が享受しては困るのだ。だから植民地が独立することは、宗主国からすれば絶対にあってはならないことである。

 この点、パフラヴィー朝イランはモハンマドという親欧、親米、親イスラエルの王様が統治する国であり、欧米にとっては大変に都合のいい国であった。この時のイランは、「湾岸の憲兵」と呼ばれていた。イランは憲兵隊長であるパフラヴィー王の下で、白色革命を実行し、近代化(欧米化)した。しかし、イラン国王が本格的な憲兵隊長、つまりカポーの親玉へと成長する前に、この国には本気で独立を目指す政治家が存在した。それが、モハンマド・モサデク(Mohammad Mossadegh 1880-1967)である。

 

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Mohammad Mossadegh

 モサデクもパフラヴィー王と同じく、改革主義者であり、その目標はイランの近代化であった。つまり、イランを欧米並みの近代国家にすることが彼の目標であった。しかし、モサデクの目標はそれだけではなく、その目標には欧米支配からの独立も含まれていた。これは宗主国からすれば絶対に許されないことである。そのため、CIAはモサデクを潰すために、全精力を傾けることとなる。