戦争と平和、そして無記

国際政治や歴史、およびその根底にある人類の心のメカニズムについて考察していきます。

第五十回 イランとアメリカ、なぜ対立するのか ~その歴史的関係性(3)

1.近代化はYES、独立はNO

 欧米人は、植民地が近代化し、欧米のような国になることについて大歓迎である。独裁国家民主化することは大歓迎であり、選挙のない国で普通選挙が行われることは大歓迎であり、自由な経済競争が行われることは大歓迎であり、義務教育や男女平等が広まり、都市計画や衛生設備や福祉制度が充実することは大歓迎である。

 ただし、独立はまったく歓迎されない。なぜなら植民地の近代化は、宗主国の利益のためになされるものだからである。宗主国に利益が還元されないなら、家畜の国が近代化しても意味がない。人間が羊や豚の健康を神に祈るのは、良質な羊毛や豚肉を取るためである。家畜が健康になった結果、柵を飛び越えて逃げてしまったら意味がない。

 植民地が独立すると困る人達が、二種類存在する。一つは植民地支配で利益を得る支配者層であり、もう一つはその家来として利益を得るカポー達である(カポーについては第三十一回ブログを参照)。日本はカポーによる支配が極めてうまくいっている国なので、政治家も官僚もメディアも、国家の独立を志向しない。それゆえ教育も報道も、日本が独立国であるという物語を流布し続ける。それを国民のほとんどが信じることによって、日本が植民地であることは問題にすらなっていない状況である。

 これは宗主国からすれば、大変に嬉しいことである。彼らからすれば、日本人には大いに勘違いしてもらってよい。アメリカと日本が両方とも独立国であり、日米同盟は対等な関係だと勘違いしてもらってよい。日本はアジアNo.1の先進国であり、優れた文化と科学技術の力を持った民主主義の国だと勘違いしてもらってよい。実は国家として独自の意思決定はできず、自らの財産を自由に活用することもできないことについては、知らなくてよいのだ。

 

2.二人のモハンマド

 「湾岸の憲兵」と呼ばれたイランも、日本のような国、すなわち近代的植民地を目指していた。道路が整備され、選挙制度が完備され、男も女もオフィスで働く近代的な植民地である。彼らはそうしたコンクリートジャングルで働き、結婚し、子を育て、グローバル企業に利益を吸い取られながら生きてゆく。

 イランがその路線を志向し、かつ独立に無関心である時、英米イスラエルはイランを熱烈に応援した。パフラヴィー王制二代目の時代には、それらの国々は同盟国(宗主国と植民地)ですらあった。しかし、この蜜月の主従関係が成立する前には危機があった。それが後に述べるアーバーダーン危機(Abadan Crisis)である。

 イランが日本と違う点は、石油というわかりやすい資源があることであろう。日本の郵便貯金原発などのエネルギー、軍事力などは、全て外国人に握られているが、日本人にはわかりにくい。モルガンやロスチャイルドの言いなりになる郵貯であっても、役員や従業員は日本人であり、電力会社の経営も日本人によって行われており、自衛隊のトップも日本人である。そのため、日本の外見は独立国である。

 しかし、イランの場合には国土に豊かな石油資源がありながら、その利権はすべて外国人に握られていた。石油会社の幹部は全てイギリス人であり、イラン政府もその言いなりになっていた。いくらイランが欧米化しようと、石油がイラン人のものでないことは見ればわかる事実であった。これは日米関係のような玉虫色の支配と違い、わかりやすい植民地支配であった。

 イランは世界第四位の産油量を誇る国土を持ちながら、20世紀初頭の油田の発見以来、その利権は全てアングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(Angro-Persian Oil Company  略APOC)に握られていた。これはパフラヴィー朝の前のカージャール朝から続いている石油支配であり、モハンマド・パフラヴィーの時代になっても全く変わらなかった。モハンマドは1941年に父親から王位を奪った後、イランの近代化に尽力したが、石油利権については何もしなかったのである。

 そこに現われたのが、もう一人のモハンマド、すなわちモハンマド・モサデク(Mohammad Mossadegh 1880-1967)であった。モサデクはカージャール朝の貴族の血筋であり、ソルボンヌ大学を卒業後、スイスのヌーシャテル大学で法学博士号を取得している。つまり、家柄が良く、ヨーロッパで高等教育を受けたという点では、もう一人のモハンマドと彼は同じであった。

 つまり、言葉も文化も宗教も異なるイスラム教徒と違い、欧米人からすればモサデクはかなり話の通じる人物に見えた。フランス語を流暢に話し、イランの近代化を目指すモサデクは、欧米人からしても友人、つまり都合のいい操り人形になってくれる人物に見えたのだ。しかしモサデクは独立主義者であった。この一点により、彼は危険人物と見なされるようになった。同じモハンマドでも、パフラヴィーと違い、モサデクは欧米から敵視されるようになる。

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Dr. Mohammad Mosaddegh, 1951

3.民衆の勝利は宗主国からすれば暴動である

 ヨーロッパからイランに戻り、国会議員となったモサデクは、政治家としての経験を積み、財務大臣となり、影響力を増していった。彼の政策の柱は植民地支配からの脱却であり、そのシンボルが石油国有化法案であった。もちろん、石油の国有化は彼のみならず、独立派のイラン人なら誰もが唱えた政策であったが、この時期、モサデクという求心力をもとにイランの世論が国有化へと一本化していったのである。

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Mohammed Mosaddegh rides on the shoulders of cheering crowds in Tehran

 これに憤慨し、危機を感じたのはイギリスであった。イギリスは1901年からイランの油田探査を開始し、これが後のAngro-Persian Oil Company(APOC)となり、現在のBPへと繋がっている(詳しくは第四十七回ブログを参照)。イギリスからすれば、イランという未開の土地で原油を発見し、精製して商売にする方法を開発したのはイギリス人であるという自負がある。それゆえイギリス人の観点からすれば、石油がイランの国土にあろうが、法的な所有権者はあくまでもイギリス人である。

 もちろん、イランの独立派からすれば、そうしたイギリスの論法は詭弁にしか聞こえない。イランの国土に石油があっても、無能なイラン人はそれを知らなかった、だからイランの石油はそれを発見した賢いイギリス人のものだと言われても、イラン人としては納得がいかなかった。それゆえ、この状況下でイギリスが石油の全面的な所有権を頑なに主張し続ければ、暴動や武力衝突になりかねなかった。それはイギリスが望む安定した石油会社の経営にとって著しくマイナスであった。

 そこで、APOCおよび英国政府は石油の全面支配を諦め、懐柔策として、イギリスとイランで石油利権を半分に分けるという提案をした。これはイギリスからすれば最大限の譲歩であったが、モサデクはそう見なかった。彼はこの提案を、イギリスがイランの植民地支配を継続するための策略だと受け取った。また彼を指示する独立派のイラン人たちも、モサデクと同様の解釈をした。

 このためモサデクを支持する独立派のイラン人たちは、1951年の選挙でモサデクを選び、モサデクは首相に就任した。そして彼は議会でついに石油国有化法を可決させた。政権はこの新法をもとに、イラン南西部の都市であるアーバーダーン(Abadan)の石油生産設備から英国人石油関係者達を追い出した。

 これによりイランでは、民衆から選ばれた政権が、民主的な手続きをもとに、民衆の悲願が達成されるという大事件が起きた。戦争ではなく、民主主義によって、イラン人が白人から石油を取り戻したのである。これは、政府の上層部が民衆の意向と関係なく行う「上からの近代化」とは異なり、イランの草の根の民衆が起こした革命であり、民衆の勝利であった。

 しかし宗主国からすれば、この事件は民衆の勝利でもなければ民主主義の勝利でもなく、単なる暴動であり、犯罪であった。モサデクは英雄ではなく、農民一揆の扇動者であり、秩序の破壊者であった。そして、資本家からすれば財産の危機である。そのため、英米ではこの事件を「民衆の勝利」と呼ばない。単にアーバーダーン危機(Abadan Crisis)と呼ぶ。